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ジャニーズと日本』

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No.1381


 『ジャニーズと日本』矢野利裕著(講談社現代新書)を読みました。
 著者は1983年東京生まれの批評家、ライター、DJです。東京学芸大学大学院修士課程修了。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と一九九〇年代』(おうふう)などがあります。

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   本書の帯


 帯には「国民的アイドルSMAPはいかにして生まれたのか?」と大きく書かれ、続けて「フォーリーブスから、たのきん、嵐、関ジャニ∞・・・まで。音楽性やショービジネスの視点で論じた、戦後日本の大衆文化史」とあります。また帯の裏には、「日系アメリカ人ジャニー喜多川が送り出した少年達から50年。なぜここまでジャニーズ帝国は隆盛を極めたのか」とあります。

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   本書の帯の裏


 わたしのブログ記事「有終の美を飾らないということ」で紹介した「サンデー毎日」連載の「一条真也の人生の四季」の最新コラムが大きな反響を呼んでいます。「有終の美を飾らなかった」SMAPの姿は「葬式は、要らない」という考え方に通じており、つまるところ「愛のない時代」を象徴していると述べました。また、ブログ「焼肉を食べながら、SMAPについて考えた」には多くのアクセスがありました。解散後も、まだまだSMAPは国民的関心事のようです。
 SMAP解散に関連して膨大な数の書籍が刊行されました。そのほとんどは、いわゆる「便乗本」と呼ばれる内容ですが、SMAPが「愛のない時代」のシンボルであると考えるわたしは、そのすべてに目を通してみました。その中でも、新書スタイルの本の中には、読み応えのある本があることを知りました。これから、1冊づつ紹介していきたいと思います。まずは、SMAPにとどまらず、ジャニーズ事務所、そして日本のエンターテイメントの戦後史に目を向けた本書をご紹介します。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「はじめに」
第1章 ジャニーズとはなにか
第2章 ジャニーズ結成―初代ジャニーズ、フォーリーブス―
第3章 郷ひろみからディスコへ―郷ひろみ、田原俊彦、少年隊―
第4章 それぞれのアメリカ―冬の時代、近藤真彦、ザ・グッバイ―
第5章 80年代とジャパ二ズム―シブがき隊、光GENJI,忍者、関ジャニ∞―
第6章 SMAPが開拓した道―SMAP、TOKIO、V6、Kinki Kids―
第7章 ジャニーズがもたらしたもの―嵐、次世代、そして再びSMAP―
「おわりに」

 「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。


「ジャニーズは、つねに偏見の目にさらされてきた。ファンからすれば、人生を賭けても惜しくないほど魅力的なグループなのにもかかわらず、これまで多くの人に、チャラチャラしたイケメン、「女・子ども」のお楽しみ、といった軽んじる目線で見られてきたことは、否定しがたいだろう。
 だが、ジャニーズの表現は、そんな偏見を吹き飛ばすくらいの強度をもっている。ジャニーズの楽曲は、つねに新しい表現を追求し続け、ポピュラー音楽の歴史を更新してきた。なにより筆者は、その楽曲のレヴェルの高さに魅了されたひとりだ」

 ジャニーズ事務所は、日本の芸能界でも最大級の影響力を誇ります。
 しかし、著者は以下のように述べています。


「戦後、つねにアイドル事務所のトップとして君臨してきたジャニーズだが、ジャニーズの表現は、必ずしも万人に受けるようなものばかりではない。彼らのミュージカルや舞台の演出は、初めて見れば異様に感じる世界観が詰め込まれている。コンサートでは、ともすればタダサいとも思える一種独特の衣装を着ている。グループにひとりはかっこよくないメンバーが混じっている、なんて冗談半分に言われることもある。かと思えば、かなり斬新な楽曲を、ポピュラー音楽として普通に流通させたりする」

 ジャニーズを考える上での最大のキーマンは、やはりジャニー喜多川です。
 著者は、ジャニー喜多川について以下のように述べています。


「事務所の社長という立場を越えて、プロデューサーや演出家としても関わるジャニー喜多川は、ジャニーズの精神的支柱である。ジャニー喜多川という人物への考察なくして、ジャニーズがもたらした文化について考えることは難しいだろう。ミュージカルやコンサートでの華やかな演出、洗練された楽曲の数々とその対極にあらわれる妙なセンス、あるいは、独特と言えるようなジャニーズジュニアの育成法。一見、支離滅裂とすら思えるこれらの方針の背後には、実は、ジャニー喜多川の一貫した思想や価値観が流れ込んでいる」

 第1章「ジャニーズとはなにか」では、「ジャニー喜多川の歩み」として、以下のように述べられています。


「ジャニー喜多川の父・喜多川諦道は真言密教高野山の導師で、戦前、アメリカで布教活動をしていたという人物である。そんな諦道の次男としてアメリカで生まれたのが、ジャニー喜多川(喜多川擴/John Hiromu kitagawa)だ。1931年のことである。兄弟には、すでに亡くなってしまった兄と、のちにジャニーの片腕としてジャニーズ事務所のマネジメントに携わる姉のメリー喜多川がいる。つまり、ジャニーやメリーは日系2世のアメリカ人として人生を歩み始めた」

 一連のSMAP解散騒動ではすっかり「女帝」としてのイメージが定着したメリー喜多川ですが、彼女は疎開中、大阪松竹歌劇団に所属し、芸能の世界に触れていました。戦後に大映の看板女優となる京マチ子などの世話役として、多くの演者から可愛がられていたといいます。
 和歌山疎開の時期を経て、メリーとジャニ―の姉弟は日本で終戦を迎えます。戦後は、大阪松竹歌劇団は占領軍のキャンプまわりをしていたそうですが、英語を話すことができるメリーはそこで司会をしていました。晩年までジャニーズ事務所と親交の深かったことで知られる女優の森光子と知り合ったのもこの頃でした。

 アメリカに渡ったジャニ―少年は芸能ビジネスの面白さに目覚めます。
 父親が開いたロサンゼルスの寺院で、終戦直後に多くの日本の芸能人の世話をしたことがその原点でした。「アメリカでの興行」として、著者は「現代」1997年1月号に掲載された弓狩匡純の「産業としての『ジャニーズ』を科学する」を引用しながら以下のように書いています。


「『ちょうど、49年から50年という時期は数多くの芸能人や国会議員が"洋行帰り"のステイタスを求めて大挙渡米』した時期である。ジャニーの父親の諦道によるロサンゼルスの寺院は、終戦後、そんな歌手や芸能人の劇場の代わりとなっていた。父親が特設したステージを持つ寺院は、『娯楽の少なかった日系人社会に様様な催しを提供するある種のコミュニティ・センターとしても機能していた』のだ」

 この寺院で公演をする先陣を切ったのは、女優の田中絹代でした。
 続けて、著者は以下のように述べています。


「遠き憧れの地として、日本人がアメリカに、強く幻想を抱いていた時代。そんな時代にあって、10代のジャニーはロサンゼルスで、これらそうそうたる芸能人の手伝いをしていた。美空ひばり、笠置シヅ子、古賀政男、ディック・ミネという顔ぶれは、ジャニーがまさに当時の芸能界の最先端のエンタテイメントをこの寺院で目の当たりにしたことを物語っている」

 さらに著者は以下のように、興味深い事実を紹介しています。


「ジャニーはこのとき、手伝いの一環として、アメリカで公演する彼らのブロマイドを会場で1枚50セント、3枚1ドルで売り、その売り上げをタレントが所属する芸能事務所に渡していた。当時の日本の芸能事務所は、そんなお金はもらえないと断ったそうだが、ジャニーは未成年ながらに強固な姿勢で売り上げを渡していたという。
 ジャニーがラジオで強調していたのは、自分がこのとき、早くも『肖像権』という『価値観』をもっていたということだ。ジャニーズと言えば、AmazonにCDジャケットすら掲載しないくらい、肖像権に対して異常に厳しいことで有名だ。このエピソードは、そんなジャニーズの強硬な態度のルーツが示されているようで興味深い」


 ちなみに、わたしのブログ記事「ジャニーズ事務所について思うこと」に書いたように、わたしはジャニーズの肖像権管理は異常であり、時代に合っていないと考えています。これは一種の「驕り」であって、ファンを無視しています。必ずやツケがくるのではないでしょうか。

 さらに著者は、以下のように述べるのでした。


「この肖像権への姿勢もそうだが、ジャニーズのビジネスは、徹底した囲い込みによって利益を独占することに特徴がある。
 いちばん顕著なのは、コンサートのチケットだろう。ジャニーズのコンサートは基本的に、『ジャニーズファミリークラブ』の会員にならなければチケットが買えない。ジャニーズの『ファミリー』にならなければアクセスすらできない、という囲い込みモデルが、ジャニーズビジネスの特異性である。逆に言えば、『ファミリー』になってしまえばジャニーズの世界への扉が一気に開ける、ということになる」

 本書にはジャニー喜多川が理想としたタレント像が詳しく描かれていますが、そのキーワードの1つに「タカラジェンヌ」がありました。未婚女性だけで成立している宝塚歌劇団の華やかな世界観になぞらえて、ジャニーズはしばしば「男版宝塚」と言われます。
 古くからジャニーズの取材をしてきた作家の小菅宏の著書『「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)によれば、ジャニー自身、「僕は男性版宝塚を実現したい。いや必ずやる」と宣言していたそうです。また小菅によれば、ジャニーは「ステージの最前列にトップの子が立ち、2列目、3列目、4列目と順番にジュニアの子たちが並び、そして歌い踊るミュージカルの舞台がやりたい」と発言していたといいます。「スタンバイ」と呼ばれるブロードウェイではおなじみのキャスティング手法ですが、そのようなステージを日本でいち早く取り入れていたのが、他ならぬ宝塚でした。

 第2章「ジャニーズ結成―初代ジャニーズ、フォーリーブス―」では、冒頭に「ジャニーズと野球」として、ジャニーズにとって野球が非常に大事なものであったことが紹介されます。ジャニーズと同じく、野球もアメリカから日本に持ち込まれたものですが、著者は「ジャニーズの起源を振り返るとき、そこにはつねに野球の存在があり、ジャニーズは現在でも定期的に野球大会をおこなっている」と述べています。
 アメリカから帰国したジャニ―喜多川は「ジャニーズ少年野球団」を結成します。
 「野球少年からアイドルへ」として、著者は以下のように述べています。


「アメリカの草野球が、試合ののちに親睦パーティーを開催していたように、ジャニー喜多川も、ジャニーズ少年野球団の子どもたちと親睦を深めていった。練習後、アメリカでしか手に入らないようなチョコレートやアイスクリームなどを買い与えていたという話もある。初代ジャニーズは、まさに、そのような親睦と交流のなかから生まれた。そうしたなかで、のちに初代ジャニーズとなる少年野球団のメンバーと観た映画こそ、『ウエスト・サイド物語』である」

 また、著者はジャニー喜多川について以下のように述べています。


「ジャニーの芸能自体への強い興味は、ロサンゼルスでの高校時代にすでにあったものだ。劇場でのアルバイト、大物芸能人の公演の手伝い・・・・・・ジャニーが、ショービジネスに関心を示すのは、このころである。そのようなジャニー喜多川の核にあるのが、ミュージカルや舞台芸術への憧れだ。劇場ベースのコンサートや舞台ショーに関心を持つジャニーは、なにより舞台芸術に魅了されていた。だからこそ、そんな彼の起爆剤になったのが、まさしく歌って踊った『ウエスト・サイド物語』だった」

 さらに、著者はジャニーズ事務所の本質について以下のように述べます。


「ジャニーズ事務所に対して音楽の事務所という印象をもっている人もいるかもしれないが、ジャニー喜多川の根本にあるのは、舞台芸術への憧れである。ジャニーズアイドルはテレビタレントと同義ではない。ジャニーズアイドルに対しては、歌うことと踊ることの両方が求められており、それは現在においても変わっていない。したがって、さまざまなジャニーズのグループのなかで本流と言うべきは、高いレヴェルで歌って踊り、ミュージカルの舞台を続けた少年隊である。メンバーである錦織一清、植草克秀、東山紀之のダンスのレベルは圧倒的だ。少年隊の6枚目のシングル『君だけに』(1987)のイントロの印象的なスナップ音は、『ウエスト・サイド物語』の冒頭を意識しているようにも感じられる」

 第3章「郷ひろみからディスコへ―郷ひろみ、田原俊彦、少年隊―」では、「グループサウンズの残り香」として、著者は1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけて日本で大流行したGSブームについて、以下のように言及しています。


「当時熱狂を巻き起こした日本でのGSブームとは、実質的には、黄色い声に包まれたアイドルブームであり、ロック音楽として聴かれていたわけではない。ロックとしてはむしろ、非-本格的なものである。
 GSバンドと並べられたフォーリーブスは、そのような文脈のなかでのアイドルだった。そして、GS的なエレキサウンドを含んだ曲でデビューした郷も少なからず、その文脈の延長上にいた。実は郷は、オックスをモデルにしていたのだ。オックスの多くの楽曲を手がけた作曲家と、郷のデビュー曲『男の子女の子』の作編曲を担当したのは、筒美京平である」

 また、著者は「郷ひろみ」について以下のように述べます。


「ジャニーズの枠内で見ると、郷ひろみは、フォーリーブスの次に位置しGSブームののちに登場した、ということになる。しかし、もう少し視野を広げると、郷は、筒美経由でオックスの流れを受け継いだ存在である。ここで重要なことは、郷がGSから受け継いだものが、そのアイドル性の部分だったということである」


 これは非常に重要な指摘であると思いました。

 著者はDJをやっているだけあってポピュラー音楽に詳しく、その知識が本書の内容を濃くしています。そんな著者によれば、ジャニーズと黒人音楽は相性がいいそうです。「ディスコの軽薄さ」として、以下のように述べています。


「なぜ、ジャニーズと黒人音楽は相性がいいのか。それは、黒人音楽が基本的にショーアップされた音楽であり、ロックやフォークに比べて、歌い手の『自我』が希薄な音楽だからである。とくに、ディスコ音楽は、ひたすら音楽の快楽を追求したダンスミュージック、踊るための音楽である。そこでは、ロックやフォークにありがちな、アーティストの『自我』や自己表現は後景化される。作り手や歌い手のメッセージを不問にしたまま、踊らせるという機能に特化した音楽こそ、ディスコ音楽に他ならない」

 著者によれば、ディスコ・ミュージックは軽薄です。しかし、一方で軽薄だからこそアイドルの音楽としてふさわしいとして、以下のように述べます。


「華やかにショーアップされ、熱いメッセージを発するのではなくあくまで非日常を演出すること。このようなディスコ音楽の特徴は、そのままジャニーズアイドルの特徴に当てはまる。だからこそディスコは、ジャニーズの音楽としてふさわしいのだ。
 加えて言えば、職業的な作曲家である筒美京平も、『自我』の希薄な人物だったと言える。アメリカで売れている音楽をひたすら聴いて、それをそのまま自身の楽曲に取り入れるという都市伝説すら持つ筒美には、作り手としての『自我』や音楽に込めた強いメッセージなどは見出しにくい。このように、ディスコとジャニーズと筒美は、いずれも『自我』が希薄な、非日常的な徹底したエンタテイメントを志向する点で共通している」

 「ジャニーズディスコの発展―田原俊彦」として、著者は「ミュージカルに由来するジャニーの華やかな舞台芸術への憧れは、ショーアップされたディスコの世界へと重ねられている。そんな現在まで続くジャニーズのディスコ音楽は、1980年にレコードデビューした田原俊彦によって大きく展開されたと言っていい」と述べます。
 また、「ジャニーズディスコの到達点―少年隊」として、著者は「ジャニーズにおいて、少年隊はひとつの到達点だと言うことができる。それは、彼らが田原以上に、歌って踊ることのできるアイドルだからだ。メンバー3人ともバック転ができ、ダンスの腕前はジャニーズ屈指だとも言われる。歌唱力もある」とも述べています。

 ディスコには大いなる秘密がありました。「『ゴー・ウエスト』の物語」として、著者は以下のように述べています。


「ディスコというのはそもそも、抑圧されたゲイピープルによって発展した文化である。
 日常で抑圧されたゲイピープルが『ここではないどこか』を求めるように、夜の街へくり出すこと。アメリカのディスコは、そのようなゲイピープルの社交場として機能していた。それゆえ、快楽的なディスコ音楽も、ゲイピープルの夜を盛り上げるためのものとしてあった」

 第4章「それぞれのアメリカ―冬の時代、近藤真彦、ザ・グッバイ―」では、著者は「やんちゃなストリートファッション」として、田原俊彦に続いてデビューした近藤真彦について以下のように述べています。


「近藤が身にまとっていた『スニーカー』や『ブルージーンズ』、あるいは近藤が歌っていたロックンロール風の楽曲は、『若者の反抗』という文化的意味をもっていた。したがって、不良上がりで、やんちゃな若者として振る舞っていた近藤がこれらの曲を歌うことには、必然性と説得力があった。近藤は、表層的なオールディーズの記号をまとうことで、結果的に『若者の反抗』的な不良性を抱えつつ、『青春全力疾走』(高護『歌謡曲』)といったイメージで受け取られることになる」

 ジャニーズ事務所そのもののブレイクのきっかけとなった「たのきん」トリオといえば、田原俊彦・近藤真彦・野村義男の3人です。いずれもTBSドラマ「3年B組金八先生」から登場したアイドルですが、田原俊彦と近藤真彦と違って、野村義男だけはソロでデビューしませんでした。ザ・グッバイというグループとしてのデビューだったのです。
「忘れられたグループ」として、著者はザ・グッバイについて以下のように述べています。


「バンド形態のザ・グッバイは、ジャニーズのなかでも、同時代のアイドルのなかでも、異色な存在だった。華やかな田原俊彦や不良性で見せた近藤真彦、ハイレベルな少年隊に比べれば、アイドル性という点で一段落ちると見えるかもしれない。しかも、自分たちの音楽を追求するという態度は、ジャニーズらしくないとも言える」

 しかし、続けて著者は以下のように述べるのでした。


「アメリカという観点を導入すると、ジャニーズにおけるザ・グッバイの位置が明確に見えてくる。たしかに、ザ・グッバイというバンドは、自分たちの音楽的志向を素直に打ち出しており、その意味ではアーティスト的な自我をもっていたと言える。しかし、そんなザ・グッバイが結果的に奏でた音楽は、カリフォルニアのショービズの流れを汲むものであり、初代ジャニーズの音楽を受け継ぐものだった。ザ・グッバイがやりたかったことは、実は、ジャニー喜多川が目指す方向性とそれほど違わない。ザ・グッバイもジャニーも、遠くからカリフォルニアのショービズを眺めていた」

 第5章「80年代とジャパ二ズム―シブがき隊、光GENJI,忍者、関ジャニ∞―」では、著者はジャニー喜多川の奇妙なネーミング・センスについて触れ、「誤解にもとづいたジャパン」として、以下のように述べています。


「芸能への憧れでいっぱいだった青年、ジャニーが、アメリカ人として見た終戦直後の美空ひばりと笠置シヅ子。それがジャニーにとっての『日本』であり、その『日本』は2000年代の関ジャニ∞まで脈々と受け継がれている。他ならぬ日本にある芸能事務所は、そうした誤解や短絡によって支持を得てきた。
 光GENJIやKinki Kids、忍者などといったグループ名で堂々と活動できること。『スシ食いねェ!』の世界観をてらいもなく披露できること。それが日本人の観客によってとくに拒絶されることもなく、むしろ許容され、ファンの熱狂を起こすことは、とても興味深いことだ」

 そして、いよいよSAMPの登場です。第6章「SMAPが開拓した道―SMAP、TOKIO、V6、Kinki Kids―」では、「テレビのなかで」として、著者は以下のように述べています。


「『ザ・ベストテン』が1989年に終了するなど、歌謡番組がなくなっていくなかで、SMAPは新しい道を模索することになる。とは言え、少年隊のようにミュージカルを続けていくには、実力が足りなかった。そんなさなか、いまだジャニーズが踏み入れていない領域として、お笑いの世界が発見された。このヴァラエティへの参入が、SMAPの存在を大きいものにしていく。歌や踊りが苦手だったSMAPは、それを笑いとともに提供することになる」

 また、「ジャニー喜多川の『お笑い』」として、著者はSMAPのヴァラエティ進出について以下のように述べています。


「SMAPのヴァラエティ進出は、一方で気取らなさや身近さを感じさせ、他方でショーアップされた華やかさも感じさせる。20年間続いた『SMAP×SMAP』は、前半にコントやビストロSMAPなどメンバーの素顔がかいま見えるヴァラエティ企画、後半がゲストを招いた音楽ショーという構成になっている。自分と同じ目線の親しみやすいアイドルかと思えば次の瞬間みたことのないスターになること。ごく身近でありつつもスター性がある。スター性があるのにごく身近な存在。この不思議な両義性。SMAPの唯一無二の存在感は、そのような両義性にある」

 DJを務める著者ですが、「クラブカルチャー、ふたたび」として、「1990年代をめぐるさまざまな状況のなかで育まれたSMAP、その音楽性の中心にあるものこそ、クラブカルチャーに他ならない。SMAPの表現は、渋谷系やクラブカルチャーを中心としたさまざまな文脈を知ってこそ理解できる部分がある」と述べています。
 また、TOKIO、V6、Kinki KidsといったSMAP以降のグループについて、著者は以下のように述べます。


「TOKIO、V6、Kinki Kidsは、SMAPが先駆的に示した要素をそれぞれ独自に引き継いだ。大雑把に言えば、『リアル』要素はTOKIOのほうに、クラブカルチャー要素はV6のほうに、ヴァラエティ要素はKinki Kidsのほうに、それぞれ受け継がれている。これらのグループは、SMAPによって切り拓かれた道をともに歩んでいる」


 SMAPが「有終の美」を飾らなかった昨年末のNHK紅白歌合戦に、TOKIO、V6、Kinki Kidsが揃って出演したことが思い出されます。

 2016年1月18日に放送された「SMAP×SMAP」では、解散危機の報道を受けてメンバーによる緊急謝罪が行われました。著者は「解散騒動から」として、「あの謝罪会見にはまったくSMAPらしさがなかった」と述べています。では、SMAPらしさとはなにか。著者は以下のように述べます。


「SMAPはなにより、カジュアルでクールなクラブカルチャーを体現していた。それは、振り付けをともなった旧時代的なディスコカルチャーに比べて、もっと自由で解放的な気分を含んでいた。SMAPらしさとは、その自由と解放の気分に他ならない。音楽もダンスもテレビでの振る舞いも、SMAPは自由で解放的な存在としてあらわれていた。ジャニーズの本流とは別の場所で、のびのびとやっているような魅力がSMAPにはあった。しかし、そのSMAPの自由と解放の気分が、あの緊急謝罪において踏みにじられてしまったように感じた」

 また、SMAPがあの謝罪を引きずったまま活動を続けるのならば解散したほうがいいと思ったという著者は、以下のようにも述べています。


「SMAPらしさというものが、自由と解放の気分なのであれば、たとえグループとしてのSMAPが解散したとしても、中居が、木村が、稲垣が、草彅が、香取が、それぞれの領域でのびのびと振る舞っているほうが、よほどSMAPらしいのではないか、ということだ。実際、オートレーサーになるという夢を叶えるためにSMAPを脱退した森且行は、その自由で解放的な姿が、すぐれてSMAPらしかった。その意味で森は、いまだにSMAP的なのだと言える」

 さらに著者は、ジャニーズ・アイドルの本質について以下のように述べるのでした。


「ジャニーがSMAP以前のグループで表してきたように、アイドルは本来「自我」を表現する存在ではなかった。しかし、SMAPは等身大の『自我』を表現することによって、むしろアイドルとしての人気を獲得してきた。平成の時代とともに出発したSMAPが、このような新しいアイドルのありかたを示したのは考えるに値する。
 SMAPの解散報道が出る直前、天皇陛下が生前退位の意向を示す『お気持ち』を表明した。もちろん偶然のタイミングで、そこに意味を見出す必要はない。ただ、SMAPも天皇も、『国民』の期待を背負いつつ、ぎりぎりのところで『自我』を表現する、という点において、似たありかたを示していた。アイドルも、天皇でさえも、自由と解放の気分を含むのが、日本の平成という時代である。SMAPはまぎれもなく、『国民』的なアイドルであった」

 第7章「ジャニーズがもたらしたもの―嵐、次世代、そして再びSMAP―」では、著者は「嵐」として、SMAPに続くジャニーズ事務所の「国民的アイドル」にあたるのは、やはり嵐であると断言し、以下のように述べます。


「嵐というグループを考えるさいに注目したいことは、嵐がヒップホップ文化を積極的に取り入れているということである。1999年の嵐のデビュー曲『A・RA・SHI』は、その冒頭から本格的なラップをくりひろげる。ラップという手法は、SMAPにおいてさえ、まだまだ新奇な歌唱法のように扱われていたフシがあったが、嵐の時代にもなると、ラップはポップスのなかですっかり馴染みのものになっていた」

 著者は、「ジャニーズの民主主義精神」として、来日したジャニー喜多川は、少年たちにチョコレートやキャンディを配ったというが、その延長として、日本という国にアメリカ流エンタテイメントを、そして民主主義精神を配った。それが、ジャニーズに他ならない」と述べています。また、ジャニーズの役割とは「戦後日本の民主化を娯楽の面から支える」ということであると指摘し、以下のように述べます。


「ジャズやミュージカル、あるいはディスコといったアメリカのエンタテイメントを日本に輸出する存在として、ジャニーズはあった。終戦直後、ベースボールは民主的な価値観を反映したスポーツとしてあった。またスウィングジャズも、新しい時代の音楽として民主的な響きをともなっていた。あるいはディスコは、マイノリティの解放の音楽としてあった。一見拙いパフォーマンスすら、民主的なアマチュアリズムが意識されていた。嵐におけるヒップホップも同じように、アマチュアリズムという民主主義の精神とともにある」
 
 そして、著者は「ジャニーズ」について以下のように述べるのでした。


「つたなさを愛でたり応援したりする日本型アイドルのありかたと、プロフェッショナルなエンタテイメントを志向するジャニーズのありかた。被占領側の文化としての日本型アイドルと、占領側の文化としてのジャニーズ。どちらが日本の文化として健全なのかはよくわからないが、どちらもアメリカの占領から始まる戦後日本で育まれたのはたしかだ。ジャニーズは、あからさますぎて見えないアメリカの影として、戦後民主主義の国・ニッポンに浸透している」