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知れば恐ろしい日本人の風習』

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No.1496


 『知れば恐ろしい日本人の風習』千葉公慈著(河出文庫)を読みました。
 「日本人は何を恐れ、その恐怖といかに付き合ってきたのか」について、しきたりや年中行事、わらべ唄や昔話などに秘められた謎を解き明かす好著です。
 著者は1964年千葉県市原市生まれ。駒澤大学大学院人文科学研究科博士後期課程を満期退学。2011年より駒沢女子大学人文学部日本文化学科教授。曹洞宗冨士山宝林寺第24世住職。日本文化全般に造詣が深く、広い視野で古来の風習やしきたりと現代日本人の暮らし方・生き方を考察するなかで、本書の執筆に至ったそうです。
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   本書の帯


 カバー表紙には、狐の絵とともに「『夜に口笛を吹いてはならない』の本当の理由とは―」と書かれています。また帯には「なぜ、夜に爪を切ってはいけないといわれるのか?」「怖い習慣、タブー、行事・・・・・・そこには、現世を生きのびる知恵が隠されていた!」と書かれています。
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   本書の帯の裏


 また帯の裏には「不可解な風習に隠されたミステリーを解き明かす!」として、以下のような項目が並んでいます。

*指切りげんまんは、かつて本当に指を切断していた!
*死者は白装束なのに、葬式の参列者が"黒"なのは?
*なぜ、夜に口笛を吹いてはいけないとされるのか?
*お彼岸は"怨霊の祟り"から逃れるために始まった!
*盆踊りをけっして一人では踊らない、本当の理由とは?

 さらにカバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。

「なぜ、夜に爪を切ると『親の死に目にあえない』と言われるのか?『孟蘭盆会(お盆)』の起源は地獄での"逆さ吊り"の刑にあった―日本のしきたりや年中行事、わらべ唄の昔話には、どこか不気味なものや、ルーツに恐ろしい逸話が隠されているものが多い。それはいったいなぜなのか。風習に潜む恐怖の謎解きをしながら日本人のメンタリティを読み解く」


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

日本人の風習に隠された「恐怖」を読み解く―まえがき
1章 奇妙で不可思議な「しきたり・タブー」の謎を解く
◎たとえば「葬式には黒装束で参加する」わけとは
2章 身近な「年中行事」に秘められたミステリーとは
◎たとえば「お彼岸」は、怨霊を鎮めるために始まった
3章 「子どもの遊び・わらべ唄」のルーツをたどって見えた恐怖
◎たとえば「かごめかごめ」は、屋外式こっくりさん
4章 本当に恐ろしい「昔話」はいかに編まれたか
◎たとえば、人魚伝説と「浦島太郎」の共通するタブーとは
恐ろしい風習、恐怖の物語が持つ力―あとがきにかえて

 「日本人の風習に隠された『恐怖』を読み解く―まえがき」を、著者は以下のように書きだしています。

「世界は今、あらゆる意味で混沌の時代に入った。放射能汚染、原発再稼働、温暖化による異常気象、領土問題、宗教戦争・・・・・・。いずれも深刻な問題ばかりである。しかし冷静に考えてみると、実はこれらの多くの問題が、人間によって引き起こされた人災であるという事実を、私たちは自覚しているだろうか」


 世界全体の負のスパイラルを俯瞰するとき、著者は、「そこに共通する現代人の"心の問題"があると思えてならない」と述べます。それは「恐怖」という感情の欠如であり、直感的な判断を論理的に排除してしまう特性だといいます。

 また、「風習という智慧から何を学ぶか」として、著者は以下のように述べています。

「科学的根拠にもとづく『知性』が、数多の迷信や妄想を自日の下にさらし、文明の発展に貢献してきたことは揺るがない事実である。しかしその一方、人類の悠久の歴史において、『恐怖』という感情が果たしてきた役割は、さらに大きいといわねばならない。それはヒトがサルであった時代、外敵から身を守るために働いたプリミテイブな心理であり、『怖い!』という思いこそ、人間のあらゆる観 念の中でもっとも古い感情だからである」

 恐怖が人間にとっての最も古い感情であるというのは、アメリカの怪奇作家H・P・ラブクラフトの考えでもあります。

 さらに、著者は以下のように述べています。


「おどろおどろしく語りかける古代の神話や地方の民話、そして一見、意味のないような風習のなかに、実はその不気味さによって、私たち人間の生命を守る安全装置として機能してきた事実は意外に多い。川淵の河童に奥山の山姥、そして村に伝わる不思議な掟の数々・・・・・・。これらは現に、里に住も人々を身近な危険から遠ざけ、守ってきた番人役であった。これこそ古来、日本人が無意識のうちに直感し、築き上げてきたひとつの智恵と呼ぶことができよう」

 そして、著者は「人間と恐怖、それは切っても切れない宿命的な関係であり、そしてこの恐怖こそ、混沌とした新時代を生き残るための重要なキーワードとなるに違いない」と述べるのでした。

 1章「奇妙で不可思議な『しきたり・タブー』の謎を解く」の冒頭に出てくる「葬式には『黒装束』で参列する―死者が白装束なのに参列者は"黒一色"という謎」では、著者は「葬式も、結婚式と同じ"ハレの日"だった」として、以下のように述べています。

「婚礼と葬礼には、意外に似かよった慣習があることは、あまり知られていない。花嫁が実家を出るときには、遺体の出棺の折と同様に茶碗を割ったりすることがある。嫁として家を出るということは『二度とここへは戻らない』ことを意味し、死者がこの世からあの世へ赴くときも、けっして現世に戻ることなく成仏するようにとの願いが込められている。
 あるいは東北地方に伝わっていた死者を伴侶とする死後婚(冥婚)や、青森県金木町に伝わる死者のために婚礼人形を奉納するしきたりなどを見ると、古くから日本人は、吉事と凶事を区別するよりも、日常(ケ)と非日常(ハレ)を区別する感性をより重んじてきたようである。つまり、出産、結婚、葬式などの、これら人生の通過儀礼は、祝い事なのか忌み事なのかといった違いよりも、どちらも神仏に近づく特別の機会(ハレ)として同類に捉えられていた。そのために白装束は、こうした概念を持ち合わせていたことの表れとして、理解されるべき慣習なのである」

 では、なぜ神仏に近づくハレの日は白無垢なのでしょうか。
 これには、死者への「四十九日信仰」が深く関係しており、仏教では、死後、命日を入れて49日間は来世までの旅が続くと信じられました。『如来十王経』によると、死して後に生まれ変わるそのあいだ、人は「中有」と呼ばれ、7日毎に節目を迎えるといいます。著者は、以下のように述べています。

「旅といっても、物見遊山の娯楽ではなく、来世に再生して成仏する資格を得るための、いわば"仏の見習い研修"であり、認定審査を受ける期間でもあるのだ。ちなみに中有を経て『後有』となってからも、仏の旅路は続くという」

「白装束とは、こうした神仏と出会い、時に裁きを受ける際に"清き明き心"を見せるために必要な身支度といえる。罪を憎んで人を憎まずという言葉のとおり、白装束は本人の身の潔白を証明するために必要な衣装であった」

 また、「古来、日本人の喪服は白かった」として、著者は以下のように述べています。

「基本的に日本人は、仏教伝来以前から、いわゆる性善説に近い思想を持っていた。自己の魂本来的に汚れの無い清廉な存在と認める古代人たちは、もともとそれを白無垢の衣装で表現してきたのである。神道でも神様を祀るときや、あらたまった儀礼では白装束を身にまとう。実際『日本書紀』をはじめとする古代の文献には、喪服はほっきりと白であったという記録が残っている。それが奈良時代になると、養老2年(718)発令の養老律令において、『天皇は直系二親等以上の喪の際には、黒染めの色を着用すること』という喪葬令が定められた。これが契機となって一時的に黒の喪服がひろまり、平安後期には一般にも黒が着られるようになった時代がある。しかしその後、室町時代にまた白装束が復活する」

 ちなみに中国や韓国、ベトナムなどアジア諸国でも、古くから「喪服は白装束」が一般的です。ある一時代だけ喪服に黒の衣装を着用した貴族たちが存在しましたが、日本の歴史においては「喪服は白装束」が一貫して主流でした。したがって死者はもとより、相続人(後継者)も慎みの気持ちを表すために、近代になっても白い裃をつけたとされています。 
 それでは、一体、いつ頃から黒の喪服が定着したのでしょうか。
 これは、明治維新政府による欧化政策のひとつとして、西洋の葬祭儀礼ならってひろめられたことを契機としているとして、著者は述べます。

「長き江戸幕府の時代に終わりを告げ、鎖国が解かれる際に、国際的にも通用するさまざまな生活習慣が採り入れられたのだ。髪形、服装、食事、生活スタイル、住まい、生業など多くが変わらなければならなかった趨勢において、もちろん葬祭マナーも新たに身につけておく必要があった」

 白装束が「黒」に変わったことについて、著者は述べます。

「直接的には、明治30年(1897)皇室葬儀の際に、当時の政府は列強の国賓の目を気にして黒での統一が決定したという。その後は、皇室の喪服を黒とすると正式に規定されるに至り、庶民もそれにしたがって除々にひろまっていった。やがて第2次世界大戦によって戦死者を供養する葬儀が格段に増え、喪服の需要が増加すると、都市部の貸衣装店を中心に汚れやすい白ではなく、汚れが目立たない黒の喪服を揃えるようになったのである」

 そして黒装束について、著者は以下のように述べるのでした。

「日本人にとって元来、白装束が喪服の姿であったとはいえ、わが国には古くから『黒不浄』という言葉もあったほどで、死者の赴く黄泉の国は、根の国、すなわち地底深くの暗黒の世界と考えられてきたのである。そのため、普及には開国などの諸般の事情があったとしても、黒装束の喪服が定着することに、人々は、それほどの違和感を覚えなかったのではないだろうか。ただ近親者のみならず、弔問客までも黒装束となったのは、喪服の手入れの簡単さに加え、戦後欧米諸国の影響もあって実にこの半世記のことであり、急速な近代化によって一層拍車がかかった"新しい常識"なのである」

 「友引の日には葬儀を避ける―やはり『親しい友達をあの世に引っ張っていく』からか」では、「旧暦に隠された日本人の思想」として、著者は「物事に優れた人物や徳の高い僧を『聖』という。もともと、聖とは『日知り』と書くように天文暦数を知る人であり、日(太陽)のように世の中を知る人の意味ともいわれる」と述べています。

 また、「もとは『友引』ではなく『共引』だった」として、著者は述べます。

「友引は、勝負事で何事も引き分けになる日、つまり古くは『共引』と表記されており、元来は現在のような"友を引く"という意味はなかった。陰力と陽力が『供に引き合う』のであって、友を引くという意味ではないのである。しかしながら現代では、親しい友達をあの世に引っ張っていくから、葬式などの忌むべき行事をするには縁起が悪いとされるようになってひろまってしまった。したがって『友引に葬式をするのは縁起が悪い』というのは、まったくの迷信ということになる」

 「夜に口笛を吹いてはならない―神聖だからこそタブー視されてきた行為」では、「『魂抜き』の作法と口笛」として、「発遣(はつけん)供養」の影響が取り上げられ、著者は以下のように述べています。

「発遣とは、地上に招いた如来や菩薩などの仏尊を、また元の浄土へ送り返す作法のことである。新たに墓石や仏像を開眼し、入魂する儀式があれば、その逆の"魂抜き"も必要なのだ。その際に、花を投げたり、指を鳴らしたりする。そこから転じて、葬儀の際には導師が、土葬では鍛入れを行ない、火葬では松明を棺桶に投げて、死者に対し俗世間との縁を絶ち、浄土への往生や悟りの境地に至るよう引導を渡すことになっている。現在でも葬送で、鍬や松明の模型を用いるのはそのような意味がある」

 「夜に爪を切ってはならない―なぜ『親の死に目にあえない』といわれるのか」では、「夜に爪を切ってはならない」というタブーの理由として、以下のように述べられています。

「一説には、戦国時代の『世詰め』から来ているという話がある。夜間に城を警護する重要な役目だった世詰めは、戦乱の世にあっては、たとえ親が亡くなってもその持ち場を離れることはできなかったという。そんな事情からであろうか、『世詰め』と『夜爪』の語呂合わせから、親の死に目にあえないといわれるようになったと伝えられる。
 あるいは江戸時代のこと、仏教と並んでもっとも影響力がった儒教では、爪といえども親からの大事な授かりものだから、ろくろく照明器具もない暗闇で粗末に爪を扱うことは、親不孝な行為になると戒めていた。こんな道徳観が、現代にまで続いているとも考えられる」

 他にも、スサノオが罪のつぐないで爪を切られたという『日本書紀』の記述などが紹介されていますが、さらに「『爪には霊魂が宿る」という信仰』として、以下のように書かれています。

「古代宗教という観点からすると、爪に限らず、尖ったものや、ものの突端部分に霊魂が宿るとする考え方は世界共通といっていい。エジプトのピラミッド、インカやアステカの神殿、南太平洋の巨石信仰、アーサー王の剣伝説、日本の古墳やそこから発掘される石の刀、武士の魂とする日本刀、山頂を祀る山岳信仰など、例はいくらでもある。おそらく、神社に祀られる男根のご神体と同様、ものの突端にはもっとも生命力が凝縮されており、命のシンボルと見なしてきた歴史がある。『霊柩車を見たら親指を隠す』という習わしもこれに関係しているが、なかでも爪と髪は、生きている限り生涯伸び続ける部分であるため、ことさらに霊的な力が内在すると考えたのである」

 2章「身近な『年中行事』に秘められたミステリーとは」の「獅子舞―恐ろしい獅子頭は、何を意味しているか」では、獅子舞について、以下のように述べられています。

「獅子舞の起源は、古くは古代王国シュメールといわれるが、一説にはインドとされる。インドの地方の遊牧民や、農耕民の信仰神として崇められていたライオンを偶像化させたものが獅子舞の始まりと、一般に考えられている。やがて紀元前の5世紀頃に仏教が誕生すると、獅子信仰は大きな転換期を迎える。当時は、開祖ブッダの像をつくることが戒律から許されなかったために、初期仏教ではブッダの代わりに丸い形の大法輪や足形の仏足石、あるいは獅子形の彫像をシンボルとして祈るようになったのだ。獅子は梵語でシンハプルといい、獅子の吠え声に動物たちがひれ伏すように、ブッダの言葉にはすべての人々がひざまずくという意味で、ブッダの言葉、つまり仏教の教えを「師子吼」(ブッダなので「師子」と書く)と称したのである」

 また、「七草粥―厄災を恐れ、一年の無事を祈る大事な日だった」では、七草粥について以下のように述べられています。


「『七草粥』は今日では正月7日の朝に食する粥だが、もともと室町時代以前までは、正月15日の『上元の日』に神仏へ奉納する重要な神事であった。旧暦では1月15日を上元、7月15日を中元、10月15日を下元といい、『三元』のしきたりとして贈り物の日と定めていて、実は七草粥は、これにしたがった習俗として始まったようである」

 三元そのものは中国の道教の慣習に由来しているとして、著者は以下のように説明しています。

「道教の教えにより、日頃自分が犯したさまざまな罪を滅すために、神仏へ捧げ物をしたり、近隣の人々へ贈り物を差し出したりして、罪科の許しをいただく懺悔の日だった。中国では、火を焚き上げて祭りを行なうこともあったという。今では中元だけが贈答のしきたりとして残っているが、近世までの武家社会では、下元にも贈り物をして盛んに罪ほろぼしを行ない、これがお歳暮の習慣へとつながったという説もある。七草粥には、こうした日本人の贈答文化と同じ流れを汲む"懺悔のしきたり"が隠されているといえる」

 「節分―炒った豆と焼いた鰯が魔除けに効くとされたわけ」では、節分について以下のように述べられています。

「『春』の語源には、植物の根が大地に張るようになるから、暖かくなって天気が晴れるようになるから、あるいは田畑を墾るようになるからなど諸説ある。が、いずれにしても、死後に祖先の霊が静かに分割して殖える、いわゆる『冬(殖ゆ)』と呼ばれるその季節を終え、霊魂がこの世に生まれ変わるのが春であり、この分け目の行事こそが『節分』である」

 かつては立春、立夏、立秋、立冬の前日をそれぞれ節分と呼んでいました。しかし、著者は以下のように述べています。

「いつの頃からか、多くの日本人が営んできた農作業に季節の基準を設けるためでもあっただろうが、たとえば『丑三つ刻』が、死にゆく今日の夜と、生まれ出づる明日の朝のあいだにある異世界の接点として霊的な時刻を意味するように、死の世界から生命のよみがえりを意識させる立春前の2月3日だけを節分として重んじるようになった。このように生と死の異世界が入り交じる節分の、まさにその夜に、古来『豆まき』は行なわれた。この豆まきという風習は、一説によると遣唐使によって中国からもたらされた『追儺』の儀式が起源とされている」

 「針供養―『もったいない』という言葉に秘められた古人の恐れとは」では、「供養」がインドのサンスクリット語「プージャナー」から来た仏教語で、「感謝する」「尊敬する」「崇拝する」という意味であると説明された上で、以下のように述べられています。

「かつてモノとは『生命体』という意味で用いられていた。人のことを『人物』と呼ぶのは、その名残である。『物』という語はとても面白い言葉で、起源はインドのサンスクリット語『プラーナ』(パーリ語のパーナ)にまで遡る仏教語である。『プラーナ』とは、直接的には『呼吸』『息』の意味で、派生して『霊魂』『生命』となった。息をする源の存在が、『生命体の根源』というわけだ。『息をする』から『生きる』という言葉が生まれたこともうなずける」

 「花見―花に託された人類を貫く『死』のイメージ」では、花見について以下のように述べられています。

「ひろく庶民が花見を楽しむようになったのは、8代将軍・徳川吉宗が、飛鳥山や隅田川の土手などに、桜を植樹した江戸時代からのこと。江戸っ子たちはこぞって出かけ、花の下で歌や踊りを楽しみながら持参した弁当を食した。花見団子が始まったのもこの頃である。地方でも、春に花を摘みながら飲食する習俗は、すでに古代からあった。折口信夫によれば、春先に花を愛でて、その咲き具合から作物の豊凶を占ったという。つまり、農耕民族である日本人にとって、花見は、越年の生存に関わる重要な年中儀礼だったのだ」

 同じ花でも、「鎮花祭―美しい桜の散り際が、かくも恐れられたわけ」では、古来、仏教では、亡者に向かって祈る作法に「五供養」という習わしがあり、薫香、花、水、供物、合掌の5つですが、なかでも花供養には死者の心を鎮め、安らぎを施す神通の働きがあるとされることが紹介されます。それがために、葬儀や墓参の折に花は欠かせないとして、著者は以下のように述べます。

「鎮花祭はもともと宮中行事であり、古くは『古事記』『日本書紀』にも記されているように奈良県の大神神社や、狭井神社で行なわれていたが、今では京都の「やすらい祭り」が有名になっている。太秦の牛祭、鞍馬の火祭と並んで京都3大奇際とされている建勲神社のやすらい祭も紫野周辺に伝わる鎮花祭である。こうしたしきたりは、かの『梁塵秘抄口伝集』には、すでに久寿元年(1154)に行われていたという。これは無念のうちに非業の死を遂げた怨霊たちを御霊として祀り、祟りを鎮めるためだった」

 「七夕―キュウリの馬とナスの牛は動物の"位牌"」では、古代中国の織女と牽牛の伝説を紹介した後で、著者は以下のように述べています。


「こうした星伝説が、女性の手芸上達を祈る祭事の乞巧奠とともに、やがてわが国へ節供の行事として伝来した。なかでも人日は七草の節供、上已は桃の節供、端午はショウブの節供、重陽は菊の節供などと呼ばれ、それぞれ季節の植物と深く関わる。七タにはこうした呼び名はないが、七夕竹を立てて祀る立派な節供だ。
 平安時代には『撫子合わせ』が行われ、室町時代には七夕法楽に『花合わせ』が行なわれて『七夕立花』を生み出し、これが後に華道"いけばな"が誕生する素地となった。中国起源の七タではあるが、歴史的には盆行事の一環として、祖先の霊を祀る前夜祭として栄えた。7月7日に人家をはなれた機屋にて乙女が神を祀り、七夕送りを行なって穢れを神に託して持ち去ってもらう、という祓えの行事であり、盆に先立つ物忌みのための祓えであったという説が知られる」

 「盂蘭盆会(お盆)―語源は、仏弟子の母が地獄で逆さ吊りにされたことから」では、ブッダの十大弟子のひとりであったモッガラーナ(目連)が餓鬼道に堕ちて逆さ吊りにされていた母親を救った話を紹介した後で、著者は以下のように述べます。


「このとき救われたモッガラーナの母とともに、同じ餓鬼となって苦しんでいた亡者たちが、みな等しく救われて昇天したとある。血縁のあるなしにかかわらず、読経の呪術力は、すべての生きとし生けるものたちを救済したのだ。その際、なんと地獄の扉も少しずつ開き始め、われ先にと地獄の亡者たちが中からあふれ出た。この大勢の死者たちが歓喜する様子が、まるで両手を挙げて踊っているような姿から、盆踊りの形式が興ったとされ、今日でも盆踊りは必ず大勢で踊るしきたりとなっている」

 また、供養のために山海の百味を盛りつけた器を「お盆」と呼び、今では台所用品として食事を運ぶ道具となっているのも、ここに由来するといいます。

 「重陽の節供―古人が月の神に託した『甦り』の願い」では、9月9日の重陽の節供に関して、月の神が若返りの水(をち水)を持っているという信仰が取り上げられます。この信仰について、著者は以下のように述べています。

「おそらく月には太陽(太陽神のアマテラス)と違って、形の満ち欠けという変化があるからであろう。ひとたび欠けたはずの月が、また元のように戻って満月となることから、この現象を『月が若返る』ものと解釈し、若返りの水は月にあると考えたのだ。あるいは一説に、満月の陰影は水を汲む人の姿だと解釈する説も知られる」

 月と太陽とは「時間の流れ」を指すと考えられます。不死になりそこなった人間を神は哀れみ、少しでも若返りできるように、その時から毎年、節祭の祭日に「若水」を送ることになったのだと伝えられたのかもしれません。

 「煤払い―清めの行事は厄払いの祈祷でもあった」では、著者は「しきたり」について以下のように述べています。

「しきたりには、人間が蓄積してきた知恵という側面もある。これは筆者の実感だが、風習そのものを行なう意味が薄れてきてもなお、昔から伝承されてきたことは自分も行い、また次代へ受け継いだほうがいいように思われる。軽視された迷信の中には、実は大切なメッセージが隠されていることもある。真に恐ろしいのは、文明向上の名のもとに節度を忘れた人間の姿だといえるだろう」

 この著者の卓見には、わたしもまったく同感です。

 3章「『子どもの遊び・わらべ唄』のルーツをたどって見えた恐怖」の「指切りげんまん―もとは互いの命をかけた約束だった」では、指切りげんまんについて、著者は「世界中に広がる『指先霊魂説』」として以下のように述べています。

「指切りげんまんは、おそらく霊柩車の親指隠しや、拇印・爪印の慣習、あるいは印鑑の神聖視などと関連した、一種の『指先霊魂説』ではないだろうか。聞くところによると、すでに古代のローマでは鉄製の指輪型印鑑があり、婚約の際には左手の薬指にその印鑑をはめて愛を誓う風習があったという。今日にいうエンゲージリングである」

 また、「指先霊魂説」について、著者は以下のように述べます。

「指先霊魂説が、日本に限らず人類共通の特徴であることを裏付けるために、英語のcapという語にも注目したい。『頭』『先端』を意味するcapは、もともと『動物の頭部』という意味のラテン語caputからきている。日本語でも頭部をアタマ、というように、魂が宿ると考えられた部分を指すcapは、同じラテン語のcapitalisに、『頭の』『頭に関した』『生活の』『生命に関わる』といった霊魂の意味を持った語がある。したがって、頭部に被るものはcap(キャップ)であり、「岬」を意味するcapeも同じ語源で『突端に位置する』ことをいう。ちなみに岬はheadland (ヘッドランド)ともいう」

 さらに、著者は以下のようにまとめています。

「ものごとや事物の先端やトップに位置するもの、あるいは何らかの極まった状態をcapというが、古墳から出土する銅鉾やエジプトのピラミッドも、モノの先端という意味では同じであるから、そこには霊魂の宿る重要な役割があったと考えていいだろう。だからこそ、王は剣を単なる武器ではなく精神的象徴となし、武士も刀を魂そのものとして携えたのである」

指切りげんまんの「げんまん」とは「拳骨一万発」であり、「はりせんぼん飲ます」とは「針を一千本飲ませるという意味です。いずれも約束を履行させるためのぺナルティーというわけですが、文字どおりに「命に関わる」言葉であり、危険な契約だったのです。

 「恐ろしい風習、恐怖の物語が持つ力―あとがきにかえて」では、著者は以下のように述べています。

「古くからインドでは、屍体が遺棄される墓場のことを寒林と呼ぶが、その寒林で日々の禅定(座禅)を行なっていたブッダには、日常すべてにわたる光景の『真相』が見えていた。そうなのだ。物事の真実の姿である仏教語の真相とは『深層』を本質として出現するものなのである。実際、現世の物事が千変万化して移り変わるためのはたらきや能力のことを、サンスクリット語で『インドリヤ(indriya)』という。そしてこの現世を突き動かすインドリヤなる概念は、そのまま「根」と古くから漢訳されてきた。根、つまり物事の真相とは、大地の奥深くに広がる"根っこ"のことなのである」

 著者によれば、いくら「あなたは真実が見えていない」「この世は無常」と言われても、わたしたちが本当にそのことを実感し、物事の真実に近づこうとするのは容易なことではありません。「では、我々の先祖は、どのようにしてその語りかけを聞き入れ、物事の真相を見いだしてきたのだろうか」と問うた後で、著者は「それは多くの場合、不可解な風習や、恐ろしい物語に頼ってきたといえよう。そこには常に狂気が満ちている。そして狂気こそが言葉の論理性に支えられた"合理的な日常"を破壊する力を持っている」と述べています。

 たとえば日々繰り返されると思っていた安泰の日常が、理不尽な死の恐怖に直面することによって、突如瓦解することがあるとして、著者は述べます。

「そうした日常という論理性の瓦解した局面において、狂気が恐怖となって我々を襲うことになる。狂気に満ちた力によって崩れ去った論理性が、恐怖によって"論理的"に日常を修復するのだ。つまり、真相に暗い我々は、恐怖をまとったダークな物語によって目を開かされ、真実を知る(明らかになる)のである。この矛盾した動き―論理の跳躍―があったからこそ、人間は自己の精神と論理性のバランスを保ってきた」

 そして、非日常性が垣間見える恐怖の瞬間こそ、真相がむき出しになり、狂気に満ちた感性が物語という言葉になるときであることを先人たちは知っていたとして、著者は以下のように述べるのでした。

「ときに嫌悪され、ときに魅了される恐怖。この恐怖に敏感であるというこく自然な感性がなければ、おそらく人生の真相に迫ることなど到底かなわず、風習や物語は単なる狂気として日常の闇の彼方へ始末されてしまうことになる。つねに生のみを謳歌する楽観主義者と、死のみを恐れる悲観主義者には、恐怖の言葉を妄言と早々に片づけ、いずれも現実の真相を見ることはできないだろう」

 本書は、しきたり・タブー、年中行事、子どもの遊び、わらべ唄、昔話といった素材を使って日本人の信仰というものを明らかにし、さらには「恐怖」という最古の感情を通して人類普遍の真理にまで迫った好著です。僧侶である著者の語り口は法話のように読者を飽きさせず、知的好奇心を呼び起こします。ちょっとタイトルが扇情的なイメージですが、けっしてオカルト本ではなく、きわめて真面目な内容です。それでいて非常に面白くて一気に読めます。ぜひ、ご一読下さい。