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怪異を魅せる』

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No.1451

 

  『怪異を魅せる』一柳廣孝監修・飯倉義之編著(青弓社)を読みました。

 シリーズ三部作「時空の怪異」の第二弾ですが、このシリーズは、幽霊、妖怪、心霊現象などの時代や場所を超えて人々を惑わし、恐怖を与え、崇められ、ときには消費・快楽の対象にもなる「現実にはありえない現象」を「怪異」と定めて、怪異から時代や地域特有の文化的感性を照らし出すという企画です。一見サブカルチャーの本を思わせる装丁ですが、じつはアカデミックな論文集となっています。

 古びた観覧車を下から見上げている写真が使われている表紙カバーには、以下のように書かれています。

 

「新聞や雑誌、小説、落語、童話、ライトノベル、ゲーム・・・・・・怪異は時代・社会の変化とともに、どのように書き留められ、表現され、創作されてきたのか。円朝の怪談噺、劇場空間と怪異、超常能力表象、怪談実話、『刀剣乱舞』などから、怪異を魅せる/怪異に魅せられる心性を問う」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「はじめに」一柳廣孝

第1章 怪異を書く:峰守ひろかずインタビュー (聞き手:飯倉義之/一柳廣孝)

第1部 怪異を物語る ―怪異を伝えるために試みられたこと

第2章 挿絵が語る怪談噺 ―『真景累ヶ淵』と『怪談乳房榎』の場合(横山泰子)

第3章 豆男物の浮世草子 ―浅草や業平伝説との関係など(佐伯孝弘)

第4章 劇場空間と怪異 ―泉鏡花「陽炎座」が描く観劇体験(鈴木彩)

第5章 超常能力と大正期探偵小説(浜田雄介)

第2部 怪異で物語る―怪異を通じて語りうること

第6章 子どもと怪異 ―松谷みよ子『死の国からのバトン』(三浦正雄/馬見塚昭久)

第7章 船幽霊の声/幽霊船の沈黙 ―〈海異〉の近代文学史(乾英治郎)

第8章 往生際の悪い死体―執着譚と蘇生譚の境界(近藤端木)

第9章 枕のなかの世界 ―『唐代伝奇』「枕中記」の日本受容(笹生美貴子)

第3部 怪異は物語る―怪異に読者が期待すること

第10章 インディアン・ロープ・マジック幻想 ―幸田露伴から手塚治虫まで(橋本順光)

第11章 「情報化」される〈怪異〉 ―『刀剣乱舞』からみる現代版「付喪神」の表象(上島真弓子)

第12章 怪談の文法を求めて ―怪談実話/実話怪談の民話的構造の分析(飯倉義之)

「おわりに―シリーズとしては『つなぎに』」飯倉義之

 「はじめに」の冒頭を、横浜国立大学教育人間科学部教授(日本近代文学・日本近代文化史)の一柳廣孝氏は以下のように書きだしています。

 

「怪異は、どのようにして『怪異』と認知されるのだろうか。怪異とは、違和の表出である。違和感は、視覚や聴覚、触覚といった体験者の感覚を経由して認識される。したがって、基本的に怪異を共有することはできない」

 また一柳氏は、「怪異」について以下のように述べます。

 

「私たちが怪異を共有理解として認知できるのは、怪異に意味を提供する枠組みが存在し、その枠組みを経由する形で加工されているからだ。現代の実話怪談では、怪異に特定の解釈が与えられないという。因果応報の説明原理が通用しないとされる。しかし私たちは、全くもって意味不明な現象にリアリティーを感じない。実話怪談が怖いのは、そこに『リアル』があるからだ。『実話』という事実性を担保した怪談であってさえ、そこで語られる『事実』は、現代を生きる私たちがリアリティーを感じるような枠組みにのっとって再構成されている。言い換えれば、現代社会では『因果応報』という枠組みに、リアリティーを感じなくなったということになる」

 

 さらに一柳氏は、怪異のリアリティーを構築していくシステムについて、以下のように述べています。

 

「より多くの人々を巻き込んで怪異のリアリティーを構築していくシステムは、かつては王権が担っていた。高谷知佳『「怪異」の政治社会学―室町人の思考をさぐる』(〔講談社選書メチエ〕、講談社、2016年)によれば、世が乱れて社会が不安に陥ると、寺社は「神仏の怒りや怨霊の祟り」に基づいて何らかの現象が継起した、つまり怪異が発生したと政権に注進する。時の政権はそれを事実と認め、寺社に国家鎮守や天皇・将軍の身体護持の儀式をおこなわせる。こうして政権も寺社も、有形無形の政治的・経済的な利益を得る」

 近世以降、王権の力が薄れたとき、代わりにその力を振るったのはメディアでした。一柳氏は、以下のように述べています。

 

「安定した社会状況下にあって、怪異は切実な政治的要請を伴わなくなる。代わりに人々が享受したのは、エンターテインメントしての怪異だった。物語はいうに及ばず、歌舞伎や浄瑠璃といった演劇や講談、落語、または百物語といったイベントとしても怪異が取り上げられ、人口に膾炙していった。また、怪異は物語としてだけではなく、絵画表現としても受容された。こうした傾向は、明治以降も継続する。新聞メディアは各地で生起する怪異を報道し、ときには長期にわたって怪談を連載した。そこにはしばしば、趣向を凝らした挿絵が付された。その流行は文壇にも及んでいる」

 続けて一柳氏は、以下のように述べるのでした。

 

「近世にあって、劇場は怪異が集約される場の1つになる。単純に、そこで怪談が演じられたからだけではない。役者や裏方、プロデューサーにとどまらず、怪談を求めて集う観客たちの様々な欲望が蓄積され、それらが形をなして劇場に顕現するからである。現代の新たな『劇場』たるテレビ局やラジオ局にも、多くの怪談が渦巻いている。そもそもメディアと怪異は、相性が良いのだ」

 第2部「怪異で物語る―怪異を通じて語りうること」の第7章「船幽霊の声/幽霊船の沈黙―〈海異〉の近代文学史」では、立教大学ほか兼任講師(日本近代文学)の乾英治郎氏が海の怪異としての「海異」について、「はじめに」で以下のように述べています。

 

「―2011年3月11日に発生した東日本大震災の際、岩手県大船渡市に住む男性が津波で流され、海を漂っているところを『多賀丸』という船名の小型船に助けられた。無数の瓦礫が漂う海域に、危険を顧みず船を乗り入れて男性を救助した船長は、名前や住所を決して名乗らず、男性に励ましの言葉をかけると、別の漁船に彼を送り届けた。奇跡の生還を遂げた男性は、『船長の恩は一生忘れない。落ち着いたら捜して、もう1度御礼を言いたい』と話しているという―。これは同年3月27日付の『毎日新聞』に掲載された『東日本大震災 たんすに乗って漂流し助かる大船渡の男性』という記事のあらましである」

 続けて、乾氏は以下のように述べています。

 

「非常時での勇気と善意ある行動が胸に迫る美談なのだが、この記事が出てから間もなく、ネット上に不思議な噂が流れた。『多賀丸』は実は幽霊船だったのではないか、というのである。船名が判明しているにもかかわらず、船長の身元が不明だったこと(少なくとも、身元に関する続報がなかったこと)に加え、1744年(延享元年)に下北半島沖で遭難した船の名前が『多賀丸』だったことや(なお、生存した船員はロシア人に救助され、生涯をロシアで過ごした)、太平洋戦争末期にアメリカの潜水艦に撃沈された貨物船のなかに同名の船が2隻あったことが、こうした怪談の根拠となっていると思しい。現代の大船渡湾に現れた小型船『多賀丸』を、江戸期の帆船や、那覇や北朝鮮の近海で沈没した大型汽船の幽霊船と見なすには若干の無理を感じないでもないが、事実がどうであれ、震災下の美談は一種のジェントル・ゴースト・ストーリーとして、人々に記憶されていくことだろう」

 

 乾氏は、「近代の〈海異〉―明治期を中心に」で、日本における船幽霊や幽霊船のエピソードを紹介した後、「西洋にも大航海時代以降はこの種の怪異譚が多い」として、以下のように述べています。

 

「大風を罵ったオランダ人の船長が、幽霊船に乗って永遠の航海を続ける罰を受けているというフライング・ダッチマンの伝説や、アホウドリを殺した罪で、幽霊船で南極近くまで漂流する罰を受けることになった船員たちの苦悩と救済を描いたS・T・コールリッジの長篇詩『老水夫行』(1798年)は特に有名である。西洋種の幽霊船には、自然(=神の意志の表れ)を冒瀆した者に対する罪や罰といったイメージがつきまとい、それを近代日本の文学者も少なからず共有していたように思われる。また、幽霊船のイメージが和船から西洋式の大型船に移行することによって、遭遇する恐怖よりも、それに乗せられてしまうことの恐怖が描かれるようになるのも、明治以降の文学での船幽霊/幽霊船譚の特徴である」

 

 「関東大震災と〈海異〉」では、乾氏は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に言及し、以下のように述べています。

 

「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の起筆の時期は1924年ごろだとされる。銀河鉄道の乗客のなかに、タイタニック号と思しき巨大船舶の海難事故で亡くなった日本人の青年と幼い姉妹がいる(この作品は何度も推敲が繰り返されているが、海難事故のくだりは初稿から存在する)。主人公であるジョバンニと旅をする彼の親友・カムパネルラもまた、学友を救うために川で溺死している(これは、改稿によって付け加えられた設定だという)。彼らは、非常時に生き延びる道を選ばなかった人物として描かれ、そのために救いの道が示唆される。その意味では、『生き残つた男』『幽霊船』『幽霊船』が、生き残った側の苦悩を描いているのとは対照的である。カムパネルラたちを船幽霊と同一視することはためらわれるが、無数の死者の魂を乗せて走る銀河鉄道は、〈幽霊船〉イメージの1つの発展形と見なせなくもない」

 

 第8章「往生際の悪い死体―執着譚と蘇生譚の境界」では、首都大学東京人文科学研究科准教授(日本近世文学)の近藤端木氏が蘇生譚に言及し、「実録的『蘇り譚』」として以下のように述べています。

 

「近世の随筆類には『息絶えた』はずの者が蘇生した実録的記事が少なからず見いだされる。例えば、根岸鎮衛の『耳嚢』巻5『蘇生の人の事』には、こんな話が見える。寛政6年(1794年)のころ、芝あたりの日雇い生活の男が頓死。埋葬されたが、『一両日立て塚の内にてうなる声しけるが次第に高く成りし故、寺僧も驚きて「堀うがち見ん」迚、施主へ申遣はし為掘けるが、活てあるに違ひなければ寺社奉行えも寺より訴へ、其節の町奉行小田切土佐守方へ町方より右蘇生人引取候よし相届』、本人は徐々に体調が戻ったので、事情を聞いたところ、京大坂を旅した夢を見ていたことなどを語ったという。本話の末尾は、『夢の中に冥官も獄卒も出てこないところが正直者だと、(この話の語り手と、聞き手の根岸鎮衛は)感笑した』と締めくくられる」

 

 また、「是よみがへるにはあらざる事」として、近藤氏は死体が動きだしても「蘇り」とは見なされないケースを取り上げ、仏教的解釈を紹介します。

 

「仏教説話系の奇談書として知られる『因果物語』(鈴木正三、1661年〔寬文元年〕刊)の下巻21話『慳貪者、生ナガラ餓鬼ノ報ヲ受事 付種々ノ苦ヲ受事』では、死体が動く奇談が、『蘇り』ならぬ『往生』の失敗談として語られている。越前敦賀の富裕だが貪欲な者が、寛永20年6月末に難病を得る。金銀を積んで治療延命を願うが、ついに悶死する。その後『又活返、匍回リケルヲ。敲ケドモ死セズ。為方無、終、切殺ス也』。この事件は、死者の復活として祝福されるケースではなく、己が生に執着した、醜く、文字どおり『往生際の悪い』例なのであり、富人は結局斬り殺されてしまう」

 

 仏教の文脈では、これは「殺人」ではなく、「臨終行儀」の1つのありようであるといいます。いわば、成仏のための荒療治ということになるでしょう。

 では、「臨終行儀」とは何でしょうか。「臨終行儀書の姿勢」として、著者は以下のように述べています。

 

「近世には、医師は患者の生死にはあずからないという考え方があり、今日のいわゆるターミナルケアは、医療よりも宗教の領分だった。前節に述べた『臨終行儀』とは仏教の用語で、死を迎える際の作法をいうが、これをマニュアル化した臨終行儀書には、死を迎える者、看取る者の心構えや注意事項が記される。臨終行儀書の編集が盛んになるのは中世以降だが、野田隆生によれば、『江戸時代になると、17世紀半ばから善導の臨終「臨終正念訣」の注釈や、中世の臨終行儀書校訂編集・出版が行われるようになり、さらにそれらをふまえて新たな臨終行儀書が出版されていった』。臨終行儀書では、(宗派によるニュアンスの違いはあるが)臨終にあたって積極的に『死』を受け入れるための心構えが説かれる」

 「おわりに」では、近藤氏は以下のように述べています。

 

「人の『生死』は生物学的なそれとは必ずしも一致せず、常に他者の判断に委ねられ、当人はたいていの場合その判断から疎外されている。しかもその判断には揺れがある。法的・医学的に『死』が管理されている現代とは異なり、江戸時代には『揺れ』は今日以上に大きく、それに伴うトラブルも少なくなかったかもしれない。が、いわゆる脳死問題などを考えてみれば『揺れ』は今日なお存在するし、問題の本質は変わっていないのではないだろうか」
  
 第3部「怪異は物語る―怪異に読者が期待すること」の第10章 インディアン・ロープ・マジック幻想―幸田露伴から手塚治虫まで」では、大阪大学文学研究科准教授(日英比較文学、オリエンタリズム)の橋本順光氏が、手塚治虫の『ブッダ』に登場するバラモンの魔術に言及します。それは、天に昇りゆくロープを伝って少年が空中で消えるというものでした。橋本氏は、この魔術について以下のように述べています。

 

「インド最大の魔術ともいわれたインデイアン・ロープ・マジックを原型としている。魔術師とその弟子がしばしば屋外でおこない、昇っていった少年は、見えなくなったと思いきや、ばらばらに切り刻まれて手足が落ちてくる。見物人は騒然とするが、動じることなく魔術師は元通りに少年を再生させ、拍手喝采の大団円となるのである」


 続けて橋本氏は、インデイアン・ロープ・マジックについて述べます。

 

「このマジックについては、14世紀にイブン・バットゥータが中国で奇術師がおこなっていたと旅行記で記している。欧米では、東洋の神秘を伝えるとして19世紀このかた、謎の魔術として知られていた。この目で見たという証言が出てきては、間接的な伝聞にすぎないことが判明し、そもそも実現不可能と反論されるなど、その虚実をめぐっては長く議論が絶えなかったのである。日本でも奇術師によってその一端が伝えられ、幸田露伴が一文を草するなど、散発的に言及や紹介が続いた。転換をもたらしたのは、1960年代の奇術やオカルトの流行である。以降、漫画や小説での登場が本格的となり、インドといえば、謎めいたバラモンによるロープ・マジックという定型まで生まれたのである」

 

 このマジックの由来について、橋本氏は「インデイアン・ロープ・マジックの発見と幻滅」として、以下のように述べています。

 

「きっかけはマルコ・ポーロのいわゆる『東方見聞録』だった。イギリスの東洋学者へンリー・ユールが、英訳『マルコ・ポーロの書』(1871年)を刊行し、その浩瀚な注釈で関連する中国の驚異譚として紹介したのである。14世紀のイブン・バットゥータが中国で見た魔術を説明し、それが17世紀イギリスのエドワード・メルトンがバタヴィア(現在のジャカルタ)で見た大道芸と一致すると指摘した。その際にユールは、メルトンの書から複写した挿絵を掲載している。それを見れば、天上に伸びた綱を少年がよじ登り、ばらばらになって落ちてきた後で蘇るという定型が当時既に完成していたことがわかる。ユールの指摘から9年後には、全く同じ話が中国にあることが報告された。イギリスの中国学者であるハーバート・ジャイルズが『聊斎志異』(1740年)を英訳し、その際に『偸桃』という怪異談はユールが紹介するインディアン・ロープ・マジックそのものと注記したのである。著者の蒲松齢によれば子どものころに見た大道芸だという」

 

 多くの人々は、インディアン・ロープ・マジックをトリックのない超常現象であると信じました。そして、「心霊主義」としてのスピリチュアリズムとも結びつけられたのです。橋本氏は以下のように述べています。

 

「スピリチュアリズムが隆盛し、マハトマやグルといったインドの行者が神秘的な存在として注目されたことも、インドなら不可能な奇術もありうるのではないかという期待を引き起こしていた。そうした風潮を牽引したのが、ブラヴァツキー夫人が中心となり、1875年に創設した神智学協会である。霊媒師だった彼女は、インドやチベットの導師から世界の秘密が記された手紙を受け取ったとして、東洋学の成果を巧みに切り貼りしながら、東洋の叡智への関心を高めることに成功した。大著『ヴェールを脱いだイシス』(1877年)では、ユールの指摘に依拠しながら、アラビアとイギリスとで記録されたロープ・マジックこそ秘教的な叡智の一端と記している」

 

 続けて橋本氏は、ブラヴァツキー夫人について述べます。

 

「さらに彼女は、1890年9月号の『ルシファー』誌上で、すべて催眠術にすぎないのではという『シカゴ・トリビューン』紙の記事に言及した質問を受けるも、マハトマの力はもっと偉大だと反論している。一方、岡倉覚三にも影響を与えたインドの思想家ヴィヴェーカナンダは、そんなふうに神秘的なグルとして誤解されることに辟易していた。アメリカ講演旅行の際、94年1月15日付の『メンフィス・コマーシャル』紙で、インド思想がロープ・マジックのようなものと一緒にされてしまうことにうんざりした様子で不快感を表明したのである。関連していえば、先の奇術師のマスケリンは、ロープ・マジックとともにブラヴァツキーの交霊会や神智学について批判する書物を1912年に刊行している。裏を返せば、インドの神秘を過大視する風潮が、それだけロープ・マジック幻想の母胎となったことを示しているだろう」

 

 そして最後に、橋本氏は「20世紀最大の宗教学者」と呼ばれたミルチア・エリアーデの名を挙げ、以下のように述べるのでした。

 

「エリアーデは、インド留学の成果を原型とした『ヨガ』(1969年)でヨガの再評価を決定的なものにしたが、19世紀末の捏造事件を知らなかったためでもあるだろう、ヴィヴェーカナンダとは異なり、ロープ・マジックをインド思想とは無縁の怪しげな大道芸と一蹴することはなかった。天界への上昇、そして死と再生という構造を持つロープ・マジックは、シャーマニズムと共通することに注意を喚起したのである。そのため、悟りを開いたブッダが空中に昇って身体を解体し、再びばらばらの肢体を結び合わせて生き返るという奇蹟が伝わっているのだと、エリアーデは強調する」

 第12章「怪談の文法を求めて―怪談実話/実話怪談の民話的構造の分析」では、國學院大学文学部准教授(現代民俗論、都市民俗論)の飯倉義之氏が、「怪談実話/実話怪談とは『何か』」として述べています。

 

「人は怖さを求めている。怪談は娯楽である。怖さをエンターテインメントとする物語のジャンルは常に存在した。近世には、落語の怪談噺や歌舞伎の怪談芝居が庶民を魅了した。近現代には怪談芝居の系譜を引いた怪談映画や落語・講談の怪談の速記、その後継としてのラジはやテレビでの怪談ドラマと雑誌や新書・文庫の怪談読み物が人気を博してきた。怪談は、恐怖を喚起する娯楽の一領域として近世以前から親しまれていた」

 続けて、飯倉氏は現代につながる怪談文芸について述べています。

 

「そうした怪談文化の系譜とは一線を画した新時代の怪談文芸が、時代の画期ともなった1989年ごろから社会に発信されるようになり、現在では1ジャンルを形成するに至っている。そのジャンルとは怪談実話、もしくは実話怪談と呼び習わされる領域である。従来のいわゆる『怪談』や『心霊写真』『心霊本』の退潮とは裏腹に、2016年現在、怪談実話/実話怪談は月に数冊ずつの文庫本が刊行され、かきいれどきの夏には類似書も含めて集中的に十数冊が刊行されているのである」

 

 また、「怪談の『実話らしさ』とは何か」として、考えてみれば、怪談は「実話」を名乗ることによって恐ろしさを担保してきたはずだと指摘し、飯倉氏は以下のように述べています。

 

「歌舞伎『東海道四谷怪談』(四世鶴屋南北、1825年〔文政8年〕初演)などに代表される古典怪談の枠組みは『因果応報』であった。暴虐のかぎりを尽くして命を奪うという悪因果を、怨霊に応報されて責め苛まれるという図式である。1970年代のオカルトブームは、この魂観を一変した。構成作家の新倉イワオや作家の中岡俊哉やマンガ家のつのだじろうらがリードした『心霊科学』の言説は、霊魂は『波長』が合う者と偶然的に同調する存在だと解説した。この『恨みがなくとも偶然に生者に悪影響を及ぼす霊魂』を心霊科学の論客は『浮遊霊』や『地縛霊』と呼んだ。こうした概念が商業メディアで広まり、オカルト界隈の常識となった。以後はそうした『心霊科学』の言説に沿って、『心霊科学や霊能者を名乗る専門家による、怪異現象の報告とその現象の原因の説明(+鎮魂の儀式の上演)』をひとまとまりとする心霊報告の文体が成立した。こうした心霊科学の文体は、宜保愛子や織田無道、下ヨシ子といった有名人霊能者によっても世の中に広められた」

 さらに、「怪談実話を『文法』で読み解く」として、飯倉氏は怪談実話の本質について以下のように述べています。

 

「怪談実話は、現在の私たちが社会や日常生活に潜在的に抱えている不安や恐怖を可視化した物語といえるはずだ。怪談実話が反映する、現代日本を生きる私たちの抱える恐怖は、孤立した環境で、見知らぬ他人から理不尽な攻撃をいつ受けるかわからないという不安、『理不尽な因果』にからめ取られる恐怖だといえる。こうした不安や恐怖を漠然と、しかし強く感じながら、不安や恐怖の対象を絞りきれずにいた多くの人々にとって、怪談実話はその不安や恐怖を十分に代言してくれる『民話』として、また不安や恐怖を可視化して和らげてくれる『癒し』として、機能したのではないか。そうした感情こそが怪談実話の流行の根底にあるのだと思われる。怪談実話はおそらく、現代の『眼前の事実』である。怪談実話は、我々の社会が抱える不安に『物語』という器を与えたからこそ、多くの人々に注目され、期待されるものとなったのだろうと思うのである」

 そして、「おわりに―シリーズとしては『つなぎに』」で、飯倉氏は以下のように「怪異」について述べるのでした。

 

「現代の私たちは日常では、怪異としてまなざされるような超自然的な事象は、科学的な知見に照らし合わせて起こりえないという前提を共有して社会生活を送っている。ならば、超自然的な事象である怪異は、常識と良識がある大人には見向きもされない領域であるはずだ。しかし現代日本で怪異は、日常の建前では『ありえない』と抑圧され無視される事象でありながら、『でも、もしかしたら』という期待と不安とともに、私たちが日常で感じる不合理や、痛みや怒りといった本音を暴露し抵抗する役割を期待されている。そうしてその期待は、怪異の非―存在を前提とすることによって力を増すのである。近代日本での怪異は、存在しないという近代合理主義を前提としているからこそ、日常を揺さぶる力を有しているのである。科学的にも公的にも認められない、証拠もないし根も葉もない、そんなフィクションである怪異が人の心を動かし、娯楽としてたくさんのお金も動かしている。この状況そのものが怪異的ではないだろうか」