No.1657 プロレス・格闘技・武道 『証言 1・4 橋本vs.小川 20年目の真実』 前田日明+佐山聡+武藤敬司+村上和成ほか著(宝島社)

2019.02.07

 『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実』前田日明+佐山聡+武藤敬司+村上和成ほか著(宝島社)を読みました。1999年1月4日の東京ドームで行われた新日本プロレスの橋本真也とUFOの小川直也の一戦は「セメントマッチ」として大きな話題となりましたが、その真相や舞台裏を語る証言集です。 

本書の帯

 表紙カバーには、寝た状態の橋本に容赦なくパンチを叩きこむ小川の写真が使われています。帯には「『破壊王』を破滅に追い込んだプロレス史上最大の事件」「ついに明かされる黒幕の正体!」と書かれています。 

本書の帯の裏

 帯の裏には以下のように書かれています。
「佐山聡『猪木さんは新幹線の中で”指示”を出したんだと思う』/前田日明『俺が新日本にいたら絶対に小川をシバいてる』/武藤敬司『あの試合は、俺や長州さん、健介、藤波さんが辞めた原因の一つ』/大仁田厚『1・4の橋本vs小川戦は、猪木さんの俺への当てつけ』/村上和成『絶対に譲れない猪木さんの思想が、小川さんを暴走させた』/ジェラルド・ゴルドー『猪木さんとの約束がなければ小川を殺していた』ほか」

 カバー前そでには、こう書かれています。
「猪木の闘魂を継承し、猪木に才能を認められた男は、猪木が新日本へ送り込んだ刺客の相手に選ばれた。1999年1月4日、東京ドーム。橋本は誰と闘っていたのか――」

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「1990年代以降のプロレス界、”最大の謎”がいま解き明かされる! 1999年1月4日、新日本プロレス・東京ドーム大会で行われた橋本真也vs小川直也の”シュートマッチ”。試合開始直後から橋本を殴る、蹴るなどの”暴挙”に出る小川。これは「プロレス」ではない――。騒然とする観客とリングサイドの新日本勢。結果、橋本は大観衆の前で醜態を晒すことになった。試合は『無効試合』判定となったが、試合後、長州力、佐山聡らがリングに上がり新日本、UFO勢が乱闘騒ぎに発展、遺恨を残した。小川はなぜ”暴走”したのか。そして橋本はなぜ反撃しなかったのか――。現在もプロレスファンの間で語り継がれる”疑惑の試合”。20年を経た今、当事者、関係者がその深層を告白する」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」ターザン山本
第1章 小川を「取り巻いた」男たち
佐山聡
「猪木さんが大阪からの新幹線で小川に”指示”を出したと聞いた」
村上和成
「絶対に譲れない猪木さんの思想が、小川さんを暴走させた」
ジェラルド・ゴルドー
「ミスター猪木との約束がなければ、小川をぶちのめし、殺していた」
X(元猪木事務所・UFOスタッフ)
「小川さんのことが好きな人は誰もいなかった」

第2章 橋本を「守った」男たち
山崎一夫
橋本の控室で、猪木を罵倒し続けた長州に感じた違和感
藤田和之
「1・4は、試合後の乱闘も含めてプロレスだと思っていました」
安田忠夫
猪木にとって1・4の小川の相手は、話題になれば誰でもよかった
加地倫三
「引退特番に関わった僕が、橋本さんのケツを拭かないといけない」

第3章 橋本を「見守った」レスラーたち
前田日明
「次、小川をスパナでカチ食らわせ」と橋本に電話した前田
武藤敬司
 「あの試合は、俺や長州さん、健介、藤波さんが辞めた原因の1つ」
大仁田厚
「1・4の橋本vs小川戦は、猪木さんの俺への当てつけ」

第4章 橋本vs小川「至近距離」の目撃者たち
金沢克彦
“シュート指令”を出した猪木の想定を超えてしまった小川の暴走
辻よしなり
「橋本は小川を『自分の人生を懸けて闘うにふさわしい男だった』と」
田中ケロ
「はしごを外され、裏切られ、橋本は解雇されたんだと思います」
上井文彦
1・4後に橋本の年俸は3800万円から3000万円に
中村祥之(元新日本プロレス営業)
橋本vs小川は、猪木の「魔性のプロデュース」が生んだ悲劇
永島勝司
試合後、電話で「ガチに見えるプロレスをやっただけ」と主張した小川
橋本かずみ
「なにかあったらラーメン屋をやりたい」と言っていた橋本
「橋本真也 小川直也 完全年表」

 「はじめに」の冒頭で、ターザン山本はこう書いています。
「1999年1月4日、橋本真也vs小川直也戦。すべての証言者の言葉の端々、言外には呪いの感情が透けて見えてくる。なぜか? これは第二の『舌出し事件』である。決して普通のプロレスにはしない。断じてしない。それがアントニオ猪木の執念、怨念なのだ。
 やってはいけない。してはいけない。あってはいけない。その原則を根底からぶち壊す猪木流の罠と落とし穴。仕掛け。そのことでレスラー、マスコミ、関係者、ファンまでが過剰に反応し狂っていく。それを見てひとりせせら笑う。してやったり。ざまあみろ。影でアカンベーをする猪木。作・演出の猪木劇場の完成だ」

 また、ターザンは以下のようにも書いています。
「もしプロレスファンのなかにガチ幻想への強い願望と憧れ、それがなかったら猪木はピエロでしかない。このパラドックスがプロレスなのだ。ガチンコ、セメント、ルール破り、予定調和の破壊、もう飽き飽きしている。最後はそこに行く。そこに行き着く。そのことをわかっていて有言実行できる確信犯は猪木だけだ」
 そして最後に、ターザンは「猪木には人を見る抜群のセンスがある。猪木に見込まれ指名され選ばされし者、橋本真也の栄光と悲劇。その二重性。猪木はただ最もやりたいことをやっただけなのだ。またしても毒を食らわば皿まで。あとは野となれ山となれ。どうってことねえやの心境。居直り、結果的に1つだけ言えることがある。勝利者は1人しかいない。それがまさしくアントニオ猪木だ」

 一条真也の読書館『証言UWF完全崩壊の真実』で紹介した本と同じく、本書もいろんな選手や関係者の証言集です。その発言の中から、わたしが知らなかったこと、興味を引かれたこと、「なるほど」と思ったことなどを中心に抜き書き的に紹介していきたいと思います。当時、UFOの代表として小川のセコンドを務めていた佐山聡は、新日本プロレス退団後に第一次UWFに加入し、格闘技の匂いのするプロレスをつくりあげました。「たとえば、ロープに飛ばされてバーンと体当たりする。そこでバーンと体をぶつけます。これは(プロレスの)ナチュラル。しかし、総合格闘技ならば、そもそもロープに投げられるということはありえない。
 UWFもナチュラルとは少し少し違う。UWFは、お客さんに関節技はこんなふうに決まるんだと理解してもらわなくてならなかった。あれは将来、格闘技をやるための過程。繰り返しやってはならない。プロレスのナチュラルと格闘技は別物です。ただ、これは僕の解釈。猪木さんがどんなふうに考えていたのかはわかりません。猪木さんには昔のストロングタイルでやりたいという気持ちはあったはず。ただ、自分が動けるわけではないので、もどかしいというか。それで小川を使ったんでしょう」(佐山聡)

 この後、再び新日本との縁が切れたUFOは、99年3月14日に単独で横浜アリーナ大会を開催しましたが、試合後の打ち上げパーティでどんでもない事件が起こりました。佐山が猪木に向かって「殺すぞ」とフォークを突き立てたのです。それを元猪木事務所・UFOスタッフのXなる人物が目撃していました。
「佐山さんが猪木さんに『オラーッ!』ってフォークを持ちながらすごんだっていうのは、嘘でもなんでもなく、本当のことです。そのまま佐山さんは、怒って帰っちゃいましたから。猪木さんと佐山さんの間になにがあったのか、本当のところは当人同士にしかわかりません。ただあの時、UFOを猪木事務所と切り離して、別会社にするという話があったんですよ。UFOの代表は佐山さんだったんで、猪木さんからしたら、もうスポンサーも付けたし、『これ以上、俺を頼るな』って感じだったと思うんですけど、佐山さんのほうは、猪木さんにはしごを外されたと感じたんじゃないですかね」(X)

 1・4事変のとき、リングサイドには小川のスパーリング・パートナーを務めた藤田和之もいました。後に「猪木イズム最後の継承者」と呼ばれた藤田は、「1・4は、試合後の乱闘も含めてプロレスだと思っていました」と述べています。
「だいたい、プロレスのリングでは前座の下のほうで勝ったり負けたりしてた僕や桜庭(和志)さんがPRIDEで勝ってるのに、IWGPチャンピオンになった永田先輩が、総合に出たら勝てないって時点でおかしいじゃないですか(笑)。それはもう、やってることが違うから仕方ないんですよ。
 でも、1人だけ、それを超越できた男がいましたよね。高山善廣ですよ。僕も一度PRIDEで試合しましたけど、高山さんだけは、たとえ総合で負けてもどんどん評価が上がっていった。プロレスラーが、あのリングでなにをすべきかがわかっていた人でしたよね。橋本vs小川戦とは全然違う話になっちゃったけど(笑)。改めて振り返ってみて、高山善廣という男はすごいプロレスラーだなって思いますね」(藤田和之)

 1・4事変のとき、新日本プロレスのセコンドたちは、村上和成をはじめとしたUFO勢に襲いかかりましたが、危険な匂いのするゴルドーや佐山には誰も近づきませんでした。橋本の弟分だった安田忠夫もその1人でした。
「佐山さんは”笑顔の裏になにかある人”とか有名だけど、飲んだら変わる人みたく橋本さんからも聞いてたからね。そういう人って、本当に警戒しなきやいけないというか。俺個人としては、佐山さんなり髙田(延彦)さんなり、自分がやらないのに、教えてる下の人間たちにガチンコをさせるのは、どうなのよ? って気もあったんだよね。それって、卑怯じゃん? 前田(日明)さん? 橋本さんとステーキ屋にいる時に3回くらい会ったよ。前田さんが俺たちの席まで来て挨拶してくれて。印象? いや、橋本さんが悪口言わなかったから、俺も『いい人』というイメージ。俺、結構、橋本さんに洗脳されている部分が多いんだよ(笑)」

 前田と橋本が同じステーキ屋で3回も会っているとは驚きですが、新日本プロレスの先輩である前田のほうから後輩である橋本の席まで挨拶に来たというのも驚きです。その前田は、1・4の橋本vs小川戦をテレビ観戦しています。
「あの頃の橋本は、新日本内部でよく思われてないっていう噂が俺の耳にもいっぱい入ってたんだよ。たしかにあいつはあの頃、妙に調子に乗ってたんだよね。俺が恵比須のホテルのシガーバーにいた時、橋本と偶然出くわしたことがあってさ、その時に思ったよ。『ぞんざいな態度で周りから睨まれてるって聞いてるけど、ああ、本当のことだったんだ』ってね。俺に対してもそういう態度だったからね。たぶん猪木さんに対しても、当時の橋本は偉そうな態度を取ってたんじゃないの。だから、『こんなに調子に乗ってたらいつかやられるんじゃないか』って思ったんだよ」(前田日明)

 前田日明といえば、アンドレ戦や佐山戦など、いまに伝わるシュートマッチの当事者として有名です。そんな前田だからこそ、1・4事変には思うところが多々ありました。
「もしも俺がずっと新日本にいたら、逆に面白くなってたと思うよ。俺は絶対に小川にもあんなことをさせなかったと思うんだよ。間違いなく逆にシバいてるよ。リング上に関しては百戦錬磨でもあるし、たとえ小川相手にヘタを打ったとしても、プロレスなんだからリング下にあるスパナでもなんでも持ってぶちのめしたらいいからね。やられるくらいならなんでもやってたと思うよ。よしんばやられたら、控室に乗り込んでやり返せばいいだけの話。それをあとからちゃんと書いてくれるマスコミだっているんだから。だから、俺は『やったもん勝ちだ』って言うんだよ。やっちゃえ、やっちゃえのカーニバルみたいなもんだよ」(前田日明)

 前田の発言の中で一番わたしが興味を抱いたのは、猪木がシュート指令を下した理由を推測した次のものです。
「猪木さんには別の計算もあって、あの試合の3カ月前に髙田が調子に乗ってヒクソン(・グレイシー)と2度目の試合をやったんだよね。あれなんかはっきり言って完全にビビり負けなんだよ。プロレスを代表した人間がああいう無様な試合をしたんだから、そこで猪木さんは世間のプロレスに対するイメージを変えたかったのかなと思うんだよね」(前田日明)

 この頃の猪木には、小川を使って新日本を格闘技色に染めようという思惑がありました。それは「プロレスLOVE」を標榜する武藤敬司とは真逆の方向性でした。
「猪木さんは好きなんだよ、格闘技が。格闘技ファンなんだよ。だから、猪木さんは新日本をどんどん格闘技っぽくしてほしかったんだと思うよ。それが、いままでの猪木さん自身の試合すべてを肯定することになるから。自分たちの弟子に格闘技の試合をさせて、過去の自分の試合も肯定したかったんだよ。
正直な話、坂口さんや長州さん、マサ(斎藤)さんとかアマチュアイズムを追求した人は絶対に強さを追求するというか、そういう発想にならないじゃん。どれだけしんどいことかっていうのがわかってるからさ」(武藤敬司)

 本書には1・4事変に関する多くの関係者の証言が集められていますが、元「週刊ゴング」編集長の金沢克彦が明かした新事実には驚きました。
「これは取材のなかで複数の関係者に確認したことなんですけど、猪木さんは最初は『仕掛けてしまえ』と言っていたのが、途中で考え直して、試合の直前になって佐山さんに『やっぱり普通の新日本の試合でやれ』とストップをかけたらしいんですよ。それを佐山さんは、小川の入場には付き添っていないから、試合開始直前のリング上で『新日本ルールに変わったから』と伝えたんですけど、小川はもうアドレナリンが出ちゃてたから、止まらなかったんでしょうね。『仕掛けてしまえ』という指令がなくなったといっても、じゃあ、どうすればいいのかもよくわからず。『どうせ最後はノーコンテストでいいんでしょ』という感じで、ボコボコにしてしまった。だから、ああなってしまったことに対しては、猪木さんも佐山さんも想定外というか、びっくりしたと思うんですよ。
 あの1・4の10日後くらいに業界関係者の重鎮のパーティの席で、竹内宏介さん、池孝さん、門馬忠雄さんらマスコミの大御所の人たちのところに佐山さんが来て、『このたびはご迷惑をおかけしてすみませんでした。小川に興奮剤を飲ませたら効きすぎちゃったみたいで』と言ってきたらしいです」(金沢克彦)
もっとも、これは佐山流のジョークで、興奮剤の正体は単なる健康食品だったそうですが……。

 元新日本プロレスのリングアナウンサーだった田中ケロは、この1・4事変の後、橋本vs小川の遺恨対決がドーム興行に欠かせないドル箱カードに化けたことを指摘します。
「結局、あの1・4があったことで、橋本vs小川というカードが多くの人に注目されるようになって、また試合自体、緊迫感のあるいい試合になったんですよね。だから、もしかしたら猪木会長の狙いどおりだったのかもしれない。ああいう”事件”がなければ、橋本vs小川がここまで注目されたりすることはなかったと思いますからね。
 だから藤波さんと長州さんが名勝負数え唄を展開していて、それがややマンネリ化してきた頃、藤原さんが”テロリスト”として乱入したことがあったじゃないですか(84年2月3日・札幌中島体育センター)。あの時と構図は一緒なんじゃないかと思うんですよ。あれも猪木会長が藤原さんに対してけしかけたと言われていますけど、その真偽はともかく、あの乱入があったからこそ、新しい展開が生まれて、新しい熱を生むこととなった。橋本と小川の一件についても、結局はそうなったんじゃないかと思います」(田中ケロ)

 1・4事変のレフェリーを務めたのはタイガー服部ですが、「あんな試合は二度と裁きたくない」と述べています。
「誰もなにが起こってるのかわからないんですよ。新日本からすればUFOが仕掛けやがったと思うだろうし。でも、あの当時はバイオレンスに見えましたけど、いま振り返るとそこまで小川さんは狙ってないのかなって。100パーセントの力で試合を壊そうとしてないですよね。勝ち負けだったら、小川さんはもっと早く仕留めることができたんじゃないかなって気がします。あの試合は小川さんが仕掛けたんじゃなくて、猪木さん流のプロレスを展開した。猪木さんからすると、そうなっても実力で対抗するのが本当のプロレスラーなんじゃないかって話かもしれません。いま思えば、あの場はUFOを売り出す最大のプロモーションだったんでしょうね。ただ勝つだけじゃなくて強さを魅せることが重要だった。小川さんはその目的が果たせたけれそ、橋本さんはなにも返せなかったという」(タイガー服部)

 元新日本プロレス取締役の永島勝司の証言もリアリティ満点です。いつもと違う緊張感は漂っていたものの、試合そのものは通常のプロレスルール。この試合の「ブック」は最初から「無効試合」に決まっていたそうです。
「それまでの流れもあったから、この試合は勝敗をつけないことにしたんだ。橋本と小川には、当日に『無効試合で』って伝えた。(レフェリーの)タイガー服部には俺から伝えてないから、ちゃんと理解していたかどうかわからないけど、少なくとも関係者の間ではそれで話はついていた。
 でも、反則してレフェリーが不在になってるのに、なかなか試合が終わらないんだよな(笑)。すぐ反則を取っちゃうと試合時間が短くなりすぎるから、誰かが試合を止めさせなかったのかもしれない。それで小川がガンガンやってるし、橋本がぜんぜん動かねぇし、周りも騒ぎ出したから、これでやっと無効試合だなと。俺はダグアウトで長州と2人で観てたんだけど、試合が終わって乱闘が始まったから、『光雄(長州)、行け!』って言って背中を叩いて、アイツがドドドってリングに向かっていったんだよ。そこから騒動がもっと大きくなっちゃったんだけどな」(永島勝司)

 試合は6分58秒でゴング。事前の取り決めどおりに「ノーコンテスト」で終わりましたが、試合後も小川のマイクパフォーマンスや乱闘が続き、リング上は収拾のつかない状態になりました。舞台裏では「誰がこのアクシデントを仕掛けたのか」という犯人探しが始まりました。
「試合が終わったあと、すぐに猪木に電話をしたけど、猪木は『俺はそこまでの指示は小川に出してない』と。『ガチに見えるプロレスをやれって言っただけだ』って言うんだよ。そのあと、小川にも電話して30分くらい話したんだけど、小川は『観てくれましたか? 僕は極めてませんよ。全部ちゃんと解いてます』と。たしかに、小川のスリーパーはプロレスの範疇だった。ガッチリ喉に入ってない。それを橋本が必要以上に怯えちゃったんだよな。だから『ちゃんと観てたよ。お前はなにもやってねえよ』って言ったの。小川は『わかっていただければ』って電話を切った。
 あの試合はパンチや蹴りもいいのが入ってたけど、プロレスの世界では1発、2発くらい入っちゃうのはかまわないのよ。でも、3発目が来たらこれは故意と思われても仕方がない。これは一応マナーというか、暗黙のルールであるわけね。あの時の小川もそこまではやってない。1発目が来た時に橋本が『あれ?』と思ってしまったことが問題なんだな」(永島勝司)

 この永島勝司のコメントにすべては言い尽くされていると思います。あの試合はたしかに猪木の言う「ガチに見えるプロレス」であり、小川はそれを忠実に演じただけに過ぎません。つまり、小川はいい仕事をしたのに、橋本が一方的にビビったのです。ここまで橋本が怯えた原因のひとつに、小川が新日本の新たなエースに抜擢され、自分がその踏み台になってしまうという「恐怖」があったのかもしれません。それともうひとつ、橋本のコンディションの悪さが挙げられます。橋本とともに「闘魂三銃士」の1人だった武藤は、「あの時は橋本のコンディションが絶対的に悪すぎたんだよ。観ててそのインパクトがあったもん。あんなに太ってるから、ちょっとでも練習を怠ったら体が重いと思うよ。たぶん、あの時はレスラー人生でもいちばん重いぐらいだよね。普段のコンディションを維持した橋本だったらああはいかないっていう気はしますよ。意外と瞬発力はあるし、力もあったし」と述べています。橋本のベスト体重は120キロぐらいでしたが、当時は140キロ以上あったと言われています。練習を怠ったのは、前田の言うように「調子に乗ってた」のかもしれませんね。

 それにしても、20年も前の試合が今でも語られ続け、こんな340ページもの書籍になるとは驚きです。そんな試合、力道山vs木村政彦、アントニオ猪木vsモハメド・アリ、髙田延彦vsヒクソン・グレイシーぐらいしかないのではないでしょうか。1・4事変とは、プロレスと格闘技が最も交差した時代の「まぼろし」だったように思います。最後に、今は亡き橋本真也選手の御冥福をお祈りいたします。合掌。

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