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スマホが神になる』

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No.1351

 

 『スマホが神になる』島田裕巳著(角川新書)を読みました。

 「宗教を圧倒する『情報革命』の力」というサブタイトルがついています。 著者とは『葬式に迷う日本人』という本を共著で上梓したばかりですが、その少し前に刊行された本です。

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    本書の帯

 


 本書の帯には「衝撃の近未来!」「スマホで世界は無宗教」という扇情的なコピーが躍り、スマホを操るイスラムの少女、キリスト教の聖職者、そして仏教の僧侶の写真が使われています。 また、カバー前そでには以下のような紹介文があります。

 

「LINE、ポケモンGOの登場が信仰する時間までも奪い、スマホ、SNSの普及に宗教関係者は危機感を募らせている。ネットは今後、既存の宗教にどんな影響を与え、人々の信仰をどう変えていくのかを分析していく」

 

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    本書の帯の裏

 


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「はじめに」

第一章 スマホの「人を動かす」力が宗教界を揺るがす

第二章 神に代わりつつあるグーグル

第三章 スマホが神から時間を奪う

第四章 スマホが与える「全能感」

第五章 自撮りはあなたを世界の英雄にする

第六章 スマホが人を救う

第七章 「新渡戸さん、スマホがあるじゃないですか」

第八章 決して沈黙しないスマホという神

「おわりに」

「参考文献・資料」


 「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書き始めています。

 

「今、私たちは『未来』に生きている。 それは、妙な言い方かもしれない。未来は、これから先のことであり、私たちは『現在』にしか生きられないはずだからである。 だが、こういうことは言えるだろう。 私たちは、かつて未来と想定された時代に生きている。 たとえば、手塚治虫のSFマンガ『鉄腕アトム』の主人公であるアトムが誕生したのは、物語のなかで2003年4月7日とされていた。もうそれから13年もの歳月が流れていることになる」


 猫型ロボット、ドラえもんが製造されたのは、2112年9月3日と設定されています。ドラえもんが、タイムマシンで、主人公ののび太のもとへ向かうのは、2123年4月5日のことでした。ドラえもんの「四次元ポケット」には、未来の技術によって開発されたさまざまな道具が入っていますが、その1つに「オコノミボックス」があります。著者は、以下のように説明しています。

 

「これは、それを使おうとする人間に命じられれば、テレビやラジオにも、カメラにもレコードプレーヤーにも変化するものである。ファンの間では、『iPhone』を予言したものではないかと言われている」

 続けて、著者は「オコノミボックス」について以下のように述べます。

 

「たしかに、iPhoneのようなスマートフォン(スマホ)では、テレビも映せるし、ラジオも聴ける。写真も撮れる。もちろん、そのままレコードプレーヤーにはなるわけではないが、音楽を聴くことならできる。iPhoneには、『Siri(シリ)』という機能があり、使っている人間が話しかけると答えてくれる。それも、オコノミボックスと似ている。ただ、マンガでは、オコノミボックスを電話として使う場面は出てこない。電話にそうした多様な機能が盛り込まれるという発想はまだなかったのだ」

 未来予言というものについて、著者は以下のように述べています。

 

「未来を予言するということは、その予言が実現されることを願うということであり、『夢』を語っていることになる。 未来は、その夢が実現される世界と考えられているわけだが、その底には、近代社会に特徴的な『進歩』の思想がある。技術はどんどんと進歩し、今は実現されていない夢のようなことが、将来は容易に実現されるというわけである。

 また、著者はスマホについて以下のように述べています。

 

「スマホは、過去において想像された未来の道具をはるかに超えるものであるとも言える。スマホは、ポケットに入れて持ち歩ける道具であり、その基盤にはコンピュータの技術があり、インターネットの技術がある。このコンピュータやインターネットの技術開発はめざましく、それは、私たちの生活を変えてきた。今では、私たちはそうした未来の暮らしに慣れていて、それを特別にすごいことだとも思わなくなっている」 そして、「はじめに」の終わりに、著者は以下のように書くのでした。 「この本では、スマホの発展と普及が、私たちの生活をどう変えてきたのかを考えたい。重要なことは、その変化が、宗教という、人類にとって特異な精神活動にまで及んでいることである」

 第一章「スマホの『人を動かす』力が宗教界を揺るがす」では、各国のポケモンGO事情を紹介しながら、「完全禁止の中国」として、著書は以下のように述べます。

 

「中国では、グーグルの位置情報サービスを認めておらず、ポケモンGOをやることができない。しかし、もしゲームが可能になったとしたら、やはりポケストップに多くの人間が集まってくることになるだろう。そのストップが、もし中国共産党の要人が多く住む中南海に設定されたとして、そこに多くの人間が集まってきたとしたら、それは、1999年4月25日に起こった、中国の新宗教「法輪功」のメンバー1万人による包囲事作の再来になってしまう」

 続けて、著者は以下のように法輪功について述べています。

 

「法輪功のメンバーは、秘密裏に連絡しあい、当局に気づかれないまま、これを実行した。そのことが、法輪功に対する大規模な弾圧に結びついた。それと同じことが、ポケモンGOによって再現されるのだ。人を動かす力は、容易に発揮できるものではない。全体主義の強権的な国家なら、国民 を強制的に駆り出すことが可能で、宗教団体の場合にも、同じような力を発揮する」


 第一章で著者はポケモンGOの影響力の大きさを強調しますが、最後に以下のように述べています。

 

「もちろん、ポケモンGOは、たんなるゲームであり、ポケストップやジムに集まってきた人々は、レアなポケモンをゲットするということだけを目標にしていた。そこから威嚇行動に出るようなことはない。だが、ゲームがスマホという道具を媒介とすることによって、人を動かす力を発揮したことの意味は大きい。それは、今までなかったことだからである。ちなみに、2016年9月現在でポケモンGOの利用者が歩いた距離の合計は約46億キロで、これなら地球から冥王星まで行けることになる」

 第二章「神に代わりつつあるグーグル」では、「無宗教者急増の裏にネット依存者」として、アメリカで無宗教者がこの20年で8%から18%に急増、その背景に過剰なネット依存というレポートが出され、宗教関係者は危機感を募らせていることが紹介されます。著者は、以下のように述べます。

 

「情報に容易にアクセスできるという期待感は、宗教的な儀式に対して挑戦状を突きつけることになるかもしれないのだ。というのも、何かを知ろうとしたとき、インターネットなら求めた答えがすぐに得られる。それは、求めている人間の必要を直接に充たすものである。それに対して、宗教的な実践の場合には、それがどの宗教の場合であろうと、それとは正反対の忍耐や熟慮を求めてくる」

 著者は、「既存宗教よりも新宗教の信者が激減」として述べています。

 

「新宗教の教団の衰退は、デジタル時代の到来と重なっている。しかも、そこに はやはり相関関係を見出すことができる。高度経済成長の時代に、新宗教の信者になったのは、産業構造の転換に伴い、都市で必 要になった労働力の不足を補う形で、地方から都市へと出てきたばかりの人間たちだった」

 彼らは、労働環境が不安定である上に、都市に確固とした人間関係のネットワークを持っていませんでした。つまり、彼らは孤独であり、新宗教はその孤独を鋭くつくことで、信者を増やしたということが言えるとして、著者は以下のように述べます。

 

「そうしたことから考えれば、もし高度経済成長の時代にスマホがあったとすれば、そちらが孤独を癒す道具になり、新宗教はあれほど伸びなかったかもしれない。かつて新宗教に入信した人間の子どもや孫たちは、親や祖父母とは生きる世界がまるで違う。彼らは、都会の生まれであり、引っ越しを除けば、人間関係のネットワークから切り離されるという経験をすることはない。つまり、故郷から切り離されることで根本的に孤独になることはないのである。そうであれば、人間関係のネットワークとしての新宗教に魅力を感じることもない。そこに、信仰がうまく継承されない原因がある。そこに、スマホのような道具が登場すれば、新宗教を必要とする理由はますますなくなるのである」

 

 また、「檀家制度の崩壊で地域の村社会も衰退」として、著者は以下のように教団の信者数について述べます。

 

「『宗教年鑑』の信者数は、どこでも教団による自己申告である。神道の場合、それぞれの神社の近くに住む人間をすべて『氏子』としてとらえ、その数を報告しているわけだ。したがって、当人が神道を信仰しているという自覚をもたなくても、それとはまったく無関係に神道の信者として数え上げられてしまっているのである。仏教の各宗派の場合にも事情は同じで、寺の檀家の数をそのまま合計して、その宗派を信仰している信者にしてしまっている。当然そのなかには、自分は無宗教であると考えている人間が多く含まれている」

 さらに、著者は仏教寺院の現状を以下のように述べています。

 

「各宗派の本山に人が来なくなっているということはよく言われるようになった。また、観光寺院の場合には、修学旅行生が減ったことや、旅行先の多様化で、以前よりも多くの参拝者を集められなくなっているところが出てきている。奈良・斑鳩の法隆寺などは、かつては修学旅行コースの定番だったが、今や学生たちも、寺社ではなく、他の場所を旅行先として望むようになり、苦戦している。そのため、最近、拝観料の値上げに踏み切っている。寺の維持費を捻出するためである。何より、既成仏教宗派の場合には、葬儀の簡略化の傾向が著しく進んできたことが、大きな影響を与えている」

 著者は「無縁墓になるような墓も地方ではかなり増えている」として、以下のように述べています。 「庶民が寺の檀家になるようになったのは、江戸幕府の政策で、『寺請制』が敷かれ、檀家になることを強制されたからである。寺請制は明治に入って廃止されたものの、いったん寺の檀家になってしまうと、容易には檀家を止められなかった。かくして、400年以上にわたって檀家関係が維持され、『葬式仏教』が続いた。 その葬式仏教というあり方に、今や大きな変化が訪れつつある」

続けて、著者は葬式仏教について以下のように述べます。 「葬式仏教は、地域のネットワークを基盤としたものである。それは、『村社会』とも呼ばれるが、村社会では人間関係が密接であるばかりか、よそ者がそこに入ってくれば、すぐに分かってしまう。お互い、家にカギなどかけず、誰もがふらっと他人の家に入り込み、座敷にまで上がっていく。プライバシーもないわけだが、それで緊密な人間関係が維持され、生活の支えになっている。都会では、下町を除けば、地域の人間関係は希薄で、よそ者がいくらでも地域に入ってくるため、カギは厳重にかけておかなければならない」

 また、「家から個人の関係に移行したデジタル・デバイスの出現」として、著者は以下のように述べています。

 

「いつでもどこでも連絡がとれるということでは、案外、村社会の関係の持ち方と似ている。それだけスマホは、人間同士の関係を近づける力を持っているのである。 村社会における宗教活動の核にあったのは、各種の『講』である。講には、伊勢講や富士講、念仏講などがあり、定期的に信仰上の行事を営むとともに、講の名前を冠した神社仏閣にはるばる出かけていくことを目的としていた」

 第五章「自撮りはあなたを世界の英雄にする」では、再びポケモンGOの問題が取り上げられます。

 

 「モンスター蒐集はユダヤ教の神の火花に通じる!?」として、著者は以下のように述べています。

 

「ユダヤ教のポータルサイトである『aish.com』には、ラビ・シュロモ・ボクスバウムという人の執筆した記事が掲載されている。それは、『ポケモンGOとさ迷えるユダヤ人』というものだった。この筆者は、『ポケモンGOに熱中するプレイヤーを見ていると、ここ2000年ほどのユダヤ人の捕囚の歴史を思わざるを得ない』、『ポケモンGOはディアスポラのユダヤ人の歴史と大変に似ている』と述べている」

 

 ディアスポラとは、ユダヤ人がイスラエルの地を追われ、世界各地を流浪しなければならなくなったことをさします。

 この筆者は、ポケモンのプレイヤーとディアスポラのユダヤ人は、1つの場所から別の場所へ 移動し、そのつど、そこで使命を果たしていることに共通性を見出していると指摘し、著者は以下のように述べます。

 

「ポケモンGOならポケモンを捕らえ、レベルを上げていくという使命である。一方、ユダヤ人は、創造の際に飛び散った『神の火花』を発見し、それを高尚なものにしていくという使命を負っている。どちらも、それぞれの場所で使命を果たすと、次の場所へ移っていく。最終的な目的は、ポケモンGOなら存在するあらゆるモンスターを蒐集することであり、ユダヤ人なら神の 火花をすべて集めて、イスラエルへと帰還することである。この神の火花という考え方は、ユダヤ教の神秘主義である『カバラー』にもとづくものである」

 本書で、著者はポケモンGOがいかに宗教的であるかを説くわけですが、以下のように述べています。

 

「考えてみれば、ポケモンGOの世界が、宗教における物語と重ね合わせて理解されるのも当然のことだろう。何しろ宗教の世界の物語は、神となる存在や英雄、あるいは新しい教えを説くようになる教祖たちが主人公になっており、ゲームはその構造を引き継いでいるからである。なおかつ、ゲームには、神話や宗教がもとになっているキャラクターが数多く登場する。その点では、神話や宗教は、キャラクターの生みの親なのである。神話に登場するのも、ゲームに登場するのも『英雄』である」

 著者は、「ゲームや映画の中に多く存在する『通過儀礼』」として、以下のように述べています。

 

「あらゆる物語は、『通過儀礼』の構造をもっている。通過儀礼は、一般的には、人生の節目において経験する各種の儀礼のことで、成人式や 結婚式、葬式がその代表である。それぞれの宗教は、こうした通過儀礼を用意するわけだが、通過儀礼のなかには、伝統社会の成人式のように試練を伴うものもある。たとえば、青年が大人たちに伴われて狩りに出て、獲物をしとめるという試練を果たしたときに、成人したと見なされ、大人の仲間入りができるのである。神話の英雄物語は、この伝統社会における通過儀礼を基盤としており、それを古代の物語として語り直したものである」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「ゲームのなかに、1つの大きなジャンルとして、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)がある。これは、まさにゲームをする人間が、ゲームのなかで英雄になって敵を倒し、使命を果たしていくものである。最後には、『ラスボス』と呼ばれる強大な敵が待ち受けていて、熾烈な戦いに勝利しなければならないようになっている。日本のRPGの代表としては、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のシリーズがある。実は、英雄などが登場しない一般の物語でも、主人公は何らかの試練に直面し、それを乗り越えていかなければならなくなる。その点で、物語そのものが通過儀礼の構造をもっている」

 第六章「スマホが人を救う」では、「誰かと暇をつぶすのではなく、1人で暇をつぶす現代」として、著者は「全体的に現代では、誰かと暇をつぶすのではなく、1人で暇をつぶすように変わってきている。そのときには、テレビやパソコン、そしてスマホが暇つぶしの相手になってくれるのである」と述べています。

 また、「社交不安障害や鬱病を改善させる効果もあるポケモンGO」として、著者は以下のように述べます。

 

「外へ出ていけば、長い距離を歩き、運動をするわけで、それ自体からだに対してはよい効果を与えるはずだ。あるいは、人と交わる機会も増えていくかもしれない。それが、何らかの形で好ましい効果をもたらすことは十分に考えられるのだ。『自殺の名所』とも言われてきた福井県の東尋坊には、ポケストップが多くあり、訪れる人が増えたせいで、自殺者がいなくなったという。直接ポケモンGOが自殺をくいとめたわけではないが、その人を動かす力が、思わぬ効果を発揮していることになる」

 

 このように本書で、著者はポケモンGOのプラスの効果を訴えます。 じつは、わたしが著者と六本木ヒルズで対談したとき、日本列島はまさにポケモンGOブームに沸き返り、著者も本書を執筆している真っ最中でした。対談でもポケモンGOの話題が出ました。わたしが「冠婚葬祭とは、人が実際に足を使って特定の場所に出向き、祝ったり弔ったりすること、リアルそのものですよ」と述べたところ、著者は「ポケモンGOだって、足を使って歩き回るからリアルだよ」と言ったのをよく憶えています。 あと、わたしが「島田さんの信仰の対象は何ですか?」と質問したところ、「イニシエーション(通過儀礼)ですね」と答えられたのが印象的でした。

 それにしても驚いたのは、著者のブログ「島田裕巳の経堂日記」に「11月9日(水)誕生日を記念してとうとうスマホに替えてみた」という記事がアップされたことです。そこには以下のように書かれていました。

 

「今までずっとガラケーを使ってきた。今の機種はもう6年を超えている。古い仕様のものなので、しだいに使えるところがなくなり、スケジュールも見られなくなった。このままいくと、新幹線の予約もできなくなりそうだ。それを反映して、最近は、携帯が機能していない。そこで、誕生日を記念してスマホに替えることにした」

 

 ちなみに、本書の刊行日は10月10日です。11月9日に初めてスマホを購入したということは、島田氏はこの本をスマホを知らずに書いたということになります。これには仰天しました。いやはや、すごい人ですね!