No.1361 哲学・思想・科学 | 論語・儒教 『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』 渡部昇一著(致知出版社)

2016.12.08

 『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』渡部昇一著(致知出版社)を読みました。
 「人間修養に近道なし」というサブタイトルがついています。
 江戸の儒学者である伊藤仁斎の畢生の大作『童子問』の入門書です。

本書の帯

 本書の帯には、 「『論語』を宇宙第一の書」とした伊藤仁斎。これほど『論語』を深く愛し、深く通じた人はかつていなかった」「その弟子たちとの問答集に学ぶものは多い」と書かれています。

本書の帯の裏

 アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。

「伊藤仁斎は江戸時代前期に門弟三千人を抱えた大儒学者である。 渡部昇一氏は、仁斎が当時の他の儒者と違うのは『朱子学を究め尽くしてから孔子の道を歩いたことだ』と言う。江戸幕府の官学にもなっていた朱子学は理屈っぽく難解極まりないものだったが、それだけに学者たちは有り難がっていた。それに対して仁斎は『難しいことをいうのは偽物で、そんなものは必要ない』と喝破した。なぜ必要ないのか、それを師と弟子との問答形式で表したものが『童子問』だった」

 続けて、アマゾン「内容紹介」には以下のように書かれています。

「本書の前半はその『童子問』を読み解く。
『学問の要点とはなんでしょうか?』
『孔子の仁とは?』
『なぜ仁が最も重要とされるのですか?』
『師を求める方法を教えてください』
『朱子の王道と孔子の王道の違いは?』
こうした弟子の質問に仁斎が答えるのだが、仁斎の孔孟や朱子に対する姿勢が語られ興味尽きない。
後半はさまざまなエピソードを交えながら仁斎の素顔に迫る。仁斎の孔子を彷彿とさせるような生き方、その教えを読めば、仁斎、その人の魅力に大いに刮目することだろう」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第一部 『童子問』を読む

【1】 孔子孟子の世界に立ちもどった伊藤仁斎
【2】 伊藤仁斎、畢生の大作『童子問』を読む
【3】 名言で整理する『童子問』のポイント

第二部  伊藤仁斎の人生と学問

【1】 日本人の儒学を確立した伊藤仁斎
【2】 伊藤仁斎小伝――本物の知識人にして五男三女の父
【3】 逸話に見る大人・伊藤仁斎の素顔
「あとがき」

 第一部「『童子問』を読む」の【1】「孔子孟子の世界に立ちもどった伊藤仁斎」では、その冒頭で著者は「朱子学から古義学へ転換した伊藤仁斎」として、以下のように述べています。

「儒学というのは簡単にいうと孔子の学問ということですが、この『学問』とは、今ならば『人間学』という言葉でいいかえることができるでしょう。つまり、人間としていかにして生きるかを究明しようとすること、それが昔の学問の定義だったのです。その点で昔の学問はシンプルであり、また奥深いものでありました」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「『論語』を読んだことがある人ならばご承知のことですが、その文章は非常にわかりやすいものです。理屈で説明するような文章ではありません。しかし、わかりやすいとはいっても決して浅くはありません。そのため、後年、孔子の真意はどこにあるのかと、さまざまな研究・解釈がされるようになりました。それが最も顕著な形で現れたのが、宋の時代に周敦頤、程・程頤兄弟、朱熹(朱子)らによって確立された新しい儒学です。これを宋学と呼んだり、朱子学と呼んだりしますが、この宋代の儒学は仏教や道教(老荘の学)などの影響も受け、それ以前の儒学に比べて格段に難解なものになっていきました」

 著者は、「儒教・朱子学・孔孟の額についての質問・疑問に答えた『童子問』」として、これから読んでいく『童子問』が、儒教・朱子学・孔孟の学について寄せられた質問や疑問に伊藤仁斎が問答形式で答えていったもので、仁斎の死後、息子の東涯の手によって上・中・下の3巻の本として世に出されたことを紹介します。

 仁斎にはじまる古義学派の文献はいろいろ残っていますが、それらは今、奈良県天理市にある天理図書館に所蔵されていることを紹介し、著者は以下のように述べます。

「余談ですが、その天理図書館で古義学に関する蔵書を整理なさったのは中村幸彦という先生です。谷沢先生によると、中村先生は昭和18年の11月に結婚されて迎えた翌年の正月に、お母さんから『商家や農家で、それぞれの道具を祀る例に倣って、書物を祀っては如何』と提案されたのを面白いと思い、何を祀ろうかと考えて、普通であれば『古事記』や『万葉集』のような古い書物を祀るところを『童子問』を祀って、灯明や屠蘇を供えたそうです。以来毎年、中村家の正月には朱筆の入った『童子問』が祭壇に祀られるようになったということです。この中村幸彦先生は谷沢先生が非常に尊敬した学者ですが、『童子問』はその方が正月に飾ってお祝いするほど重要な本だったというわけです」

【2】「伊藤仁斎、畢生の大作『童子問』を読む」では、実際に『童子問』の内容に触れていきます。著者はまず、「人間学の要諦は『論語』と『孟子』にすべて示されている」という『童子問』巻の上・第1章の以下の質問を取り上げます。
「先生は孔孟の思想の正しく解釈された学説を明らかにされて、学に志す者を教導しておられます。ところが私は門に入ってまだ日が浅く、生まれつき頭の回転が遅いこともあり、またすでに耳にしてきた言葉が固定観念となって、先生から孔孟の解釈を明示されてもかえって驚き、本当なのかと疑ってしまいます。どうかその点をはっきり教えてください」

 それに対して、以下の回答が示されます。

「孔孟の正しい解釈は『論語』『孟子』の二書にそのすべてが明確に記されている。それは赤や青のように色鮮やかなもので、この世の中の道理がすべて含まれていて、諸子百家の言説を余すことなく一か所に集めている。
もし君が私の意図するところを知りたいと思うのなら、『論語』『孟子』だけを読みなさい。これを熟読玩味して何か得るものがあったとすれば、たとえ遠く離れ離れになったとしても、一堂に集まって一日中議論をするようなもので、お互いの心と心をぴったりと合わせたように一致するものだ。だから、怠ることなく勉学に励みなさい。 ただ、孔子・孟子の学問があまりに身近なものであるため、そこに深い意味が込められていること気づかないのではないかという心配もしているのだよ」

 そして、著者は以下のように解説しています。

「この第1章は『童子問』全3巻189章(上巻59章、中巻77章、下巻53章)のベースとなる仁斎の見方について述べています。それはすなわち『論語』『孟子』の二書をしっかり学ぶことが重要なのだということです。四書の他の二書、『大学』『中庸』は問題にならないし、いわんや五経などは全く無視しているのです。この仁斎の自信は大変なものだと思います」

 巻の上・第39章「良好な人間関係はすべて愛によって保たれている」では、「仁が孔門の中で最も重要なものとされるのはどういうことでしょうか?」という質問に対して、以下の回答が示されます。

「仁の徳は偉大なものである。その全体を一言でまとめていうならば、愛だね。君臣の間ではこれを義といい、父子の間では親といい、夫婦の間では別、兄弟の間では叙、朋友の間では信というが、これらはすべて愛から出るものなのだ。慈愛の徳よりも大きいものはなく、むごたらしく思いやりのない心ほどいたましいものはない。孔門が仁を最上の徳とするのはこういう理由なのだよ」

 巻の上・第42章「仁は人道の大本であり、あらゆる善の要となる」では、「孔子や孟子の唱える仁とは、果たしてどういうものなのでしょうか?」という質問に対して、以下の回答が示されています。

「仁は人道の大本であり、あらゆる善の要となるものである。人道に仁義があるのは、天道に陰陽があるようなものだ。『孟子』にいうには『仁は人の安宅なり。義は人の正路なり』(仁は人間が最も安心していられる家であり、義は人間が最も自然に歩ける路である)と。この仁と義は切り離せないものなのだが、要となるのは仁なのだ。だから、孔子の弟子たちは仁をごく当たり前のことと考えて、その意味を問題にすることはなかったのだよ」

 巻の中・第34章「賢人への尊敬心なく大きな成果を上げた者はいない」では、「天下に最も貴き善とはなんでしょうか?」という質問に対して、以下の回答が示されています。

「賢人を大事にすることより貴い善はない。上は王・公爵から下は庶民に至るまで、いまだ賢人を尊ばずによく身を修め、四端の心を保って、大きな成果を挙げた者はいない。では、賢とは何かというと、それは自分より賢っている者すべてをいうのだ。ただし、賢ぶっているというのは学問のあるなしとは関係ないことだよ。 こうした賢者を尊ぶことはとても重要なことであって、万事の本になる。後世の人々が古人に及ばない理由は、主として賢者への尊敬が欠けているところにある。時代が下がると賢を尊ばないだけではなく、賢人を妬み、あるいは侮り辱しめ、はなはだしくは世の中に認めさせないように邪魔をするようになってしまった」

 巻の中・第54章「偉くなるほど悪口をいわれる、気にすることはない」では、「褒めたり貶したりする声が聞こえてきます。そのたびに喜んだり落ち込んだりしてしまいます。どうすればいいでしょうか?」という質問に対して、以下の回答が示されます。

「毀誉褒貶は世に立つ者の常だから、一喜一憂するほどのことではないよ。『孟子』尽心下篇に『士は増々茲に多口せらる』(士であればこそ、いっそうみんなからあれこれと悪口をいわれる)とある。『孟子』の注釈者である後漢の趙岐は『士為る者は、益々多く衆口の為に訕らる』と書いている。士たる者は必ず志を持ち、義を持っている。それがある程度まで高まり、見識を有するようになると、独り立ちして他人にかまわず行動するようになり、平凡な人に迎合しなくなる。それが悪口をいわれる理由だろうね」

 第二部「伊藤仁斎の人生と学問」の【1】「日本人の儒学を確立した伊藤仁斎」では、著者は「人間の生き方うぃ追究しようとした東西の賢人たち」として、以下のように述べています。

「不思議なのは、人間には何か従うべき道があるのではないかということに、世界各地でおおよそ同じ時代に生きていた何人かが一斉に気づいたことです。それは孔子、釈迦、ソクラテスといった人たちですが、孔子が生きたのは紀元前551年から紀元前479年、ソクラテスは紀元前470年から紀元前399年、釈迦は紀元前566年から紀元前486年ですから、年代で見ると3人の生きた時代は少しずつ重なっているわけです」

 続けて、著者は以下のように述べています。

「これは驚くべき事実です。キリストの生誕が紀元0年ということになっていますが、それよりも500年ほど前の時代に、ユーラシア大陸の東に孔子、西にソクラテス、南に釈迦が現れ、『人間の道とは何か』ということに意識的に気づいて、それぞれの言葉で表現しているのです。孔子は自分が生まれた周の時代の文明を非常に高く評価しました。その周の時代の文明から儒教が出ています。そして、古代ギリシャ文明の栄えた社会からソクラテスが出て、古代インド文明の栄えた社会から釈迦が出るわけです」

【2】「伊藤仁斎小伝――本物の知識人にして五男三女の父」では、「徹底的に本を読んで証明を行った日本文献学の祖」として、著者は以下のように述べています。

「仁斎のやったことは今でいえば文献学的な研究にあたります。テキスト研究というのは非常に重要な学問です。谷沢永一先生は仁斎のことを『近世人文学の始祖であり、内部証明に基づく文献学の開拓者であり、日本儒学の創始者である』といっています。この『内部証明』というのは、よく文献学で、さまざまな文献を照らし合わせることによって、たとえば『これはシェークスピアが書いたに違いない』というように証明されるようなことをいっています」

 また、「朱子を徹底的に読んでわかった『孔子の道は近くにあり』」として、著者は以下のように述べています。

「仁斎についてはあたかも朱子学を完全に引っ繰り返したかのように誰もがいいますが、私は違うと思うのです。先にもいいましたが、朱子学はむしろ孔子を高めたのです。ところが、高めすぎてしまって、その上にさらに学問体系をつくったものですから、よけいな理論が出てきて難しいほうに引っ張られてしまい、孔子自身の思想が多少朱子学の体系から外れるようになってしまった感があります。しかし、それは決して孔子をないがしろにしようということではありません。むしろ、孟子などは朱子が取り上げるまでは諸子百家の中の一人という程度の認識でしかありませんでした。孟子を孔子と並べると決めたのは朱子です。その意味では、『論語』を説くのに『孟子』からはじめたのは仁斎であるといわれますが、そうではなく、それは朱子であったといっていいと思うのです」

 さらに、著者は以下のように述べています。

「仁斎はすべての朱子の本を読んで、その究極に到達し、本も書いています。ところが『どうもおかしい、これは孔子の道じゃない』と思うようになって、突如として『道は近きにあり』といい、その道が近きにあるということを最もわかりやすく述べているのは『孟子』であるといって、孔子と孟子を特に重んじるようになったのです」
「仁斎の偉いところは、朱子学を究め尽くしてから孔子の道を歩いたという点です。すべてを理解した後で『簡単なことなのだ。難しいことをいうのは偽物で、そんなものは必要ない』といったのです。そして、なぜそういえるのかを同学の士と徹底的に議論して最終的に問答形式で著したものが、『童子問』なのです」

 そして、「七十七歳、『童子問』を開講する」として、著者は以下のように述べるのでした。

「『童子問』とはどういうものかといいますと、塾や研究会などの席で寄せられた儒教・朱子学・孔孟の学についての質問や疑問に仁斎が問答形式で答えていったものです。仁斎は寄せられた質問や疑問をいちいち紙に書き留めておいて、それに回答をしていきました」

 本書は、「日本人の論語」とも呼べる伊藤仁斎の『童子問』を学ぶ最適の入門書であると言えるでしょう。ブログ『決定版 日本人の論語』で紹介した本と併せて読み返したいと思います。

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