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怪奇事件はなぜ起こるのか』

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 No.1448

 

 『怪奇事件はなぜ起こるのか』小池壮彦著(洋泉社)を読みました。

 「『生き人形』から『天皇晴れ』まで」というサブタイトルがついています。

 「不思議ナックルズ」(ミリオン出版)Vol.3~Vol.14(2005・4・20~2008・4・23)に掲載されたものを加筆・再構成したそうです。

 

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    本書の帯

 


 本書の帯には、以下のように書かれています。

 

「事件は作られる。現実は隠される。だから実に奇っ怪なことではあるが、この世は怪談でできているのだ」

 

 また、カバー前そでには以下のように書かれています。

 

「この本が扱う素材として、怪談は当然出てくる。この世が怪談だらけだからだ。凶悪事件もむろん出てくる。その背景が隠されているからだ。そして最終的に私の視点は、日本史の深層へと向かう。日本で起きる事件は、日本史の中で種がまかれて、根っこをはった上に展開しているはずだからだ」

 アマゾンでは、本書の内容を以下のように紹介しています。

 

「稲川淳二の代表作『生き人形』のモデルとなった男の生涯から『かぐや姫』コンサートテープに入った幽霊の声、人体消失、凶悪な呪いが支配する廃墟ホテルの謎、岡田由希子自殺事件、宮崎勤事件、酒鬼薔薇事件の陰謀の調査、そして天皇制にまつわる隠された歴史の謎を追う迫真のルポルタージュ!」

 本書は「怪談の章」「事件の章」「歴史の章」の三章構成となっています。 アマゾンでは、それぞれ以下のように紹介しています。

 

■怪談の章

その後も現在進行形! 

終わっていなかった『四谷怪談』、お岩の祟り

自動車ごと人間が消えた!謎の人体消失事件の系譜

次々と関係者が死んでいく、都内某所にある「呪われたマンション」

「わたしにも聞かせて」かぐや姫解散コンサートのテープに入った亡霊の声

最強の呪いが放たれる幽霊物件「山の上のホテル」に潜入 ほか

■事件の章

川崎市で起こった少年投げ落とし殺人事件は仕込まれた「コントロール殺人」だった!

宮崎勤事件を「作り上げた」謎の組織の存在とは?

某銀行破たん劇の背後で起こった連続死亡事件の、触れてはいけない因果関係 ほか

■歴史の章

高松塚古墳発掘でささやかれる「呪い」の6人連続死亡事件

泉湧寺に隠された天皇家、謎の歴史

世界中が驚いた、天皇晴れという奇跡 ほか

 本書の「まえがき」には以下のように書かれています。

 

「事件は作られる。現実は隠される。そうであるなら、実に奇っ怪なことではあるが、この世は怪談でできているのだ。現実はその裏に監禁されている。ならばその闇の戸を開いてみよう。怪奇事件はなぜ起こるのか。どのようにして作られるのか。それを探ってみようではないか」

 

 「怪談の章」の最初は、「四谷怪談 祟りの系譜―終わらない祟りの連鎖」です。この読書館でも紹介した『四谷怪談 祟りの正体』は2002年の刊行でしたが、本書は2008年の刊行です。著者は以下のように述べています。

 

「四谷怪談は21世紀の今日においてなお、我々の首筋に冷水を浴びせ続けている。かつてコミックビデオ『東海道四谷怪談』でお岩の声を熱演した戸川京子が、平成14年(2002年)7月18日に自殺した。動機は不明だった。怪談の実説によれば、7月18日はお岩の祟りが発現する日である。まさにその日の出来事だったことから波紋を呼んだ。そしてその余韻もさめやらぬ平成17年(2005年)6月、映画『四谷怪談でござる』(快楽亭ブラック監督)でお岩を演じた林由美香が急死した。前日まで元気だったのに、いつのまにか自宅で亡くなっているのが発見されたという。原因不明と報じられて世間を騒然とさせた」

 

 『東海道四谷怪談』を書いた鶴屋南北は、さまざまな奇怪な体験を芝居のプロモーションに利用したといいます。著者によれば、怪談とはそもそも怪奇実話のことであり、創作では客を呼べないことをもちろん南北は知っていたというのです。さらに著者は以下のように述べます。

 

「祟りの逸話のリアリティによって芝居は大当たりをとったが、その年から翌年にかけて南北の関係者3人が次々と病死した。その翌々年には南北の娘婿である勝兵助が死んだ。同じ年に門下の勝井源八も死亡。そして1年後には南北自身が病死し、同業者の桜田治助と南北の片腕だった金井由輔も相次いで死亡した。さらにその翌年には南北亡き後の演劇界を担うと目された松井幸三が38歳で病死。続けて2代目勝俵蔵を襲名したばかりの南北の息子も死んでしまった。実に『東海道四谷怪談』初演から5年の間に、南北とその息子をはじめとする芝居関係者11人が連続死したのである」
  
 四谷怪談の祟りは、21世紀の現在も生きている!

 ふと、わたしのブログ記事「喰女ークイメー」で紹介した日本映画のことを思い浮かべました。この映画は三池崇史監督と市川海老蔵がタッグを組み、歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」を題材に描く衝撃作でした。その映画の劇中劇で、海老蔵はお岩の亭主である田宮伊右衛門を演じています。

 「市川海老蔵、衝突事故はお岩さんの呪い?『共演者たちも次々と』」という「女性自身」の記事には、2014年8月20日に行われた「喰女―クイメ―」の完成披露試写会で、主演の市川海老蔵(36)、柴咲コウ(33)が揃って登場したことが紹介され、以下のように書かれています。

 

「前日に自宅にワゴン車が衝突してきたことをブログで報告していた海老蔵は、(同作題材の)お岩さんの呪い?と問われると『ゾッとしました』とコメントした。海老蔵は『さっき皆で話していたのですが、共演者おのおのに色々なことが起こっているみたい』と話すと『結構ゾッとしましたね』と苦笑い。そんな海老蔵を横目に柴咲は『私は別にないです。問題なし』と語り『海老蔵さんが引き受けてくださったのかも。ありがとうございます』とお礼をし、会場の笑いを誘っていた」

 

 ところが、この後、彼はワゴン車の衝突事故どころではない大きな災難に見舞われます。この事実に気づいたときは本当にゾッとしました。
  
「事件の章」では、「歯科医一家バラバラ殺人事件―凶悪事件の背後に見え隠れする"プロジェクト"」の「凶悪事件の背後に見え隠れする"ある薬"」のくだりが怖かったです。著者はSSRIという薬を紹介し、こう述べます。

 

「SSRIは、1987年暮れにアメリカで認可されたうつ病の治療薬である。翌1988年から売り出され、日本でも、ルボックス、デプロメールなどの名で1999年に発売された。この薬が服用者の自殺を誘発したり、凶暴化するなどの副作用を持つことがアメリカで問題になり、日本でも数年来その危険性が指摘されている。2006年に厚生労働省は、SSRIの副作用のリスクを明記するように製薬会社に指示したが、一般的にこの経緯はあまり知られていないのではないだろうか。ほとんど報道されてこなかったからである」
  
 続いて、著者は以下のようにSSRIについて述べます。

 

「もちろん服用者の多さを考えれば、誤解は避ける必要がある。すべての服用者が凶悪化しているわけではない。だが近年起きている犯罪の陰にSSRIがあるのは事実のようだ。1999年にアメリカのコロンバイン高校で起きた銃乱射事件の犯人や、2007年4月に起きたヴァージニア工科大学銃乱射事件の犯人も、SSRIを服用していたという。日本では1999年に全日空機をハイジャックして機長を殺害した犯人がSSRIの服用者だった。そればかりか、池田小事件(01年)の宅間守、寝屋川小教師殺傷事件(05年)の当時17歳の少年、宇治小6女児殺害事件(05年)の萩野裕、川崎マンション男児投げ落とし事件(06年)の今井健詞、長野放火事件(06年)の"くまぇり"こと平田恵里香、会津若松母親首切断殺害事件(07年)の当時17歳の少年などは、いずれもSSRIを服用していたという」
  
 著者は、「米国・ウエスベッカー事件と日本・宮崎勤事件のシンクロ」として、「警察庁の統計によると、暴行・障害の認知件数は2000年から急増するが、これは必ずしも犯罪が増えたことを意味しない。1999年に起きた桶川ストーカー殺人事件を境に、警察の活動方針が積極化したためであることを浜井浩一は指摘している」と述べます。それは、ある年を境に人々が急激に暴力的になったりするとは考えにくいからであり、この指摘を踏まえない犯罪増加談義は戯言に過ぎないからです。著者は「ただ、SSRIの日本での発売が1999年であったという事実は、不気味な符号として浮かび上がらざるを得ないのではないだろうか。アメリカでSSRI服用者が起こした最初の凶悪事件は、1989年のウエスベッカー事件である。これは日本における宮崎勤事件と、発生の時期がぴったり重なる」とも述べています。
  
 そして、著者は日本の宮崎勤事件に言及し、以下のように述べるのでした。

 

「1988年1月にアメリカで発売されたSSRIを、ウエスベッカーは新薬の試験的な意味で処方された。当時日本では未発売だが、将来の大きな市場として見込まれていたに違いない。宮崎は初代モルモットとして、隠密裏に薬の副作用を試された・・・・・・そして案の定、夢の中で常軌を逸した行動に出た・・・・・・そんな想像もしてしまうのである」

 

 著者は、宮崎勤は冤罪であったという主張を展開しています。

 

 「歴史の章」では、「皇室を巡る謀略の裏面史―孝明天皇暗殺疑惑から皇室典範改正問題へ」を興味深く読みました。加治将一氏の『幕末維新の暗号』(祥伝社)などですでに有名な説ではありますが、著者は「明治政府と皇室をめぐる黒い霧」として、以下のように述べています。

 

「幕末に攘夷を唱えて鎖国政策を保守せんとした孝明天皇は、明治天皇の父にあたる。疱瘡で急死したタイミングが開国派にとってあまりにも都合のよいものだったため、死後にすぐ暗殺の噂が広まった。公式にはむろん病死であって暗殺の確証はない。だが当時から毒殺説だけではなく刺殺説も囁かれていた。この種の研究発表が自由になった戦後以来、死因をめぐって学者の論争が繰り返されてきたが、それらの見解をすべて踏まえた上で、いまなお謀殺の疑いはあると断言できる」

 また、著者は孝明天皇暗殺疑惑について以下のように述べます。

 

「明治天皇は、父帝の突然の死をどう捉えていたのだろうか。当座は病死だと信じて疑わなかったとしても、暗殺の噂は後年まで流れていたのである。気にかけないはずはないと思うが、その詮議を官僚に命じた形跡はない。そのことも含めた様々なデータから、鹿島 昇の著書『裏切られた3人の天皇』は、明治天皇が孝明天皇の皇子ではなかった可能性を述べている。この説によると、倒幕派は長州藩が匿っていた南朝の末裔・大室寅之祐を明治天皇とすりかえて擁立したという。つまり、孝明天皇に続いて明治天皇も幼い頃に謀殺されたというのだ。なぜ薩長とその勢力に与した公家たちがそんなリスクを冒したかというと、明治維新の目的が、実は南朝革命だったからだという」

 続いて著者は、「明治政府は"南朝革命"による皇位剥奪か」として、以下のように述べています。

 

「中世に天皇家が、跡継ぎ問題をめぐって南朝と北朝という2つの系統に分かれたことはよく知られている。抗争の末に南朝は敗れ、足利将軍家をバックにした北朝天皇家がその後も続いた。だが、三種の神器を擁した南朝天皇家の正統性を唱える議論が近世に起こり、南朝正統論に基づく尊皇イデオロギーが幕末に勢力を増した。その背景には、北朝天皇家の血筋が足利氏によって断絶されられたのではないかという疑惑があった。もしそれが本当なら、北朝は正統性を失ってしまう。この伝説を信じた(あるいは利用した)薩長の志士が、孝明天皇暗殺と明治天皇すりかえによって北朝を打倒し、南朝天皇の末裔をでっちあげて政権を奪取した」

 さらに著者は、南朝革命について以下のように述べます。

 

「確かに明治政府には不審な点がある。北朝の天皇を擁立しながら、なぜか南朝正統論に染まっていた。明治天皇が自ら南朝を正統と裁可したこともある。当時は南北朝のどちらが正統かという歴史認識問題が再燃していて、政治決着の方法がそれしかなかったという面はあるにせよ、明治政府が天皇の正統性を主張するなら、北朝正統論でなければ筋が通らない。なのになぜ南朝イデオロギーを鼓吹したのか、不思議に思った経験があるのは私だけではないだろう。さらにいえば、王政復古の大号令は"神武創業"を理念とし、過去の伝統を断ち切った"新王朝宣言"に等しいものだった。これは事実である。そして明治政府は、皇位継承法を明文化するにあたり、当初なぜか女系継承を認める案を出していた。天皇の万世一系と矛盾する法案を作成したのは、有栖川宮熾仁親王と伊藤博文である」

 そして著者は、「帝国憲法制定に始まる謀略の系譜」として、以下のように述べるのでした。

 

「南朝革命はもちろん仮定の話だが、1つの事実として、伊藤博文はあまり明治天皇を敬っていなかった。伊藤と熾仁親王が天皇を見下した会話をしつつ、操り人形を踊らせるような身振りをしていたという目撃証言もある(『ベルツの日記』)。また、天皇機関説は美濃部達吉に始まるわけではなく、伊藤の政権構想が、すでに実質的に象徴天皇制だった。現に帝国憲法の制定によって、天皇の大権は制限された。天皇は"玉"であって"器"にすぎず、器を替えてもシステムが継続される要素を、明治政府の機構はすでに孕んでいた」

 

 「歴史の章」では、「平成『皇室クライシス』の深層―見えざる敵は、陰謀か、それとも呪詛か」においても皇室問題を扱っています。著者は「皇室にまつわる怨念譚『小倉事件』の禍根」として、以下のように述べています。

 

「国文学者・池田彌三郎の著書『日本の幽霊』によると、皇室には300年前に仕掛けられた呪いのプログラムが潜伏している。霊元天皇の時代(1664年〜1686年)に起きた『小倉事件』である。

 大納言小倉実起の娘・小倉中納言侍局(以下、小倉局と呼ぶ)が、霊元天皇の第1皇子を生みながら、跡継ぎから排除されるという事件が起きた。天皇は後に前大納言松木宗条の娘・宗子が生んだ第5皇子を皇太子にした。なぜか。簡単に言えば、天皇が宗子の方を寵愛したためである。この処置に反対した小倉実起は、息子ともども佐渡島に流された。大納言クラスの貴族が遠島の刑に処されるのは異例のことだった。天皇の意志はそれほど固かった。第1皇子は無理やり出家させられ、母の小倉局は寂しく病死した。皇太子となった第5皇子が、後の東山天皇である」

 続けて、著者は小倉事件について以下のように述べます。

 

「この事件は、後々まで怨みを残した。小倉局は死ぬ前にこう言ったという。 『帝の御系統には、御世継ぎ御一方を残して、あとは皆とり殺してしまう。7代祟る』。帝というのは霊元天皇のことである。池田彌三郎は、この呪詛の言葉に着目し、父子相承の関係で見ると東山天皇から7代目が明治天皇だったことを指摘する。明治天皇の皇子女は、15人中10人が早世している。男子で成人したのは大正天皇だけである」

 また、池田彌三郎の『日本の幽霊』の冒頭には、田中河内介にまつわる怪談のエピソードが置かれています。著者は、「タブー視された勤皇志士・田中河内介の末路」として以下のように述べています。

 

「田中河内介は、幕末に権大納言中山忠能(明治天皇の外祖父)に仕えた勤皇の志士だった。明治天皇の養育を補佐する立場にあったが、文久2年(1862)に寺田屋事件に関わって横死した。寺田屋事件は、薩摩藩の実質的指導者だった島津久光が、公武合体政策を推し進めるため、過激な尊皇攘夷派を粛清した事件とされている。田中河内介は攘夷派の首謀格だったが、皇室に縁のある者だったため、薩摩藩が身柄を預かることになった。だが護送中に薩摩藩士は、河内介を息子ともども斬殺してしまう。死体は海に捨てた。この行為に大義はなく、必要以上に陰惨な方法で河内介を抹殺した背景は維新史上の謎となっている。

 そこで話は怪談になる。田中河内介の末路を語ってはいけない、語ると死ぬ、というのである。大正初年に怪談会でこのタブーを破ろうとした者が、実際に急死したという。その現場に池田彌三郎の父親が立ち合っていたというエピソードが『日本の幽霊』に書いてある」


 また著者は、以下のようにも述べています。

 

『日本の幽霊』が刊行された4年後に、作家・山岡荘八が雑誌で『明治天皇』の連載を始めている。この小説はタイトルに反して明治天皇がほとんど出てこない。田中河内介を主役とし、彼の勤皇の理想があえなく破綻する物語である。最終巻に至っては、小説の枠をはみ出ることも厭わずに、作者は田中河内介の殺害された状況を考証している。そして河内介が神と崇めた孝明天皇の暗殺説をつぶさに述べた後、数え年16歳の明治天皇の即位をもって全巻が終了する。つまり、この小説は『田中河内介はなぜ殺されたのか』というモチーフを主軸にして、明治天皇の"誕生から即位まで"の時代を描いている。しかし、タイトルは『明治天皇』であるから、明らかに不自然な構成である。これも実は暗示なのだと思う」
  
 続けて、著者は田中河内介の怪談について以下のように述べます。

 

「田中河内介の末路がタブー視されたのは、薩摩に相当うしろめたい動機があったからに違いない。『語ると死ぬ』という怪談は、薩摩の犯罪を逆説的に告発したものとも言える。田中河内介は、幼少期の明治天皇を知る生き証人である。幼い頃の明治天皇が書いた文章も所持していた。後に明治天皇が河内介の行方を気にして官僚に尋ねたという逸話が講談になっている。天皇にとって、幼い頃よく背におぶさった河内介は、懐かしい爺やだった」

 さらに、著者は以下のように述べるのでした。

 

「池田彌三郎と山岡荘八の著述を見ていて思うのは、この2人はそれぞれの立場で研究を続けるうちに、明治天皇すりかえ説にたどりついていたのではないかということだ。ゆえに田中河内介というキーマンを照射することで、近代史最大のタブーを暗示したのではなかったか。田中河内介の怪談の、本当に恐るべき点は、そこにあるのかもしれない」

 著者はよほど皇室に関心があるようで、「歴史の章」には「『東武皇帝』の真実とタブー―正史から抹殺された一人の天皇」もあります。そこで著者は、「戦前の歴史研究でタブーだった孝明天皇暗殺説と東武皇帝の存在」として、以下のように述べています。

 

「東武皇帝は、いまから140年前に明治天皇と対峙した"もう1人の天皇"である。そういう人物がいたという事実は、近代日本の"正史"からは消されている。一般に幕末から明治の時代は、薩長連合軍を主軸とする官軍が、徳川幕府を倒した物語として知られている。だが、実際にはそうではない。最終的に勝ったのが薩長連合軍だったから官軍ということになっただけである。もともとは幕府軍が官軍であって、長州は朝敵だった。しかし、幕府を支持した孝明天皇の急死によって、事態が流動化したのである」

 また著者は、東武皇帝について以下のように述べています。

 

「東武皇帝は、もともと輪王寺宮公現法親王といい、現在の栃木県日光市にある輪王寺の住持だった。この職は代々皇族が務め、徳川家の菩提寺である寛永寺の門住も兼ねた。代々の輪王寺宮は"東の天皇"という位置づけで、徳川幕府の切り札だった。もし西国の大名が朝廷を担いで幕府を攻撃した場合、幕府も輪王寺を擁立して官軍になるシステムだった。ゆえに薩長軍が江戸を占領したとき、彰義隊などの旧幕臣は、輪王寺宮を擁して徹底抗戦した。そして全滅した後、輪王寺宮は東北に逃れて東武皇帝となる。当時21歳」

 さらに著者は、以下のように東武皇帝即位について言及します。

 

「奥羽越列藩同盟は、慶応4年(1868年)6月16日の東武皇帝即位をもって、元号を"大政"と改元した。しかし、結果的に薩長新政府軍が勝ったため、大政改元は歴史の闇に葬られた。そして明治政府という官軍が旧幕府勢力という賊軍を倒したという物語が創作された。その物語が、今日まで、日本人の意識に刷り込まれている。だが実際には徳川幕府が政権を返上した後、短い期間ではあったが、京都新政府と東北新政府という2つの革命勢力が対峙したのだ。東北新政府は負けたために賊軍呼ばわりされたにすぎない」

 「歴史の章」の最後、そして本書の最後に置かれているのは、「昭和天皇が残した神話"天皇晴れ"―世界も驚いた"エンペラーズ・ウェザー"の真実」です。著者は「"究極の晴れ男"昭和天皇の"天皇晴れ"伝説」として、以下のように述べています。

 

「昭和天皇は、行幸の先々で好天に恵まれた。それを世に"天皇晴れ"と呼んだ。1975年9月に、昭和天皇が訪米した折、アメリカはずっと晴れていた。そしてその間、日本は曇天か雨だった。しかし、天皇の帰国の日に特別機が羽田空港に降り立つと、ぴたりと雨が止み、にわかに雲の切れ間から光が射し込んだ。その光景はテレビ中継されていたので、多くの国民が驚いたのである」

 「天皇晴れ」という言葉は、1964年の東京オリンピックの頃から使われ始めたそうです。竹田恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』に詳しく触れられていますが、竹田恒泰氏の祖父で旧皇族だった竹田恒徳は著書『雲の上、下 思い出話』で以下のように述べています。

 

「東京オリンピック大会の開会式は昭和39年の10月10日、東京・国立競技場で行われたが、その前夜はひどい雨だった。(中略)ところが、一夜明けた当日になると、それこそ前夜の雨がうそのように、雲ひとつない青空が広がっているではないか。私自身も信じられないような、見事な"天皇晴れ"であった」

 天皇晴れは、単に晴れるだけではなく、悪天候が天皇の登場に合わせて快晴に転じることをいいます。この現象は、1972年2月3日、札幌冬季オリンピックの開会式でも再現されました。著者は述べます。

 

「天皇晴れは、オリンピックや国民体育大会、そして1970年の大阪万博、1985年の科学万博などでも見られたが、国内のイベントのみに現われた現象ではない。1971年の昭和天皇訪欧時には"エンペラーズ・ウェザー"が地球規模で現出して世界に衝撃を与えている」

 羽田空港からアンカレッジに飛び立った昭和天皇は、現地でも珍しい極彩色の巨大なオーロラをアンカレジの空に出現させます。 その後も、デンマーク、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイスと秋晴れが続きました。最後の行幸地である西ドイツも晴天でしたが、すべての日程を終えた天皇が特別機でボン空港を発ったとたん、現地はどしゃぶりの雨になりました。これが"エンペラーズ・ウェザー"として欧州人を驚嘆させたわけです。だがむしろ注目すべきは、その間に日本が記録的な天候不順に見舞われていたことだと、著者は指摘します。
  
 著者は「天皇陛下ご容態急変と神話の終焉」として述べています。

 

「天皇晴れ神話は、それが崩れたときに、より重い意味を持った。1987年9月、昭和天皇は体調を崩して入院した。そして翌1988年の天皇誕生日(4月29日)は雨だった。4月29日に終日雨が降ったのは、1976年以来のことだった。戦後の天気をすべて調べても、この日に雨が降り続いた例は5回しかない。1951年には、朝からの雨が一般参賀の時刻に合わせてやんでいる。1978年には、一般参賀が終了してから小雨がぱらついた。1979年も朝からの雨が一般参賀の前にやみ、天皇が登場すると晴れ間が覗いた。1980年以降はずっと雨は降らなかったが、その連続記録が途絶えた年の9月19日、深夜11時すぎに、突然テレビの画面が乱れた。番組が中断されて、皇居前からの中継映像に切り替わり、黒塗りの車が次々と慌しく皇居に入る映像が流された。『天皇陛下御容体急変』の臨時ニュースだった」
  
 昭和天皇崩御の日についても、著者は以下のように述べています。

 

「1989年1月7日、昭和天皇崩御の日も雨だった。前年12月29日以来、ようやく晴天が続いていたが、突然天気が崩れた。崩御の日の午後、和歌山県に住む87歳の男性が、納屋で首を吊った。『お供をする。陛下には軍隊にいたころから一命を捧げるつもりだった』。そう書かれた遺書が足元にあった。この老人が覚悟を決めたのは、前年9月のやまない雨の音を聞いていたときだと私は思う。あのときの豪雨は人知を否定していた。何かの糸がぷっつり切れて、何もかも押し流していくような雨だった。えもいわれぬ喪失感があった」
  
 著者は「データが物語る"天皇晴れ"の奇跡」として述べています。

 

「以前、サヨクの知人に天皇晴れと逆天皇晴れの話をしたら、やはり太陽神なのかと驚愕していたが、特異日の関係ではないかとも言っていた。訪欧も訪米も台風の特異日である9月26日の直後に出発日が設定されていた。これは台風一過で晴れる確率が高い。そして帰国日はいずれも晴れの特異日である10月14日に設定されていた。特異日というのは、単に特定の天気が現われやすい日というだけではなく、その前後の日とは違う天候状態が現われる頻度の高い日をいう。前後の日が雨でも、なぜかその日は晴れるという現象が統計上認められる。科学的な理由はわかっていない」
 
 そして、著者は天皇晴れについて以下のように述べるのでした。

 

「その意味では天皇晴れも特異日のバリーションだが、だからといって、その説明が何かを明らかにするわけではない。天岩戸神話が日食のメタファーだとしても、実際にヤマトの女王が隠れた瞬間に日食が起きたなら、それは奇跡だろう。問題は物事が起きるタイミングである。不思議な偶然の一致に多くの人が驚嘆すれば、時代を問わず神話になる。昭和天皇の場合、神がかりな偶然の頻度は、尋常ではなかった。それはデータ的に明らかである」