No.1303 哲学・思想・科学 | 芸術・芸能・映画 『スペクタクルの社会』 ギー・ドゥボール著、木下誠訳(ちくま学芸文庫)

2016.08.21

 『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール著、木下誠訳(ちくま学芸文庫)を読みました。著者は1931年生まれのフランスの映画作家・革命思想家です。57年、シチュアシオニスト・インタナショナル(SI)を結成、67年に本書を刊行して、68年「五月革命」の先駆者と目されました。72年のSI解散後は、イタリア・スペインの革命運動と関わりつつ映画製作・著作活動を行いましたが、94年に病を得て自殺しています。訳者は56年鳥取県生まれのフランス文学者で、神戸商科大学教授です。

 カバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「『フィルムはない。映画は死んだ』と言ってのけるドゥボールにかかっては、あのゴダールさえ小市民的に見えてしまう。芸術に限らず、思想も政治も経済も、『専門家』に任せきりで、鷹揚にお手並拝見と構えているうちに、いやおうなく『観客』であるしかないどころか、大仕掛けな茶番劇のエキストラに動員されてしまいかねない。こんな世界のありようと疎外感の大元を、本書は徹底的に腑分けしてくれる。ほんとうに『何一つ欠けるところのない本』だ。マルクスの転用から始まるこの本は今日、依然として一個のスキャンダル、飽くなき異義申立てと『状況の構築』のための道具であり、武器であることをやめていない」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「フランス語版第三版への諸言」
1 完成した分離
2 スペクタクルとしての商品
3 外観における統一性と分割
4 主体と表象としてのプロレタリアート
5 時間と歴史
6 スペクタクルの時間
7 領土の整備
8 文化における否定と消費
9 物質化されたイデオロギー
「訳者解題」
「書誌」
「ギー・ドゥボール略年譜」
「文庫版あとがき」

 本書は箴言集のように短い言葉が並んでいます。
 それらの言葉の頭には通し番号がつけられています。
 特にわたしの興味を引いた言葉を抜書きしたいと思います。

(1)近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

(4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である。

(6)スペクタクルは、その全体性において理解すれば、既存の生産様式の結果であると同時にその企図でもある。それは、現実世界を補うものでも、余分に付加された飾りでもない。スペクタクルは、現実の社会の非現実性の核心なのだ。スペクタクルは、情報やプロパガンダ、広告や娯楽の直接消費といった個々の形式のどれもの下で、この社会に支配的な生の現前的モデルとなる。それは、生産と、その必然的帰結としての消費において、既になされてしまっている選択を、あらゆる場所で肯定する。スペクタクルとは、その形式も内容も、完全に同じように、ともに現システムの諸条件と目的とを完全に正当化するのである。それと同時に、スペクタクルはこの正当化を常に現前させ、近代的生産の外で生きられた時間の主要な部分を占拠するのである。

(16)スペクタクルは、経済が人間を完全に服従させたという限りにおいて、生ける人間を己れに服従させる。それは、自らのために発展する経済にほかならない。それは、モノの生産を忠実に反映し、生産者を忠実ではないやり方で客体化したものである。

(29)スペクタクルの起源は世界の統一性の喪失であり、また、現代のスペクタクルの途方もない拡張は、この統一性の喪失が全体的であることを表現している。スペクタクルのなかには個々の労働すべての抽象化と集団的生産の一般的抽象化とが、完璧なかたちで表されている。というのも、スペクタクルの具体的存在様態とは、抽象化にほかならないからである。

(125)人間という、「〈存在〉を揚棄する限りにおいてのみ存在する否定的存在」は、時間と同一の存在である。人間が自らの自然を占有したということは、人間が宇宙の展開を把握したということでもあるのである。「歴史そのものが自然史の、自然の人間への生成の、1つの現実的な部分である」(マルクス)。しかし逆に、この「自然史」は、歴史のこの全体性を再発見できる唯一の部分である人間の歴史の過程を通してしか現実には存在しない。それは、宇宙の周辺部への星雲の後退運動に時間のなかで追いつく射程を持った現代の望遠鏡のようなものだ。歴史は常に存在してきたが、常に歴史という形態で存在していたとは限らない。社会を媒介にして行われる人間の時間化は、時間の人間化に等しい。時間の無意識の運動は、歴史意識のなかで姿を現し、真実のものとなるのである。

(136)一神教とは、神話と歴史との妥協の産物、いまだに生産を支配している円環的時間と、諸民族が衝突し再編成される不可逆的な時間との妥協の産物であった。ユダヤ教から生まれた諸宗教はすべて、民主化され、万人に開かれてはいるが、いまだに幻想のなかにある不可逆的な時間を世界中で抽象的に再認識する。時間は、すべて完全に、唯一の最終的事件、「神の国は近づいている」という事件に向かって方向づけられているのである。これらの宗教は歴史的土壌の上に生まれ、そこに築き上げられた。だが、そこにおいてもなお、それらは歴史との根源的な対立のなかに保たれるのである。半‐歴史的宗教は、時間のなかに質的な出発点―キリストの誕生、ムハンマドの移住―を築く。しかし、そこから始まる不可逆的な時間は、イスラームにおいては征服の姿を、プロテスタントのキリスト教においては資本の増大という姿を取って現れる実質的な蓄積を導入することにより、実際には、逆算するようにして宗教的思考のなかへと反転させられてしまう。

(183)文化は、古い世界の生活様式を解体した歴史から生まれるが、それはいまだ、分離された領域として、部分的にしか歴史的でない社会のなかで部分的な状態にとどまっている知性と感覚的コミュニケーションでしかない。文化とは、あまりに意味のない世界の意味なのである。

(186)神話社会の共同体を喪失することによって、社会は、無活動な共同体の分裂が真の歴史的共同体の達成によって克服される時まで、真の共通言語の指向対象をすべて失わざるをえない。かつて社会的無活動の共通言語であった芸術は、初期の宗教的宇宙から離脱し、現代的な意味での独立した芸術になるやいなや、分離された作品を個人的に生産するようになり、特殊なケースとして、分離された文化全体の歴史を統率する運動を経験することもある。その運動が自らの独立性を肯定することは、その解体の始まりなのである。

 「訳者解題」で、訳者の木下氏は『スペクタクルの社会』はその形式において独自であるとして、以下のように述べています。

「221の断片(断章)の積み重ねという叙述形式は、『大きな物語』であれ『小さな物語』であれ、物語という単一の流れのなかにすべてを巻き込むスペクタクルの社会において、スペクタクルのなかに回収され物語として消費されることを拒むために採られた戦術だ」

 また木下氏は本書を「これは増殖する本でもある」として述べます。

「フランスだけでなく世界各地で、実際にこの本はパンフレットやビラ、さらにはコミックなどのかたちで―ほとんどの場合、無断で―引用・転用され、著者の手を離れて街頭に飛び出して行った。この『無断』転用は、『著作権』というブルジョワ的権利を拒否するシチュアシオニストがむしろ自ら奨励していたやり方で、その機関誌すべての表紙の裏に、「『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくとも、自由に転載、翻訳、翻案することができる」と書かれている」

 さらに木下氏は、本書について以下のように述べます。

「『スペクタクル』も『ポストモダン』も、『表象』がその指示対象である『モノ』から独立し、かつての資本主義の『商品』の流通回路とは別の『情報』や『イメージ』だけの流通回路が出現したという認識を同じように持つという点で、ともに高度資本主義社会のさらに発展形態である『情報資本主義』社会とも言うべき時代を対象としているが、『ポストモダン』の思想家が『実践』の意義を認めないのに対し、シチュアシオニストは『スペクタクル』の支配を打ち破る実践として『状況の構築』をあくまでも追求する」

 そして、木下氏は「文庫版訳者あとがき」で、この奇妙な書物を書いたギー・ドゥボールについて以下のように述べるのでした。

「1993年に『スペクタクルの社会』の日本語版翻訳が刊行された当時、ドゥボールの名前は日本ではほとんど知られておらず、フランスでも、彼を熱狂的に讃えるわずかな者たち(Happy few)を除き、その人物像は一種の謎に包まれていたが、それはドゥボール自身がマスメディアとの接触を一切拒み、スペクタクルの社会との『闘争』を身をもって実践していたことの必然的結果でもあった。しかしながら、その翌年の11月30日の衝撃的な『自殺』―それは、単なる自殺ではなく、自らの不治の病(アルコール性神経炎)の進行に、他人の手を借りず自らの意志によって終止符を打つ一種の『尊厳死』である―以降、マスメディアはあたかも残された最後のヒーローであるかのごとくドゥボールの生き方について騒ぎ立て、その思想と運動についても、多くの者が注目し、言及しはじめた」

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