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「ウルトラQ」の誕生』

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No.1309

 

 『「ウルトラQ」の誕生』白石雅彦著(双葉社)を読みました。 著者は1961年秋田県生まれで、映画研究家、脚本家、映画監督。 なんと、大仁田厚の電流爆破デスマッチのスタッフでもあるとか。

 本書の表紙カバーには南極怪獣ペギラの写真が使われ、帯には「放送開始50年! なぜ名作は生まれたのか?」「定説に挑む決定的ドキュメンタリー」「綿密な取材で歴史的事実に限界まで迫る!!」と書かれています。

 また、帯の裏には「関係者の証言と資料を徹底検証し『特撮』に留まらぬ視点から全体像を描き出す」「『WoO』はなぜ実現しなかったのか?」「映画界とテレビ界の当時の状況は?」「なぜ『怪獣路線』に変わったのか?」「企画室長・金城哲夫の苦闘」と書かれています。


 さらにカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

 

「ちょうど50年前、1966年1月2日、第1話『ゴメスを倒せ!』の放送から始まった『ウルトラQ』は、テレビ史を変える画期的なシリーズだった。だが、名作誕生までの道のりは決して平坦でなかった。スタッフは前代未聞の番組を作るため、文字通り暗中模索であった。そして、番組成立の背景には、テレビの隆盛と映画の衰退という二つの歴史的潮流があった・・・。 テレビ草創期を活写した2冊(『円谷一 ウルトラQと"テレビ映画"の時代』『飯島敏宏 「ウルトラマン」から「金曜日の妻たちへ」』)の著者が、『特撮』に留まらぬ広い視点から描く画期的ドキュメンタリー」

 

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    「ウルトラQ」のある自宅のDVDコーナー

 


 「ウルトラQ」は、アメリカのテレビドラマである「アウターリミッツ」や「トワイライトゾーン」を意識して作られた和製SFドラマでした。主人公は万城目淳(星川航空パイロット)、戸川一平(パイロット助手)、江戸川由利子(毎日新報報道カメラマン)の3人で、毎回彼らが遭遇する不可思議な事件が描かれます。全部で28話が放送されましたが、中でも、わたしは第25話の「悪魔ッ子」、第28話の「あけてくれ!」が大好きでした。ビデオ、DVDをあわせて何回繰り返し観たことか。わが家のリビングルームの隅にあるDVDコーナーには、「ウルトラQ」をはじめ、円谷プロの関連作品である「アンバランス」「怪奇大作戦」、さらには「ウルトラ」の名を世界に轟かせた「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などがDVDで揃っています。


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「まえがき」

第一部 テレビ映画の勃興と幻の企画『WoO』

第二部 『UNBALANCE』と『ウルトラQ』の間に

第三部 大怪獣日本を蹂躙す

「あとがき~『ウルトラQ』の個人史~」

 「まえがき」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。

 

「本書は1966(昭和41)年1月2日から放送され、日本中を巻き込むこととなった怪獣ブームの火付け役、『ウルトラQ』という番組が、いかに誕生し、いかに発展していったかを描くものだ」 また著者は、以下のようにも書いています。 「2016年は『ウルトラQ』の本放送から50年の節目に当たる。正直、50年前といえば半世紀、もはや歴史の一部であると考えていいだろう。つまり本書の目的は、伝説の番組といわれる『ウルトラQ』を、当時の視点から見つめ直し、その歴史的意義をつまびらかにすることにある」

 第一部「テレビ映画の勃興と幻の企画『WoO』」では、「胎動~テレビ映画の時代へ~」として、我が国におけるテレビの本放送の歴史が紹介されます。1953(昭和28)年2月1日、NHKに始まる。そして8月28日、日本テレビが、55年4月1日にはラジオ東京テレビ(KRT、現・TBS)が本放送を開始。57年11月1日に日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)、同月18日に富士テレビジョン(現・フジテレビ)が設立されています(本放送開始はそれぞれ59年2月1日と同年3月1日)。

 

 日本テレビ初代社長・正力松太郎のアイデアで生まれた街頭テレビは大変な人気を呼びました。著者は以下のように述べています。

 

「人気の中心は大相撲、ボクシングといったスポーツ中継だったが、視聴者を虜にしたのは、当時流行を始めたばかりの格闘技・プロレスだった。伝家の宝刀・空手チョップで、アメリカのシャープ兄弟を追い詰める力道山の姿は、敗戦にうちひしがれた日本国民に根付いていた反米感情を多いに刺激し、プロレスは国民的な人気を得たのである。そうした正力の施策によって、開局当初は採算に合わないだろう、と言われていた日本テレビは、わずか7ヶ月で黒字を計上するのである。見たこともない情景(例えばプロレス中継)が、新たに誕生したメディアからリアルタイムで流される。これこそがテレビの真骨頂であり、本質であった」

 テレビが朝から夜までの、いわゆる全日放送となったのは、テレビ受信契約者数が1000万人を突破した62年のことで、NHK総合が初めて導入しました。著者は以下のように述べます。

 

「当然、生放送ですべての時間帯を埋めるのは不可能で、それに代わるソフトの必要性が増す。ただ本放送開始直後、松竹、東宝、大映、東映、新東宝の邦画5社は、テレビに対し門戸を閉ざしていた。そのため、教育・文化関係、PR映画などの短編、ならびに独立プロの作品が、編成の穴埋め的に放送されていたのである。5社の映画が電波に乗ったのは、55年になってからで、東映の『風雪二十年』(51年、監督・佐分利信)がNHKで放送された。一方、日本テレビも正力が邦画5社長会議で『(劇映画のテレビ放送に対し)一応協力しよう』という線を導き出し、また、54年の製作再開を目指していた日活が、資金調達の一環として戦前戦中の旧作30本の放映権を日本テレビに売却、これにより邦画6社の劇映画がお茶の間に流れることになった」

 続けて、著者は以下のように述べています。

 

「だが、56年9月末日、5社は早くも劇映画のテレビ供給を停止してしまう。翌57年には、経営が安定してきた日活が映画協定に加盟、これにより5社協定は6社協定となった。日本テレビが日活と交わした契約は58年8月で切れる。つまり以後、邦画6社の劇映画はブラウン管から消えることになる。そればかりか58年5月27日、外国映画輸入協会の臨時総会は、テレビへの映画供給を全面的に中止することを確認、9月から洋画までも姿を消すことになった」


 劇映画が抜けた穴埋めを、スタジオドラマで埋めるのは事実上不可能でした。そこで急浮上したのが、いわゆる外国テレビ映画(ほぼ米国産であるが)だったのです。テレビ映画とはフィルムで制作されたテレビドラマのことで、我が国に輸入された最初のテレビ映画は『カウボーイGメン』で、KRTが56年4月28日から放送しました。著者は以下のように述べています。

 

「こうして上陸した外国テレビ映画だったが、当初、思ったほどの人気は出なかった。だが56年11月、テレビ史上のエポックである作品がKRTに登場する。『弾丸よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び!』というオープニングナレーションで知られるヒーローものの元祖『スーパーマン』である。主演はジョージ・リーブス。日本語版で彼の声を吹き替えたのは大平透で、低音の渋い声が人気を博した。以降、外国テレビ映画は続々ブラウン管に登場し、ブームの頂点とされる61年には、実に72本のシリーズが放送されたという」


 さらに日本のテレビ界は変わりました。著者は述べます。

 

「59年1月10日、NHK東京教育テレビジョン開局、2月1日NET、3月1日、フジテレビが本放送を開始、在京ステーション5局という体制に入ると、外国テレビ映画を巡る事情に重大な変化が訪れる。民放2社の新規参入で、外国テレビ映画に対する競争が激化、結果、単価は高騰した。そこで注目されたのが国産テレビ映画である。KRTは手始めに子会社の東京テレビ映画第1回作品として、月曜から土曜、10分間の帯ドラマ『ぽんぽこ物語』(57年11月11日〜58年2月22日)を放送するが、赤字のため制作中止となった。だがここで広告代理店・宣弘社の社長、小林利雄が声を上げる。『10分物1本を、15万円で作って見せる』と。こうして誕生したのが『月光仮面』(58年2月24日~59年7月5日)である。我が国初のテレビヒーローだった『月光仮面』は大ヒット、タケダアワー第1作としても、テレビ史に名を残した」


 ここまでは単なる日本テレビ史のような内容ですが、ここから「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二が登場します。著者は述べます。

 

「英二の公職追放が解除されたのは52年、51歳のときだ。しかし社員ではなく専属契約である。そして54年、『ゴジラ』(監督・本多猪四郎)の大ヒットで、円谷英二の名はようやく世間の認知するところとなり、やがて特撮の神様と呼ばれるようになる」


 独立プロダクションとしての円谷プロ最初の映画は、『太平洋ひとりぼっち』(63年、監督・市川崑)でした。日活の大スター・石原裕次郎が、従来の映画会社にはできない作品を作るという理想のもと設立した石原プロモーション製作の作品で、円谷プロは特撮部分を請け負いました。
 1963(昭和38)年は、わたしが誕生した年ですが、円谷プロ設立の年でもあります。著者は、以下のように述べています。

 

「『太平洋ひとりぼっち』の特撮は好評をもって受け入れられた。そしてこの年、その後の運命を決めるプロジェクトが始動する。すなわち特撮テレビ映画の制作である。ここで注目すべきは、フジテレビとTBSの2局から、円谷英二にテレビ映画制作の打診があったことだ。フジは『WoO』として企画が成立し、TBSは『UNBALANCE』というタイトルで特撮テレビ映画の制作が開始される」

 

 この企画には日本SF作家クラブが参加しました。著者は述べます。

 

「日本SF作家クラブとは、『SFマガジン』(早川書房刊)の編集長だった福島正実を初代会長とする同人で、発足は63年3月5日。発足当時の会員は、福島他、小松左京、半村良、星新一、光瀬龍、矢野徹、石川喬司、川村哲郎、斎藤守弘、斎藤伯好、森優の11人。のちに円谷プロと深い関わりを持つことになる大伴昌司はやや遅れて参加し、同会の2代目事務局長を務めた。このメンバーのうち数人は、『WoO』と『UNBALANCE』の原案として番組企画に名を残している」

 

 全28話からなる「ウルトラQ」の中で、わたしが最も魅了されたエピソードは北沢杏子が脚本を書いた「悪魔ッ子」、小山内美江子が脚本を書いた「あけてくれ!」でした。ともに見事な怪奇幻想の世界を描いていました。 著者は、以下のように述べています。

 

「北沢が書いた『悪魔ッ子』『変身』、そして小山内が書いた『あけてくれ!』は、『UNBALANCE』~『ウルトラQ』の作品群の中で、ベストに入る名作と言われている。この2人の作品で特徴的なのは、不条理な世界に取り込まれてしまうという人間達を描いていることだ。『悪魔ッ子』では、催眠術によって肉体と精神のバランスを崩してしまう少女リリー、「変身」では、モルフォ蝶の鱗粉により巨人になってしまう市井の青年、『あけてくれ!』は、現実逃避を望んでいた初老のサラリーマンが異次元の世界を垣間見る、といった具合にだ」

 

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    「ウルトラQ」放送リスト

 


 第三部「大怪獣日本を蹂躙す」では、放送リストについて述べています。

 

「7月10日まで全話放送となっているが、実際は7月3日までで、『あけてくれ!』をオクラ入り(未放送)にして番組を終えている。この背景には、日本初の巨大ヒーローカラー特撮番組『マグマ大使』(フジテレビ、66年7月4日~67年9月25日)の存在があったと推測する。というのも日曜夜7時、フジテレビでは手塚治虫原作の『W3』(65年6月6日〜66年6月27日)を放送していたが、『ウルトラQ』が始まるや視聴率は急落してしまう。当時、同番組の担当は円谷皐で、視聴率が1ケタ台に落ち込んで驚いたという」


 「その結果、『W3』は、2月7日の第36回から、月曜夜7時半に移行する事態に陥ってしまったのだ。フジはTBSに対抗するための番組作りを『W3』の代理店だった東急エージェンシーに依頼。それがピー・プロダクション製作のカラー特撮番組『マグマ大使』となる。同番組の放送開始は7月4日、対する『ウルトラQ』の後番組『ウルトラマン』は、7月17日からの放送予定で、同じカラー特撮番組として出遅れた感が否めない事態となった」

 

 「マグマ大使」がわたしの出身会社である東急エージェンシーの製作であることは知っていましたが、それが「ウルトラQ」と深い因縁をもち、ましてや大好きな「あけてくれ!」を一度はオクラ入りにしていたなんて、まったく知りませんでした。まさに「縁は異なもの」ですね。