No.1552 メディア・IT | 経済・経営 | 芸術・芸能・映画 『タケダアワーの時代』 友井健人他著(洋泉社)

2018.05.05

 5月5日は「こどもの日」です。わたしにとっての「こどもの日」は「こどもに戻る日」です。毎年、この日には童心を思い起こすようにしています。そのために、昭和の少年時代にタイムスリップすることができる本を読みます。

 たとえば、ここ数年、この読書館でも『昭和ちびっこ未来画報』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和ちびっこ怪奇画報』といった書籍を取り上げました。今年は、『タケダアワーの時代』友井健人他著(洋泉社)をご紹介したいと思います。本書の表紙には国産特撮ヒーロー第1号である月光仮面の写真が使われ、最上段には「ウルトラシリーズをはじめ、いくつもの人気番組を生み出したTBSの日曜夜7時枠、通称『タケダアワー』。提供・武田薬品、放送・TBS、代理店・宣弘社で続いた17年間を、製作の視点から検証する」と書かれています。

   本書の帯

 帯には「タケダなくしてウルトラなし!!」と大書され、続いて以下のように書かれています。

「『月光仮面』『隠密剣士』『ウルトラQ』『ウルトラマン』『キャプテンウルトラ』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』『柔道一直線』『シルバー仮面』・・・・・・17年間子供たちを熱狂させた、日曜よる7時の奇跡の時間。代理店・宣弘社と放送局・TBSから見た、人気番組誕生の新事実」

   本書の帯の裏

 また、カバー前そでには以下のように書かれています。

「もしも武田薬品が『ウルトラQ』を提供していなかったら日本のカルチャーは大きく変わっていただろう。スポンサーの決断、代理店のサポート、放送局の独自性。人気番組が作られる裏にある、もう一つの真実。忍者ブーム、怪獣ブーム、スポ根ブームを牽引した日曜夜7時枠『タケダアワー』を宣弘社、TBSの視点から読み解く証言集」

目次
第1章 タケダアワーの時代(泉麻人)
第2章 宣弘社 佐多直文インタビュー(前編)
第3章 宣弘社 渡辺邦彦インタビュー(前編)
第4章 タケダアワーの時代(河崎実)
第5章 TBS 栫井巍 インタビュー
第6章 宣弘社 佐多直文インタビュー(後編)
第7章 宣弘社 渡辺邦彦インタビュー(後編)
第8章 タケダアワーの時代(樋口尚文)
第9章 TBS 橋本洋二インタビュー
第10章 宣弘社 小林隆吉インタビュー

第1章「タケダアワーの時代」では、昭和のテレビ番組に詳しいコラムニストの泉麻人氏が「想い出のタケダアワー」として、こう述べています。

「オンタイムでは眺めていないが、『月光仮面』は後年の再放送やビデオソフトで内容を知った。和製スーパーヒーロー、超人モノの原点であり、TBS(当時KR)で企画が成立したのは、その2年前(昭和31年)に同局で始まった『スーパーマン』の日本語吹き替え版が当たったからだろう。『月光仮面』の登場によって、子供たちのヒーローはチャンバラ時代劇の剣士から仮面とタイツの超人へと移り変わっていく」

 その後、昭和41年1月2日から7月3日にかけて放送された円谷プロ製作の特撮番組『ウルトラQ』によって怪獣ブームを巻き起こした後、タケダアワーの歴史の中でも最大のヒット作となった『ウルトラマン』がスタートします。『ウルトラQ』は放送2年前の東京オリンピックの年(昭和39年)から撮影が始まっており、その映像について泉氏は「時代とともに変遷していく風景」として、「都心を頻繁に都電が走っていたり、万城目淳(佐原健二)の愛車がプリンス・スカイラインスポーツだったり、『ウルトラマン』よりかなり前の時代ムードを感じさせる(車のナンバープレートを細かくチェックすると、このプリンス・スカイラインスポーツはクレージーキャッツの東宝娯楽映画などでも流用されている)」と述べています。

 さらに、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』の両番組について、泉氏はとして、以下のように述べています。

「『ウルトラマン』との時代差を、なんといっても感じさせるのは『Q』がモノクロだったという点で、一番頭のタケダの空撮はともかく、その次に現われる『ウルトラQ』の流体文字。ノリを巧みに流動させて撮影したというこのタイトルカットをカラーで観たときは感動した。子供としては、番組が『ウルトラマン』なのに、ここだけまだ『ウルトラQ』のままなのが、もう一つ納得できなかったが、あの鮮やかな群青や黄が入り混じった流体文字が完成されていくシーンは衝撃的だった」

 『ウルトラマン』は昭和41年7月17日から昭和42年4月9日の間に全39話が放送されましたが、日本のテレビ番組史上に残る人気番組となりました。第4章で映画監督の川﨑実氏が、「テレビが生んだ最大のヒーロー『ウルトラマン』」として、その魅力と凄さについて以下のように述べています。

「楽しく明るい画面に自由な演出、歌、希望溢れるハッピーエンド。また、毎回毎回驚愕の物語の連続。その展開は秀逸だった。大人気のバルタン星人を再登場させ、円谷英二監督のアボラス戦、変化球の実相寺監督のあと、年始はレッドキング再登場の『怪彗星ツィフォン』、息つく間もなく大阪篇のゴモラ・・・・・・。『ウルトラマン』の魅力は、このローテーションの妙が大きいと思う。こんなにも面白いテレビ番組は観たことがない」

 さらに、河崎氏は『ウルトラマン』について述べます。

「私は『ウルトラマン』にすべてを奪われた。放送後は『ぼくら』『少年マガジン』、怪獣図鑑を隅々まで読み、ソノシートを擦り切れるまで聴く。そしてソフビ人形で怪獣ごっこ・・・・・・。朝から晩まで学校と食事と睡眠以外は怪獣。私は極端にしても、『ウルトラマン』を毎週観ていない子どもは当時日本にいなかったと断言できる。今では到底考えられないが、それほど『ウルトラマン』には、作品の圧倒的な力があったのだ。あらゆるヒーローを抑えて『ウルトラマン』を別格と我々が断言するのは、あれから半世紀を経ても、あんなすごいブームが起きたことはなかったと知っているからだ」

 ものすごいブームを生んだ『ウルトラマン』が終了した後は、TBSが「ウルトラシリーズ第3弾」として、また東映が「宇宙特撮シリーズ」として制作した国産初の本格スペースオペラ作品である「キャプテンウルトラ」が昭和42年4月16日から9月24日にかけて全24回にわたって放送されました。作品コンセプトは、『ウルトラマン』の後続企画『ウルトラ警備隊』から引き継がれましたが、ウルトラマンという巨大ヒーローの魅力を知ってしまった子どもたちはキャプテン・ウルトラという等身大のヒーローには満足できず、人気は出ませんでした。

 そして、「『ウルトラマン』の夢よもう一度」ということで登場したのが、再び円谷プロが製作した『ウルトラセブン』です。昭和42年10月1日から昭和43年9月8日まで、全49話が放送されました。宇宙の侵略者から地球を守るウルトラ警備隊と、ウルトラ警備隊をはじめとした地球人に協力するウルトラセブンの活躍を描いた物語です。自然現象の一部としての怪獣出現が主なテーマだった『ウルトラマン』に対し、本作では明確な侵略の意図を持った知的生命体=宇宙人との対立が物語の中心となりました。つまり、「怪獣から宇宙人へ」のシフトです。

 現在では「ウルトラシリーズの最高傑作」と呼ぶ人が多いのですが、河崎氏は以下のように述べます。

「満を持してはじまったのが『ウルトラセブン』だが、当時は昨今の多大な評価とは違って、『「ウルトラマン」に比べると暗いなあ』『「ウルトラマン」をまたやればよかったのに』という声が多かったのだ。宇宙人が主体の設定だから仕方ないが、派手な話が少ない。『ウルトラマン』のような素晴らしいローテーションを組みようがないのだ」

 しかし、『ウルトラマン』の製作で膨らんでいた円谷プロの赤字は、『ウルトラセブン』によってさらに大きくなりました。毎週テレビで新しい怪獣を登場させるのは莫大な経費がかかったのです。そこで、『ウルトラセブン』の後は「脱・怪獣」ということで、怪獣の登場しない『怪奇大作戦』が昭和43年9月15日から昭和44年3月9日まで全26話が放送されました。現代社会に発生する謎の科学犯罪に挑戦する「SRI」(Science Reseach Institute)、科学捜査研究所)のメンバーたちの活躍を描いたドラマで、毎回描かれる怪奇現象に子どもたちは震えあがりました。それらの怪奇現象は、実際は人間の手によって引き起こされた科学犯罪でしたが、その背景には社会に疑問を投げかけるような重いテーマも多かったです。わたしは『怪奇大作戦』の大ファンなのですが、この番組によって、放送当時5歳だったわたしは大人の世界を少しだけ知ったように思います。

 『怪奇大作戦』の後番組は同じく特撮ドラマ『妖術武芸帳』でしたが、もはや時代錯誤のテーマであり、まったく当たりませんでした。そして、その後、タケダアワーは「特撮怪獣」モノに続く「スポーツ根性」モノという一大ヒット・ジャンルを生み出します。その記念すべき番組こそ『柔道一直線』でした。昭和44年6月22日から昭和46年4月4日まで全92話で放送されました。桜木健一が演じた主人公・一条直也をもじって一条真也というペンネームを考えたくらい、この番組はわたしの人生に多大な影響を与えました。

 『柔道一直線』の原作者はかの梶原一騎ですが、彼はもともと実写ではなくアニメ製作が決定していたそうです。梶原の代表作である『巨人の星』がアニメ化して大成功したからですが、それをひっくり返したのが、東映テレビ部の営業部長だった渡邊亮徳でした。彼は、山口洋子がママを務めていた銀座の高級クラブ「姫」で梶原一騎を口説き落としたそうです。河崎氏は以下のように述べています。

「もし『柔道一直線』がアニメになり、タケダアワーでやらなかったらどうなっていたであろうか。『柔道一直線』の大ヒットの要因はいろいろあるが、もっとも大きいのはアクションである。それまでの殺陣の常識を超えた、破天荒なアクションを生み出したのは、大野剣友会だった」

 大野剣友会といえば、特撮ファンで知らない者はいません。そう、『ウルトラマン』と並ぶテレビが生んだ最大のヒーロー番組『仮面ライダー』のアクションを担当したからです。河崎氏は述べます。

「大野剣友会は『柔道一直線』の直後、『仮面ライダー』を担当し、大ブームを巻き起こす。つまり、亮徳が梶原一騎を『姫』に連れていかなかったら『柔道一直線』はアニメになり、大野剣友会も『柔道一直線』のアクションを担当していない。実写の『柔道一直線』がなければ、『仮面ライダー』はあそこまでの大ヒットはなかったと言い切れるのである。そう、『仮面ライダー』の生みの親の1人は、銀座『姫』のママ・元東映女優で、後の『よこはま・たそがれ』などの大ヒット曲の作詞家・山口洋子だったのである!」

 まさに驚きですが、考えてみれば、『巨人の星』にはじまり、『あしたのジョー』や『タイガーマスク』『空手バカ一代』など、梶原一騎作品はアニメ化された名作が多いのに『柔道一直線』だけが実写化されたことには大きな意味があったのですね。

 『柔道一直線』が放映されると大ヒットとなり、「スポ根」ブームを巻き起こしました。放送開始直後から人気沸騰となったそうですが、第7章で宣弘社の東京営業部だった渡辺邦彦氏が当時の人気ぶりを語っています。

「すごさを実感したのは、何度か桜木くん単独や桜木くんと吉沢京子さんなどとサイン会をやったとき撲が付いたんだけど、もう大変な人気で、あまりにファンが押し寄せてくるので、『このままじゃ事故になる』って途中で打ち切った。大阪の阪神百貨店で二人のサイン会もしました。私が二人を大阪までお連れしてのサイン会でした。正月に大宮のデパートでサイン会をやったときは、ビルを大勢のファンが囲んで、『とても無理だ』って、最初から中止にしたほどでね」

 当時の『柔道一直線』のすさまじい人気ぶりが伝わってきますね。

 『柔道一直線』が開拓した「スポ根」路線は、タケダアワーでも『ガッツジュン』、『決めろ!フィニッシュ』などが放映されましたが、人気はとても『柔道一直線』に及びませんでした。特撮では、『シルバー仮面』が昭和46年11月28日から昭和47年5月21日まで全26話が放送されました。当初は等身大ヒーローものとしてスタートしたものの、第11話から巨大ヒーローものに路線変更し、作品タイトルも『シルバー仮面ジャイアント』に改められました。迷走を続けた番組でしたが、シルバー仮面のキャラクターも地味で、派手な光線技や肉体技もなく、全体的に重いトーンのドラマでした。
 その後、特撮ドラマ『アイアン・キング』が昭和47年10月8日から昭和48年4月8日まで全26話で放送されましたが、もはやタケダアワーも往年の輝きを放つことはできませんでした。

 タケダアワーの全盛期、製薬業界は非常に活気がありました。第2章のインタビューで、宣弘社大阪支社営業の佐多直文氏が述べます。

「なぜ製薬業界が活発だったかというと、戦後の物のまったくない時代から世の中が立ち直り、暮らしに余裕が出てきたからです。市販薬の市場は、それまでは風邪薬や胃腸薬など治療薬だけだったんですね。富山の薬売りが商うような置き薬で一般家庭は十分でした。それが、豊かになってくると、病気のとき以外も飲むビタミン剤など、いわゆる保健薬も出回るようになったわけですね。自分で欲しい薬を買いに行く時代になった」

 今では見られませんが、かつての民放テレビ番組は一社スポンサーが当然でした。日曜夜7時は武田薬品による「タケダアワー」、日曜夜9時は「東芝日曜劇場」、月曜夜8時は「ナショナル劇場」といった具合です。それにしても、なぜ薬を売る武田薬品が子供番組を提供し続けたのでしょうか。
 そのことについて、佐多氏は以下のように述べます。

「(タケダアワーが開始された)1957年というと、番組企画はテレビ局主導で、局と代理店が『いい番組です』と推して、スポンサーは『では、やろうか』と、おおらかな立ち上がりだったと思います。ただし、『ぽんぽこ物語』も『月光仮面』も『ウルトラ』も該当しますが、子ども向けの娯楽番組を、製薬会社が提供する是非について、武田の中で議論があったのは記憶していますね」

 当時の子供番組は不二家や森永製菓のようなお菓子の会社が提供することが多かったのです。製薬会社は、たとえば大正製薬の場合はラジオの『浪曲天狗道場』を提供していました。つまり、購買層に合った番組をチョイスしているのに、武田製薬はあえて子供番組を提供したのです。その理由について、佐多氏は「製薬業界のトップブランドとして、質の高い番組を送り出すことが、まずモットーとしてありました。『月光仮面』にしても、川内康範先生の正義感や、高邁ともいえる精神が入っていますね。単に幼稚な番組ではなく、勧善懲悪などの大切な理念・観念を含んでいるから、『子ども番組を提供するのも価値がある』という考え方は、社内に浸透していたと思います」と述べています。

 それだけの理由であえて子供番組を提供していたとしたら頭が下がる思いですが、元広告マンであるわたしとしては、やはり企業の提供番組は商品を求めるターゲットと一致しているほうが良いと思います。というのも、『ウルトラマン』の放映が開始される1週前にタケダアワーで『ウルトラマン前夜祭』という公開録画番組が放送されているのですが、その中で番組進行の女性が会場を埋め尽くした子どもたちに向って、「疲れたときにはアリナミンを、お父さんやお母さんにすすめてあげてくださいね」と言っているのです。まさに、子どもを経てしか真のターゲットである大人にメッセージが届かないというのは広告としては失敗です。ちなみに、『仮面ライダー』の場合は製菓会社であるカルビーが提供しましたが、「仮面ライダースナック」が大ヒットしました。おまけのカードだけ抜き取って中身を捨てる子どもが続出して社会問題になりましたが・・・・・・。

 第10章のインタビューで、宣弘社の小林隆吉社長は「宣伝する商品はアリナミンに代表される医薬品でしたから、本来の対象は子どもではないんですけれど、よく長くやってくれたなあと、ただファミリー向けの枠として、日曜の一家団欒の時間に番組を楽しんで、『タケダ、タケダ、タケダ~』と覚えてくださっている。それは本当に異議があることだと思います」と語っています。まさに、それこそは企業広告に携わった者にとっての勲章でしょうね。

 最後に、河崎実氏は「テレビ史に刻まれる栄光の『タケダアワー』」として、以下のように述べています。

「『タケダアワー』の日曜夜7時という時間帯は、テレビ枠の中でも全家族が揃って観る王様の時間帯であった。同じTBSの1社提供でも『東芝日曜劇場』や『ナショナル劇場』は大人向けであり、局の方針で何十年も続いていたわけであり、子ども向けという一番飽きっぽく厳しい層に対して17年も続いたということはテレビ史上空前のことだ。『タケダアワー』は、その意味で前人未踏のことを成し遂げた栄光の名称と言えるのである。
その放送期間は、1958年より1974年の17年間。これは奇しくも、長嶋茂雄が巨人軍に入団し引退するまでの期間と一致する。長嶋の活躍とともに日本の高度経済成長期はあったわけであり、まさにタケダアワーも同じ歩みをした日本の子どもたちの夢の象徴なのであった」

   あの頃を夢を思い出すために・・・

 わたしは、少年時代にタケダアワーで放映される数々の番組に夢中になりました。そして、多くのことを学び、多くの夢を見ました。あの頃の夢を思い出すために、自宅にあるDVDのいくつかを観直したいと思います。

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