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宮沢賢治の真実』

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No.1506

 

 『宮沢賢治の真実』今野勉著(新潮社)を読みました。
 「修羅を生きた詩人」というサブタイトルがついています。
 著者は、プロデューサー・演出家・脚本家で、テレビマンユニオン最高顧問です。1936年秋田県生まれ。59年東北大学文学部卒業、ラジオ東京(現TBS)入社。70年TBS退社、日本初の独立系テレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」創設に参加。テレビ草創期から数多くのドラマやドキュメンタリーの制作に携わりました。著書に『テレビの嘘を見破る』(新潮新書)、『金子みすゞふたたび』(小学館文庫)などがあります。
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    本書の帯


 カバー表紙には賢治の横を向いた有名な写真が赤の色彩で使われ、帯には以下のように書かれています。

「同性に恋焦がれ己を『けだもの』と称した詩人は、最愛の妹の胸中を知り、修羅と化した。」「『春と修羅』『永訣の朝』『銀河鉄道の夜』―ドキュメンタリストが執念で解き明かした、数々の名作の奥底に潜む実人生の慟哭。」
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    本書の帯の裏


 また帯の裏には、以下のように書かれています。

「たった4行、だが『猥』『凶』『呪』などただならぬ言葉をちりばめた文語詩との出会い。それが始まりだった。謎の詩に導かれるように、著者は賢治の人生をたどっていく。身が千切れるほどの悲しみ、心が砕け散るほどの苦悩を、彼は作品に変えていったのだ。妹を死の淵にまで追い込んだ事件とは何か。なぜ、賢治は自身を修羅と呼んだのか。『永訣の朝』はいかにしてつくられたのか。『銀河鉄道の夜』で描かれた『ジョバンニの切符』とは一体何なのか―」「比類なき調査と謎解きの連続で賢治像を一変させる圧巻の書。」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

はじめに「五人目の賢治」を探して
第一章 謎の文語詩
第二章 「妹の恋」という事件
第三章 そのとき賢治も恋をしていた
第四章 「春と修羅」完全解読
第五章 ついに「マサニエロ」へ
第六章 妹とし子の真実と「永訣の朝」
第七章 「銀河鉄道の夜」と怪物ケンタウルス
終章 宮沢賢治の真実
「註」「主な参考文献」

 はじめに「『五人目の賢治』を探して」では、冒頭で著者は「私はこれまで四人の宮沢賢治に出会っている」と述べています。
 「四人」とは、思想家や実践者や夢想家としての「生命の伝道者」であり、「農業を信じ、農業を愛し、農業に希望を託した人」であり、「野宿の人」であり、誰にも理解できない言葉を使って「子供のお絵描きのように詩を作る人」を指します。そのようなイメージを賢治に対して抱いていたにもかかわらず、著者は新たな賢治像を求めます。それは、賢治のある文語詩に出会った時でした。著者は以下のように書いています。

「それは『猥』という字で始まっていた。『猥雑』『猥褻』の『猥』である。『猥』ではじまるそれもまた、一読二読では理解できなかったが、ただ難解なだけではなかった。そこに使われている字句を眺めていると、嫌悪や憎悪や怒りなどが入り混じった気配が感じられたのである」

 その文語詩の最初の一行には《猥れて嘲笑めるはた寒き》と書かれていました。著者は述べます。

「いきなり『猥れて』とあるが、これは、どう読むのか。 『猥』だけではない。短い四連のその詩の中には『猥』の他に、『嘲笑』『凶』『秘呪』などの字句がただならぬ気配を発していた。私が知っている賢治―たとえば『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』と書く賢治とは別人のような賢治が、そこにいる気がした」

 数多い宮沢賢治の研究本の中で、本書の大きな特色は、賢治の妹とし子の恋愛スキャンダル、賢治の初恋の相手とされる保坂嘉内に着目したことです。まずは、とし子のほうから先に言及しています。


「宮沢とし子は、明治31年(1898)11月5日生まれ、兄賢治とは2歳違いの長男と長女です。小学生の時から学業の成績が抜群で、花巻高等女学校時代には卒業式で生徒総代として送辞を読み、卒業生総代として答辞を読みました。日本女子大学校家政学部へ進学しましたが、最終学年(3学年)時、病気のため3学期の授業をすべて欠席しました。それにもかかわらず、学校側が卒業式を認めたほどの優等生でした」

 とし子について、著者は、第二章「『妹の恋』という事件」の冒頭に、「それほどの秀才であり、また性格も真面目で淑やかであったため、誰しも、艶めいた話のひとつもないまま、24年の短い生涯を閉じたのだと思ってきた」と書いています。しかし、平成元年(1989)、賢治の末妹クニの長男である宮沢淳郎が著書『伯父は賢治』の中で、伯母とし子が書いたと思われる約30枚のノート用紙を全文公表しました。淳郎は、この内容が今後の賢治研究に資するかもしれないと考え、あえて身内である伯母の文章を公表することを決意したそうです。そのポイントは以下の3点です。

(1)トシは花巻高等女学校4年生のころ、たぶん初恋と思われる恋愛を体験した。
(2)それが地元の新聞記事となり、家族に心配をかけた。
(3)トシが日本女子大学校に入ったのは、旺盛な進学意欲もさることながら、むしろ故郷を追われてそうせざるを得なかった面のほうが強い。

 例え仮名であったとしても、女子高校生の恋愛沙汰が地元新聞(『岩手民報』)に連載されたとは驚きです。宮沢家の人々の心労はいかばかりであったかと推察されます。さらに、とし子は恋愛相手であった男性からも心ない中傷の言葉を吐かれたといいます。そんな傷心のとし子は日本女子大学校で学び、創立者である成瀬仁蔵の思想に触れ、「信仰」に目覚めたとされます。

 

 第三章「そのとき賢治も恋をしていた」で、著者は述べます。

「日本女子大学校は、キリスト教の牧師を務めたこともある成瀬仁蔵が、様々な宗教の枠にとらわれず、学問と日常生活を通して精神修養し、自立的な人格の形成を目指す場として創立した私立学校であった。成瀬の教育方針に則り、学生寮も自立と修養の場であった。寮ごとに、『お主婦様』と呼ばれる2人の上級生が、寮生の生活全般を、リーダーとして仕切っていた。朝夕には冥想の時間もあった」
  
 続けて著者は、成瀬仁蔵の教育について以下のように述べます。

「成瀬は週二回、全学部生に対して『実践倫理』と題する講義を大講堂で行っていた。そのうちの1回は、予科生も聴講する。予科生たちは、最後部で成瀬の訓話を聞いた。成瀬が究極的に目指したのは『宇宙自我』であった。それは、国家、文明、宗教を超越した新しい信仰ともいえた。右も左も解らず学生生活を始めざるをえなかったとし子が、1学期を終え、2学期を迎えた頃には、自分を救ってくれるのは、成瀬の説く『信仰』だ、と思うようになっていた」

 

 とし子は、自身のはかない生命を予期していたのか、少女のころから死後の問題をきわめて重視していました。彼女の祖父宛ての書簡の内容から、死後の魂の存続を信じていたことがわかります。当然ながら、当時流行していた心霊学にも大きな関心を寄せました。とし子の愛読書は、メーテルリンクの『死後の存続』(当時の書名は『死後は如何』)でした。これは恩師である成瀬仁蔵の影響があったようです。彼女は自ら記した「自省録」に「私は自分に力づけてくれたメーテルリンクの智慧を信ずる」と書いています。

 

 そして、続けて『青い鳥』を読んだ彼女は、『死後の存続』に書かれたメーテルリンクの霊界観が夢のあるファンタジーとして見事に表現されていることにとても感激しました。そして、仲のよかった兄の賢治にその感激を伝えたのです。賢治もとし子も結核という病に苦しんでいました。思うに、ともに不治の病を抱え、つまり死の影とともに生きている自分と兄を、とし子はチルチルとミチルに重ね合わせたのではないでしょうか。そして、妹から勧められた『青い鳥』を読んだ賢治は、さらにイマジネーションを膨らませて、『銀河鉄道の夜』を書いたのです。チルチルとミチルはジョバンニとカムパネルラになり、「青い鳥」は「ほんとうの幸福」に言い換えられたのです。

 

 そして、賢治・とし子の兄妹は宗教の枠を超えた普遍宗教のようなものを意識していたと考えられます。とし子に強い影響を与えた成瀬仁蔵は名高い教育思想家でしたが、メーテルリンクやタゴールなどとも親交があり、すべての宗教のもとは一つ、めざすところも一つという「万教帰一」思想を唱えていました。 同時代に大本教の出口王仁三郎が唱えた「万教同根」と同じ考え方です。この時代は、南方熊楠なども含めてスケールの大きい普遍思想の追求者が世界的に多く存在していました。成瀬は帰一協会を設立しましたが、のちに賢治がつくった羅須地人協会に影響を与えたとされています。
  
 賢治は浄土真宗の熱心な信仰者であった父への反発もあってみずからは日蓮宗を信仰し、のちに田中智学の急進的団体である「国柱会」に入会しました。しかし、けっして法華経思想のみに偏することなく、ヒンドゥー教やキリスト教にも深い理解を示していました。ヒンドゥー教は、敬愛していたインドの宗教詩人タゴールの影響です。キリスト教は、郷土のキリスト者で内村鑑三の弟子だった斎藤宗次郎の影響がありました。彼は、「雨ニモマケズ」のモデルだとされています。
  
 その斎藤宗次郎と賢治の交流について、本書には興味深い記述があります。第七章「『銀河鉄道の夜』と怪物ケンタウルス」で、著者は「ここからは私の推理である」と断りながら、以下のように述べています。

「斎藤は、賢治から贈られた詩集『春と修羅』を読み、賢治がとし子の死後を深く案じ彼女との交感を願っていると知った。とし子が死後、どんな姿になりどんな世界に生きているのか、と思いをめぐらせる賢治に心をうたれた。詩集の表題作『春と修羅』で、賢治が『(このからだそらのみぢんにちらばれ)』とうたっていることも知った」
  
 続けて、著者は以下のように述べています。

「斎藤は、タイタニックで自ら犠牲となっていった人々の復活を説いた内村鑑三の講演を思い起こす。犠牲者の肉体は神の手によってふたたび復活する、と師は説いていた。斎藤は、明治45年7月号の『聖書之研究』を賢治に読んでもらおうと考える。齋藤はクリスマスイブの日を選んで、『聖書之研究』と自分が保存していたタイタニックの記事が載っている新聞を持って、賢治の許を訪れた。船とともに沈んでいった乗客の様子を報ずる新聞記事と、内村の『復活』に関する講演をはじめて読んだ賢治は、強い衝撃を受け、犠牲になったタイタニックの乗客を『銀河鉄道』の乗客にしようと思った。そして、冬の北の海を実感するために、正月あけのいくつかの約束をほごにして陸中海岸の旅に出た―」

 銀河鉄道に乗り込んできた青年は船の遭難について車中で語りますが、そこでは冷たい海の厳しさにはいっさい言及しません。にもかかわらず、それを聞いているジョバンニは「氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている」と、具体的にイメージします。おそらく、ジョバンニの言葉には、賢治がタイタニック沈没事故の惨状を新聞記事で読んでいたことが反映しているでしょう。そして、その言葉は、酸鼻を極める遭難者としての死者のほんとうの苦しみを素通りして、神の許に行けるのだから幸福であると唱える青年の独善を衝くのでした。

 なぜ、『銀河鉄道の夜』にタイタニックの犠牲者が登場したのか。 著者は、その理由を以下のように推理しています。

「『ああ、そんなんでなしに』とジョバンニ、すなわち賢治は、もがくように言う。生きる者、死んでいく者のほんとうの苦しみや悲しみに寄りそうことから始めてくれる『たったひとりのほんとうのほんとうの神さま』の存在を、賢治は信じたいのだ。『他人の生命を救うために自分の生命を失った者は、どうやって救われるのか』。それを教えてくれるのが、『ほんとうのほんとうの神さま』なのである。おそらく賢治は、この論争の場面を書くために、タイタニックの犠牲者を『銀河鉄道の夜』に登場させたのだ、と私はみる」

 

 本書のもう1つの特色は、賢治の初恋の相手である保坂嘉内への言及です。盛岡高等農林学校の2年生となった19歳の賢治の前に、同性の「恋」の相手が現れます。大正5年4月に入学した新入生の中の1人でした。
 「賢治の恋」を初めて具体的に論証したのは、菅原千恵子著『宮沢賢治の青春"ただ一人の友" 保坂嘉内をめぐって』(角川文庫)でした。菅原氏は、同書において、「大正5年に盛岡高等農林に入学してきた保坂嘉内への賢治の友愛の情は、その究まるところで恋愛の情となり、賢治自身がそれを自ら認めざるをえなくなったときから賢治の苦悩が始まった」と指摘します。

 

 この菅原氏の見方を踏襲しつつ、保坂嘉内の日記や保坂あてに賢治から届いた書簡などを編んだ『宮澤賢治 友への手紙』保坂庸夫・小沢俊郎編(筑摩書房)を資料としながら、著者は「賢治の恋」の実相をさらに明らかにします。たとえば、以下のように書いています。

「山梨県の甲府中学を大正4年3月に卒業した保坂嘉内は、東北帝国大学農科大学(札幌)の受験に失敗し、翌5年盛岡農林に合格、4月に盛岡へむかった。4月13日、盛岡に就いた保坂は、この日、自啓寮の室長であった宮沢賢治に初めて出会う。『トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った』と入学理由をのべた保坂に、『トルストイに打込んで進学したのは珍しい』と賢治が評したと言われる。農業技術者になろうとは思っていたが、百姓になることまでは考えていなかった賢治にとって、保坂の言葉は新鮮に聞こえたのだろう」

 賢治が突然、急進的な「国柱会」に入会した理由については、さまざまな憶測がなされてきました。『宮沢賢治の青春』の著者である菅原氏は、保坂が11月末日で軍隊を除隊したので、その時期をめがけての行動だったと指摘しています。ちなみに、妹とし子も、賢治と同時に国柱会に入会しています。賢治は、後に妹が書いた自省録を目にしたことでしょう。そして、その内容に賢治自身の同性への辛い思慕と共通する点をいくつも見つけたことでしょう。さらに、とし子が実に冷静に自己分析していることに驚くとともに深い感銘を受け、触発されたのではないでしょうか。

 

 終章「宮沢賢治の真実」では、著者は『銀河鉄道の夜』で、乗客となった男の子が天の川の岸辺の低い丘の上に並んで立っている水晶宮を見て「双子のお星さまのお宮だよ」と叫ぶことに注目し、これは賢治の創作最初期の童話である『双子の星』のことであると指摘します。『双子の星』は、お空に輝く小さな2つのお星さま、チュンセ童子とポウセ童子のやさしい双子の物語です。チュンセ童子には、ポーセというかわいい妹がいました。
 この『双子の星』を引合いに出し、著者は次のように述べるのでした。

「賢治は、天の川西岸の水晶宮に、チュンセ童子とポウセ童子を住まわせ、天の川東岸の水晶宮に、兄のチュンセと妹ポーセを住まわせた。兄チュンセと妹ポーセは、賢治ととし子だ。とすれば、チュンセ童子とポウセ童子は、賢治と保坂ということにならないか」

 

 そして、当時の岩手県では多くの朝鮮人が工事でダイナマイトを扱っていました。『銀河鉄道の夜』の工兵が架橋演習をするというエピソードは、この事実を反映していると、著者は見ます。

「賢治は、朝鮮の工兵に両岸をつなぐ橋を架けさせ、誰にも知られぬように2つのお宮を行き来しようとしていたのか。何ということだ。今頃になって、こんな賢治の企みに気がつくとは―」

 著者の驚きは理解できますが、『銀河鉄道の夜』という稀代のハートフル・ファンタジーには、多くの秘密や暗号、すなわち「賢治の企み」が隠されていると思います。

 

 この「ハートフル・ファンタジー」という言葉は拙著『涙は世界で一番小さな海』で提示したものですが、「霊的真実を含んだ物語」といった意味があります。同書で紹介しましたが、『銀河鉄道の夜』には、キリスト教の影響が強く見られます。そもそも「ジョバンニ」という名は「ヨハネ」のイタリア語読みです。賢治が関心をもっていたキリスト教はカトリックだけではないようです。ジョバンニの前に姿を現わした最初の十字架は「円い後光を背負った形」をしていました。つまり、主にギリシャ正教やロシア正教などの「東方教会」系で用いられる「ケルト十字」でした。

 また、宇宙物理学者の竹内薫氏によれば、ブルカニロ博士の名前にも注目すべきとのこと。「ブルカニロ」とは牡牛座の「ブル(牡牛)」、カシオペアの「カ」、双子座(ルビ・ジェミニ)の「ニ」、アンドロメダの「ロ」をつなぎ合わせたものであり、それらの星座の配置を順にたどると、頭から胸、右肩、左肩へと手を動かす「東方教会」の十字の切り方になるそうです。しかも、その十字の中心は賢治とトシを象徴するペルセウス座の「双子星」になると竹内氏は述べます。この類の星の暗号を賢治は好んだようで、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる手帳の最終ページには、沼森、岩手山、早池峯山など三二の山々に経典を埋めたいといった内容のメモを記しています。作家の畑山博氏によれば、それらの山々の頂を線で結ぶと、はくちょう座、わし座、たて座、いて座という四つの星座の形になるそうです。それは、まさしく銀河鉄道が走る場所そのものなのです。『銀河鉄道の夜』には、まだまだ知られざる「賢治のたくらみ」が隠されているのかもしれません。