No.1974 SF・ミステリー 『未踏の時代』 福島正実著(ハヤカワ文庫)

2020.11.29

『未踏の時代』福島正実著(ハヤカワ文庫)を紹介いたします。「日本SFを築いた男の回想録」というサブタイトルがついています。著書は1929年生まれ。編集者、作家、翻訳家、評論家。明治大学文学部中退後、早川書房に入社。1957年、都筑道夫とともに〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉を立ち上げる。1959年12月、〈S‐Fマガジン〉を創刊。初代編集長として敏腕をふるい、それまで商業的に成功しなかったSFを日本に定着させるため、さまざまな分野で精力的に活動。1969年、早川書房退社後も、〈S‐Fマガジン〉誌上に、創作、翻訳、ブックレビュー、科学エッセイなど旺盛に執筆。「未踏の時代ーー回想のSFマガジン」を執筆中の1976年没。著書に『ロマンチスト』『月に生きる』『SFの夜』。訳書も多いですが、一条真也の読書館『夏への扉』で紹介したハインラインの名作の翻訳があまりにも素晴らしかったので、本書を読んでみたくなりました。

カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「1959年12月、〈S‐Fマガジン〉が創刊された。初代編集長は福島正実。それまで商業的に成功したことのなかったSFを日本に根づかせるため、彼の八面六臂の活躍がはじまる。アシモフ、クラーク、ハインラインに代表される海外のSF作家を紹介するとともに、小松左京、筒井康隆、光瀬龍などの”新人作家”を世に出し、SFのおもしろさ、その可能性を広く紹介してゆく……SF黎明期における激闘の日々を綴る感動の回想録」

本書には「目次」はなく、時系列で出来事やその感想を著者が綴っています。〈S‐Fマガジン〉(SFM)の創刊は1960年2月号でした。実際には、その前年、1959年12月ということになります。そして、SFMが企画されたのは、その年の春頃でした。著者は、「その頃の早川書房編集部には、都筑道夫、小泉太郎(のちの生島治郎)それに常盤新平などがいた。都筑道夫は、いうまでもなく、1956年に創刊され、すでに3年近くになっていたEQMM(エラリイ・クィーンズ・ミステリ・マガジン)の編集長であった。この頃の編集会議に、SF雑誌の出版を提案したのは、都筑道夫である」と述べています。早川書房は、それよりもさらに2年前――1957年末から、〈ハヤカワ・ファンタジィ・シリーズ〉と銘うつ海外SFのシリーズを刊行していました。『盗まれた街』(フィニィ)『ドノヴァンの脳髄』(シオドマク)『火星人ゴーホーム』(ブラウン)『吸血鬼』(マティスン)『宇宙の眼』(ディック)『鋼鉄都市』(アシモフ)『呪われた村』(ウィンダム)などが、その頃までに出た主なSFです。

SFMが創刊された60年代初頭の当時のジャーナリズム一般の空気は、SFに対して、全く否定的だったようです。著者は、「SFを読み、あるいは語ることは、アブノーマルなものへの関心を自白するようなものだった。変りもの扱いにされることを覚悟しなければならなかったのだ。そんな体験からも、ぼくは、日本におけるSF出版の可能性に対して、かなりの程度に悲観的だった。現実にしか目を向けることができず、未来や空想は、絵空事としてひとしなみに軽蔑してかかることしか知らない人々が、あまりにも多すぎた。そうした人々に、SFの効能をいかに説いても、所詮は馬の耳に念仏としか思えなかった。そのとき、唯一の希望を与えてくれたのが、ロウティーン以下の年少読者たちだった。彼らにとっては、空想が生活の貴重な一部であり、未来は、彼らの現実の中に組み込まれるべき時間の一部だった。そうした彼らには、SFは、きわめて魅力的な世界を提供できるはずだ」と述べています。

1962年、キューバへのソ連のミサイル配備に抗議したアメリカがキューバを封鎖し、米ソの対立が核戦争の危機となりました。最終的には両国首脳の直接交渉でソ連がミサイルを撤去、危機は回避されました。この「キューバ危機」について、著者は「一触即発という言葉が、このときほど身近に感じられたことはなかった。なにかしようとしても、もしいま、この瞬間にも、米ソいずれかの、あるいは双方のミサイル発射ボタンが押されていたら、と思うと、やりきれない無力感に押しまくられ、押し流されて手がつかない。そういってしまっては身も蓋もないかもしれないけれども、全世界が破滅して、放射能まみれの塵埃の塊と地球が化してしまって、なんのSF、なんのSFマガジンだと、思わずにはいられなかったのです」と述べています。

著者はさらに、「あの緊張の2日ばかり、なんど、ミサイルがこの空の奥にと思って、真昼の空をまた夜空を見上げたかわかりません。それだけに、フルシチョフの譲歩によって一応の危機が去ったときの、あの途方もない安堵感も、それまでのものとは比較にならない真実味がありました。そして、思ったことでした――世界と人類とを救うものは、この恐怖の再認識しかない、と。ボタンの一押しが世界の破滅につながるという、まさにSF的なシチューエーションの再認識しかない、と」と述べます。このくだりは、SFの本質や存在意義を考える上でも非常に興味深いと思います。というのも、現在のコロナ禍を語る際に、よく小松左京の『復活の日』が話題になるように、SF的想像力というのは現実の危機的状況に何らかのヒントを与えるものであると思うからです。

1963年になると、日本作家の活動も、軌道に乗ってきました。星新一、小松左京、光瀬龍などが、着々と、自己のSF世界を構築する意欲的な作品を発表しつづける一方で、自らを新しい波として自任する豊田有恒、平井和正、半村良などの活躍も目立ってきつつありました。著者は、「豊田有恒が彼の仕事のメインとなる歴史SFの端緒をつかむ作品を発表しはじめたのもこの時期だし、平井和正が、SFの中に強烈な情念のドラマを持ちこんだ虎のイメージによる連作を書いて、やがて彼のその後のキャリアを決定づける道を歩きはじめたのも、同じこの時期であった。ただ、この頃の半村良は、明らかに、自己の稟質である風俗小説的要素と、SFとの結合に苦慮して、低迷を余儀なくされていた――この低迷は、もちろん、当時の半村の本業であった広告業界での仕事の盛衰という事情もあいまって、数年後、伝奇小説のかたちで開花するまでの間かなり長くつづき、彼を苦しめることになったのである」と述べています。

出版界はSFという新しいジャンルに注目し始めました。倒産した東京創元社が新社として復活し、従来のミステリー路線よりも優先させて、SFを文庫スタイルで刊行しはじめました。著者は、「これは、早川書房にとって、無視できない強敵の出現だった。もともと、東京創元社は海外ミステリー出版の時以来のライヴァルである。当然、両者間で、これ以後、かなり激烈なSFの翻訳権取得合戦がくりひろげられることになる。創元社も、早川書房も、先を争って、目ぼしいSFの版権を確保しておこうとした。それが、いつ出版できるかは二の次でさえあった。その結果、両社とも、限られた数のSF翻訳家では、とうてい処理できない数の翻訳権をかかえ――当然、そのための投資額も、ばかにならない金額になった――つぎには、翻訳者争いにまで発展することになったのである」と述べています。結果的に、両社の競争があったからこそ、日本のSF界は発展したように思います。やはり、強力なライバル同志がってこそ、そのジャンルは活性化するのです。

わたしが生まれた年である1963年の秋頃には、以下のような批評があったそうです。執筆者は当時、「ヒッチコック・マガジン」の編集長をやっていた中原弓彦(小林信彦)でした。
「推理小説ブームはすでに終り、これからはSFだというかけ声があちこちで聞かれる。現にいくつかの出版社が〈書きおろしSF〉を企画しているし、早川書房の雑誌でも、『EQMM』より『SFマガジン』の方が売れ行きが伸びているそうである。そういう現象的なことはどうでもいいが、どうでもよくないのは、作品の〈面白さ〉ということだ。(中略)私の如き科学嫌いの人間が、時々SFを読むのは、そうした〈面白い小説〉への強い欲求からなのである。(中略)それにしても、SFがここまで普及したのは、やはり『SFマガジン』編集長の福島正実氏の力が大きかったといえるのではないか。SFを一部マニアの手から広い読者層に解放したのは氏の努力の賜物である」

これだけの賞賛があっても、著者はSFの将来を楽観視していませんでした。「SFのためのマーケットは、いくらか拡がったとはいえ、SF(ショート・ショート)だけを書いて食っていけるのは、この頃でもまだ、星新一くらいのものだった。ほかの作家たちは、それぞれ、さまざまのところで、さまざまの仕事をしなければならなかった」そうで、すでにかなり売りだしてきていた小松左京でさえ、この頃、大阪朝日放送のPR誌「放送朝日」に、瀬戸内から滋賀、若狭、紀伊半島一帯を歩きまわって取材したルポの連載を開始しました。その他にも、電波関係の仕事や、PR関係の仕事もやっていたといいます。光瀬龍は高校教師として、眉村卓はコピーライターとして、そして筒井康隆はコマーシャル・デザイン工房〈ヌル・スタジオ〉の経営者として、半村良は広告会社のアドマンとして、それぞれの勤務を持っていた他に放送関係、PR雑誌の原稿、その他何でもこなしていました。

さて、SFとは「Sience Fiction」の略ですが、著者は、サイエンティフィックであることをあまり強調しすぎると、必然的に、ひどくおかしなことになると言います。その理由は、サイエンティフィックなアクチュアリティを、いかに厳密に演出しようとも、それがSFである限りにおいて、類推の部分がなければならず、したがって、時代とともに進歩する科学・技術によって、その類推の間違いが実証されてしまう場合があるからです。著者は、「サイエンティフィックなSFの価値は、つねに相対的だということになります。ベルヌもウエルズも、その意味では、書かれた当時よりもサイエンティフィックでなくなり、したがって、価値が減少したということになる。だから、もしサイエンティフィックであることがSFの必須条件であるとするなら、SFは、時代とともに、片端からその価値を失っていくことになるのです」と述べています。SFの価値についての、きわめて鋭い意見であると思います。

さらに、著者はSFについて以下のように述べます。
「SFは、科学を意識した心で思索し空想する小説です。アメリカのある作家は、SFを定義して、面白いことをいっています。彼はSFをWhat if~の小説だというのです。つまり、「もし何々が何々であったならばその結果はどうなるか?」ということを考える小説だというのです。いいかえればSFは仮説の文学、スペキュレーションの小説だということです。だとすれば、SFは、必ずしも、現代になってはじめて現われたものともいえなくなります。伝統的な幻想文学も、怪奇文学も、18世紀のゴシックロマンも、すべてその系譜の中に入るはずです。SFは、そうした、未知のものを求める人間精神の生んだすべてのイマジナティヴ・フィクションにつながるものです。それが、科学の曙光をあびることによって、SFというかたちをとったのです」

著者は、SFに本格的に取り組んだ、数少ない文学者の1人であるキングズレイ・エーミスを取り上げ、彼がそのSF論『地獄の新地図』の中で、SFとジャズの相似性について語っている内容を紹介します。エーミスによれば、ジャズは、1人のベートーベンも持たずに、大衆の熱烈な愛好によって盛りあげられて今日の隆盛を生みました。SFも、1人のトルストイも持たずに、大衆のヴァイタリティそのものをエネルギーとして、根強い力を持つ文学ジャンルとなろうとしているというのです。著者は、これを洞察力に富んだ卓見であるととらえ、「私は、そうした意味での、日本流のSFの育ち方を、期待したいのです。強いヴァイタリティを持ち、自由で闊達な、新しい小説としてのSFを」と述べています。

著者は、SFの定義をめぐって、文芸評論の第一人者であった荒正人と論争しています。63年2月、「宝石」誌が著者と荒正人と、作家で評論家の石川喬司の3人で「日本のSFはこれでいいのか」と題する座談会を開催し、『別冊宝石3・特集 世界のSF』号に掲載されました。その内容の一部が非常に興味深く、著者のSF観を見事に表現していますので、以下に紹介します。
石川 ファン大会などでアンケートをとると、S派とF派というのがはっきり分れています。F派はルキアノス以来のファンタジーや怪談などをそっくりSFの中にひっくるめて考えようとする。S派の方は、それは邪道で、純粋に科学的なものでなければだめだと考える――。
 ファンタジーも入れるとなると『アラビアンナイト』でも『西遊記』でもSFだということになる。どこかでボーダーラインを引かなければならないでしょう。
福島 ぼくは、ファンタジーも現代SFも、源流は同じイマジナティヴな文学の流れに入ると思うのです。そして、近代以後、科学の洗礼を受けたものがSFとなった、というふうに考えたい。つまりSFは、大きな幻想文学という流れと、現代的な幻想文学という流れとの、現代的な位相であると思うんです。

1964年8月、小松左京の『復活の日』が早川書房の〈日本SFシリーズ〉の第1巻として出版されました。続いて11月には光瀬龍の『たそがれに還る』が、そして12月には星新一の『夢魔の標的』が出た。〈日本SFシリーズ〉はこうして、1964年スタートし、日本SFの本舞台の幕は開いたのでした。翌1965年には、小松左京の第三長篇『エスパイ』(実業之日本社・週刊漫画サンデー連載)佐野洋の『透明受胎』(最初のラインナップの『海底樹林』が途中で『交換染色体』に変り最終的にはこの表題になった)筒井康隆の『48億の妄想』とつづいていくことになります。

じつは、小松左京は『復活の日』の前に『日本アパッチ族』を光文社の〈カッパ・ノベルズ〉から出しています。『日本アパッチ族』が小松の処女長篇で、『復活の日』は第二長篇です。単なる行き違いでそうなったのですが、ずっと一日千秋の思いで小松の長篇小説を待っていた著者は非常にショックを受けたそうです。しかし、その後数年たって、出版社を辞めてからぼくは、この当時を振りかえってはじめて、小松左京の処女長篇が、『復活の日』でなく『日本アパッチ族』であったことが、小松個人のみならず、日本SF界全体にとっても、なかなかに意味のあることだったのではないか、と思いはじめたそうです。ちなみに、著者は「『復活の日』は、そのなかに、小松一流の精緻で周到でアップ・トゥ・デートな科学理論の展開をもつ、きわめてモダンな破滅SFで、その意味でも、日本ではじめての本格的プローパーSFであった。これに対して、『日本アパッチ族』は、そうしたリアリスティックSFのアクチュアリティを捨ててかかった、いわば徹底した寓話SFであった」と述べています。

著者は、『日本アパッチ族』について、「そうした寓話SFであるこの作品は、いわゆるプローパーSFの枠を、最初から大きくはみだしていた。というより、小松のいう通りだったとすれば、ずっと以前、意識的にSFとしてでなく書きはじめられたこの作品には、もともと、コンヴェンショナルなSF的結構の中におさまりきれない種々雑多な、だが一つ一つが彼にとっていとおしく、それ故にきわめて重要な彼自身の断片が、ぎゅう詰めになっていたはずだった。その断片は、戦争によってゆがめられ、戦後によって傷つけられ、安保によって破粋された、小松左京という作家の魂の断片であり、作品はそれを寄せ集めることによって生まれたアラベスクなモザイクだった……」と述べ、さらには「およそプローパーSFの枠からはみだした――そして、きわめてエンターテナブルではあっても、単なるエンターテインメントではない『日本アパッチ族』が、戦後の日本SFの出発点においてすでに存在したということは、小松左京はもちろんのこと、わが国のSF作家たちが、より高次のSFの達成を目指してなお前進するということの、よい辻占であったように思うのだ……」と述べるのでした。

1965年の時点で、次の新人として著者が特に力を入れはじめたのは、筒井康隆でした。著者は、「筒井はデビュー以来、コミックな――というよりややニューロティックな笑いを盛りこんだSF――自らスラップスティックSFと名づけていた――を得意として、独得な作風で頭角を現わしはじめていたが、この頃から、その傾向をいっそう推し進めた疑似イベントSF――これも彼自身の命名である――を書きはじめた。その最初のものが65年7月号に掲載された『東海道戦争』である」と述べています。また、筒井康隆の『堕地獄仏法』とそれを掲載した「SFマガジン」に対して、創価学会員から激しい非難攻撃の火の手が上がったことを回想し、以下のように述べています。
「増刊号が店頭に出てしばらくたつと、編集部には、激怒した学会員からの投書が舞いこみはじめた。そしてやがて、学会の機関誌〈週刊言論〉にも、ヒステリックな反論が載り、いずれも『堕地獄仏法』が学会に対する故なき中傷であり、無知蒙昧な悪意以外の何ものでもない、こんな愚作を載せた。SFマガジンという雑誌は低級この上なく、こんな企画をした編集長は品性下劣にちがいないというような意味のことが激越な調子で書かれていた」

1965年から66年へかけての筒井康隆は、みるみる、第一線のSF作家へと成長していきました。そのハイ・スピードぶりは、人々の目を見はらせるものがあったとして、著者は「彼は、他の作家たちとは全くちがう分野に、自分の天性を生かすものを発見し、それを自ら引きのばしていった。彼の場合とくに目ざましかったのは、そうしたSF作家としての成長が、SFファンのみならず一般読者、とくにヤング層の人気にじつに効率よくつながっていったということであった。星新一の場合には、かなり長い浸透の時期があってのちショートショートという分野の確立とともにその実力と魅力とが認められた。小松左京の場合も、最初熱狂したのはSFファンであり、その作家的力量がSF界以外に認められるためには、相当量の作品の蓄積という重みが必要だった。それに較べて筒井の場合、本格的に書きはじめてから、認められるまでの時間は非常に短かった。彼は、ややオーバーな表現を使うなら、またたくうちに、星、小松なみのポピュラリティーを、獲得してしまったのである」と述べています。

また、筒井康隆は、『東海道戦争』スタイルの疑似イベント路線をさらに推し進めた最初の長篇『48億の妄想』を、すでに65年末に完成していたとして、著者は「大衆の飽くことなき好奇心と新しい見世物はしさの欲求は、テレビをあらゆるものの価値判断の基準にしてしまう。新しい〈事件〉は、発生するのではなく、テレビのために〈発明〉される。そこには、事件に先がけてテレビが到着して、事件のなま中継をするべく準備がととのえられている。もちろん、人々はすべて、それを意識して演技する。あらゆるものが演出され、ショーとなる」と述べています。さらに、「面白いことに、このサイケデリックな気違い世界は、10年後の昭和51年いま現在に現実のものになることになっている!」として、「彼は、SF的な極限状況の設定をかりて、彼が現代人の心理の中に見出したニューロティックな傾向を、徹底的にパロディ化し、茶化し、デフォルメしてみせたかったのにほかならない。そしてこの作風こそ、彼が、早くから、SF読者の枠を越えた一般領域の読者を誘きつけた理由である。簡井SFは、もともと、いわゆるSFの枠の中には収まっていなかった。一種独得のブラック・ユーモア小説に、より近かったのだ」と述べるのでした。

1966年の年末、1970年に大阪で開催されることが決定した日本万国博の、さまざまの影響が、SF界にもおしよせてきつつありました。小松左京は、政府の万国博テーマ委員の1人となっていましたが、著者は三菱グループのパビリオンのプロデュースを依頼された東宝の田中友幸氏の依嘱を受け、その基礎的なアイデアづくりのためのプロジェクト・チームを編成しました。著者は、「星新一、矢野徹、真鍋博、それにぼくがメンバーとなったこのチームは、すでにこの年、何回かの会合を重ねて、アイデアを練りつつあった。こうした雰囲気にも如実に反映しているように、この年から翌67年にかけては、わが国にも、世界の先進国で高まりつつあった未来論ブームが、押し寄せてきたのである」と述べています。

本書の「解説」は評論家の高橋良平氏が担当していますが、高橋氏は大伴昌司構成の「SFを創る人々」(〈S‐Fマガジン〉1964年7月号)で、「SFがもつ要素で魅かれるものは?」という質問に対して、著者が「僕は唯物論者で、人間は元素に始り元素にもどることを信ずるが、同時にそこに生まれる一種の虚無感をも、信じている。”愛”のように、抽象的な観念を、たとえば兄弟愛とか夫婦愛というかたちで誰でもかんたんに認めているが、その本質は一種の執着にすぎない。執着を執着として認識することが僕の場合重要で、そういった、小説でも実人生でも衣を着せられてもてはやされているものを、裸にしたい気持がある。そして、これを自由にやれるのが、SFという文学形式だと思った。僕は復讐という人間心理がとても好きだが、復讐という行為は、現実回復の手段だ。実生活では実行できない。それがSFの場合はたやすくしかも徹底的にできる」と答えたことを紹介します。ここには、SFに対する著者の想いが正直に語られています。SF出版にかける著者の熱い想いは、「ハヤカワ・SF・シリーズ」のスタートから足掛け13年、122冊の〈S-Fマガジン>を通じて終始変わりませんでした。また、世界に類をみない『世界SF全集』全35巻(早川書房)を企画・編集し、人生を卒業していったのです。

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