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幽霊 近世都市が生み出した化物』

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NO.1605


幽霊 近世都市が生み出した化物』高岡弘幸著(吉川弘文館)を読みました。著者は1960年大阪生まれ。立命館大学産業社会学部卒業。大阪大学大学院文学研究科日本学専攻博士後期課程単位取得退学。現在、福岡大学人文学部教授。

 本書のカバー表紙には円山応挙筆「幽霊図」(福岡市博物館所蔵)が使われ、帯には「人こそ化物!」と大書され、「日本人が幽霊に込めた"怖さ"とは? 幽霊が誘うままに怨霊からのメッセージを探る」と書かれています。カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。 「幽霊はいつ、いかにして生まれ、なぜ目に見えるのか。文学・芸能、民俗学的資料に描き込まれた幽霊が誘うままに近世社会を旅し、三都や城下町という『都市』の生活文化こそが幽霊の"怖さ"を生み出したことを考える」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

私たちの心が幽霊を生み出す―プロローグ
幽霊の正体
幽霊とは何か
可視化の系譜と構造
怖い幽霊の誕生
変身する幽霊
怨念表象の系譜
18世紀における怨念表象の転換
幽霊が語る近世都市社会
庶民による抵抗―武士の世界と幽霊
貨幣が紡ぎ出す恨み―商人の世界と幽霊
女たちの復讐―「妬婦譚」再考
幽霊に託した現代日本人の「思い」―エピローグ
「あとがき」
「参考文献」

「私たちの心が幽霊を生み出す―プロローグ」では、冒頭に「死者からのメッセージ」として、以下のように書かれています。

「古くより、日本人は、『死者』の世界と『生者』の世界が、きわめて近いという文化をつくり上げてきた。 たとえば、私たちは、仏壇や墓、事故現場、戦災地や被災地に建つ慰霊碑に故人の好物や花を供えて、まるで目の前に故人が生きて相対しているかのように話しかけたり、相談事をもちかけたりする。しかも、それを誰もまったく不思議に思わない。それどころか、むしろ、死者を生者のように扱うことを当たり前のことと考えているのである。これらは、生者から死者に向けてのコミュニケーションであり、生者が記憶する限り、死者は生者の記憶のなかで生き続けることができるわけである。しかし、その反対に、死者から生者に向けてメッセージを送りつけてくることがある」

 幽霊について、著者はこう述べています。

「幽霊は生者の想像力によってつくり出される文化的創造物である。したがって、幽霊は、生者が死者に対して抱く「思い」こそが生み出すといえるだろう。もし、生者が死者の死に責任や後悔の念を抱いているならば、幽霊は怒りや悲しみに満ちた表情をしたものとして表象されることになる。生者の罪の意識が、幽霊の怖さや悲しさをいっそう際立たせるのである。その逆に、生者が死者に愛惜の念を感じ続けるならば、幽霊の表情は穏やかなものとなるわけである」

「日本の幽霊文化」として、著者はこう述べます。

「日本人は古くから現代にいたるまで豊饒な「幽霊文化」を築いてきた。たとえば、近世(江戸時代)の四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』、全国各地で伝説としても語り伝えられていた『皿屋敷』、中国の明代に創作された『牡丹灯記』を翻案した『牡丹灯籠』といった作品は昭和に入ってからも繰り返し映画化され、時代をはるかに超えて、観客を恐怖のどん底に突き落とすとともに、スクリーンに映し出された愛情や幽玄の美が観客を魅了した。そして、水木しげるや楳図かずおなどによる漫画、アニメ、さらには、映画『リング』に始まり、『らせん』『呪怨』以降もヒット作が続くJホラーは、幽霊文化の正統な後継者であるといえよう。これら『創作系』の幽霊だけにとどまらず、現代の人びとが語る『民俗系』とも呼ぶべき怪異譚、都市伝説の主役もまた幽霊である」

 そういえば、戦前のこっくりさんにはじまり、トイレの花子さん、口裂け女、ベートーベンの怪などの学校の怪談、そして2000年前後にインターネット上で登場する怪異たちまで、主に戦後日本を舞台に語られた現代怪異を紹介した『日本現代怪異事典』 朝里樹著(笠間書院)が大ヒットしたことを連想しました。 こうしたように、日本人は実に好んで幽霊を取り上げてさまざまに作品化し、世間話として語り、恐怖しつつも楽しんできたわけですが、著者はこう述べています。 「それは、『死者』の世界をことさら近くに感じてきた日本人は、幽霊を通してでなければ『死』はもちろんのこと、『恐怖』『怒り』『恨み』『悲しみ』『執念(妄執)』『美』『愛情』といった感情や価値観、そして、生者である自分の『思い』を十分に表現できないと考えてきたからではないだろうか」

 また、「都市の時代」として、民俗学者の宮本常一が、1868年(明治元)頃の都市人口を、東京の世帯数が20万6642戸であったことから100万人超、大阪は8万6264戸で50万近かったとし、以下、京都30万、名古屋18万、神戸・広島10万、横浜9万、熊本・堺6万、福井・富山5万程度、4万以下1万人以上の都市として、奈良、伊賀上野、桑名、豊橋、静岡、甲府、小田原、神奈川、水戸、大津、松本、高崎、宇都宮、仙台、盛岡、弘前、米沢、秋田、酒田、敦賀、小松、輪島、高岡、高田、鳥取、松江、姫路、福山、下関、福岡、 博多、小倉、長崎、鹿児島など約100を数えたと推定したことが紹介されています。

「日本民俗学の父」である柳田国男は、1938年(昭和13年)に『妖怪談義』を発表しました。そこで柳田は、いわゆる妖怪とは異なり、「幽霊の方ならば、町の複雑した生活内情の下に発生しやすく」と述べていますが、幽霊にはほとんど興味を示しませんでした。このことについて、著者はこう述べています。

「柳田の興味関心は、『民俗』が残るとされた農山漁村部に暮らす『常民』が語り伝えてきた怪異・妖怪だけだったのである。こうした、柳田の幽霊嫌いが後続の民俗学者に伝染したためか、幽霊だけを題材として1冊の本を書き上げたのは池田弥三郎や今野円輔、阿部正路などにとどまっているのが現状である」 「幽霊の正体」の「幽霊とは何か」では、「三都の幽霊・マチの幽霊」として、著者はこう述べています。 「かつて幽霊文化の研究をリードしたのは、広末保、松田修、高田衛、諏訪春雄、服部幸雄といった近世文学や近世芸能史の研究者たちであった。文学や芸能の中心地は何といっても『三都』以外にはありえない。しかも、『三都』では、幽霊を題材とした芸能や文芸作品が量産されたのである。そのため、近世文学や芸能史の分野では恐怖や美意識を語り演ずる『幽霊文化』こそが、近世文化の特徴や近世の人びとの心性を探るための重要な資料として位置づけられていたわけである」

 それに対して、民俗学で幽霊研究がほとんど進まなかったのは、柳田国男だけのせいにすることはできないとして、著者はこう述べます。

「むしろ、柳田が敷いた農山漁村に残る古い生活文化研究というレールを微塵も疑うことなく墨守してきた民俗学者が等しく背負うべき問題である。しかし、農山漁村のなかにも存在した『マチ』に着目するならば、幽霊が『ムラ』の自然系妖怪と覇権を争っていたことが浮かび上がり、幽霊を文学や芸能史とは異なった民俗学独自の視点から捉えることが可能となるのである」

「可視化の系譜と構造」では、「『口寄せ』の衰退」として、著者はこう述べます。

「仏教の布教に際して、『口寄せ』などの憑霊呪術で人びとのニーズに応えていた民間宗教者は邪魔者となる。そこで、人を呪うことや邪道を意味する『巫蠱』『左道』といった表現を用いて民間宗教者を迫害、排除した。このようにして、幕府という強大な権力を背景にした仏教が人びとの生活に浸透していったのである。ただ、幕府権力に守られたことにより、仏教の世俗化や僧侶の堕落をもたらすことにもなった。しかし、近世日本文学者の堤邦彦は、民間への精力的な布教活動を通して、庶民に葬送儀礼の方法や霊魂の行方、さらには回向、成仏、極楽浄土、輪廻転生などの仏教的観念、人生観や現世意識、処世訓を根づかせたこと、すなわち、「大衆化」にこそ、近世仏教の特質を見るべきだと述べており、そうした活動でとくに用いられたのが笑い話と怪異譚であるという」

「怖い幽霊の誕生」の「18世紀における怨念表象の転換」では、従来、多くの研究者が、霊の怨霊化に多大な影響を与えたのは歌舞伎であると指摘してきたことを紹介し、著者は「確かに、歌舞伎は寛政年間(1789~1801年)以降、恐怖を目的とした幽霊の怪談物が登場したとされており、『耳嚢』が記された年代とちょうど重なる」と述べています。 また、著者は「怖い幽霊誕生の立役者として、歌舞伎をあげる論者は多い。しかし、室町時代後期の能楽と同じように、近世初期の歌舞伎の幽霊は『むしろ美的な精霊として受容されていた』というように、能も歌舞伎も、幽霊はまったく怖いものではなかったのである」とも述べています。

 ところが、寛政年間(1789~1801年)以降、恐怖を目的とした幽霊の怪談物が登場したとされています(『新版 歌舞伎事典』平凡社)。著者はこう述べます。

「そうすると、私たちにとって周知の『怖い幽霊』は、18世紀初頭頃、すなわち、歌舞伎の幽霊が恐ろしくなる以前に誕生していたことになるわけである。したがって、怖い幽霊の姿は、まず近世都市の生活文化の発展と深化にともなって紡ぎ出され、それが歌舞伎の演出に引き継がれたのであり、その後、立場が逆転し、歌舞伎が主導する形で幽霊の怨霊化に拍車がかかり、それが庶民のあいだに定着していくことになったと考えることができるはずである」

「幽霊が語る近世都市社会」の「貨幣が紡ぎ出す恨み―商人の世界と幽霊」では、「現世利益の思想」として、こう述べられています。

「現代の日本においても、死後の幸福を願うことなど考えたこともない者がほとんどであろう。私たちの興味関心は『現世』の幸福にこそあるわけで、それは中世末期の堺の商人や近世の人びともまったく変わらないものであったのだ。 幽霊は死者であるが、見方を変えれば、生者の世界に固執している存在でもある。もし、死後住むことになる清く美しい『浄土』が、鬱陶しい人間関係に煩わされるなど、ケガレに満ち満ちた『この世』よりも素晴らしい場所であるならば、現世に何の思いも残すことはないはずであろう。生者が幽霊に託した『この世での幸福』への執着心こそが、日本の幽霊文化を育てた土壌であったと考えられるわけである」

「女たちの復讐―『妬婦譚』再考」では、「『家』が生み出す女たちの怨念」として、著者は以下のように「家」の問題に言及します。

「『家』を興す、つまり『家』を繁栄・繁盛させるためには、妻が奉公人たちの先頭に立って熱心に働くだけではなく、結婚に際しての妻の持参金も大きな役割を果たしたであろうし、武家でも同じように妻の働き、持参金が重要だったはずである。また、場合によっては、身分を問わず、妻の実家からの援助が必要とされたことはいうまでもないだろう」

 続いて、著者は以下のように述べるのでした。

「こうしたように『家』と『妻』の関係を捉えてみるならば、夫とともに「家」を興し、守り抜いたにもかかわらず、死後に後妻を迎えることは、自身の苦労や手柄をすべて後妻にそっくり譲り渡してしまうことになるはずである。妾をつくって遊び呆けるのは、2人で苦労して儲けた金を湯水のごとく無駄に使ってしまうことで論外であるだろうし、妾に『家』を乗っ取られる危険性も生じかねない。つまり、女性の嫉妬心や怒りは、たんに男が別の女をつくったことや、若い後妻を迎えたことから生じたものだけではなかったのである。経済的に恵まれ、安定した上層・中層の武士、町人などに限られてはいたが、『妻』の存在なしでは維持・発展が不可能な『家』制度の浸透と定着こそが生み出した『怒り』や『恨み』という感情であったわけである」 本書を読むと、帯にも書かれているように「人こそ化物!」であることが痛いほど理解されてきますね。