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霊能者列伝』

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No.1701


『霊能者列伝』田中貢太郎著(河出書房新社)を読みました。幕末〜戦前の新興宗教家、霊能者の生い立ち、秘蹟、スピリチュアリティをまざまざと伝えるルポ集です。
 著者は1880年、高知県長岡郡三里村(現・高知市仁井田)生まれ。作家。伝記物、情話物などを書くかたわら、怪談・奇譚の大家として一時代を築きました。大町桂月、田山花袋、田岡嶺雲に師事。滝田樗陰に認められ、「中央公論」誌で活躍しました。1941年逝去。代表作の『日本怪談実話』は有名です。

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本書の帯

 

 本書の帯には「スティグマかカリスマか」「近代日本、奇蹟の教祖の実像」「『怪談実話の巨匠』田中貢太郎が綴った近代日本の霊能者群像。大本教祖・出口直、"日本のラスプーチン"飯野吉三郎から誇大妄想狂・葦原将軍ら九人の実像。近代合理主義の地下水脈」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「人としての丸山教祖」

「金光教祖物語」

「大本教物語」

「黒住教祖物語」

「飯野吉三郎の横顔」

「予言者宮崎虎之助」

「神仙河野久」

「木食上人山下覚道」

「蘆原将軍の病院生活」

 ●解説 川村邦光

 

「人としての丸山教祖」では、丸山教の教祖である伊藤六郎兵衛が修行した末に神懸るさまが以下のように描かれています。
「山上の日は明けて暮れた。20日目は朝からの大吹雪であった。六郎兵衛は、明日は結願の日であるから今日あたりは生命を引取らるるであろうと思って、最後の神言を唱えて石室の外へ出た。石室の前の吹寄せの雪は肩が埋もる位であった。彼はまず法冠を解き、次に法衣を脱いでとあに雪の上に置いた。紛々と雪を吹き捲く風は六郎兵衛の散らし髪を拭き靡かせた」

 

 続けて、以下のように書かれています。
「彼は両手を高くさしあげて合掌して『私は仰せを守って人救助をするために、家を忘れ、政府の制止もきかず一身を捧げて勤めておりましたけれども、信者の心が崩れるようでは、このままの身体では、仰せを全うすることができません。このうえは早く生命をお引き取りください、身体をお山の石としたうえで、魂を以て仰せを全ういたします』と云った」

 

 さらに続けて、以下のように書かれています。
「彼はそのまま其処に入定するつもりであるから祈りが終っても動かなかった。『汝はまだ帰天する時でない、これまでの艱難は汝の精神をきたえるためである、汝は祖神がついている。絶望せずに明日を待て、明日は汝を迎えに来る者がある』と、云う声が無念無想になっている六郎兵衛の耳に入った。彼は驚いて我に帰った。彼の心は歓喜にふるえた。彼は法衣法冠を取りあげて石室の中に帰った。

 

「金光教祖物語」では、金光教祖の川手文治郎の神憑りが、このように描かれます。「安政5年になって初めて文治郎に神憑があった。それは安政5年3月17日のことであったが、その時はまだ意味のある詞ではなかった。ただ微かな声が耳の底に起ったような気がすると同時に、たとえようのない崇高な気に打たれたばかりであった。越えて7月13日、即ち盂蘭盆会の前夜になって初めてはっきりと神の声を聞くことができた」

 

 続けて、以下のように書かれています。
「その夜、文治郎は家に祭ってある神仏へ燈明をあげ線香を立てて、夕べの礼拝を済ましてから供物を山のように供えた精霊棚の前へ坐っていた。登勢は次の間で母や子供達と世間話をしていたが、いつになく文治郎の礼拝が永いので、不審しながら覗いた。覗いてみて登勢ははっとした。文治郎の眼は異様な輝きを帯びて光っていた。その姿は平生になく気高く見えた。登勢はこれはただごとでないと思った。その瞬間文治郎の唇がぶるぶるっと大きく攣えた」

 

 続けて、以下のように書かれています。
「『戌の年、今晩は盆と思うて精霊回向へ気を寄せ、燈明は少のうても火は消えぬ、はや晩刻から何時になるか、母も家内も此処へ来い、物語して聞かせる』
文治郎の口を衝いて出た詞には威厳があった。一家の者はその威にうたれて文治郎の前へ進んで頭をさげた。文治郎の口からは川手家の祖先のことを冒頭にして、さまざまの訓えが出た。家人は謹んでその訓えを聞いた。ひととおりの訓えが終ると神は文治郎の体を放れた。文治郎はそこで神憑の間に会った神伝の解説をして聞かせた。普通神憑り中のことは何一つ記憶していないのが常であるが、文治郎はいちいちそれを記憶していた。その時文治郎は45歳であった」

「大本教物語」では、大本教祖である出口直が遭遇した不思議な体験について、以下のように書かれています。
「明治21年の3月のことであった。某日直は所用があって、隣郡の船井郡鳥羽村の村はずれを歩いていた。直が恰度八木島という処の手前へさしかかった時、前方から来ていた一人の男がふと直の前に立ち塞った。その男は銀のような白髪を房々と胸まで垂らした、見るからに何かひとくせありそうな老齢であった。直は驚いて身を避けようとした。と、その老翁が突然口を開いた。
『お前さんは変性男子である、後に必ず重大な神の使命を背負って立つようになるから、そのつもりで身体を大切にしなさるがよい、こう云っただけでは、私の詞を疑うかも知れないが、お前さんには8人の子女があるはずじゃ』と云った。直はぽかんとしてその老翁の顔を視つめていた。その人は本田親徳という人であったことが後にわかった。親徳は鹿児島の人で国学の大家で、神道の造詣が深く、明治21年頃から地上の高天原を発見しようと思いたって、諸国を遊歴していたのであった。その時は丹波元伊勢へ参拝する途中であった」

 また、直の神憑りについて、以下のように書かれています。
「某日、また例によって激しい震動が起って、直の下腹へ変な塊ができた。その塊がむくむくと生物のように動きだして、下腹から胸のあたりへのぼったと思うと、急に息苦しくなってきた。そして、自然に唇がぶるぶると震えはじめた。直は驚いてじっと息を凝らした。と、不思議に何処からともなく微妙な声が聞こえて来た。
『われこそは、艮の金神で、元の国常立之命である、今より汝の身体を守るぞよ』
それは神憑であった。その声が終ると直の身体の震動はぴたりとおさまった。腹から胸へのぼった塊もどこへか消えてしまった」

 さらに神憑った直について、こう述べられています。
「直は自分の口が自然に動いて言う神の詞と、自分の意志で云う自分の詞とで問答を続けた。その時の神憑は10日間ばかり続いた。これを聞いて近所の人は、直が気が狂ったものであろうと思って迷惑がったが、別に人に対して危害を加える容子もないので、苦情も云えなかった。そのうちに直の神憑は一層進んで、何か宣言めいたことを云うようになった。
『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になったぞよ』
『須弥山に腰を掛け、鬼門の金神が守るぞよ』
『昔からこの世の来るのは知れている、絶体絶命の世になったぞよ』
それが更に進んで、神の出現を説くようになった」

 大本教は教祖・出口直、直の娘婿である教主・出口王仁三郎の2人によって教勢を強めていきましたが、「おふでさき」を残した直を崇めるのに比べて、信者たちは王仁三郎に対しては冷たい仕打ちをしました。著者は述べます。
「直の御筆先に王仁三郎には四足の獣が憑いているから、それが退かないと神の道が遅れるというような意味のことが現われた。役員達はそれを楯にとって王仁三郎を一室へ監禁して厳重に張番をつけた。王仁三郎は監禁されても熱心に神道の研究を続けた。王仁三郎は筆を執って神の教えを書きつけたりしたが、役員達はそれを見て、『外国魂が憑いている』と云って取りあげてしまった」

 続けて、以下のように述べられています。
「役員達は平仮名で書いた直の御筆先は有難がったが、漢字で書いた王仁三郎の字は読めないので、外国の字だと云って一概に排斥するのであった。某時王仁三郎が『古事記』を読んでいると、役員の一人が、「それは何だ」と云って聞いた。王仁三郎は『古事記』だと答えた。すると役員は、「乞食の本なら読まなくてもいい、先生はこの教えになくてはならぬ立派な人だが、四足の獣が憑いているからいけないのだ」と云ってその本を没収してしまった」

「予言宮崎虎之助」では、日露戦争の頃に多く登場した霊能者たちが以下のように紹介されています。
「当時、日露戦役後の民衆は思想的に懐疑と悩みの底に沈み、その結果として多くの自称神仏が輩出した。そのうちで最も代表的な進出ぶりを示した一人は末広幸三郎である。末広は大阪千日前の末広寿司主人であったが、彼は聖書を殆んど全部暗誦していて、また能弁な男であった。末広寿司は蕎麦風邪一夜薬の発売元であるが、幸二郎はこの家伝の妙薬こそ天来の霊薬であると称して、また彼自身もそれが天来のものであると狂信した。
末広幸三郎と同時に予言者として進出したものに斎木仙酔がある。仙酔は関西学院の英語教師であったが、数理教という一種の神仏を提唱し、現在では九州に去って理想的な女学校を経営している。この女学校には生徒の数は少ないが、模範とするに足る教授法を行っている。この他に『無我の愛』という雑誌を発行して伝道に精進した伊藤証信がある。彼は現在では三河の西端に隠栖し、宗教の研究をつづけて往く傍ら、名古屋仏教学校に教鞭をとっている」

 この潮流に応じて特異なる進出を試みたものが「メシヤ仏陀」と呼ばれた宮崎虎之助でした。著者は、以下のように書いています。
「『我れ神』という自覚を得て自らを予言者と信じ、彼は主として大道に立ったのみでなく宏く地方にも伝道して廻った。彼はそれのみでなくしばしばキリスト教会に押しかけて往って、当時流行した『教会あらし』をも敢えてしたのである。孔子、釈迦、マホメット、キリスト、この四聖の再来であると狂信している彼は、牧師の説教中、教会にとびこんで往くと、『キリストここにあり』と壇上に駈け上がって叫ぶのが常であった」

「解説ーー近代日本のカリスマ群像」の冒頭では、大阪大学名誉教授で日本文化学者の川村邦光氏がこう述べています。
「イエスは郷里のナザレで『預言者は、自分の郷里では歓迎されないものだ』(ルカ伝:4・24)と語った。大工の小倅が高尚な教えを伝えようとも、また病を癒し、死者を甦らせる奇蹟を行なっても、故郷では預言者、あるいは霊能者として迎えられない。家業を継げなかった出来損ない、放蕩息子、はては異常者とされ、異郷を漂泊する宿命にある」

 また、川村氏は以下のように述べています。
「傷痕は罪人・偽預言者の徴、スティグマであり、聖痕は聖人・霊能者の徴、カリスマである。スティグマもカリスマも、人びとの信と不信によって生成されていく。スティグマは霊力を発揮することによってカリスマに変容する。だが、霊力を示せなくなるなら、カリスマはスティグマに転換していく。カリスマは何よりも、世間の社会的な評価によって成り立っているのである。本書に登場する霊能者たちは、このスティグマとカリスマを担って、生涯を苦闘のうちにまっとうしている。スティグマとカリスマの盛衰、それが霊能者たちの宿命と言うべきものであろう」

 さらに、スティグマとカリスマについて、川村氏は以下のように述べるのでした。
「スティグマとカリスマ、それは社会的な人間関係のもとでの否定と肯定、さらに止揚という弁証法的なプロセスを展開する、それは果てることなく、質量の力を増大させながら永続的に続くと言える。だが、排除・罵倒する人や歓待・崇拝する人がいなければ、いともたやすく忘却されることになる。毀誉褒貶を常とし、零落・忘却と讃美・顕彰の道を辿る。そして、カリスマは死後もなお、人びとの記憶を賦活させて、新たに甦ることもある」

 本書は、日本が近代化していく転換期に発生した巨大な「共同幻想」について書かれた本であるという見方もできます。しかし、本書に登場する教祖たちの魅力は、宗教の次元を超えた世直しの救世主といった趣があります。川村氏は、「平成の世で最大のスティグマ・カリスマ劇を演じて見せたのは、オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)だった。この平成の世のひとつの締め括りとしてか、イエスと12使徒を暗示させなくもないが、麻原をはじめとして、13名がいわば問答無用に死刑に処された」と述べていますが、麻原彰晃と転換期の教祖たちとの最大の違いは何かといえば、ある種の明るさであったような気がします。オウム真理教事件が起こった平成ももうすぐ終わります。
 改元まで、あと36日です。