お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

  • HOME
  • 戦国武将の遺言状
Title

戦国武将の遺言状』

Category

No.1368


 『戦国武将の遺言状』小澤富夫著(文春新書)を読みました。著者は1934年、山口県生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科修士課程修了。哲学博士。日本思想史専攻。元玉川学園女子短期大学教授です。

20160814123450.jpg
   本書の帯


 帯には豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信の肖像画とともに「三年の間、我の死を隠せ」と大書され、続けて「秀吉、信玄、謙信・・・・・・。名将、猛将、知将たちは遺書に何を託したのか?」と書かれています。

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


「常に『死』と向きあうことを余儀なくされていた戦国時代の武将たち。彼らは『遺言状』に何を託したのか。覇者・秀吉から永遠のライバル、信玄と謙信まで、十一通の遺言状から読み解く生と死のドラマ」

20160814123749.jpg
   本書の帯の裏


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


「まえがき」
一、「栄華を求めず、義に生きるべし」とした二代目の道義 北条氏綱
二、「偉大なる父元就と無才無器量なる自分」と嘆く"三本の矢"の嫡子 毛利隆元
三、「自らの切腹により、部下たちの命を救うのは名誉なり」と秀吉に対した猛将 吉川経家
四、「弟よ、城主を継ぐな。娘よ、武士に嫁ぐな」と書置した蘭丸の兄 森長可
五、「三年の間、我の死を隠せ」とした智の武将 武田信玄
   「歳月は、ただ夢中のごとし」とした義の武将 上杉謙信
六、「ただ、ただ、息子秀頼のことを頼む」天下人の最期の願い 豊臣秀吉
七、「大法の会得は容易ではない」と言い残した覚悟の茶人 千利休
八、「武士に死を逃れる道はない」とする三河譜代の老将 鳥居元忠
九、「筑前一国などは相応の恩恵とは言い難い」と不満の名軍師 黒田長政
十、「自分のために悪いことは、家臣や領民にも悪い、と心得よ」とする名君 池田光政

 「まえがき」の冒頭では、「鳥が死ぬ時は死を恐れて、その声は哀れですが、人が死ぬ時には、本心に立返って云う言葉は美しく善いものです」という『論語』泰伯、第八の言葉が紹介され、続いて著者は述べます。


「孔子の弟子の孟敬子が、死期の差迫った曾子を見舞った際、曾子は、こう語ったという。終焉を迎えた人は、飾らぬ本心を語り、その言葉は美しい。人は、我が身に確実に迫りつつある死に直面し、それを覚悟した時に、何を想い、何を考えるか。長寿となった現在と違って『人生五十年』と自覚していた昔の人々は、その生涯を『夢まぼろし』とか、『夢のまた夢』と辞世に残している」

 やはり、わたしの心に最も響く言葉を遺した武将は、信玄と謙信でした。
 「三年の間、我の死を隠せ」とした信玄のエピソードは、黒澤明監督の映画「影武者」のモチーフになったことで有名ですね。また、「歳月は、ただ夢中のごとし」という謙信の言葉は、わたしの最も好きな言葉のひとつです。彼らは確固とした死生観を持っており、その背景には宗教観がありました。

 著者は、戦国武将の宗教観を探る場合、領国における宗教政策と信仰心とは同一の次元で考えられないとして、以下のように述べています。


「その宗教観には、共通して日本人固有の神仏混淆の色彩が強く、現世利益への祈願がみられる。先勝祈願・武運長久・自家繁栄・息災延命などを主眼とする。要は御利益・御加護のある神仏はすべて用いられる」

 続けて、著者は以下のように述べています。


「信玄・謙信にしても、特定の宗門・宗旨を強要せず、領国内においては天台宗を始め、真言・曹洞・臨済など多様な宗派が存在した。ただ、浄土真宗(一向宗)は、肉食妻帯を認めるため謙信は領内から排除した。一方、『ひたすら(一向)極楽往生を信ずる』門徒の結束力との連携を意図したのが信玄である。一向宗門徒の一揆は、国持大名にとって手強い反勢力となる。両雄ともに京より名僧を呼寄せ、寺院を保護する政策を行っている。こうした領内に古くから存在する寺院の積極的な保護政策は、大名にとって、領民対策であった」

20130531093131.jpg
   上杉謙信(1530年2月18日~1578年4月19日)


 また、著者は謙信について以下のように述べています。


「謙信は、神仏の加護を得るには、当人が人道の徳要の『義』を遵守し、家臣にも『非礼』を慎むようにすれば、神仏も照覧される、と云う。非道なる者が、いくら神仏を祈願してもその御加護は受けられぬ、とまことに『義に生きる』謙信らしい言葉である。しかし、戦国の世にあっては、『義』に生きれば、領国の拡大は不可能であろう」

20130531093110.jpg
   武田信玄(1521年12月1日~1573年5月13日)


 さらに、著者は信玄について以下のように述べています。


「信玄は死を覚悟するや、武門武田家の存続と後継者勝頼の将来を案じた。冒頭に掲げた『遺言』には『死を伏せ三年間喪に服する』とあることが知られているが、信玄の『死を伏せる』準備こそが、他国の進攻を防ぐ手立てであった。それは、戦国の世に生きた経験から、自分の死を絶対に知られたくなかった。その手立てとして、諸国からの書状への返礼に用いる書紙に信玄の加判(署名・花押)をしたものを800枚用意したのであった。
 また、武将の生涯の終幕を飾るに相応しく『甲冑を着せ、諏訪神社に近いあの諏訪湖に沈めよ』と言い残したのである」

 著者は「義道と越後の美酒に生きた謙信、49歳にして動乱の生涯を終えたのである。酒を好み馬上杯を手にしたが、『肴は何も無く、常に梅干を肴とせり』とある。謙信の家訓といわれるものには、謙信の『心』が訓戒されている。現代人も学ぶべき『心の持ち方』である」とし、次の言葉を紹介します。

心に物なき時は、心広く体豊かなり、 心に我儘なき時は、愛敬失わず、
心に欲なき時は、義理を行う、 心に私なき時は、疑うことなし、
心に驕りなき時は、人を敬う、 心に誤りなき時は、人を畏れず、
心に邪見なき時は、人を育つる、 心に貪りなき時は、人に諂うことなし、
心に怒りなき時は、言葉和かなり、 心に堪忍ある時は、事を調う、
心に曇りなき時は、心静かなり、 心に勇ある時は、悔やむことなし、
心賤しからざる時は、願い好まず、 心に孝行ある時は、忠節厚し、
心に自慢なき時は、人の善を知り、 心に迷いなき時は、人を咎めず。
(『名将言行録』巻二)

 謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の 月の心にかゝる雲なし」。
 この歌には、『来世の地獄・極楽は何とも判らぬことで、私の心には有明の月のように何一つ雲もかかってはいない」とあります。著者は、「謙信の深い信仰心と戦国の武士道『男道』を貫き道義観に生きた武将の信念によるものであろう」と述べています。

20130531093156.jpg
   豊臣秀吉(1537年3月17日~1598年9月18日)


 天下統一をめざした豊臣秀吉については、著者は以下のように述べます。


「62歳で歴史の舞台から去った秀吉の生涯を眺めると、ある意味で『見果てぬ夢』に向かう妄想にも思える破天荒な言動があると思う。この秀吉という人物は、『猿』と呼ばれて出自も不確かで、身分も低い足軽であった。信長に仕えたのが永禄元年(1558)の22歳で、その後27年にして従一位、関白に叙任され姓も豊臣姓を賜り、翌年には太政大臣となる。戦国の乱世とはいえ、『下賤より身を興し、位を極めなされ候』(細川幽斎書簡)と有力大名も感嘆する天下統一への道程であった」

20130531093144.jpg
   織田信長(1534年5月12日~1582年6月21日)


 また、織田信長の「天下布武」について、著者は述べています。


「信長の武力による覇権の原理は、『天正』という年号に示されている。『清静なるは天下の正と為る』(清らかにして静かなる者が天下の長となる、『老子』)ことを意味する。覇権への正当性は徳を失った足利将軍に代わり、天意により天下の為政者となることにある。これは中国における『放伐革命』(徳を失った君主を討伐して放逐すること)で、信長の印章に用いた『天下布武』(武力による天下統一)に示されている」

 備前岡山藩主であった池田光政のくだりも興味深かったです。光政の仁政は、熊澤蕃山の「経世済民」の実学(蕃山学)を基本理念としました。岡山藩では、これを国学とか光政流と呼びましたが、著者は述べています。


「光政の藩政において主要な理念となったものは、中江藤樹の門弟熊澤蕃山の実学的な『心法の学』に基づく『経世済民策』(世ヲ経メ、民ヲ済ウ政策)であり、これを岡山藩では、『光政流の仕置』とか『国学』と呼ばれた」

 また、熊澤蕃山について、著者は以下のように述べています。


「中江藤樹のもとで儒学を学んだ蕃山は、現状の儒学(朱子学、陽明学)を、時代・国土・人情を異にする日本において、そのまま行なうのは誤りであると批判する。儒者が学ぶべきは聖人の心であって、その跡のみを学ぶのは俗儒であり『口耳の学』である。孔子を初めとする儒者の経典を読み、訓詁(字句の解釈)、記誦詞章(文章講読、暗記)という聖人の言葉のみを学ぶ俗儒の学は誤である、と主張する」

 そして、著者は蕃山の思想について以下のように述べるのでした。


「儒者の学ぶべきは、聖人の心を鏡として己れの心を正しくすることにある。蕃山の『心法の学』は、政教に施行すれば『天下に用る時は、水土(国土)による道』となり、治国平天下の経世済民の教えとなるとする。この蕃山の理解は、時世・風土・人情という『時処位』論を基本とする『儒学の日本的変容』の形成と考えてよかろう」