No.1749 人生・仕事 | 論語・儒教 『「易経」一日一言』 竹村亜希子編(致知出版社)

2019.07.23

 『「易経」一日一言』竹村亜希子編(致知出版社)を読みました。「人生の大則を知る」というサブタイトルがつけられています。帯には「変化を読みとり 活路を開く知恵ここにあり」「5000年読み継がれてきた人生のバイブル」と書かれています。

本書の帯

 『易経』は、儒教の重要書物としての「四書五経」の1つ。
 四書は『大学』『中庸』『論語』『孟子』、五経は『詩経』『書経』『礼記』『春秋』、そして『易経』です。
 『易経』は、前700年頃に書かれた古代の占術理論書です。もともとは『周易』と呼ばれており、『易経』と呼ばれるようになったのは宋代以降のことです。64卦を説明する『経』とその解説の『十翼』で構成されており、 十翼は、卦に関する『彖伝』上下、爻に関する『象伝』上下、用語を説明する『繋辞伝』上下、乾坤二卦に関する『文言伝』、配列を説明する『序卦伝』、八卦 を説明する『説卦伝』、対比を説明する『雑卦伝』から構成されています。

 本書の「まえがき」で、編者の竹村亜希子氏が述べます。
「『易経』は、占筮の書として発展した書物ですが、古代中国の君主がこぞって学んだ帝王学の書でもあります。その理由は、『君子占わず』。この書物をよく学んだならば、占わずして時の変化の兆しを察する洞察力、直観力を身につけることができるからです。占筮の書であるだけに、時の変化を見抜くことに特化して、『時と兆しの専門書』ともいうべき書物なのです。昨今の世界経済の動向をみても、これからの時代は、より一層、変化を読み取り、対応する術を見出すための学問が必須と思います」
 特に、わたしの心に印象深かった言葉を以下に紹介したいと思います。なお、説明文はすべて竹村亜希子氏によるものです。

◇元は善の長なり。
君子は仁を体すればもって人に長たるに足り。
(文言伝)
 「元」は万物の始まり。善の最たるものである。
 春夏秋冬にあてはめると「春」。すべてが始まり、芽吹いていく時期である。人間の道徳にあてはめると「仁」。慈しむ心こそが善の長たるものである。思いやり、慈しみをもって育てる。そこには私心がなく、何も見返りを求めようとしない。これを仁愛の精神という。仁を体得してはじめて人々を導く者、「人に長たる者」となれる。

◇亨は嘉の会なり。
会を嘉すればもって礼に合うに足り。
(文言伝)
 「亨」は大いに伸びること。季節でいえば百花草木が勢いよく生長する「夏」。また、「嘉」は悦び、「会」は集まる。人や物事が集まり、豊かに伸び栄えていく。皆が悦ぶように物事を進めれば、個と全体がうまく調和し、社会が治まっていく。「礼」というと礼儀作法が頭に浮ぶが、それは小さな解釈。大きくは社会をまとめる情理・筋道、具体的には法律・秩序・制度などを表す言葉である。

◇利は義の和なり。
物を利すればもって義を和するに足り。
(文言伝)
 「利」は実りの時。春夏秋冬では「秋」。「利」には刀で刈る、利益などの意味もあるように、秋の刈り入れは実だけを収穫し、あとのものは切り捨ててしまう。これは私情・私欲を厳しく断ち切って宜しき実りを得ることを指す。人間の道徳にあてはめれば「義」である。易経の教える「利」とは、「義」が人間社会の和を保って行われることをいっている。

◇君子は徳に進み業を修む。
(文言伝)
 「徳」とは、善き人格や善き行いのための要件となるもの。自分がどうあるべきなのか、どういう振る舞いをしなければならないのかを指し示し、自分の質を向上させるものである。また、この質にも、人間的な質、技術的な質、企業としての質などいろいろあるが、日々、志した「質」の向上を目指して自分の日々の仕事を修めることが大切である。それを「修業」という。

◇拠るべきところにあらずして拠るときは、身必ず危うし。
(繋辞下伝)
 「拠るべきところ」とは、自分の分限にあった地位・立場・行動などをいう。そういう分限を守らず、分不相応な地位や名誉を手にしたとしても、重責に耐えられず、恥辱を受けて苦しむことになる。自分の分限を大きく外せば、必ず身が危うくなる。地位や名誉を失うだけでなく、時に生命にも関わると強く戒めている言葉である。

◇日往けばすなわち月来たり、
月往けば、即ち日来たり、
日月相推して明生ず。
(繋辞下伝)
 太陽が没すれば月が昇り、月が往けば日が昇るように、日月は入れ替わり立ち替わりして推移する。日月は共に感応し、共に推進して地上に明をもたらす。
 ともすれば人間は思慮を巡らせて物事を進めようとするが、頭で考えることよりも、自然の時に任せて推進するほうが大きく運行していくものである。

◇天地は節ありて四時成る。
(水沢節)
 「節」は竹の節である。固い節目で一区切りつけて止まり、次の節目に至るまでは伸びる。竹は節があるから真っ直ぐに伸び、強い風にも耐えられるのである。四季の巡りにも、程良い節がある。節分といえば春であるが、立夏、立秋、立冬も季節の変わり目、節目にあたる。四季は節を設けて巡り、万物は成長する。人間も物事も節を設けることで成長する。適度な節を設けなければ、人も物事も途中で折れてしまう。

◇動静常ありて、剛柔断まる。
(辞上伝)
 天では日月星辰が動き、地は静止して動かない。天は陽差しを注ぎ、雨を降らせ、地はそれを受けて万物を育成する。「剛」は陽、「柔」は陰に配当される。このように易経は、天と地の性質をもとにして、万象を陰陽に判別するものである。

◇易は窮まれば変ず。
変ずれば通ず。通ずれば久し。
(繋辞下伝)
 陰が極まれば陽になり、陽が極まれば陰に変化する。
 冬が極まれば夏へ、夏が極まれば冬へ向かう。同様に、物事は行き詰まることがない。窮まれば必ず変じて化する。変化したら必ず新しい発展がある。それが幾久しく通じて行って、それがまた生々流転する。「通ず」とは成長を意味する。新たな変化なくして成長発展はない。易が最も尊ぶのは新たな変化である。

◇おのおの性命を正しくし、
大和を保合するは、
すなわち利貞なり。
(乾為天)
 天道の働きに養われ、生きとし生けるものはそれぞれ、生まれながら持っているもの(性)と、天から授けられた天の働きと同じ力(命)を活かして、物事を成就する。「大和を保合する」とは、大きな調和を失わないこと。個々がそれぞれに、男子たらんと、母たらんと、教師たらんと自分に与えられた天賦・職分を果たす。これこそ正しく宜しい道であり、それが世の調和を保つのである。

◇庸言これ信にし、庸行これ謹み
(文言伝)
 「庸」は中庸の庸であり、「常」の意味。日常の言葉に嘘や飾りがなく誠実であり、日常の行いは時に適ったものであるかどうかと見極める。「謹み」とは「畏まり、縮こまる」ことではなく、「すべき時にすべき事をする」こと。その見極めに緊張感を持ってあたる、という意味である。シンプルなようで、なかなかできることではないが、このような態度で日常を送ることが大切である。

◇君子もって経綸す。
(水雷屯)
 「経綸」は、国家の秩序をととのえ、治めること。「経」は織物の機を織る縦糸で、横糸は緯。「綸」は、機を織っていく最初に糸をピンと張って整えること。国づくりだけでなく、起業にしても、新生の時は混乱する。治め整えるためには、まずは縦糸となる大綱、大よその枠組みを決めなくてはいけない。それから、横糸を細目にわたって織って整えていく。これこそシステムづくりの原点である。

◇言には物あり、行いには恒あり。
(風火家人)
 家庭において、事実にもとづく言葉を使い、行いには一貫性がなければならない。
 家族は情に溺れやすい。家庭は気を許せる場所だが、それだけに他人にはいわない暴言を吐くこともある。しかし、家庭は社会生活の根本であると自省し、言葉と行いを慎むことだ。自分で自分を欺くような真似はしてはならない。この風火家人の卦は、家庭・家族・家道のあり方を説いている。

◇神を極め化を知るは徳の盛なり。
(繋辞下伝)
 真理を究め、変化の理を知ることは、人が到達できる徳の極みである。しかし現実は、いくら極めても、人が知りうることには限界がある。そこで、真理の近くまで達しよう、その働きに似ようとすることが大事なのである。人を成長させるのは、人間の考えの及ばない実在である。

◇天に応じて時に行う。
ここをもって元いに亨るなり。
(火天大有)
 「天に応じて時に行う」とは、その時々にピッタリの、時の的を射る行いをすること。農作業でいえば、春に種を蒔き、夏に草刈りをし、秋に収穫して、冬に土壌を養うのが時の的を射るということ。天の運行に応じて、その時々にしかるべきことを行っていれば、物事は多いに通じていくということである。

◇積善の家には必ず余慶あり。
積不善の家には必ず余殃あり。
(文言伝)
 この言葉は「善を積む家には子々孫々の後まで喜びがあり、不善を積む家には後世まで災禍がある」という因果応報の意味で使われるが、本来は、日々小さな善を積んでいけば必ず慶びに行き着き、日々不善を積んでいれば必ず禍に行き着くという意味。何事も積み重ねていくと層が厚くなる。だからこそ、何を積んでいくのか、層の薄いうちに細心の注意を払わなくてはならないという教えである。

◇善も積まざればもって名を成すに足らず。悪も積まざればもって身を滅ぼすに足らず。
(繋辞下伝)
 善行を少し積んだだけでは名誉は得られない。小さな善を日々継続して積み重ねた結果が大きな善行となり、名誉を得ることができる。悪行が身を滅ぼすに至るのも同様で、小さな悪が積もり積もって、挙げ句の果てに、大悪となるのである。

◇小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。
(繋辞下伝)
 小人は思いやりや慈愛を持たなくとも、それを恥じず、悪逆を恐れずに行う。自分に利益がなければ進んで行動せず、刑罰を与えられなければ懲りない。小人は自分に利益があれば諂い、仮の思いやりも見せる。悪事を働いても、恐るべき結果になることを思いもしない。時の状況によって、誰しも小人になる可能性がある。肝に銘じたい一文である。

◇自ら明徳を昭らかにす。
(火地晋)
 太陽が自ら地の上に昇っていくように、自ら、明徳を明らかにする。「自ら」とあるのは、自分の心を明るく保つのは自分自身であって、人に頼ることではないという意味。明徳は私欲に囚われていると曇ってしまう。だから、自分の心の鏡が曇らないように、日々、自分で意識して磨かなければならないのである。火地晋の卦は、太陽が昇るように前進して、明徳が明らかになっていく時を説く。

◇咸じて臨む。貞にして吉なりとは、志正を行うなり。
(地沢臨)
 「咸臨」は上に立つ者、下にいる者、君臣が心で感じ合い、一致協力して事に臨んでいくこと。それぞれが悦んで応じ合い、正しい道を行き、志を行う。そのゆえに吉なりとある。万延元年(1860年)、日本人初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸(艦長・勝海舟)の船名はここからとった。太平洋横断という大事業を成し遂げるには、全員の協力が欠かせないことからの命名であろう。

◇節してもって度を制すれば、
財を傷らず民を害せず。
(水沢節)

 節するに度を弁えたならば、過不及なく財を守り、人に迷惑をかけることもない、といっている。竹は節目で一度塞がり、また通る。程よい節を設けることで、真っ直ぐに生長していく。そこから「節」には、程良く節する、また物事の通塞を知り出処進退を弁えるという意味がある。会社組織も家庭も、「節」によって経済は守られるのである。

◇学もってこれを聚め、問もってこれを辯ち、寛もってこれに居り、仁もってこれを行う。
(文言伝)
 「学問」という言葉の出典。「これ」とは徳のこと。「学問」とは、学び、そして書物や師に問い、自問し、為すべきことを弁別すること。そして、学んだことを会得したら、「こうでなくてはいけない」と狭量にならず、人にも自分にも物事にも、寛容な心で思いやりをもって実行することが肝要である。

◇天行は健なり。
君子もって自彊して息まず。
(乾為天)
 天の働きは健やかで1日も止まない。
 それに倣って「自彊して息まず」、自ら強く励み、努めて止まないことが大切である。自分を活かすのは何といっても自分自身であり、他の誰かが助けてくれたとしても、それはきっかけにしかならない。ゆえに、まずは自分で自分を立てることから始めなくてはならない。継続して癖付けをしていくことによって、物事は成り立っていくのである。

◇立ちて方を易えず。
(雷風恒)
 「方」は理・道をいう。雷風恒の卦は一定の理を貫き、極まりなく変化成長していくことを説いている。「立ちて方を易えず」とは、一旦志を立てたならば、しっかりと自分を確立して、グラついたりしない。何があっても自分の道を守りぬくこと。人は飽きると変化を求めるが、本来は毎日同じことの繰り返しの中で変化し、成長を遂げるものである。

◇謙は亨る。
(地山謙)
 君子の徳の中で最も高い徳とされているのが「謙」、謙虚、謙譲、謙遜の徳である。古来、謙虚さは美徳とされ、社会的マナーや礼儀のようになっているが、うわべだけ謙った態度を装うこととは違う。抱いている志が偉大であればあるほど、人は謙虚になる。慢心せず、自然に身を低く小さくする。自分の綻びが見えて、補おうとする心が「謙」である。謙虚さを持続したならば、志は通る。

◇君子は終わりあり。
(地山謙)
 「終りあり(有終)」とは初志を変えず、一貫して物事を成し遂げ、終わりを全うすること。名声などない時は心から謙虚になれるが、成功して高位に上りつめると、知らぬうちに慢心が現れる。しかし、まだまだ自分は事足りていないと分かっていれば、最後まで謙虚さを保ち続けることができるはずである。そのような姿勢を貫くならば、有終を迎えることができる。

◇群龍首なきを見る。吉なり。
(乾為天)
 群がる龍の頭は雲に隠れている。つまり、優れたリーダーは自己主張がなく、圧力をかけず、トップ争いをしないという意味である。リーダーがリーダーたりえるのは、力や威厳があり、人々の頂点にいるからではない。その働きが大義に従うものだからである。それを勘違いして権力を争うようでは、やがて失墜する。働く人々が圧力を感じず、治められているという意識さえ持たずに、各々の力を発揮して繁栄するよう導くことが大切である。

◇国の光を観る。
(風地観)
 観光旅行の「観光」の語源になった言葉である。「国の光を観る」とは、一国の風俗や習慣、また民の働く姿を観て、国勢や将来を知ることである。会社組織でいえば、社員の机の状況を観ただけで、その会社のリーダーのありさまや経営方針を察知するようなものである。これには深い洞察力が要求される。そのように兆しを察する能力を「観光」という。

◇先王もって万国を建て諸侯を親しむ。
(水地比)
 古代の王は諸侯と親密な関係を築き、国を治めた。
「親」の字は、辛(鋭い刃物)で木を切るのを近くで見て、自分も痛く感じること。そこから、親子のように互いに大切に思い、相手の痛みを自らのものとして感じ、助け合う関係を「親しむ」という。自分の都合のいい相手、ただ楽しいだけの関係は、本来の「親しむ」ではない。水地比は、交際の根本的なルールを説いている卦。

◇化してこれを裁する、これを変と謂い、推してこれを行う、これを通と謂い、挙げてこれを天下の民に錯く、これを事業と謂う。
(繋辞上伝)
 時に応じて物事を切り盛りし、適宜に処置して変化させ、さらに推進して物事を通じさせる。この変通の道理によって社会の道を整え、民を導くことを事業という。これは「事業」の語源となった言葉である。本来、事業とは社会貢献を指すものであった。

◇君子豹変す。小人は面を革む。
(沢火革)
 君子は改革・変革の時に応じて過ちを改め、豹のように毛色を美しく変える。沢火革の卦には「大人虎変す」という辞もある。もっとも見事な変革の完成を表すが、それに感化されて周りの人々が次々に「豹変」するのである。「君子豹変」は現在では悪く変わる意味で使われるが、本来は良い方向へ改める意味がある。一方、小人は心にもないのに顔つきだけを改めるといっている。

◇美その中にあって、四支に暢び、事業に発す。美の至りなり。
(文言伝)
 謙虚、柔和、柔順、受容の精神が体の内の隅々にまで行き渡るようであれば、徳はその人の行いに表れるのではなく、行う事業に表れる。それは美(徳)の至りであるという。美徳とは、陰の徳をいう。隠したもの、秘めたものが、光が漏れ出すように外に表れてくる――それが美徳である。

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