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神武天皇はたしかに存在した』

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No.1454

 

 活発な梅雨前線が九州付近に停滞し、昨日から福岡県・大分県は記録的な大雨となっています。両県には大雨特別警報が発表されています。

 さて、九州の魅力を再発見する本を読みました。『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞取材班著(産経新聞出版)です。「神話と伝承を訪ねて」というサブタイトルがついています。「産経新聞」に連載されていた「『海道東征』をゆく」を単行本化したものです。

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    本書の帯

 


 帯には神武天皇のイラストとともに、「初代天皇のことを知っていますか。『神武東征』は日本の始まりです。」「実際に歩いてみると、記紀に盛られていない伝承、歴史が無数にあることがすぐにわかった。」「地図、写真多数掲載」「新聞連載時から大評判 待望の単行本化!」と書かれています。

 アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。

 

「『神武東征』は、カムヤマトイハレビコノミコト(後の神武天皇)が、日向(現在の宮崎県)は日本を治めるにはふさわしくないと兄らと相談、浪速の海、熊野をへて大和に入り、国造りを果たすまでの出来事です。それは、歳月にして十六年という長旅でした。この長旅があって初めて、天照大御神の孫のニニギノミコトを地上界での祖とする皇室は大和に至り、イハレビコは天皇と名乗りました。東征ルートのほぼすべての地に、その伝承は残っています。実際に歩いてみると、記紀に盛られていない伝承、歴史が無数にあることがすぐにわかりました。語り継がれるに足る見聞があったればこそ、これだけ『完全』な形で伝承となっているのではないでしょうか。神武天皇の足跡・事績をたどることで、『日本の始まりは、神武天皇と東征と即位にある』という認識が深まれば、というのが本書の狙いです」
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   本書の帯の裏

 


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

序章   日本の始まりは、神武天皇と東征と即位にある

第一章 イハレビコ誕生

第二章 大和思慕

第三章 御船出

第四章 海道回顧【上】

第五章 海道回顧【下】

第六章 浪速の海

第七章 紀和の道

第八章 大和平定

第九章 立后と崩御

第十章 多(当)芸志美美命の変

第十一章 歌の力・託される思い

第十二章 偉業を支えた脇役たち 交響曲「海道東征」歌詞

 
 序章「日本の始まりは、神武天皇と東征と即位にある」の冒頭、平成28年の4月3日、奈良県橿原市の神武天皇陵で100年に1度という儀式が行われたことが紹介されています。神武天皇2600年式年祭の山陵の儀です。

 この重要な儀式について、産経新聞編集委員の安本寿久氏は以下のように書いています。

 

「2600年式年祭とは、初代神武天皇が亡くなって文字通り、神になって2600年が経ったことを祝い、その事績に感謝する儀式である。古事記や日本書紀によれば、天皇が即位したのは亡くなる76年前だから、天皇から始まる日本の歴史が始まって2676年。それが平成28年ということだ」

 

 安本氏は、「日向から大和、十六年の長旅の足跡が各地に」として以下のように述べます。

 

「この『日本の始まり』に至るまでの天皇の足跡は、記紀に書かれている。古事記では中巻の冒頭の『神武天皇』の章。角川ソフィア文庫版の『新版古事記』では13ページの分量である。4人兄弟の末子に生まれた天皇、当時はカムヤマトイハレビコノミコトが、日向・高千穂宮は日本を治めるにはふさわしくないと兄らと相談し、東征の旅に出て大和・白檮原宮(橿原宮)に着くまでの出来事がそこに収まっている。歳月にして16年という長旅だった。

 この長旅があって初めて、天照大御神の孫のニニギノミコトを地上界での祖とする皇室は大和に至り、天皇と名乗って『天の下治らしめしき』ことができたのである。東征は、皇室制度のある現代日本を生んだ偉業、そう言っても過言ではない」
  
また、安本氏は以下のように述べています。

 

「実際に歩いてみると、記紀に盛られていない伝承、歴史が無数にあることがすぐにわかった。例えば天皇の誕生地である。宮崎県高原町の皇子原、同県高千穂町の四皇子峰、宮崎市の佐野原と、少なくとも3ヵ所はある。神武天皇の伝承地については、天皇の即位を紀元とする皇紀2600年、つまり昭和15年に国の音頭取りで大々的な調査が行われている。この誕生地決定には宮崎県の祝典奉賛委員会も迷ったらしく、3ヵ所とも『聖蹟伝承地』に指定している」

さらに、安本氏は以下のように述べています。

 

「結局、取材班は高原町の皇子原を取材対象に選んだ。近くに狭野神社があり、神武天皇が幼いころ、狭野尊と名乗っていたからである。狭野とは文字通り、狭い土地のことである。神武天皇の東征は、天照大御神から託された稲穂の普及を日的としたものだったから、その誕生地も稲作をしていたはずだ。稲作をする者の目で見れば、霧島連峰のふもとで火山灰が多い土地柄にわずかにあった水田適地はさぞかし、『狭い野』と映ったことだろう。それやこれやを考えての判断だった」

「初代天皇の伝承は現代も息づいている」として、安本氏は以下のように述べています。

 

「神武天皇は存在しなかった―そんな見方も根強くある。  

 亀に乗って水先案内するサオネツヒコ、八咫烏、武神タケミカヅチノカミが高天原から与えた太刀など、東征には神話のような人や文物が数多く登場することも、存在否定の理由だ。また、子の2代綏靖天皇から9代開化天皇まで、古事記の記述が系譜についてだけにとどまり、具体的な事績を全く書いていないことから「欠史八代」と呼ばれ、実在を疑われていることも、神武天皇不在説の一因になっている。さらには、神武天皇には存在を裏付ける発掘結果がない。このことも考古学者を中心に、存在に疑問を持たせる理由になっている」

 続けて、安本氏は以下のように述べています。

 

「しかし、である。伝承は東征ルートの、ほぼすべての地に残っている。そして、その多くは説話であったり、祭りであったりの形で、現代も息づいているのである。語り継がれるに足る見聞があったればこそ、これだけ『完全』な形で伝承となっているのではないか。伝承は歴とした文化財である。それも生きた文化財であろう。これが1年間の取材の旅で取材班が得た認識・知識である」


 安本氏は『古事記』に言及し、「神と人のつなぎ目の最初に登場する天皇」として、以下のように述べます。

 

「古事記は、上巻、中巻、下巻の3巻から成っている。上巻は天地創成からイザナキ、イザナミの国生み、神生み、イザナキの三貴子の誕生、天照大御神と須佐之男命の葛藤、須佐之男命のヤマタノオロチ退治、大国主命の国造りと国譲り、ニニギノミコトに始まる日向三代までを書く。いわゆる神話は、この上巻に収められた話である」
  
 続けて、安本氏は以下のように述べています。

 

「中巻が書くのは初代神武天皇から15代応神天皇までの治世、下巻が扱うのは16代仁徳天皇から33代推古天皇までの世である。このため上巻は神話、中巻は神代から人代をつなぐ物語で、下巻から歴史書の性格が前面に出るといわれる。つまり、神武天皇は、神と人とのつなぎ目の最初に登場する天皇であり、その記述に多少神がかった話が入っていてもそれほど不思議ではないのだ」


 第一章「イハレビコ誕生」では、神武天皇が大和に向かうまで45年間を過ごした日向伝承の数々が取り上げられます。1「文明伝播 国を豊かにする旅」の冒頭には以下のように書かれています。

 

「宮崎市の高台、平和台公園に『平和の塔』が建っている。神事で用いる御幣の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。昭和15年、皇紀2600年を記念して建てられ、10銭紙幣に描かれるほど親しまれた。

 戦前は名称も異なった。『八紘之基柱』。カムヤマトイハレビコノミコト、後の初代神武天皇が日向から東征し、大和に橿原宮を造営した際の言葉が基になっている。

 『六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇と為さむこと、亦可からずや』 日本書紀にそうある。四方の国々を統合して都を開き、天下を覆ってわが家とすることははなはだ、良いことではないか、という国造り宣言である」
  
 2「生まれながら聡明、意志固く」では、以下のように書かれています。

 

「高原町内には、イハレビコの幼少期の足跡も数多く残る。皇子原公園内の皇子原神社に祭られる石『産場石』は、イハレビコが産湯をつかった場所とされる。湯之元川の『血捨之木』は出産したタマヨリビメが諸物を洗い清めた場所と伝わる。皇子原神社石段横には、イハレビコが腰掛けた『御腰掛石』が碑と共に残っている。

 こうした伝承地は平成26年の建国記念の日、にぎわいを取り戻した。

 古事記編纂1300年を機に神話に注目が集まり、同町観光協会主催の『第1回日本発 祥地まつり』が開催されたためだ」

 本書には多くのコラムも掲載されていますが興味深い内容のものばかりです。その中の「聖蹟伝承地」というコラムには、こう書かれています。

 

「神武天皇の伝承地を示す碑の多くは昭和15年の皇紀2600年までに建てられた。宮崎県では2012年、結成された祝典賛委員会が各地の伝承地を調査、14ヵ所を聖蹟伝承地と定めた」
  
 また、「日向シャンシャン馬」というコラムに、こう書かれています。

 

「宮崎県内で大正の初めごろまで行われていた結婚風習。イハレビコが龍石を放った故事が起源とされる。立石は日本最古の牧場といわれる。花婿が、美しく飾った馬に花嫁を乗せ、手綱を取って日南海岸沿いの七浦七峠を越え、鵜戸神宮や駒宮神社へ参拝した。道中、馬につけた鈴がシャンシャンと鳴り続けたことから、この名がついた。当時、同神社の例祭には、近郷近在から着飾った農耕馬が集まり、にぎわった。現在、民謡『シャンシャン馬道中唄』の大会が行われ、名残をとどめている」

 第二章「大和思慕」では、国造りの思いを胸に遠く大和を目指して、神武天皇の船旅が始まったことが紹介されます。1「地名が語り継ぐ『皇居』の存在」では、以下のように書かれています。

 

「古事記の記述によると、皇宮屋でイワレビコは30年間、政を行った。その内容を伝えるものは残っていないが、皇居があったことを端的に示すのは、『宮崎』という地名である。  

 『宮の崎とは、宮殿の前とか宮の前とかを示す名前で、平安時代の古文書には「宮崎の郡」という表現が頻繁に出てくる。古代にはすでに、重要拠点としての認識があった土地だったことは間違いありません』 宮崎県立看護大の大館真晴准教授はそう話す」
  
 4「出港の地に選んだ『造船の里』」の冒頭には、こう書かれています。

 

 「〈美々津千軒〉 大正12年に国鉄日豊線が開通して衰退するまで、そう呼ばれ、京風の町家が軒を連ねて栄えた美々津港(宮崎県日向市)。高千穂宮をたったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が船出したとされる港はここである。 『神武天皇が船出された港として御津と呼び、それが美々津と転訛した。地元ではそう伝え、お船出の物語を語り継いでいます』

 美々津で生まれ育った郷土史家、黒木和政氏はそう話す」
  
 第三章「御船出」では、神武天皇が住民の窮状を聞き、稲作を広めながら道々で協力者を得ていくさまが紹介されます。5「謎の一年・・・稲作で豪族が恭順」の冒頭では、以下のように書かれています。

 

「〈其地より遷移りて、竺紫の岡田宮に1年座す〉

 其地とは豊国の宇沙のこと。古事記は、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が豊国(大分)を出た後、筑紫(福岡)に入って岡田宮で1年間、滞在した、と記している」


 続けて、岡田宮について、「古事記が記す岡田宮は、古代の高地方(遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祭っていた社である。現在の住所地にすれば北九州市八幡西区。当時の社は現在より広大で、イハレビコの御宮居跡は住宅地になっているが、元宮の一宮神社にはイワレビコが祭祀を行った祭場跡『磐境』が残っている」と書かれています。

 北九州の八幡西区にある岡田宮が神武天皇とこれほど深い関係があるとは知りませんでした。今度ぜひ、岡田宮を訪れて参拝したいと思います。

 第十一章「歌の力・託される思い」では、戦意高揚あり、勝利の宴会歌あり、求婚の歌あり・・・・・・神武天皇にまつわるさまざまな歌が紹介されています。

 1「勝利を祝う兵士の宴会歌」の冒頭には「カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の東征の最終盤、畿内での戦いの日々を彩るもの。それは歌謡である。古事記では、当芸志美々命の変を知らせた皇后・伊須気余理比売の歌謡まで含めると、13首が記されている」と書かれています。
  
 3「集団を1つにまとめる高揚感」では、『古事記』に登場する「久米歌」が取り上げられます。そして、同志社大学の駒木敏名誉教授の「歌の機能1つは集団をまとめること、団結心を養うことですが、この戦闘歌謡は高揚感もあって紐帯としての役割をよく果たしています」という言葉を紹介し、「歌謡は、集団統御のために欠かせない手段だったのである。一方で、歌詞に盛り込まれた食物の数々、粟に韮、山椒や細螺は、久米氏のもう1つの役割を示している。歴代天皇の軍旅を料理で支えたことだ」と書かれています。

 5「天皇の求婚 和やかに伝える」の冒頭には、「戦闘の合図歌や闘志をかきたてる戦闘歌謡。古事記の神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)の章では武張った歌が多いが、大和を平定して皇后となるべき媛女を探す『伊須気余理比売の立后』の条では一転して、和やかな雰囲気が漂う歌が並ぶ」と書かれています。


  
 また、「天皇の呼称の登場」というコラムには、こう書かれています。

 

「古事記では、『伊須気余理比売の立后』の条で初めて、『天皇』という呼称がイワレビコに使われる。この条の直前、『久米歌』の条の最後には〈畝火の白檮原宮に坐して、天の下治らしめしき〉と書かれ、イハレビコが即位し、天皇と呼ばれるようになったことがわかる。

 『天皇』の初出はイハレビコの曽祖父、ニニギノミコトがイワナガヒメを親元に帰し、コノハナノサクヤヒメと結婚した時。〈天皇命等の御命長くあらざるなり〉と、寿命が有限になったことを記す場面で用いられている」
  
 本書の最後には、「海道東征」の歌詞が全文紹介されています。

 この歌は、北原白秋詩、信時潔曲による交声曲(カンタータ)です。

 1940年に皇紀2600年を祝賀する皇紀2600年奉祝曲として作られました。白秋晩年の大作であり、信時の代表作です。産経新聞社はこの「海道東征」のコンサートを各地で開催しました。大阪市北区のザ・シンフォニーホールのコンサートでは、大阪フィルハーモニー交響楽団の勇壮な管弦楽と華麗な声楽の響きが多くの聴衆を魅了しました。2000人は入れるホールが即日完売で追加公演が行われる人気だったそうです。

 わたしも、この歌を聴くと、神武天皇の御代に想いを馳せてしまいます。

 そして、これから紫雲閣を建設する予定地を考える際に神武東征のルートが非常に参考になるということに気づきました。神話は生きています!