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昭和と師弟愛』

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No.1509


 11月22日は「いい夫婦の日」ですね。
 でも、夫婦愛ではなく、師弟愛の話をしたいと思います。
 『昭和と師弟愛』小松政夫著(KADOKAWA)を読みました。
 「植木等と歩いた43年」というサブタイトルがついています。
 NHKオンデマンドで観たドラマ「植木等とのぼせもん」で、著者が植木等の付き人だったことを知りました。全8回のドラマは面白く、両者の関係に強く興味が湧いたので本書を購入した次第です。75歳を迎えた著者が、テレビ黎明期のきらびやかな芸能界の話を交えつつ、植木等との43年間の師弟関係を語っています。
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   カバー裏表紙の写真


 著者は1942年1月10日生まれ。植木等の付き人を経て日本テレビ系列の「シャボン玉ホリデー」でデビュー。1960年代にはクレージーキャッツとの共演などで、テレビ歌謡バラエティ全盛期に活躍。その後も伊東四朗との掛け合いによるコント系バラエティなどで、コメディアンとしての一時代を築きました。数多くのドラマや映画にも出演し、俳優としての才能も発揮。2011年、社団法人日本喜劇人協会10代目新会長に就任。日本を代表する喜劇人として舞台に出演し、全国各地の劇場で活躍を続けています。
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   本書の帯


 本書のカバー表紙には、著者の結婚式のときに撮影された師弟とのツーショット写真が使われています。また、帯には淀川長治のマネをした著者の顔写真と「親父と私のこのドラマ、おもしろいね 観てください」というセリフの吹き出しがあります。さらに「テレビ黎明期を駆け抜けた"無責任男"植木等と"のぼせもん"小松政夫の麗しき真実の物語」と書かれています。
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   本書の帯の裏


 またカバー表紙の裏には、植木等、石橋エータロー、桜井センリ、安田伸らのクレージーキャッツのメンバーとともに後方で著者が控えめに写った写真が使われています。
 帯の裏には「植木等は、いかにしてひとりのセールスマンを小松政夫に仕上げたのか」「日本を明るくした"無責任男"の素顔」「日本が輝いていたあのころのこと、そして日本中を魅了した植木等のことを、誰よりも近くにいた人間として、本の形にしておくことにしました。(本書「幕前の口上」より)

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

幕前の口上「昭和と同時に始まった人生」
一部 黄金時代
1幕 宴会王とセールスマン
2幕 ボーヤと運転手
3幕 スタントマンと役者
幕間 豪華絢爛の披露宴
二部 灯
1幕 マネと学び
2幕 素と役
3幕 師と弟子
幕引きの挨拶「親父の名前で生きてます」

 「幕前の口上」の冒頭で、著者は以下のように述べています。

「若いころ、僕が運転手兼付き人として仕えたのが植木等です。この不世出の芸能人が存在しなければ、その後の日本芸能史はかなり変わったものになっていたはずです。ハナ肇とクレージーキャッツのあそこまでの爆発的な人気はなかったでしょう。その後を継ぐように登場したザ・ドリフターズも違う形になっていたかもしれない。平成の時代に国民的な人気を博したアイドルグループのSMAPも当初、『平成のクレージーキャッツ』という言われ方をしたかと記憶しています」

 役者を志し、故郷の博多から19歳で上京した著者は、22歳のとき、当時すでにスーパースターだった植木等の運転手兼付き人となります。月収10万円(大卒初任給が2万円といわれた時代)を超える車のセールスマンから、月収7000円の運転手兼付き人生活になったのです。実の父を13歳のときに亡くした著者は、師である植木等を「親父さん」と呼びます。両者は本物の親子のように心を通わせるのでした。著者は述べます。

「人間、25歳までに知り合った人、経験したこと、学んだことが人生を決めるんだそうです。僕は、22歳で植木等さんの付き人兼運転手となり、26歳でひとり立ちして、タレントとして正式にデビューしました。植木等さんのもとにいた3年10ヵ月はかけがえのない日々です。月謝を払って学校で演劇を勉強するより、ずっと多くのことを深く学んだと思っています」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「技術論ではなく、師の生きざまを間近で見られたことが、大切な人生の糧になりました。
 近ごろは、会社の上司と部下の関係が昔と様変わりしたと聞きます。会社の飲み会に出ない。上司の食事の誘いを断る。それが世の流れというものなんでしょうか? 古臭いと思われるかもしれないけれど、師と弟子という人間関係も素晴らしいもんですよ、僕はそう声を大にして言いたいのです」

 わたしも一度、生前の植木等さんにお会いしたことがあります。わが社のイベントに晩年の植木さんをお招きし、会社の貴賓室で父と一緒にお会いしたのです。そのときの植木さんはとても物静かで、礼儀正しい紳士という印象でした。著者の証言によれば、植木等は場を盛り上げるトークが得意でしたが、基本的に物静かで生真面目な人物だったそうです。一度も頭ごなしに怒鳴られたことがなかったといいますが、ただ女遊びやギャンブルは大嫌いで、その点は大変厳しく指導されたとか。

 植木等は「貧乏人の倅」を自称していました。貰った給料は小遣い代を除いてすべて夫人に渡し、食事も「どん底でも平気だ」と語っていました。実際、毎日同じおかずでも不満を言いませんでした。酒も飲みませんでしたが、これは体質的にアルコールを受け付けなかったからでした。そんな「超」がつくほどの真面目な性格であった植木等が「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだそうです。

 植木等は悩んだあげく、僧侶だった父親に相談しました。「どんな歌なんだ?」という地地の前で「スーダラ節」を歌ってみたところ、激しい正義感の持ち主の父がふざけた歌詞に激怒するかとと思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動したのでした。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、この『わかっちゃいるけどやめられない』という生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木等は歌うことをついに決意したのでした。父の言葉は、植木が歌手として生きていく上での生涯の支えになりました。

 植木等が大ブレイクした歌が1961年に発売された「スーダラ節」なら、映画は1962年に公開された「ニッポン無責任時代」でした。植木等は主人公・平均を演じましたが、本人との共通点がその明るい性格以外くらいしかないという常識はずれな人物なので、大いに悩んだといいます。
 当時の植木等について、著者は以下のように述べます。

「生真面目な親父さんは、平均の人物造形に疑問を感じて、監督に『こんな人間いますか?』と聞くと、『いるわけないだろう! いないからいいんだ』
その後も、この主人公になかなかなじめない。人物造形に悩んだ。ついに怒り出した監督から『植木君、君が演じようとしているこの男は異常なんだよ!』と言われ、吹っ切れてあのキャラクターができたといいます」

 それでも、越えられない一線はありました。主人公の平均は当初「香典泥棒」と設定されていましたが、植木等は「寺の倅」として耐えられず、「これはできません」と断ったのです。そして自ら設定を変え、「香典泥棒に限りなく近い人物」という役になったのでした。これは良い話ですね。単に葬儀を貶めなかったというだけでなく、「無責任シリーズ」の第1作が「香典泥棒」という犯罪者であったら、その後の社会現象ともいうべき爆発的ブームは起らなかったと考えられえるからです。

 「ニッポン無責任男」、続く「ニッポン無責任野郎」の大ヒットで、植木等は国民的スーパースターとなります。そのことについて、著者は述べます。

「こうして誕生した無責任男は無類の明るさ、バイタリティで、日本中に笑いや爽快感を与えることになります。その陰には、想像以上の葛藤があったはずです。えらいことになったな。似たような映画を何本も何本もやらなければならない。仕事はきついが、付かれた顔は見せられない。こういうことをいつまでやるのか。このままくたびれるまで働いて死んでいくのだろうか。いやいや、これを俺の人生と思って感謝しなければならない、と」

 東宝及び渡辺プロダクションは、1962年から1971年暮れにかけて、植木等や谷啓などのクレージーキャッツのメンバーが主演した喜劇映画を大量に制作しました。それらは「クレージー映画」と総称され、さらに無責任シリーズ、日本一シリーズ、クレージー作戦シリーズ、時代劇作品に分類されます。全作品カラー、シネマスコープですが、わたしはその多くをビデオやDVDなどで鑑賞しました。中でも最高傑作だと思うのが、東宝創立35周年記念作品として1967年に製作・公開されたクレージーキャッツ主演映画「クレージー黄金作戦」です。

 この映画は、日本映画史上初のアメリカ本土ロケを敢行したもので、ラスベガスのメインストリートを封鎖して撮影されたダンスシーンが圧巻でした。またハワイ・ワイキキビーチでの、共に1960年代の東宝娯楽路線を支えた植木等と加山雄三の共演シーンも話題となりました。上映時間157分に及ぶ大作で、興行収入6億8000万円、配給収入3億4000万円、観客動員数290万人の大ヒットとなりました。

 若き日の植木等は歌手を目指そうとして、僧侶だった父親の植木徹誠に対し、「坊主は死んだ人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。この俺は、生きた人間を楽しませたいから芸能界に入る」と言い放ったことは有名ですが、芸能界で生きることは思い通りにはいきませんでした。植木等はディック・ミネのような本格的な歌謡曲が歌いたかったのですが、実際に歌ったのはコミックソングでした。彼は自分の理想とは別に、日本中の声援に応えるためにC調の身責任男を演じ続けたのです。

 そんな師・植木等について、著者は以下のように述べています。

「『好きこそものの上手なれ』といいますが、親父さんは、『それは素人のいうことで、素質や才能ってのは、持って生まれたもの。それをいかに磨くかだ』と言っていました。『好きだからって言ってたらダメだ。実力や才能っていうのはそういうものじゃない。根底にそういう力を持ってる者がなるべきだ』ということだったと思います。つまり、好き、嫌いを超えたところに、やれる、やれないがある、と」

 さらに植木等は「人間、やりたいこととやらなきゃならないことは違う」ということもよく言っていたそうです。著者の他にも、歌手や役者を志望する若者が訪ねてくると、そう教えていたとか。著者は「もしかすると、そのたびに、自分自身にも繰り返し、語りかけていたのかもしれません」と述べます。
 著者は、映画「類人猿ターザン」シリーズで主演のジョニー・ワイズミューラーが、「毛深い類人猿」とからかわれるのが怖くて、日に2回も体毛を剃っていたことを明かします。また、マリリン・モンローが「おつむの弱い金髪のセクシーな役」ばかりやらされることを悩み、エルビス・プレスリーが主演したような主人公が歌う音楽映画ではなく、本心では演技派の俳優になりたかったことなどを紹介します。

 「親父さん」こと植木等に芸能人としての気構えを学んだ著者は、お笑いタレントとしてデビューし、人気者になります。特に伊東四朗とともに出演したテレビ朝日「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」の「悪ガキ一家と鬼かあちゃん」のコーナーにおいて、「電線音頭」(1976年)、「しらけ鳥音頭」(1977年)の大ヒットを飛ばします。その笑いは、その後、フジテレビの「オレたちひょうきん族」につながったとされています。同番組の横澤プロデューサーもはっきりと「影響を受けた」と述べており、著者の活躍が「マンザイブーム」につながったことを明らかにしています。

 3幕「師と弟子」の冒頭で、著者は以下のように述べています。

「『電線音頭』とか『しらけ鳥音頭』とか、やることなすことが全部当たってしまうっていう時代が僕にもありました。勢いのいいときはそんなもんです。ただ、芸能の仕事をする以上、勢いがなくなるときも必ずある。そんなときにどういうふうに対処するか。
 僕も挫折しそうになるときが随分ありました。あー、俺も、もうここ止まりか、と。こういうとき、一歩も後退してないよ、っていう自信を持たないとダメです。つねに前進するという強い意思を持たなければならない」

 著者にとって、植木等とは何だったのか。以下のように述べています。

「僕にとって親父さんは闇夜に輝き、行き先を示してくれる灯、足元を照らしてくれる灯のようなありがたい存在です。そんな親父さんがいたから僕は、つねに前進することができたんです。そしてつねに前進するという意識をもって取り組む中で、節目節目、テレビドラマ、映画、舞台で、いい人と出会えて、いい仕事に巡り合えました」

 そのうち人気絶頂の著者に対して、師である植木等の仕事が減っていきます。あるとき、植木から「おまえがな、頑張ってるのテレビで観ているぞ。俺な、今、暇だからテレビばっかり見てるんだ。おまえが活躍してるとな、うーん、やってるなあ。よーし、俺も、もう一発頑張んなくちゃいけねえなって、いつも思ってんだ」と言われた著者は、トイレに行って一人で号泣したとか。

 高度成長時代の日本を熱狂させた植木等とクレージーキャッツの活躍は人々の記憶から薄くなっていきましたが、平成の時代に入り、突如として大復活しました。平成2年、植木等のヒット曲メドレーである「スーダラ伝説」が大ヒット、人気が再燃したのです。その年の大晦日には、植木等は23年ぶりに第41回「NHK紅白歌合戦」に出場しました。この紅白の歌手別最高視聴率を獲ったのが植木等で、その視聴率はなんと56.5%でした! この快挙について、著者はこう述べています。

「あの夜、日本人の過半数が植木等の姿に微笑んだはずです。往時を知る人は昔を思い起こしたことでしょう。おい、あの植木等が帰って来たよ。昔と変わらないじゃないか! こっちも、もう一息がんばろうか。そう勇気づけられたことでしょう」

 著者によれば、植木等は非常に信仰心が深かったといいます。
 「六方拝」ということをよく言い、東西南北と天地を拝み、感謝したそうです。東はご先祖さま、西は家族、南は師匠、北は友、そして自然である天地を拝みました。これは父親から教えられたことでした。
 ハナ肇が亡くなったとき、植木等は枕もとで読経を捧げ、告別式では「俺はさみしいよ。体の力が抜けたようだ。おまえが16で、俺が19、たった47年間の付き合いだったが、クレージーの面々に思い出をありがとう」と言いました。その翌年には石橋エータローが、平成8年には安田伸が亡くなりました。クレージーキャッツについて、著者は以下のように述べています。

「ハナ肇とクレージーキャッツは稀有なグループです。メンバーは仲がよくて、いつも公私で助け合っていました。メンバーの死が分かつまで解散しなかった音楽グループを僕は他に知りません」

 最後に、植木等と著者は一度だけ対談しています。「笑芸人」平成15年1月号で実現した企画ですが、植木等はさまざまなエピソードを楽しそうに語った後で、終わりにこんなことを言いました。

「結局親が子供に対して、説教する時間なんて決まっているわけじゃないんだから、親のどんな行為が子供に対して教育になっているのかということは、これはもう働いている姿を見せつけるに尽きる。
 やっぱり、ある道を職業と決めたら、その人なりの色んな段階があって、『よし、これで行こう』となれば、がむしゃらに一生懸命生きるわけですね。それを小松に見せられたというのは、これは何も説明しなくても一番良い教育になったと思うんですよ」

 ああ、この師にして、この弟子あり! わたしが植木等さんには会ったことがあると述べましたが、ぜひ今度は小松政夫さんに会ってみたいです! そして、わたしは、小松の親分さんの子分になりたい!!