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神隠しと日本人』

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No.1517

 

  『神隠しと日本人』小松和彦著(角川ソフィア文庫)を再読しました。
 1991年に『神隠し―異界からのいざない』として弘文堂から刊行された単行本を加筆・修正したものです。著者は1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化センター所長です。わたしは、異色の民俗学者である著者の本はほとんど全部読んでいます。
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    わが書斎の小松和彦コーナー


 本書のカバー裏表紙には、以下のように書かれています。

「ある日、突然、人が日常世界から消え失せてしまう『神隠し』とは、何なのか。『神隠し』にあった人はどこへ行き、何を体験していたのか。どのような神霊が人を異界へいざなうのか。暗く悲惨な響きだけでなく、柔和で甘美な響きをもつ『神隠し』をめぐる民話や伝承を訪ね、多くの事例を分析。異界研究の第一人者が、迷信でも事実でもない、『神隠し』の謎と日本特有の『死の文化』を解き明かす! 解説・高橋克彦」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「文庫版まえがき」
プロローグ
第一章 事件としての神隠し
第二章 神隠しにみる約束ごと
第三章 さまざまな隠し神伝説
第四章 神隠しとしての異界訪問
第五章 神隠しとは何か
第六章 解説「驚嘆すべき解答」高橋克彦
「参考文献」

 「文庫版まえがき」で、著者は一橋大学の教授であった阿部謹也氏から、氏が企画に参加していた弘文堂の『叢書・死の文化』の1冊として、「死」に関わる民俗についてなにか気になっていることがあったら書いて欲しいと頼まれ、そのとき、ふと思いついたのが、「神隠し」という現象であったことを告白しています。『神隠し―異界からのいざない』を上梓してから10年ほど経った今、忘却の闇のなかに沈んでいた「神隠し」という古めかしい言葉が著者の脳裡に蘇ってきました。それは、当時公開された宮崎駿のアニメーション「千と千尋の神隠し」がきっかけでした。

 この大ヒットしたアニメーションによって「神隠し」は一躍、時代のキーワードになりましたが、著者は以下のように述べています。

「かつての日本人は、自分たちが住む世界の『向う側』に『異界』と呼ぶことができるもう1つの世界を信じており、そこから自分たちの世界に忍び込んできた『もの』(広い意味での神)に、ふと取り隠されて、異界に連れ去られてしまうことがあると信じていた。『もの』に取り隠されたのだ、としか言いようのないような不思議な失踪事件。それに対して人びとが貼りつけたのが、『神隠し』というラベルであった」

 プロローグを、著者は以下のように書きだしています。

「私たちの日常生活のなかで『神隠し』という語があまり用いられなくなってからかなりになる。いつの頃からかは地域差があって一概にはいえないが、およそのところをいえば、都市化の波が急速に地方に及んだ昭和30年代の高度成長期以降からのようである。『神隠し』という語だけではない。この頃から多くの民俗事象が日本の各地で衰退し変質しもしくは消滅していった」

 「神隠し願望」として、著者は以下のように述べています。

「神隱しとは、ある日、突然、子供などが日常世界から消え失せてしまうことである。残された人びとは、共同体の外部へと誘い出された失踪者の"その後"にいろいろな思いを巡らせ、多くは暗い気持ちになる。つまり失踪者を待っているのは悲惨な運命だと想像する。だが、その一方では、ひょっとしたら人間世界の苦しみから解放され、神の保護のもとで楽しい生活を送っているかもしれないとの思いも抱くのではないだろうか。失踪者は新しい世界、神の国ユートピアに去ったのである、と。『神隠し』という言葉が、暗く悲惨な響きのみでなく、柔和で甘美な響きを併せもっているのは、こうした二面性によっているのであろう」

 著者は、「神隠し」の本質について以下のように述べます。

「『神隠し』とは、異界にいざなわれ、その世界を見たり、体感したりして、再び人間の世界へと帰還してくるという特別な体験であった。神隠しにあった者は、神に選ばれた者であり、そしてその世界のことを人びとに語ることができる者なのである。しかし、そのために、人間社会のなかでは周縁的で特異な役割を担わされることになるのである。私の抱いていた『神隠し』のイメージは、このようなものであった。要するに、振り返ってみると、私は『神隠し』のなかに、人間学でいう『通過儀礼』や『擬死再生』『母胎回帰』『始原の時への回帰』といった特徴を見出そうとしていたのであった」

 第一章「事件としての神隠し」では、「村の失踪事件」として、著者は以下のように述べています。

「神隠しという語は『死』の響きとともに、失踪者が異界で生きているという淡い期待も込められている。それが明日かもしれないし、1年先かもしれないし、数十年先かもしれないが、いつか戻ってくるかもしれないとの思いが託されているのだ。そのため、神隠しにあった家の多くがちゃんとした葬式をすることもなく、失踪者の帰りを待ち続け、時間の流れのなかでその悲しみや苦しみを紛らわせ忘れていこうとするわけである」

 また「『神』に選び出された者」では、神隠し信仰の衰退について、著者は以下のように述べます。

「神隠し信仰の衰退とは、理由のわからない失踪事件に人びとが『神隠し』のラベルを貼ることをしなくなって、より現実的な、つまり人間社会の内部に求められるような因果関係のラベルを貼りつけるようになったということであった。つまり、こうした神隠し体験談を、信じがたい妄想として人びとが一笑に付してしまうようになった、ということであったのだ」

 「『神隠し』へのアプローチ」では、本書の見取り図が以下のように説明されています。

「まず第1に、人を取り隠す神つまり『隠し神』とはどのような神かを考えてみたい。神隠しとは多くは人を隠す神によって引き起こされた事件のことである。『隠し』という語には、"強制的に"という意味あいが含まれている。望んでいないのに、突然、ある者が、神に異界へ自分の意志とは関係なく連れ去られてしまうのである」

 しかし、その一方では、神隠しという語には、善なる神霊に招かれてユートピアに遊ぶといった甘美な意味あいも含まれているとして、著者は述べます。

「『神隠しにあったのだ』という村びとの言語には、恐ろしい神に強制的に連れ去られた失踪者は悲惨な体験をしているだろうとの思いとともに、ひょっとして善なる神の招きに応じてユートピアに行ったのだという思いもこめられているのである」

 第二章「神隠しにみる約束ごと」の「神と人が融け合うとき」では、夕暮れどきに隠れ遊びをするということは、一種の模倣呪術的行為であり、それを禁止するのは、そうした鬼などの隠し神が隠れ遊びをしている子供たちを発見し、夕闇にまぎれて、遊びとして隠れた子供を連れ去ってしまうからなのであるとして、著者は「そうした遊びを夕暮れどきに演じることによって、遊びが遊びではなくなってしまうのである。現実世界の本当の経験へと転化されてしまう。神隠しゲームとしての隠れ遊びが本当の神隠し事件になってしまって、子供が異界へと連れ出されてしまうことになるのだ」と述べます。

 また、「天狗信仰」として、民俗社会の人びとの多くは、人を異界へ連れ去る神は天狗であるとする共通の観念をいだいていたということになるはずであると指摘し、以下のように述べます。

「天狗信仰はそれほど深く民俗社会に浸透していたのだ。いや、こういうべきかもしれない。天狗信仰は民俗社会にあっては、神隠し信仰と結びついて浸透していた、と。そういうわけで、神隠しの『神』は『天狗』、つまり『神隠し』とは『天狗隠し』といっていいほどの『法則』(約束)が、民俗社会では出来上っていたのであった」

 もちろん、「天狗」のほかにも、人を取り隠す"神"がいました。「鬼」や「狐」も多いですし、「隠し婆」(山姥のたぐい)や、ときは「河童」や「山の神」なども人を異界へと連れ去っていきました。しかし、隠し神のなかで「天狗」は圧倒的比率でその首位を占めていたといいます。

 著者は「人間界と異界の媒介者としての少年」として、心理学者の河合隼雄によれば、子供には「家出願望」や「家出空想」がつきものだということを紹介します。河合は『子供の宇宙』という本のなかで、「子供の頃に家出したいと思ったり、家出の真似ごとのようなことをしたりする人は非常に多いのではなかろうか。そんなことは1度も考えたことはないという人の方がよほど少ないと思われる」と述べ、「このような家出の背後に、子どもの自立への意志、個としての主張が存在していることは、誰でも気づかれることと思う。自分は1人の人間であり、自分なりの主張をもっているのだという気持が急激に起ってきて、それを行動によって示すとなると、『家出』ということになるが、外的現実はそれほど甘くなくて、1人立ちして生きてゆくにしては自分は未だ駄目であることを思い知らされることになる」と語っています。

 著者も、大人よりも子供が神隠しにあいやすく、さらにそうした子供のなかでもさらに神隠しにあいやすい資質の子供がいたとして述べます。

「大人たちは、そんな子供の霊能に目を向け、ときには神の託宣を聞く霊媒(依坐)として用いたり、神隠しにあって霊界に行った子供たちから、異界の様子を聞いたり、異界からの通信をキャッチしようとしたのだと説いている。 この場合の子供には、向う側への旅を自分の自立のための通過儀礼としようとしている以上のことがその神隠し体験には期待されている。彼は人間界と異界の媒介者であり、一方から他方へのメッセンジャーの役割を期待されている」
  
 そして、「神隠しの理想型と諦めの儀式」として、著者は以下のように述べるのでした。

「『神隠し』とは、恐ろしい響きと甘美な響きの双方を合わせもっているが、本当のところは『失踪者はもう戻ってこないと諦めよ』という諦めの響きこそもっとも強いのである。そう考えると、神隠しにあった者に対するまことに形式化された捜索の仕方は、まさしく諦めのための儀式ともいえるかもしれない。『神隠しにあったのだ』という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民俗社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか」

 第三章「さまざまな隠し神伝説」では、「民俗社会の異界イメージ」として、著者は、神隠し事件の検討を通じて、人を隠す神を「天狗」と考える傾向が強いということを再確認し、次のように述べます。

「この背景には、当然人びとの間に流布している天狗信仰の影響があるわけだが、天狗という存在が、人びとにとってプラスの隠し神ともマイナスの隠し神とも即座には決めかねるようなあいまいな神霊とイメージされていることも大きく影響していると考えられる」

 実際、天狗によって異界に連れ去られた人びとは、山中を歩き回ったり空中を飛行して回ったりするだけで人間界に戻ってくることが多かったとして、著者は以下のように述べます。

「天狗は人間に宝など富を授けるわけでもなく、また人間を食べてしまうというわけでもなく、しばしの間の遊び相手として人間を異界に連れ出したらしい。つまり、神隠しを引き起こした隠し神として、当座の説明としては、プラスのイメージもマイナスのイメージもそれほど強くない天狗の名を出しておくのが好ましかったわけである」
  
 著者は「鬼と天狗」として、二大妖怪を比較して、こう述べています。

「天狗は男とりわけ子供を好む傾向があるのに対し、鬼の方は若い女を好んでさらってゆくことである。これは人びとが天狗に対しては性的不能者もしくは同性愛者というイメージをいだいているのに対し、鬼に対しては精力絶倫というイメージを抱いていることと関係しているといっていいだろう」

 第五章「神隠しとは何か」では、「『神隠し』のヴェールを剥ぐ」として、著者は以下のように述べています。

「子供であれ、成人の男女であれ、失踪したまま戻ってこないような事件の真相の多くは、家出か誘拐であったと推測される。農村地域と都市地域を比べたときには、都市へ憧れをいだく者たちが多く、しかも見知らぬ者が村びとに気づかれずに村のなかに入りにくい農村部では家出の方が多く、都市ではその逆に誘拐が多かったのではないかと推測される。実際、平安時代や中世の京都や近世の江戸の町でも失踪事件が多発していた。おそらくそのなかには誘拐も含められていたことだろう」

 また、「社会的な死と再生の物語」として、著者は述べます。

「神隠しとは何か。それは『古今著聞集』の失踪事件にみえた、築地の上から垂れてきた布のごときものなのである。それは人を隠し、神を現わし、人間世界の現実を隠し、異界を顕すヴェールであった。そして、それは人を社会的な死、つまり「生」と「死」の中間的な状態に置くことであった。だからこそ、神隠しという語は甘く柔かい響きがあるのだ。 神隠しとは"社会的死"の宣告であり、それから戻ってくることは"社会的再生"であった。ある意味では、神隠しは恐ろしい異界体験であるとともに、社会的存在としての人間の休息のための時間であったり、日常生活の"向う側"で新しい社会的存在としての生活に入ることであったともいえるかもしれない」

 そして本書の最後に、現代こそ実は「神隠し」のような社会装置が必要なのではないかと問いかけ、著者は以下のように述べるのでした。

「家族生活や学校生活(受験勉強)、会社勤めなどに疲れ切った私たちに、『神隠し』のような、一時的に社会から隠れることが許される世界が用意されていたらどんなに幸せなことだろう。そこには隠れたとみなされたとき、私たちは"死者"として扱われ、まもなくしてそこから戻ってきたときは、失踪の理由をあれこれ問われることなく再び社会に復帰・再生できるのだから。どうやら、私たちは現代的装いをまとった『神隠し』を創造する必要がありそうである」
  
 解説「驚嘆すべき解答」では、自身も異界をテーマにした作品の多いことで知られる作家の高橋克彦氏が以下のように述べています。

「鬼や天狗、河童といったモノたちは今もたぶん存在する。ただし名称を変えられてしまっている。すなわちエイリアンだ。それこそ科学が発達した今だってエイリアンの存在を信じている人間は多い。アメリカでは大学卒の人間の7割以上がエイリアンの存在する可能性を認めているという。その理屈で言うなら神隠しはエイリアンによる誘拐と見倣すのが妥当であろう。神隠しは決して迷信などではなく、実際の事件を報告しているものかも知れないのだ」
  
  そして高橋氏は「この神隠しの解明では天狗や鬼の介在を否定しつつ、天狗や鬼の存在まで否定はしていない。あくまでも神隠しに関する限り天狗や鬼は無実であると力説しているだけだ。このスタンスも見事だ」としつつも、「エイリアンの存在を信じている人間は、なんでもかんでもをエイリアンに結び付ける。小松さんはもちろんそういう人ではない。だからこそこの解答に読者は納得させられてしまうのだ」と述べるのでした。
  
 本書を読み終えたわたしは、エイリアンが乗ったUFOではなく、この地球上に実在する異界のことを考えました。北朝鮮です。わたしは、北朝鮮という国家を巨大な異界だと思っています。なぜなら、「神隠し」にあった人々がそこで暮らしているからです。 「千と千尋の神隠し」によって、「神隠し」という言葉がよみがえりました。

 柳田國男が『遠野物語』で描いたように、神隠しとは、ある日突然、子供などが日常世界から消え失せてしまうことです。残された人々は、共同体の外部へと誘い出された失踪者の"その後"に思いを巡らせ、多くは暗い気持ちになります。つまり失踪者を待っているのは悲惨な運命だと想像するわけです。その一方で、神隠しという語は「死」の響きとともに、失踪者が異界で生きているという淡い期待も込められています。それが明日かもしれないし、数十年先かもしれないが、いつか戻ってくるとの希望が託されているのです。そのため、神隠しにあった家の多くがちゃんとした葬式をすることもなく、失踪者の帰りを待ち続けたそうです。
  
 千尋は不思議のトンネルをくぐって異界へと入っていったが、13歳の横田めぐみさんは帰校途中で拉致され、工作船によって北朝鮮に連れ去られました。暗い船底で「お母さん」と泣き続け、壁には爪でかきむしった血の跡があったといいます。娘を持つ身として胸が痛みます。北朝鮮というテロ国家は日本にとって、いや世界にとっても巨大な異界なのです。