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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』

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No.1648


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』山口周著(光文社新書)を読みました。「経営における『アート』と『サイエンス』」というサブタイトルがついています。著者は1970年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て、組織開発・人材育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループに参画。現在、同社のシニア・クライアント・パートナー。専門はイノベーション、組織開発、人材/リーダーシップ育成。 

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本書の帯

 本書の帯には「続々重版!」「ビジネス書大賞2018準大賞!」と書かれています。また帯の裏には、著者の写真とともに、「論理的思考・MBAでは戦えない......」「『直感』と『感性』の時代」「組織開発・リーダー育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループのパートナーによる、複雑化・不安定化したビジネス社会で勝つための画期的論考」と書かれています。

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本書の帯の裏

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば『サイエンス重視の意思決定』では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない――『直感』と『感性』の時代――組織開発・リーダー育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループのパートナーによる、複雑化・不安定化したビジネス社会で勝つための画期的論考!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
忙しい読者のために
本書における「経営の美意識」の適用範囲

第1章 論理的・理性的な情報処理スキルの限界

第2章 巨大な「自己実現欲求市場」の登場

第3章 システムの変化が早すぎる世界

第4章 脳科学と美意識

第5章 受験エリートと美意識

第6章 美のモノサシ

第7章 どう「美意識」を鍛えるか?

「おわりに」

「はじめに」では、「名門美術学校の意外な上顧客」として、修士号・博士号を授与できる世界で唯一の美術系大学院大学である英国のロイヤルカレッジオブアート(RCA)において、ここ数年、「グローバル企業の幹部トレーニング」のビジネスを拡大しつつあることが紹介されています。
 続いて「忙しい読者のために」には、書かれています。
「グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、虚仮威しの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的のために『美意識』を鍛えている。なぜなら、これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです」

 本書のキーワードはタイトルにもあるように「アート」と「サイエンス」ですが、著者は次のように述べます。
「本書のテーマは経営における『アート』と『サイエンス』の相克であり、サイエンスだけに依存した情報処理は経営の意思決定を凡百で貧弱なものにするというのが筆者の主張です。同様に、本書の主張をより豊かなものにするために、筆者は『アート』と『サイエンス』の両方、つまり思考における『論理』と『直感』の双方を用いており、であるが故に筆者が個人的に『直感的に正しい』と考えたものについては、必ずしも科学的根拠が明確ではない場合においても、それを『正しい』(と思う)とする前提で論を進めていることを、ここに断っておきます」

 本書の執筆にあたって、著者は多くの企業や人にインタビューを行ったそうですが、共通して指摘された回答は「1.論理的・理性的な情報処理しきるの限界が露呈しつつある」「2.世界中の市場が『自己実現的消費』へと向かいつつある」「3.システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生している」の3つに集約されるといいます。この中の3について、著者は以下のように述べています。
「現在のように変化の早い世界においては、ルールの整備はシステムの変化に引きずられる形で、後追いでなされることになります。そのような世界において、クオリティの高い意思決定を継続的にするためには、明文化されたルールや法律だけを拠り所にするのではなく、内在的に『真・善・美』を判断するための『美意識』が求められることになります」

「本書における『経営の美意識』の適用範囲」では、さまざまな企業活動の側面における「良い」「悪い」を判断するための認識基準として「経営における美意識」という言葉を用いるとして、以下のような例をあげます。

◎従業員や取引先の心を掴み、ワクワクさせるような「ビジョンの美意識」

◎道徳や倫理に基づき、自分たちの行動を律するような「行動規範の美意識」

◎自社の強みや弱みに整合する、合理的で効果的な「経営戦略の美意識」

◎顧客を魅了するコミュニケーションやプロダクト等の「表現の美意識」

 なぜ、そのような認識基準が必要なのか。著者は述べます。
「現在、企業活動の『良さ』は、様々な評価指標=KPIによって計量されています。典型的にはそれは、『資本回転率』であったり『生産性』であったりするわけですが、このような指標で計ることができるのは、当然のことながら企業活動の中でもごく一部の『計測可能な側面』に限定されることになります。しかし、企業活動というのは極めて多岐にわたる複雑な要素によって構成される全体的システムであり、従って経営の健全性は、必ずしもこのような『計測可能な指標』だけによって計れるわけではありませんし、そもそも、計られるべきではないでしょう」

 続けて、著者はこうも述べています。
「しかし、残念ながら現在の日本企業の多くは、経営に関わる人たちの美意識がほとんど問われず、計測可能な指標だけをひたすら伸ばしていく一種のゲームのような状態に陥っていて、それが続発するコンプライアンス違反の元凶になっています。このような状況は、とりもなおさず筆者が長年勤めているコンサルティング産業がマッチポンプのように焚きつけたことで招いた状況という側面もあり、忸怩たる思いがあります」

 著者は、本書における「美意識」とは、経営における「真・善・美」を判断するための認識のモードであると定義し、さらに以下のように述べます。
「『真・善・美』の判断における理性と感性の問題について、人生をかけて徹底的に考察したのが18世紀後半に活躍したドイツの哲学者でした。カントは『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という3つの主著を残していますが、これら3つの著書は、それぞれが『真・善・美』の判断について考察したものだと考えてもらって構いません。どれも極めて難解な本なのですが、全体を通じてカントが指摘しているのは、認識のモードを『理性』だけに依存するのは危険であり、正しい認識や判断には『快・不快』といった感性の活用が不可欠だということです」

 本書の中でも、わたしが最も共感したのが「会社を『作品』と考えてみる」という提言でした。
 著者は、以下のように述べています。
「問題になってくるのは、ビジネスに代表される社会的行為と表現行為の関連です。多くの人たちは、音楽や絵画等の創作という表現行為と、自分たちが日々関わっている社会的行為を、全く関連のないものとして捉えているでしょう。しかし私は、今後の社会をより良いものにしていくためには、ごく日常的な日々の営みに対しても『作品を作っている』という構えで接することが必要なのではないかと思っています」

 拙著『龍馬とカエサル』(三五館)にも書きましたが、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助は、「経営者というものは広い意味で芸術家であり、経営そのものが一種の芸術である」と述べました。画家が一枚の白紙に絵を描き、平面的に価値を創造するごとく、経営者は立体というか、四方八方に広がる広い芸術をめざしている。だから経営とは、総合的な生きた芸術であるというのです。価値の創造とは、美の表現ととらえることもできます。経営者はつねにそういう視点からマネジメントを考えなければなりません。わたしも、サンレーという会社を「作品」として考えてみたいと思います。

「『論理』と『理性』では勝てない時代に」として、著者は以下のように述べています。
「私たち日本人の多くは、ビジネスにおける知的生産や意思決定において、『論理的』であり『理性的』であることを、『直感的』であり『感性的』であることよりも高く評価する傾向があります。この『論理的で理性的であることを高く評価する傾向』は、決してそれが『巧みである』ことを意味せず、むしろ私たち日本人が、権力者が作り出す空気に流されてなんとなく意思決定してしまう傾向が強いことへの反動で、一種の虚勢なのです」

 また、「『直感』はいいが『非論理的』はダメ」として、著者は以下のように述べています。
「結果的に大きな業績の向上につながった『優れた意思決定』の多くが、直感や感性によって主導されていたという事実によって私が伝えようとしているのは、決して『論理や理性をないがしろにしていい』ということではなく、『論理や理性を最大限に用いても、はっきりしない問題については、意思決定のモードを使い分ける必要がある』ということです。
「経営の意思決定においては『論理』も『直感』も、高い次元で活用すべきモードであり、両者のうちの一方が、片方に対して劣後するという考え方は危険だという認識の上で、現在の企業運営は、その軸足が『論理』に偏りすぎているというのが、筆者の問題提起だと考えてもらえればと思います」

「哲学を鍛えられていた欧州エリート」として、著者は「論理的にシロクロのはっきりつかない問題について答えを出さなければならないとき、最終的に頼れるのは個人の『美意識』しかない」と指摘し、「だからこそグローバル企業の幹部候補生は『アート』や『哲学』を学んでいるわけですが、このようなアイデアは別に目新しいものではありません」と述べます。論理的に考えてもはっきりシロクロがつかない問題の代表と言えば、これは典型的に内政と外交ということになります。これら2つを担うことを期待されるエリートの育成にあたっては、欧州のエリート養成校では、特に「哲学」に代表される「美意識の育成」が重んじられてきたという経緯があると、著者は述べます。

 例えば、英国の政治エリートを数多く輩出してきたオックスフォードでは、長らく文系・理系を問わずに歴史と哲学が必修科目とされてきました。現在でも、エリート政治家を多く輩出している同校の看板学部は「PPE=哲学・政治・経済学科」だといいます。
 なぜ、哲学が必要なのか。エリートには大きな権力が与えられます。哲学を学ぶ機会を与えずにエリートを育成することはできない、それは「危険である」というのが特に欧州における考え方なのだといいます。

 著者は経営学者ヘンリー・ミンツバーグの考えを取り上げ、「ミンツバーグによるMBA教育批判」として、「ミンツバーグの指摘は、全般に『MBA教育は害悪を社会に及ぼしているので止めろ』という趣旨で、本書のメッセージとはかなり方向が異なるのですが、『経営における論理と直感、理性と感性』の問題を考えるにあたって、非常にわかりやすい論考を展開しているのでここに紹介しておきたいと思います」と述べています。

 まず、ミンツバーグによれば、経営というものは「アート」と「サイエンス」と「クラフト」の混ざり合ったものになるとして、著者は述べます。
「『アート』は、組織の創造性を後押しし、社会の展望を直感し、ステークホルダーをワクワクさせるようなビジョンを生み出します。『サイエンス』は、体系的な分析や評価を通じて、『アート』が生み出した予想やビジョンに、現実的な裏付けを与えます。そして『クラフト』は、地に足のついた経験や知識を元に、『アート』が生み出したビジョンを現実化するための実行力を生み出していきます」

 これを推論における2つのアプローチ、つまり「帰納」と「演繹」で考えてみれば、個別の現象から抽象概念へと昇華させる「帰納」は「アート」に、抽象概念を積み重ねて個別の状況へと適用する「演繹」は「サイエンス」が担うことになり、両者を繋ぎながら、現実的な検証をするのが「クラフト」ということになります。つまり、これらのうちどれか「1つ」だけが突出していても全然ダメだということになります。

「アカウンタビリティ」という言葉があります。
「なぜそのようにしたのか?」という理由を、後でちゃんと説明でいるということです。アカウンタビリティは絶対善のように思われている節がありますが、著者はリーダーシップの放棄というネガティブな問題を孕んでいると指摘し、グーグルのCEOを長いこと務めたエリック・シュミットが、グーグルの経営について、「どんな経営手法が役に立つのか、よくわからない。わかっているのは、これまでの経営セオリーはこの世界では役に立たないということだけだ」と述べたことに言及し、「彼らはいわば武道における『守・破・離』の『破』や『離』を、経営として実践しているわけです」と述べています。

 続けて、著者は以下のように述べます。
「考えてみれば、もしセオリー通りに論理的かつ理性的に経営するのであれば、経営者やリーダーの仕事というのはいったいなんなのでしょうか?
もし経営における意思決定が徹頭徹尾、論理的かつ理性的に行われるべきなのであれば、それこそ経営コンセプトとビジネスケースを大量に記憶した人工知能にやらせればいい。きっと冷徹に合理的な解答を導き出してくれるでしょうが、そこには人間の美意識や直感が介在する余地はありません。しかし、そのような乾いた計算のもとになされる経営から、人をワクワクさせるようなビジョンや、人の創造性を大きく開花させるようなイノベーションが生まれるとは思えません」

「アートが主導し、サイエンスとクラフトが脇を固める」として、著者は以下のように述べています。
「『アート』と『サイエンス』には『アカウンタビリティの格差』が生じますから、両者を同じ土俵で戦わせれば、必ず『アート』が敗れ、『サイエンス』が勝つことになります。そしてまさに、いまの日本企業の多くで起きているのはこの状況です。この問題を解決する方法は1つしかありません。トップに『アート』を据え、左右の両翼を『サイエンス』と『クラフト』で固めて、パワーバランスを均衡させるということです。
よく企業の経営をPDCAサイクルと言いますが、言い換えればPlanをアート型人材が描き、Doをクラフト型人材が行い、Checkをサイエンス型人材が行うというのが、1つのモデルになると思います」

 このような経営モデルについて、著者は述べます。
「強い企業、類い稀な革新を成し遂げた企業の多くが、このようなガバナンスの構造を持っていたことを、私たちは知っています。次々と革新的なビジョンを打ち出す弟のウォルトと、元銀行員というキャリアを活かして財務面・リーガル面で支え続けた兄のロイという2人によって創業されたウォルト・ディズニー社はその典型例と言えますし、我が国に目を転じても、例えばホンダの創業期を支えた本田宗一郎と藤沢武夫の組み合わせも同様でしょう」

 続けて、著者はこう述べています。
「あるいは80年代のアップルの急成長を支えたスティーブ・ジョブズとジョン・スカリーの組み合わせも、アートで引っ張るトップと、サイエンスとクラフトを支える側近の構造と理解することができます。近年では、成長期のソフトバンクを牽引した孫正義氏と野村證券出身の北尾吉孝氏の組み合わせもまた、そのような事例の1つとして挙げてみてもいいかもしれません。どのケースでも共通しているのは、強烈なビジョンを掲げてアートで組織を牽引するトップを、サイエンスやクラフトの面で強みを持つ側近たちが支えてきたという構造です」

「経理トップがアートの担い手」として、著者は以下のような興味深い発言を行っています。
「20世紀の歴史において最も強力なリーダーシップを発揮した2人の政治家、すなわちウィンストン・チャーチルとアドルフ・ヒトラーがともに本格的な絵描きであったことは偶然ではありません。絵を描くことはリーダーに求められる様々な認識能力を高めることがわかっており、実際に自ら芸術的な趣味を実践しているという人ほど、知的パフォーマンスが高いという統計結果もあるのですが、この点は後ほどあらためて触れるとして、ここでは経営における『アートの担い手』を、どのようにして育成・配置するかという問題について、考察してみましょう」

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わが小学生時代の油絵を前に

 じつは、わたしも経営者の端くれですが、子どもの頃から絵を描くことが大好きで、将来は画家になりたいと思っていました。一条真也の新ハートフル・ブログ「小学生時代の油絵」で紹介したように、わたしは小学生の頃、日本を代表する洋画家の先生から油絵を習っていたのです。たとえば「茶器」という作品がありますが、われながら、これがなかなかの出来ばえであります。シンプルな茶器の中に「わび」「さび」を感じますが、何よりも茶器とは「かたち」そのものです。水や茶は形がなく不安定です。それを容れるものが器です。水と茶は「こころ」です。「こころ」も形がなくて不安定です。ですから、「かたち」に容れる必要があるのです。

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小学生時代に描いた「茶器」

 その「かたち」には別名があります。「儀式」です。茶道とはまさに儀式文化であり、「かたち」の文化です。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そんなことを小学生の頃から考えていたとしたら大したものです。少年時代の自分に「おまえ、えらいな!」と言いたくなりました。(笑)
 また、ゴヤの影響を受けていたと思われる先生の指導で、欲にかられた人間が黄金に手を伸ばそうとすると腕が白骨に変わるという「欲望」という絵も描きました。こんな絵を小学生で描くなんて、わたしは昔から拝金主義を否定していたのですね。

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小学生時代に描いた「欲望」

「茶器」といえば、著者は千利休を取り上げます。
「千利休は最初のチーフクリエイティブオフィサー」として、「侘び茶」の完成者である千利休と織田信長や豊臣秀吉といった権力者の関係について、以下のように述べています。
「説明するまでもなく、千利休は戦国末期に活躍した茶人ですが、利休と信長や秀吉といった権力者と技術を持った職人との三者関係は、極めて今日的な組織における美意識の扱い方のベンチマークになるものだと思います。私は、千利休を、世界最初のクリエイティブディレクターだと考えています。というのも、千利休という人は、歴史上はじめての『ディレクションはするけど、クラフトはしない人』だったからです」

 また、「経営者はなぜデザイナーに相談するのか?」として、著者は以下のように述べています。
「経営者に外部からのアドバイスする仕事と聞けば、一般的には経営コンサルタントをまず想起する人が多いと思います。しかし今日、多くの企業経営者は、コンサルタントではなく、デザイナーやクリエイターを相談相手に起用しています。デザインと経営というと、その接点はロゴマークやプロダクトデザインといった領域にしかないように思われるかもしれません。しかし、私は『デザイン』と『経営』には、本質的な共通点があると思っています」

 この本質的な共通点があるために、デザインやクリエイティブの世界で一流の仕事をしている人が、経営者に対して付加価値の高いアドバイスができるというのです。
 では、両者に共通する「本質」とは何か?
 一言で言えば「エッセンスをすくいとって、後は切り捨てる」ということだと指摘した上で、著者は「そのエッセンスを視覚的に表現すればデザインになり、そのエッセンスを文章で表現すればコピーになり、そのエッセンスを経営の文脈で表現すればビジョンや戦略ということになります」と述べます。

 さらに、「サイエンス型が強くなるとコンプライアンス違反のリスクが高まる」として、著者はこう述べます。
「そもそも、経営陣の最も重要な仕事は、経営というゲームの戦略を考える、あるいはゲームのルールを変えるということです。このように難易度の高い営みにおいては『アート、サイエンス、クラフト』の最高度のバランスが求められることになります。一方で、これらのコンプライアンス違反を犯した企業は、事業構造が大きく変わっているにもかかわらず、かつての成功モデルに拘泥したままで新しい戦略やビジョンを生み出せていない、という点で共通しています」

 そして、著者は以下のように述べるのでした。
「サイエンスだけに立脚していたのでは、事業構造の転換や新しい経営ビジョンの打ち出しはできません。こういった不確実性の高い意思決定においては、どこかで『論理的な確度』という問題については割り切った上で、『そもそも何をしたいのか?』『この世界をどのように変えたいのか?』というミッションやパッションに基づいて意思決定することが必要になり、そのためには経営者の『直感』や『感性』、言いかえれば『美意識』に基づいた大きな意思決定が必要になります」

「ビジョンと美意識」として、「理性」ではなく「感性」が重要になってくると指摘し、著者は述べます。
「どんなに戦略的に合理的なものがあっても、それを耳にした人をワクワクさせ、自分もぜひ参加したいと思わせるような『真・善・美』がなければ、それはビジョンとは言えません。
 よく『海外売上高比率を☓☓%に』とか『アジアで売上トップに』といった内容の文言を『ビジョン』として掲げている会社がありますが、こんなものはビジョンではなく、単なる『目標』であり、さらに言えば『命令』でしかない。そこには人を共感させるような『真・善・美』が全く含まれていません。その言葉を発した人が、会社組織をどのように導きたいのか、ひいては社会や世界にどういうインパクトを出したいのか、全く伝わってこないのです」

 このくだりを読んで、わたしは「志」という言葉を連想しました。拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)をはじめとする一連の著書で、わたしは「志」の重要性を説き続けました。結局、リーダーにとって最も大切なものは「志」であると思います。志とは心がめざす方向、つまり心のベクトルです。行き先のわからない船や飛行機には誰も乗らないように、心の行き先が定まっていないような者には、誰も共感しませんし、ましてや絶対について行こうとはしません。

 最近の経営書などを読むと、志の重要性について言及しているものが多くなってきたように思います。志の条件についてもさまざまな示唆があります。例えば、「長期の視野に立つこと」であるとか、「社会に貢献すること」であるとか、「幼少の頃の夢を思い起こすこと」であるとか、「内部からの願い」であるとかです。どれも完全な間違いではありませんが、いずれも志の核心はついていないと思います。また、「夢」と「志」を混同しているものが多いのが気になります。

 わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値するのであると強調したいです。松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。

 企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた夢にすぎません。そこに公的利益はありません。社員の給料を上げたいとか、待遇を良くしたいというのは、一見、志のようではありますが、やはり身内の幸福を願う夢であると言えるでしょう。本当の志は、あくまで世のため人のために立てるものなのです。そして、本当の志の中には「真・善・美」が込められていると言えるでしょう。

 さて、著者は「サイエンス偏重は一種の過剰反応」として、以下のように述べています。
「現在、多くの日本企業が、巧拙はともかく、プロセスとしては『論理』×『理性』を重視して、なるべく合理的な意思決定をやろうともがいているのは、かつての日本軍のような意思決定のあり方、つまり『その場の空気』に流されてなんとなく決めてしまう、というような事態を、決して招くことのないようにという、一種の過剰反応なのだと考えることもできます」

 第3章「システムの変化が早すぎる世界」では、著者は「システムの変化があまりに早く、明文化されたルールの整備がシステムの進化に追いつかない世界においては、自然法的な考え方が重要になってきます。つまり内在化された『真・善・美』の基準に適っているかどうかを判断する力、つまり『美意識』ということになります」と述べています。

 第4章「脳科学と美意識」では、「マインドフルネスと美意識」として、著者は以下のように述べています。
「今日、多くの企業や教育機関において、マインドフルネスに関する取り組みが行われています。グーグルではマインドフルネスが最も人気の高い研修プログラムになっており、ウェイティングリストに数100人が並んでいると言われています。その他にもインテル、フェイスブック、リンクトイン、P&G、フォード、マッキンゼー、ゴールドマンサックスといった企業が、社員教育にマインドフルネスのプログラムを導入しています。また、こういった企業以外にも、ハーバード、スタンフォード、UCバークレーなどのビジネススクールにおいても、マインドフルネスのプログラムが導入されています」

「マインドフルネス」とは何か。
 本書では、以下のように説明されます。
「マサチューセッツ大学医学大学院のジョン・カバット・ジン博士による定義では『評価や判断をすることなく、意図的に、いまこの瞬間に、注意を払うことで、浮かんでくる意識』ということになっています。
 何やらよくわかったようなわからないような定義ですが、平たく言えば『過去や未来に意識を奪われることなく、いまの、ただあるがままの状態、例えば自分の身体にどんな反応が起きているか、どのような感情が湧き上がっているかなどの、この瞬間に自分の内部で起きていることに、深く注意を払うこと』ということになるかと思います」

第6章「美のモノサシ」では、グローバル企業が「美意識」の養成を重要視し始めている理由として、以下の3つが紹介されています。

1.論理的情報処理スキルの限界

2.自己実現欲求市場の登場

3.システムの変化にルールが追いつかない世界

 著者は、「主観的な内部のモノサシ」として、以下のように述べています。
「論理思考の普及による『正解のコモディティ化』や『差別化の消失』、あるいは『全地球規模の自己実現欲求市場の誕生』や『システムの変化にルールの整備が追いつかない社会』といった、現在の世界で進行しつつある大きな変化により、これまでの世界で有効に機能してきた『客観的な外部のモノサシ』が、むしろ経営のパフォーマンを阻害する要因になってきています。世界のエリートが必死になって美意識を高めるための取り組みを行っているのは、このような世界において『より高品質の意思決定』を行うために『主観的な内部のモノサシ』を持つためだということです」

 第7章「どう『美意識』を鍛えるか?」では、「哲学に親しむ」として、エリートの見識を養成するための教育施策として最も普遍的に行われているのが、哲学教育であることが指摘されます。17世紀以来、エリート養成を担ってきた欧州名門校の多くにおいて、理系・文系を問わずに哲学が必修となっていましたが、現在でも、経営幹部の教育研究機関として著名な米国のアスペン研究所では、哲学に関する講座が主要プログラムの1つとなっています。全世界から集まるグローバル企業の幹部が、風光明媚なアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキャヴェッリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいるのです。

 著者によれば、海外のエリート養成では、まず「哲学」が土台にあり、その上で功利的なテクニックを身につけさせるという側面が強いのに対して、日本では、土台となる部分の「哲学教育」がすっぽりと抜け落ちていて、ひたすらにMBAで習うような功利的テクニックを学ばせているといいます。
 慶應義塾の塾長として今上天皇の家庭教師も務めた小泉信三は、エリートが得てして「すぐに役に立つ知識」ばかりを追い求める傾向があることを指摘し、「すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる」と言って基礎教養の重要性を訴え続けましたが、著者も「哲学の学習についても同じことが言えます」と述べています。

「知的反逆」として、著者は「哲学」と「ロック」の共通性を指摘します。「要するに何を言っているのか」という梗概のみを整理した本を拾い読みしても、せいぜい身につけられるのは虚仮威しの教養でしかないと訴え、さらには以下のように述べます。
「なぜなら、真に重要なのは、その哲学者が生きた時代において支配的だった考え方について、その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度だからです。その時代に支配的だったモノの見方や考え方に対して、批判的に疑いの目を差し向ける。誤解を恐れずに言えば、これはつまりロックンロールだということです。『哲学』と『ロック』というと、何か真逆のモノとして対置されるイメージがありますが、『知的反逆』という点において、両者は地下で同じマグマを共有している」

 哲学とは何か。著者は述べます。
「過去の哲学の歴史を一言で表現すれば、それは『疑いの歴史』ということになります。それまで定説とされてきたアイデアやシステムに対して、『果たして本当にそうだろうか?』と考えてみる。全ての哲学は、このような『疑い』を起点としてスタートしています」
 そして、このような「疑いの態度」は、そのまま「システムを無批判に受け入れる」という、哲学者ハンナ・アーレントが著書『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』で示した「悪の定義」と対比されることになるといいます。

 哲学の次は、文学です。
「文学を読む」として、著者は述べています。
「自分にとっての『真・善・美』を考えるにあたって、最も有効なエクササイズになるのが『文学を読む』ことだと思います。地下鉄サリン事件の後、あれほど高学歴の人々がなぜかくも愚かで邪悪な営みに人生を捧げようとしたのか、という疑問を晴らすために、オウム真理教の幹部にインタビューを重ねた宮内勝典氏は、彼らがことごとく文学に親しんでいないことに気づいた、と著書の中で記しています」

 また、「偏差値は高いけど美意識は低い」という人に共通しているのが、「文学を読んでいない」という点であることは見過ごしてはいけない何かを示唆しているように思えるとして、著者は「古代ギリシアの時代以来、人間にとって、何が『真・善・美』なのか、ということを純粋に追求してきたのは、宗教および近世までの哲学でした。そして、文学というのは同じ問いを物語の体裁をとって考察してきたと考えることができます」と述べています。

 そして「詩を読む」として、著者はリーダーシップと「詩」には非常に強力な結節点があると指摘し、以下のように述べています
「それは何かというと、両者ともに『レトリック(修辞)が命である』という点です。レトリックというのは、平たく言えば『文章やスピーチなどに豊かな表現を与えるための一連の技法のこと』です。
 リーダーシップにおける『言葉』の重要性に、おそらく歴史上最初に注目したのが、古代ギリシア時代の哲学者、プラトンでした。プラトンは、彼の著書である『パイドロス』の中で、リーダーシップにおける『言葉の力』について、ここまでやるか、というほどに徹底した考察を展開しています」

 リーダーシップについて、著者は「レトリック能力と知的活動」として以下のように述べています。
「リーダーの仕事が人々を動機づけ、1つの方向に向けて束ねることであるとするならば、リーダーがやれる仕事というのは徹頭徹尾『コミュニケーション』でしかない、ということになります。となれば、少ない情報量で豊かなイメージを伝達するためのレトリックの根幹をなす『メタファーの技術』を学ぶのは、とても有効だということになり、『優れたメタファー』の宝庫である『詩』を学ぶことは、とても有効なリーダーシップのトレーニングになる、ということです」

 ここでも、拙著『孔子とドラッカー 新装版』に書いた内容を思い出しました。そこでは「志」と「詩」の深い関係について書きました。
 古来、中国でも日本でも詩歌とは志を詠むものとされました。戦国武将は言うに及ばず、新時代の建設に向けて青雲の志を抱いていた幕末の志士たちも、驚くほど多くの歌を残しています。病身の高杉晋作は幕府軍の象徴であった小倉城をついに陥落させた後で下関に戻り、一首詠もうと筆を取ったが何も浮かばず、「志を果たせば、すなわち詩というものは不要なのであろう」とつぶやいたといいます。ちなみに、わたしも「庸軒」の号でわが社の志を道歌に詠み続けています。

「おわりに」では、著者は以下のように書いています。
「膨大な地中海史の研究で知られる歴史学者のフェルナン・ブローデルは、歴史について『ある日、神様がやってきて、鐘をガランガラン鳴らしながら「今日から新しい時代が始まりますよ」というように転換するものではない』と語っています。なんとはなしに『このままでは何かがおかしい』と感じて行動をあらためる人が、少しずつ増えていくことで歴史というのは転換していくものなのです。そしていま、14世紀のイタリアで起きたような水面下での転換は、すでに起こりつつあると、私は考えています。それは『物質主義・経済至上主義による疎外が続いた暗黒の19~20世紀が終わり、新たな人間性=ヒューマニズム回復の時代が来た』と表現されるべき転換です」

 続けて、著者は以下のように述べるのでした。
「この兆しは現在、様々な領域に、様々な形態をとって噴出しつつあるのですが、その点について詳細を述べるのは本書の趣旨とは外れるのでここでは触れません。しかし、一点指摘するとすれば、その『兆し』の1つが、多くの組織や個人によって、取り組まれている『美意識の復権』に関する取り組みなのではないか、というのが私の結論です。そして、その最もわかりやすい兆しが、『システムから大きなメリットを得ているエリートが、システムそのものの改変を目指して、美意識を鍛えている』という現象なのです」

 本書を読み終え、わたしは「美意識」をキーワードに経営の本質を解き明かした名著であると思いました。そして、本書を読んでいるあいだ、ずっとある1冊の本のことを考えていました。わたしの父であるサンレーグループ会長の佐久間進が書いた『わが人生の「八美道」』(現代書林)という本です。父はブッダの「八正道」ならぬ「八美道」という言葉を提唱しています。父は、同書の「まえがき」に次のように書いています。
「八正道とは、みなさまもよくご存知のように、お釈迦様の言葉です。お釈迦様が、人間の生き方として『八』の正しい道を示されました。私は、自らの人生を振り返り、自分の人生をどう表現したらいいだろうか、と考えることがあります。果たしてお釈迦様が示された『八つの正しい道』を歩めただろうか? 精進努力を惜しんだつもりはありませんが、『八正道にはほど遠いなあ』と反省するばかりです。

 では、自分の人生で何を目指してきたのか。人として、男として、夫として、父として、経営者として、業界のリーダーとして、自分は何を追い求めてきたのか。
 美――『美しさだったかな』という思いに至りました。礼法を学び、おじぎを極め、会社を興し、すべてが『美』を追い求めてきた気がします。
『正しいか、正しくないか』――私にはわかりません。
『美しいか、美しくないか』――これはわかります。
『美』を唯一無二の基準にして、生きてきたような気が致します。自然の美しさに学び、心の美しさに涙し、無理のない美しい流れを大切にしながら生きてきました。ささやかではありますが、その行いのすべてが、今日ある私の姿です。良し悪しは他人様に評価して頂きたいと存じます。私は自分の生き方を『八美道』と名づけてみました。まだ発展途上の私です。自らの道、『八美道』を今しばらく追い求めていくつもりです」

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◇経営八美道

 一 ロマンとソロバン

 二 気づきと行動

 三 元気と勢い

 四 選択と集中

 五 施設とサービス

 六 売上げと原価

    (コスト管理)

 七 問題意識と問題解決

 八 最高満足と最適利益



 そして、わが社の創業者である父は『わが人生の「八美道」』の中で「経営八美道」というものを示しています。この内容が本書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の内容とあまりにも通じていることに、わたしは驚きを禁じ得ませんでした。わが社の経営における認識基準や意思決定は間違っていないことを再確認し、非常に心強く思いました。