No.1606 心霊・スピリチュアル 『幽霊とは何か』 ロジャー・クラーク著、桐谷知未訳(国書刊行会)

2018.09.29

 『幽霊とは何か』ロジャー・クラーク著、桐谷知未訳(国書刊行会)を読みました。
 サブタイトルは「五百年の歴史から探るその正体」です。著者はイギリスのワイト島生まれ。「インデペンデント」紙、「サイト&サウンド」誌などで活躍する映画評論家です。幼い頃から幽霊に魅せられ、イギリスの有名なゴーストハンター、アンドリュー・グリーンやピーター・アンダーウッドと文通しました。1980年代に14歳で心霊現象研究協会(SPR)の最年少会員となり、15歳でパン&フォンタナのホラーブックスシリーズから幽霊物語を出版。本書で、幽霊の歴史をまとめたいという長年の夢をかなえたとか。

 本書のカバー表紙にはゴシック小説を思わせる古い洋館の階段に人影が写っている「心霊写真」が使われています。1936年に撮影された有名なレイナム・ホールの「茶色の貴婦人」という写真です。帯には、「そこに誰かいるの?」「500年にわたって報告されてきた幽霊出没の物語―呪われた屋敷、取り憑いた幽霊、超常現象の体験者、霊媒師、ゴーストハンター。そして、幽霊に深く関わる宗教と社会的地位、メディアとテクノロジー。時代とともに変化していく幽霊の姿を真摯に追いかけた一冊」と書かれています

 本書には、イギリスの各紙から以下のような書評が寄せられています。

「とびきりおもしろく(そして不穏な気持ちにさせる)作品だ……ふつうは誰でも幽霊から逃げるのに、著者は幽霊を追い求める。その恐れ知らずの大胆さには、畏敬の念を覚えるほどだ」(英紙「ガーディアン」)
「幽霊目撃の科学的・社会的な面をたどる興味深い歴史……失われた魂のほの暗い世界を行く旅……不気味な味わいとともに語られる物語」(英紙「テレグラフ」)
「思わず引き込まれてしまう……超常現象を調査すれば、かなりの割合でまやかしを暴く必要が出てくる。クラークは、懐疑的になることを忘れていない。ゴーストハントの物語は、同時にいんちきと人々の錯覚が暴露されてきた歴史でもある。……しかし、クラークは、自分が追いかける主題に、少年時代のままの……豊富な知識に裏打ちされた情熱を保ち続けている」(英紙「インデペンデント」)

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

第1章   幽霊屋敷で育って
第2章   幽霊の分類法
第3章   目に見えるソファーーーゴーストハント小史
第4章   ヒントン・アンプナーの謎
第5章   テッドワースの鼓手
第6章   マコンの悪魔
第7章   エプワースの少女
第8章   ヴィール夫人の亡霊
第9章   幽霊物語の作法
第10章  ファニー嬢の新劇場
第11章   瀉血と脳の鏡
第12章   幽霊の下品さについて
第13章   わななくテーブルの秘密
第14章   上空の天使と深海の悪魔
第15章 レイナム・ホールの茶色の貴婦人
第16章 ボーリー牧師館の殺人
第17章 恐怖の王とテクノロジーの話
第18章 イギリスで最も呪われた屋敷
「謝辞」
「図版提供者」
「年表」
「訳者あとがき」
「参考文献」
「原註」

 本書の扉には、「幽霊をその目で見たわたしの母、アンジェラ・H・クラークに」という献辞が記されています。第2章「幽霊の分類法」で、著者は本書を書いた意図を以下のように述べています。

「長い年月が過ぎるあいだに、幽霊も変わってきた。だからこそ、彼らの自然史を語る必要があるのだと、わたしは思う。たとえば、『ギルガメシュ叙事詩』に登場するごく初期の幽霊は、その後起こるできごととはほとんど関係なかった。バビロンの死者は、人間と人間ではないものとのあいだを漂っているかのようだった。古代ギリシャの幽霊は、ぼんやりした影のような、翼を持つ哀れなもので、生者に力を及ぼすことはなかった。中世の幽霊は、生き返った死体、あるいは神聖な幻影だ。ジェームズ1世時代の幽霊は、人間のふりをした悪霊だった」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「王政復古後の幽霊は、不正を正したり、悪を罰したり、失われた文書や貴重品の情報を与えたりするために現れた。摂政時代の幽霊は、ゴシック風だった。ヴィクトリア朝時代には、幽霊は降霊会で質問され、幽霊を見るのは女性とされることがずっと増えた。ヴィクトリア朝時代後期には、超常現象が受け入れられ、幽霊はまだ理解されていない自然の法則の現れと見なされた。ポルターガイストが知られるようになったのは、1930年代だ」

 それなら、現代の幽霊はどんなふうに見られているのでしょうか? 悪霊としての幽霊という考えのいくぶんかは、アメリカ東海岸に住むジェームズ1世時代の人々の子孫によって、イギリスに逆輸入された。ジェームズ1世時代の人々は17世紀に、その考えを新世界に運んで行ったと、著者は指摘します。そして、1999年にマンチェスターの女性グループが発表した研究によれば、「幽霊が取り憑くというのは、自分たちの存在を知らせようとする死者の魂よりも、有害な存在――つまり悪意――に関係があるらしい」という見解を紹介した後で、著者は「幽霊はもはや、魂ではない。現代の幽霊は、感情に関わる分野なのだ」と述べるのでした。

 第3章「目に見えるソファーーーゴーストハント小史」では、有名な20世紀のイギリスのゴーストハンターであるハリー・プライスに言及し、彼とハリー・フーディー二との親交などが紹介されます。著者は述べます。

「伝統的なピューリタンの幽霊に対する方針は否定だった(ピューリタニズムは、神学上疑わしいローマカトリックの教義である煉獄を存在しないと考えた)が、グランヴィルは、幽霊こそが神の存在を証明する最良の方法であり、無神論者は間違っていると信じていた。幽霊は、神の全能を示す超自然のライトショーの控えめな一部にすぎないかもしれないが、それでも一部であることは確かだ。もし幽霊が煉獄から来たのでないなら、地獄から来たことになる。グランヴィルの本によれば、それでもかまわない。どちらにしても、幽霊は聖書に出てくるのだから。イギリス史のこの時代、急進主義への大きな恐怖があった。ロンドンのしゃれたコーヒーハウスでちゃかし屋や道楽者たちが聖職者をあざけっているのは、霊的なものを崇める人々の心が失われつつある徴候と考えられた。グランヴィルは、慎重に調べた筋の通る幽霊や超自然現象の証拠を示せば、霊的なものが失われる危機と戦うための備えになると信じていた」

 ハリー・プライスに続いて、著者はハンス・ホルツァーを紹介します。ホルツァーはオーストリア生まれの奇人で、1962年の著作『ゴーストハンター』をきっかけに作家としてのキャリアを築き、長年にわたってテレビショーの司会を務めました。1977年には、いくつもの本や映画の題材となった有名な「アミティヴィルの恐怖」を調べました。映画のタイトルは「悪魔の棲む家」です。著者は以下のように述べます。

「ホルツァーは幽霊を、”残存した感情の記憶”ととらえていた。オレンジの皮のように、どういうわけか心からはがれ落ちた生者の断片のようなものだ。そういう幽霊はたいてい、自分が死んだことを知らず、混乱している。”幽霊の本質は、精神病患者と似ていなくもない”とホルツァーは書いた。”自分の苦境をきちんと理解することができないのだ”。幽霊が脳に損傷を負った人のようにふるまうという考えは、こういう題材を扱った現代文学に繰り返し出てくるテーマだ」

 第9章「幽霊物語の作法」では、カトリックにおける幽霊のとらえ方が以下のように紹介されています。

「多くの作家が論じるところによると、ローマカトリックの伝統の深い流れは何百年ものあいだ、イギリス文化の表層のすぐ下にあった――国教と政治は、明らかにプロテスタントだったにもかかわらずだ。何世紀ものあいだ、英国国教会の要人たちは、とりわけ幽霊という話題について、労働者階級が基本的にカトリック的であり続けていることを嘆いていた」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「多くの人は、カトリックの司祭だけが幽霊を祓えると信じていた――厄介な霊魂を追い散らそうとするプロテスタントの努力はたいてい、なんらかの正式な儀式ではなく、長々と賛美歌を歌うことや、悪魔を追い払うことを必要とした。それは悪魔のしわざでなくてはならなかったからだ。現代の事例でも、それがルールらしい――『エクソシスト』の下敷きになった1940年代の物語では、ルター派の司祭が悪魔の制御に失敗し、カトリックの司祭を呼ぶしかなくなる。ハロウィーンに教会の鐘を鳴らすのはカトリックの名残で、プロテスタントが正統とされたあとも長年続けられ、統治者たちを激怒させた」

 第11章「瀉血と脳の鏡」では、幽霊の存在を信じることについて、以下のように述べられています。

「19世紀にかけていくぶん修正されたとはいえ、幽霊を見たり信じたりする人はよくて認識力が不足しているか、悪くすると臨床的に精神異常であるという基本的な偏見は、根強く残っていた。むしろそれに拍車をかけたのは、ヴィクトリア朝のイギリスに降霊会がもたらされる直前、幽霊を信じることを社会に浸透させた作家のひとりが、精神病の症状を見せていたことだった」

 第12章「幽霊の下品さについて」でも、以下のように述べられます。

「幽霊を信じるというのは、昔から下品なことで――病気と同じくらい下品とされた。そのふたつは昔から、外見上よく似ていた。幽霊をどう考えるか、どう感じ取るか――いや、感じ取ったものをどう処理するか――は、かつてはその人の生まれや職業、そして親の職業しだいで決まった。現在でも、ある程度まではそうだ。研究によると、1940年代以降、幽霊の存在を信じると告白することが、社会的に広く受け入れられるようになってきた。しかし、過去数百年の大半は、上流階級と下層階級だけが、幽霊を信じる傾向にあった。中流階級は昔から、幽霊という考えを嘆かわしく思ってきた。懐疑主義者を公言する人はたいてい、この社会層の出身だ。中流階級の懐疑主義者は、上流階級の人が幽霊を好むのはそれが退廃のしるしだからで、下層階級の人が好むのは彼らがろくに教育を受けていないからだと言う」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「社会学者ジェフリー・ゴーラーの1950年代の研究によると、貧困層と上位中流階級で、幽霊を信じている人が多かった。ところが、過去60年のマルチメディア時代で、事態は変わった。幽霊は民主化され、無階級になった。とはいえ、昔の社会的地位による区分は、現在でも興味深い。ゴーラーによれば、幽霊に最も懐疑的な人たちは、裕福な労働者階級の男性だった。なんと言っても、急進派の社会主義者のあいだでは、若いころの迷信を笑い飛ばすのがふつうだった。”おれがどれほど遠くまで来たか見てくれ!”とでも言いたげに……。ただし、初期の社会主義、フェビアン主義と、ヴィクトリア朝時代の降霊会とスピリチュアリスト教会の世界には、はっきりしたつながりがあった」

 第13章「わななくテーブルの秘密」では、アメリカからイギリスに紹介され、大流行した降霊会について、「何世紀もの間の慣例では、死者に話しかけてはならず、彼らを恐れて家から追い払うことがどうしても必要だった。彼らは侵入者なのだ。ローマカトリックは正式な悪魔祓いと清めの儀式を行ったが、プロテスタントの教会でさえ、幽霊を追い払う方法を考案した。たとえばそれが、何日間も詩編を朗読し続けることだったとしても……」と書かれています。

 拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の第16章「交霊論」で紹介したように、スピリチュアリズムは1848年にアメリカで起こった奇怪な事件を発端にしています。ニューヨーク郊外ハイズビルに住むフォックス家の2人の姉妹、マーガレットとケティの部屋で、夜になると木を叩くようなパキッという音(ラップ音)と家具がガタガタと動き出すという現象が起き始めたのです。2人は、ラップ音を通して、引っ越してきたばかりの彼女たちの家でかつて殺された人物の霊と交信できると主張しました。このいわゆる「ハイズビル事件」がきっかけとなり、アメリカからヨーロッパ各地へとまたたく間にスピリチュアリズムのブームが広がり、大流行となったのです。多くの霊媒が次々に輩出し、交霊会が各地で盛んに行なわれ、『シャーロック・ホームズ』の著者コナン・ドイルをはじめとする著名な知識人や科学者たちが参加しました。

 フォックス姉妹は、偉大な興行師P・T・バーナムにスカウトされ、活気あるニューヨークの会場、”バーナムのアメリカ博物館”で占い師として出演することになりました。P・T・バーナムとは、一条真也の映画館「グレイテスト・ショーマン」で紹介した映画の主人公です。当時のフォックス姉妹について、著者は以下のように書いています。「ふたりはきちんとした白い襟付きの黒っぽいドレスを身に着けて座り、1回に1ドルを請求した。『モヒカン族の最後』の著者ジェームズ・フェニモア・クーパーが姉妹を訪ねて来て、亡くなった姉に関する質問の答えにひどくうろたえた」

 さらに、著者は以下のように書いています。

「ほどなく、フォックス姉妹は、制御した状況下で”能力”を試したいと考えた委員会に調査されることになった。女性たちが、コツコツ音を出すための道具がないかどうか、姉妹の下着を確かめた。ややベンジャミン・フランクリン風の間違った言葉遣いが、敵意を持つ懐疑主義者のグループに露骨にからかわれた。こういう事例では初めてではないが、姉妹は関節を鳴らして幽霊の音を立てているらしいといわれた」

 イギリスで心霊研究会(SPR)が、次いでアメリカで心霊研究協会(ASPR)が設立され、一連の研究から「ポルターガイスト」「エクトプラズム」「テレパシー」「サイコメトリー」「テレキネシス」といった用語が生まれました。世間の偏見の目と戦いながら、科学者たちは真剣に科学の力で心霊現象を解明しようとした。しかし、現実は厳しく、95%は信頼のおけないデータであった。それでも、残りの5%の真実を求めて地味な実験を続ける科学者たちの姿勢には感動さえ覚えます。科学者たちの実験が地味な一方、ダニエル・ダングラス・ヒューム、ヘレナ・ペトロ・ブラヴァッキー、フローレンス・クック、レオノーラ.エヴェリーナ・パイパー、エウサピア.パラディーノといった著名な霊媒たちのパフォーマンスは派手でした。彼らが開いた降霊会では、椅子が勝手に動き、ラッパがひとりでに鳴り、死者が出現しました。

 この中でも、ヒュームは最後までインチキやトリックが見つからなかったといいます。心霊現象ではなかった場合の唯一の可能性が集団催眠というのであるから、その凄さは想像以上と言えます。著者は、ヒュームについて以下のように述べています。

「変幻きわまりない幽霊ショーで、ヒュームの右に出る者は誰もいなかった。もちろん、トントン、コツコツという音があっただけでなく、降霊会用の部屋に霊的な光が漂い、肉体のない奇妙な手が出席者と握手したり、椅子を動かしたり、霊的な音楽を奏でたりもした。ヒュームは物質化(訳註:霊魂を具体的な形として出現させること)が起こるあいだ、出席者に自分の手や足を握るよう促した。自分の体をドラマの一部として使い、引き延ばしたり縮めたりしてみせることもあった。1852年8月には、最も有名な出し物を演じた――肉体浮遊だ。ジャーナリストのE・L・バーは、ヒュームの正体を暴くために送り込まれたが、困惑して立ち去ることになった」

 当時の降霊会の様子について、著者は以下のように述べます。

「ヴィクトリア朝時代の降霊会の出席者たちは一般に、互いに知り合いで定期的に顔を合わせる同好の士だった。たいてい、まじめな降霊会は、お祈りか、『天使たちと手をたずさえて』やロングフェローの『天使の足音』などの陽気で現代的な賛美歌で始まった。次に、出席者は手をつないで円をつくった。なんらかの超常現象が起こった最初のしるしは、テーブルの上を冷たい風が吹き抜けるとか、出席者の腕や肩が自動的にぴくりと動くとかいうものだった。ある描写によると、テーブルが”脈打って”見えることもあった。動き始めることもあった。この時点で、気むずかしい者たちは、霊媒師がごく軽くしかテーブルに触れていないことを確かめ、霊の活動を助けてはいないかどうかを調べた。心霊主義者たちがそれをテーブルの”わななき”と呼んだのも不思議はない。歓喜の瞬間に見えたのだ」

 19世紀イギリスの有名な霊媒にフローレンス・クックがいます。「ケイティー・キング」という幽霊を完全に物質化したとして大変な話題になり、ノーベル賞科学者であるウィリアム・クルックスによる調査を受けました。このクックにはパトロンがいたとして、著者は次のように述べます。

「裕福なマンチェスターの実業家チャールズ・ブラックバーンは、幽霊とひそひそ話をするこの”ロリータ”にすっかり魅了されて、不労所得を差し出した。おかげでクックは、リッチモンドロード近くの学校での教職を辞めることができた。ブラックバーンは、クックの妹ケイトを遺言で裕福にした。この行動によって、クックは”私的霊媒師”となった。本人にとっては理想的な地位だった。無理もないが、ヴィクトリア朝時代の多くの上品な人々は、公的な霊媒師を売春婦も同然の、ひどく道徳観の低い女として見下していた。けれども霊媒師が裕福な男に保護されている場合は、意見をはっきり口にしにくくなった。それでもやはり、この関係には、クックがブラックバーンに雇われ、所有物に近いものになったという側面がある」

 このへんの事実はわたしも知らなかったので、非常に興味深かったです。続けて、著者は以下のようにも述べています。

「ブラックバーンは、クックがいつどこでどんなふうに降霊会を催すかを完全に管理しようとした。パークフィールドの田舎屋敷にいるあいだは、この義務を友人のJ・C・ラクスモアにゆだねた。しかしラクスモアはすぐに、この管理を別の男に任せた。その人物の名は、ウィリアム・クルックスだ。クルックスによるクックの超常現象の調査は、性的な執着になっていった。その後何年も、似たようなことが繰り返されていく。ジョージ・キューカーはその関係についての映画を撮ろうかと考えたが、代わりに、かなり似たテーマの『マイ・フェア・レディ』(1964)をつくった」

 さらに、著者はクックについて以下のように述べています。

「クックは、クルックスの家の管理された条件下で半年間の降霊会を始めた。ときにはまるまる1週間そこにいることもあった。外の側線を、ユーストン駅に向かう列車がガタガタと通り過ぎていった。ある降霊会は、新しい友人で霊媒師仲間でもある、もうひとりのきれいで軽薄な10代の少女、メアリー・シャワーズとともに行なわれた。クルックスは、人間であれ幽霊であれ、触れれば温かい肌をしているこういう少女たちをひとり占めした。少女たちは、まるで女学生のように腕を組んで踊り跳ねていた。クックはのちに、自分たちの情事を率直に認めた」

 そして、著者は以下のように述べるのでした。

「この家で、クルックスは、ガリーとともにいる霊としてのケイティー・キングを写真に撮った。44枚の写真のうち、4枚を除くすべては、のちにガリーの科学界での評判を守ることに熱心な遺言執行者たちによって処分された。多くのヴィクトリア朝時代の紳士の図書室から、性愛文学が抜き取られるのと同じように……。クルックスは1890年代にナイト爵に叙せられ、1910年にはメリット勲位を授けられた。死後、SPRが当時の会長レイリー卿の名のもと、クルックスの超常現象研究をたたえる演説を行なったが、そこでさえフローレンス・クックの名前はあえて出されなかった」

 それにしても、ヴィクトリア朝時代のイギリスには、なぜ、あれほどたくさんの女性霊媒師がいたのでしょうか。その理由については、さまざまな文章が書かれていますが、著者は以下のようにまとめています。

「それは、多くの女性が、これまでになかった形で家庭から公の場へ出ていったことをはっきり示した。もっと重大な形では、女性の参政権や平等権の推進力とも結びついていた。霊媒師たちはしばしばかなり反体制的な態度を取り、いくつかの降霊会団体ははっきり反キリストと反宗教を掲げていた。同時に、アメリカから入ってきたのは、女性の秘儀司祭という考えかただった。ジョアンナ・サウスコットなどによってイギリスで生まれた考えだが、根づいたのは新世界だった」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「初期のクエーカーは超自然現象に相反する見解を示していた。18世紀のクエーカーの分派であるシェーカー派(最近では上品な家具でよく知られる)は基本的に母権制で、アン・リーと呼ばれる女性によって創始された。両性具有の神という思想は、スウェーデンボリ派や空想的社会主義の教義からも現れた。シェーカーの信仰は間違いなく、初期の社会主義者デヴィッド・リッチモンドに影響を与えた。リッチモンドは1850年代のイギリスの労働者階級に、心霊主義をもたらしたといえる」

 著者は有名な手品師であり、インチキ霊媒師の正体を暴く「サイキック・ハンター」としても活躍したハリー・フーディー二についても言及し、「フーディーニ自身も、じかに目撃しているときでさえ、ペテンらしきものを見破るのに苦労することがあった。ヒュームは仕事――奉仕と呼んでもいいが――を続けるあいだ、降霊会で一度もお金を取らなかったといわれている。なんの結果も出せないこともよくあった」と述べます。また、イギリスにおける降霊会について、著者は以下のように述べます。

「ふたつの世界戦争の合間に、降霊会のリバイバルがあった。けれど、その期間の降霊会は、妖しい魅力や興味をそそるできごと、何よりヴィクトリア朝時代には見られた性的なスリルに欠けていた。これまでに催されたなかで最も印象的な降霊会は、1930年10月、アイルランド人霊媒師のアイリーン・ギャレットが、ハリー・プライスの前で行なったものだ。アーサー・コナン・ドイルを呼び出すために計画されたのだが、現れたのは空軍大尉H・カーマイケル・アーウィンだった」

 有名な降霊会の最終回は、1944年1月19日、スコットランド出身の霊媒師ヘレン・ダンカンの主催で行なわれました。そのときの様子を、著者は以下のように書いています。

「ポーツマスで会を催していたところへ、警察が踏み込んできた。ダンカンは1735年の魔法行為禁止法のもとで起訴され、7日間の裁判にかけられた。首相ウィンストン・チャーチルは、道徳的な誠実さに欠ける裁判と、戦時の貴重な資源の浪費に激怒した。こうして、”地獄のネル”と呼ばれたダンカンは最後の魔女となり、ほぼ最後の物質化霊媒師となった。今日、ほとんどの人が思い浮かべる霊媒師の姿、女優のマーガレット・ラザフォードが演じてみせた姿は、ダンカンのイメージだ。ヴィクトリア朝ロンドンの、軽薄な10代の妖精たちではなく」

 第15章「レイナム・ホールの茶色の貴婦人」では、本書のカバーにも使われた有名な心霊写真についての考察がなされ、著者は以下のように述べています。

「心霊写真の歴史は、美しい間違いに始まり、ほとんど産業レベルの詐欺に終わる。初期の写真は、臭化銀ゼラチンをガラス板に塗る必要があった。このガラス板は再利用できたので、きちんとふき取らないと、前回の写真が染み出て、幽霊の姿が映ることが多かった。最初期の心霊写真は、今では残っていない。サー・アーサー・コナン・ドイルは『心霊主義の歴史』のなかで、史上初の心霊写真が撮影されたのは1851年としている。ロシアの心霊主義者アレクサンダー・アクサーコフは、1850年代半ばごろとしている」このあたりの事情は、ブログ『アンチ・スぺクタクル』で紹介した本の第5章「幽霊のイメージと近代的顕現現象――心霊写真、マジック劇場、トリック映画、そして写真における無気味なもの」でトム・ガニングによる説明が詳しいです。

 第17章「恐怖の王とテクノロジーの話」では、意外にも電波が取り上げられ、著者は以下のように述べています。

「初めて電波に接した人がどれほどの不安を感じたか、今では想像しづらいが、それは本当に、ひどく不安な気分にさせた。機械が人間の声を空から伝えられる、静寂のなかから音が聞こえるというのは、不条理で気味悪く思えた。1894年、心霊主義者のサー・オリヴァー・ロッジは、”コヒーラー”検波器を発明した。これは、マルコーニが開発した初期の無線機の重要な部品となった。人々が無線機に精通して、空からの声を受信できるようになるという発想は突然、ありえないことではなくなり、霊媒師たちが”心の通信”と主張してやっていたことは突然、ほんの10年前にやっていたときほどばかげて見えなくなった」

 また、著者は超心理学者ジョセフ・バンクス・ラインの挑戦を紹介し、以下のように述べます。

「60年代には睡眠状態とテレパシー状態での実験が行なわれ、ここでも幽霊の核心は、それを見ている人の生きた脳にあることが示されたようだった。1965年、双子それぞれの脳波が相互に結びついているという説が、初めて認められた。その年、J・B・ラインはデューク大学を退職した。しかし60年代最大の成功は、有名な文化人類学者マーガレット・ミードの後押しで達成された。超心理学が正式にアメリカ科学振興協会(AAAS)に承認され、超心理学協会が組織への加盟を認められたのだ。1969年12月30日、60年代が終わる直前に突然、世界じゅうのすべての幽霊物語が真実になった」

 ヴィクトリア朝時代に降霊会が大流行して以降、イギリス人の幽霊に対する関心は低下する一方でしたが、第1次世界大戦の勃発によって、突如として幽霊を信じる人々が激増します。著者は以下のように述べています。

「第1次世界大戦のおびただしい死者数に衝撃を受けた人々は、また超自然現象を信じるようになった。テーブルを囲む降霊術は廃れかけていたが、突然また人気に火がついた。イギリス政府でさえ幽霊のプロパガンダを利用し、モンスの天使という創作を、目撃された現象に変えた。詩人のロバート・グレーヴズは戦場で、死んだばかりの人の幽霊が、自分の苦境をのみこめずによろよろ歩き回っている姿を日常的に見るようになった。イギリス中部に住む家族も、同じものを見た。第2次世界大戦でも同じことが起こった。ウィジャボードの売上は1943年にはほとんどゼロだったが、1944年6月には、あるニューヨークのデパート1軒だけで5万個も売れた。戦後、ゴーストハントを科学に変えようという試みが戻ってきた。突然、ポルターガイストが流行し出した」

 続けて、著者はナチスに言及し、以下のように述べます。

「1930年代、今では”文化解説者”と呼ばれるたくさんの人々が、ポルターガイストとドイツでのナチズムの興隆を暗に結びつけ、何よりも国家社会主義は、若者のエネルギーを糧にした未熟な破壊を力にしていると述べた。一部のナチス高官が、超常現象をアングロサクソンに起源を発するものとして、新たな科学分野をつくって研究しようと試みたことも、悪い方向に作用した」そして、著者は「幽霊を信じる気持ちに絶えず影響を与えるものが3つある――宗教、メディア、社会的地位だ。時とともに変わるものだから、それに応じて幽霊も変わってきた」と述べるのでした。

 著者は、ゴーストハントに出かける数少ない超心理学者の1人としてロイド・アウアーバックを取り上げ、以下のように述べます。

「ある幽霊がアウアーバックに語ったところでは、その女性は息を引き取る間際、不意に地獄へ行くのがひどく怖くなった。家に帰りたいと強く念じると、ほとんどすぐさま、自宅に戻っていた。”あちら側”についてはあまり言うことはない。まだ行ったことがないからだ。自分のことを形のない”エネルギーの玉”と表現し、見る人の心に合わせて自分の姿を投影しているのだという。見ることが大切だ。幽霊の音を聞いたかと尋ねる人はいない。みんな見たかと尋ねる―見た人が誰もいなければ、幻影は存在しないからだ」

 続けて著者は、幽霊と人間の関係について、以下のように述べます。

「わたしたちが幽霊を愛するのは、死んだらどうなるのかを説明してくれるからだけではなく、彼らがわたしたちを過去に引き戻し、子ども時代の楽しい思い出にふたたび結びつけてくれるからだ。間接的に伝えられる恐怖のぞくぞく感には、大きな魅力があり、多くの人は大人になってもそれを忘れたくないと思う。ひそかに幽霊を信じることはひとつの楽しみで、子ども時代の自分に戻れる瞬間でもある。今の子どもたちは、とても幼いころから幽霊を見ないように教えられる。幽霊を信じるとは自然の法則を破ることで、中流階級の科学者や大学で批評を書く博学者ほどきびしい法の番人はいないからだ。幽霊はもう恐れられてはいないが、幽霊を信じることは確かに恐れられている。それでも、目撃と幽霊事件は続く」

 最後に、著者はもう一度、ハリー・フーディーニの名前を挙げ、以下のように述べるのでした。

「幽霊を信じる人間の複雑さに正面から取り組んだのは、ハリー・フーディーニだった。ハリー・プライスと同じく、幽霊の世界を、密猟者と猟場番人の両方の立場から経験した人物だ。キャリアの初期には、フーディーニと妻ベスは、偽の降霊会を行なって生計を立てていた。そういう降霊会のあいだ、フーディーニはテーブルを浮かせたり、椅子に縛りつけられたまま楽器を奏でたりした。1899年、そういう技能を脱出術に生かすことにして、霊媒師の仕事から離れた。1913年の母の死に打ちひしがれたフーディーニは、おびただしい数の霊能者や霊媒師を訪ねたが、明らかなまやかしにひどく腹を立てたすえ、心霊主義に反対する熱心な運動家になった」本書の内容は、「幽霊とは何か」という本質論というより、イギリスにおける心霊の歴史といった側面が強いと感じましたが、それでも「幽霊を信じる人間」について考えるには格好の入門書であると思いました。

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