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幸せになる勇気』

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No.1301


 『幸せになる勇気』岸見一郎・古賀史健著(ダイヤモンド社)を読みました。

 「自己啓発の源流『アドラー』の教え2」というサブタイトルがついています。この読書館でも紹介したミリオンセラー『嫌われる勇気』の続編です。3年ぶりに哲人を訪ねた青年は、「アドラーを捨てるべきか否か」という苦悩を告白します。アドラー心理学は机上の空論だとする青年に「貴方はアドラーを誤解している」と哲人は答えます。こうして二人の哲学問答が再開します。

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   本書の帯


 帯には「100万部『嫌われる勇気』続編」「人生を再選択せよ!!」と書かれて、帯の裏には「アドラー心理学が再び人生を変える!」として、以下の言葉が並んでいます。


 人々はアドラーの思想を誤解している。
 自立とは「わたし」からの脱却である。
 愛とは「技術」であり「決断」である。
 人生は「なんでもない日々」が試練となる。

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   本書の帯の裏


 さらにカバー前そでには、「愛される人生ではなく、愛する人生を選べ」「ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気だ」というアドラーの言葉に挟まれる形で、以下のような内容紹介があります。


「人は幸せになるために生きているのに、なぜ『幸福な人間』は少ないのか? アドラー心理学の新しい古典『嫌われる勇気』の続編である本書のテーマは、ほんとうの『自立』とほんとうの『愛』。そして、どうすれば人は幸せになれるか。あなたの生き方を変える劇薬の哲学問答が、ふたたび幕を開ける!!」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか
第三部 競争原理から協力原理へ
第四部 与えよ、さらば与えられん
第五部 愛する人生を選べ

 第一部「悪いあの人、かわいそうなわたし」の「アドラー心理学は宗教なのか」では、宗教と哲学の違いについて語り合われ、哲人は「宗教と哲学の違い。大切なテーマです。ここは思いきって、『神』の存在を除外して考えると議論がわかりやすくなります」と述べ、以下のように説明します。


「宗教も哲学も、そして科学も、出発点は同じです。わたしたちはどこからきたのか。わたしたちはどこにいるのか。そしてわたしたちはどう生きればいいのか。これらの問いから出発したものが、宗教であり、哲学であり、科学です。古代ギリシアにおいては哲学と科学の区分はなく、科学(science)の語源であるラテン語の『scientia』は、単に『知識』という意味でしかありません」

 しかし、哲学と宗教の最大の相違点は「神がいるのか、いないのか」ではなく、「物語」の有無でした。これについて、哲学者は以下のように述べます。


「宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする」


 また哲人は、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを「宗教」と呼び、「哲学」とは永遠に歩き続けることだと述べています。

 「教育の目標は『自立』である」では、哲人は「自立」について述べます。


「アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいという欲求、つまり『優越性の追求』を抱えて生きる存在だと考えます。よちよち歩きの赤ちゃんが、2本足で立つようになり、言葉を覚え、周囲の人々と意思の疎通を図れるようになっていく。つまり、人はみな『自由』を求め、無力で不自由な状態からの『自立』を求めている。これは根源的な欲求です」

 その自立を促すのが教育であるとして、哲人は以下のように述べます。


「身体的な成長のみならず、子どもたちが社会的に『自立』するにあたっては、さまざまなことを知っていかなければなりません。あなたの言う、社会性や正義、それから知識などもそうでしょう。無論、知らないことについては、それを知る他者が教えなければならない。周囲にいる人間が援助していかなければならない。教育とは『介入』ではなく、自立に向けた『援助』なのです」

 また、「他者がいて、社会があるから、学ぶべき『知』がある」として、哲人は以下のように述べています。


「ここでの『知』とは、学問だけでなく、人間が人間として幸福に生きるための『知』も含みます。すなわち、共同体のなかでどのように生きるべきなのか。他者とどのように関わればいいのか。どうすればその共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。『わたし』を知り、『あなた』を知ること。人間の本性を知り、人間としての在り方を理解すること。アドラーはこうした知のことを『人間知』と呼びました」

 「尊敬とは『ありのままにその人を見る』こと」では、哲人は「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」という言葉を紹介しますこれは、アドラーと同じ時代にナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに渡った社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉です。
 さらにフロムは、「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」とも述べています。

 このフロムの言葉の意味について、哲人は以下のように説明します。


「目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、『ありのままのその人』を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから『ありのままの自分』を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば『勇気づけ』の原点でもあるのです」

 「『他者の関心事』に関心を寄せよ」では、哲人は子どもを相手にする場合でも「子どもたちの関心事」に関心を寄せなければならないとして、以下のように述べます。


「子どもだけではありません。これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です。会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと『他者の関心事』に関心を寄せる必要があります」


 共同体感覚について、アドラーは好んで「われわれに必要なのは『他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること』と語ったそうです。

 「もしも『同じ種類の心と人生』を持っていたら」では、哲人は共感について、以下のように述べています。


「世間一般で考えられている共感、つまり相手の意見に『わたしも同じ気持ちだ』と同意することは、たんなる同調であって、共感ではありません。共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです」


 これを読んで、わたしはアドラーのいう「共感」とは、儒教における「仁」に近いのではないかと思いました。

 「『変われない』ほんとうの理由」では、自分の言動、そして他者の言動を見定めるときには、そこに隠された「目的」を考えることが提唱されます。これはアドラー心理学の基本となる考え方ですが、青年は「過去にどんな出来事があったとしても、それでなにかが決定されるわけではない。過去のトラウマも、あろうとなかろうと関係ない。人間は、過去の『原因』に突き動かされる存在ではなく、現在の『目的』に沿って生きているのだから」と説明します。一方で哲人も以下のように述べます。


「われわれは、過去のトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではない。アドラーの思想は『人間は、いつでも自己を決定できる存在である』という、人間の尊厳と、人間が持つ可能性への強い信頼に基づいています」

 「あなたの『今』が過去を決める」では、哲人が過去について語ります。


「歴史とは、時代の権力者によって改竄され続ける、巨大な物語です。歴史はつねに、時の権力者たちの『われこそは正義なり』という論理に基づき、巧妙に改竄されていきます。あらゆる年表と歴史書は、時の権力者の正統性を証明するために編纂された、偽書なのです。
 歴史のなかでは、つねに『いま』がいちばん正しいのだし、ある権力が打倒されれば、またあらたな為政者が過去を書き換えていくでしょう。ただただ、自身の正統性を説明するために。そこに言葉本来の意味での『過去』は存在しないのです」

 また哲人は「われわれ個人も同じです。人間は誰もが『わたし』という物語の編纂者であり、その過去は『いまのわたし』の正統性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです」と言いますが、青年は「違う! 個人の場合は違います! 個人の過去、さらには記憶、これは脳科学の領域だ。引っ込んでろ!! あなたのような時代遅れの哲学者が出る幕じゃない!」と口汚い言葉で罵ります。それにも動ぜずに、哲人は述べるのでした。


「記憶については、こう考えてください。人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの『目的』に合致する出来事だけを選択し、意味づけをほどこし、自らの記憶としている。逆にいうと、いまの『目的』に反する出来事は消去するのです」

 哲人によれば、アドラー心理学が「使用の心理学」とされる所以は、「自らの生を選びうる」という点にあります。過去が「いま」を決めるのではなく、わたしたちの「いま」が、過去を決めているというのです。「アドラー心理学に『魔法』はない」では、哲人は青年に対して次のように述べます。


「『目の前にいるあなた』を知れば十分ですし、原理的にわたしは『過去のあなた』など知りようがありません。くり返しますが、過去など存在しません。あなたが語る過去は、『いまのあなた』によって巧妙に編纂された物語に過ぎない。そこを理解してください」

 第二部「なぜ『賞罰』を否定するのか」の「『罰』があれば『罪』はなくなるか」では、青年の示す「問題行動の段階」に対して、哲人は述べます。


「問題行動の5段階、たしかに興味深い分析です。まずは称賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それがかなわなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復讐に転じる。そして最終的には、己の無能さを誇示する。そしてそのすべては『所属感』、つまり『共同体のなかに特別な地位を確保すること』という目的に根ざしている」

 「暴力という名のコミュニケーション」では、哲人は暴力を徹底的に否定し、次のように述べています。


「暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません」

 第三部「競争原理から協力原理へ」の「共同体の病」では、哲人は、強さや順位を競い合う競争原理はおのずと「縦の関係」に行きつくと主張します。勝者と敗者が生まれ、そこでの上下関係が生まれるからだというのです。さらに哲人は述べます。


「一方、アドラー心理学の提唱する『横の関係』を貫くのは、協力原理です。誰とも競争することなく、勝ち負けも存在しない。他者とのあいだに知識や経験、また能力の違いがあってもかまわない。学業の成績、仕事の成果に関係なく、すべての人は対等であり、他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある」


 そして、それこそが民主主義国家であり、アドラー心理学こそは横の関係に基づく「民主主義の心理学」であるというのです。

 「人生は『不完全』からはじまる」では、哲人は「われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外もなく劣等感を抱えて生きている。これがアドラー心理学の大前提です」として、共同体感覚について述べるのでした。共同体感覚については、以下のように書かれています。


「共同体感覚! あれほど理解に苦しみ、その内実が不透明だったアドラー心理学の鍵概念が、いまここに明らかになった。人間はその身体的な弱さゆえに共同体をつくり、協力関係のなかに生きている。人間はつねに他者との『つながり』を希求している。すべての人の心には、共同体感覚が内在しているのだ。哲人は言う。自らの共同体感覚を掘り起こせ、他者との『つながり』を希求せよ、と」

 「その問題行動は『あなた』に向けられている」では、リストカットなどの問題行動にも言及し、哲人は次のように述べます。


「アドラー心理学では、人間のあらゆる言動を対人関係のなかで考えます。たとえば、リストカットなどの自傷行為に走る人がいたとき、その行為がなにもない虚空に向かってなされているとは考えません。誰かに向けて、自らを傷つけている。問題行動の『復讐』で見たように。つまり、あらゆる言動にはそれが向けられる『相手』がいると考えるのです」

 「なぜ人は『救世主』になりたがるのか」では、哲人は学級崩壊に悩む現役の中学教師である青年に向かって「ここで一度教育の話から離れることです」と述べ、さらに以下のように言います。


「他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に『メサイヤ・コンプレックス』と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする、心的な倒錯です」


 青年が「ふ、ふざけるな!!」と激怒したことは言うまでもありません。

 第四部「与えよ、さらば与えられん」の「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」として、哲人は以下のように述べています。


「人間の喜びもまた、対人関係から生まれるのです。『宇宙にひとり』で生きる人は、悩みがない代わりに喜びもない、扁平な一生を送ることになるでしょう。アドラーの語る『すべての悩みは、対人関係の悩みである』という言葉の背後には、『すべての喜びもまた、対人関係の喜びである』という幸福の定義が隠されているのです」

 「『信用』するか? 『信頼』するか?」では、前作に続いて、「信用」と「信頼」の違いが述べられます。前回は哲人が説明しましたが、今回は青年が次のように説明します。


「端的に言うなら、『信用』とは相手のことを条件つきで信じることです。たとえば銀行からお金を借りるとき。当然ながら銀行は、無条件に貸し出すようなことはしません。不動産や保証人といった担保を求め、その価値に応じた金額を貸し出す。しかも、けっこうな利息をつけてね。これは『あなたを信じているから貸す』のではなく、『あなたの用意した担保の価値を信じるから貸す』という態度です。要するに、『その人』を信じているのではなく、その人の持つ『条件』を信じている」

 一方、「信頼」についても青年が以下のように説明します。


「他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信じるに足るだけの根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが『信頼』です。その人の持つ『条件』ではなく、『その人自身』を信じている。物質的な価値ではなく、人間的な価値に注目している、と言ってもいいでしょう」

 「なぜ『仕事』が、人生のタスクになるのか」では、仕事を成立させる対人関係について、哲人は「自然界における人間は、鋭い牙も、大空を飛ぶ翼も、頑丈な甲羅も持たない、いわば身体的劣等性を抱えた存在です。だからこそわれわれは、集団生活を選び、外敵から身を守ってきました。集団で狩りをして、農耕に従事し、食糧を確保し、身の安全を守りながら子どもを育てて生きてきたわけです」と述べています。

 哲人は「ここからアドラーが導き出した解は、見事のひと言です」として、以下のように述べます。


「われわれ人間は、ただ群れをつくったのではない。人間はここで『分業』という画期的な働き方を手に入れたのだ。分業とは、人類がその身体的劣等性を補償するために獲得した、類い希なる生存戦略なのだ。・・・・・・アドラーの最終的な結論です」


 この「分業」について、哲人は以下のように述べています。


「アダム・スミスなど、経済学の立場から分業の意義を指摘する声は、アドラー以前からありました。しかし、心理学の分野で、しかも対人関係のあり方として分業の意義を唱えたのはアドラーがはじめてでしょう。このキーワードによって、人間にとっての労働の意味、そして社会の意味が明らかになったのです」

 「いかなる職業にも貴賤はない」では、分業において大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということであるとして、哲人は「純粋な利己心の組み合わせが、分業を成立させている。利己心を追求した結果、一定の経済秩序が生まれる」と述べます。これがアダム・スミスの考えた分業であり、分業社会においては、「利己」を極めると、結果としての「利他」につながっていくのです。

 第五部「愛する人生を選べ」の「人生の『主語』を切り換えよ」では、「分業」と「幸せ」の問題が哲人によって以下のように語られます。


「分業の根底に流れていたのは『わたしの幸せ』、つまり利己心でした。『わたしの幸せ』を突き詰めていくと、結果として誰かの幸せにつながっていく。分業の関係が成立する。いわば、健全なギブ・アンド・テイクが働いている。そういう話でした」


「一方、交友の関係を成立させるのは『あなたの幸せ』です。相手に対して、担保や見返りを求めることなく、無条件の信頼を寄せていく。ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません。ひたすら信じ、ひたすら与える利他的な態度によって、交友の関係は生まれます」

 「愛とは『決断』である」では、哲人は、「結婚とは、『対象』を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです」と述べます。結婚の対象は誰でもいいという考えを聞いて、青年は「ふ、ふざけるな!! そんな議論、誰が認めるものか! 撤回しなさい、いますぐ撤回するのです!!」と怒り狂います。しかし、哲人は「われわれはいかなる人をも愛することができるのです」として、以下のように述べるのでした。


「アドラー心理学は、あらゆる決定論を否定し、運命論を退けます。われわれに『運命の人』などいないのだし、その人が現れるのを待ってはいけない。待っていたのでは、なにも変わらない。この原則を譲るつもりはありません。しかし、パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ったとき、そこに『運命的ななにか』を感じることはあるでしょう。その場合の運命とは、あらかじめ定められていたものではない。偶然に降ってきたものでもない。ふたりの努力で築き上げてきたものであるはずです」


 そう、運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。

 哲人は「われわれは運命の下僕になってはいけない。運命の主人であらねばならない。運命の人を求めるのではなく、運命といえるだけの関係を築き上げるのです」と訴え、その具体的な方法を次のように示します。


「踊るのです。わかりもしない将来のことなど考えず、存在するはずもない運命のことなど考えず、ただひたすら、目の前のパートナーと『いま』をダンスするのです。アドラーは、ダンスのことを『ふたりの人間が共同の仕事に参加する遊び』だとして、子どもたちにも広く推奨していました。愛と結婚は、まさしくふたりで踊るダンスのようなものでしょう。どこへ行くのかなど考えることなく、互いの手を取り合い、今日という日の幸せを、いまという瞬間だけを直視して、くるくると踊り続ける。あなたたちが長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は『運命』と呼ぶでしょう」

 「ライフスタイルを再選択せよ」では、哲人はフロムの「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」という言葉を紹介します。そして、アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるだろうと述べます。哲人は青年に向かって、「あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから、わずかにしか愛することができなかった。愛する勇気を持てず、子ども時代の、愛されるライフスタイルにとどまろうとした。それだけなのです」と言います。
 愛する勇気、すなわちそれは、「幸せになる勇気」なのです。

 「あたらしい時代をつくる友人たちへ」では、哲人が青年に対して最後のメッセージを送ります。


「覚えておいてください。われわれに与えられた時間は、有限なものです。そして時間が有限である以上、すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。ニヒリズムの言葉ではなく、現実としてわれわれは、別れるために出会うのです」


 「・・・・・・ええ、たしかに」と言う青年に対して、哲人は「だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら『最良の別れ』に向けた不断の努力を傾ける。それだけです」と語るのです。


 わたしは、これを読んで非常に感動を覚えました。
 そして、葬儀こそは「別れ」を目に見える形にしたものであることに気づきました。すべての人は、愛する人の葬儀を「最良の別れ」の形にすべきなのです。ここに葬儀をあげる大きな意味の1つがあります。

 「あとがき」では、日本におけるアドラー心理学の第一人者であり、アドラーの著書の翻訳も多く手掛けている岸見一郎氏が、前作『嫌われる勇気』が史上最長となる51週連続1位を記録し、韓国でも日本同様にミリオンセラーを達成したことを紹介した後、以下のように述べています。


「欧米では広く知られたアドラーですが、その思想が100年の時を超えてアジアで受け入れられるようになったことは、長年アドラー研究に取り組んできた身にとって感慨深いものがあります。前作『嫌われる勇気』は、アドラー心理学の存在を知り、アドラーの思想を概観するための、いわば「地図」のような1冊でした。共著者の古賀史健さんと一緒に、『アドラー心理学の入門書にして決定版』をめざして数年がかりでまとめあげた、大きな地図です。他方、本書『幸せになる勇気』は、アドラーの思想を実践し、幸福なる生を歩んでいくための『コンパス』となる1冊です。前作で提示した目標に向かって、どのように進んでいけばいいのかを示す、行動指針と言い換えてもいいでしょう」

 『嫌われる勇気』を読んだとき、もちろん非常に面白かったのですが、アドラー心理学に対する疑問や問題点などが次々に湧いてきました。得々とアドラー思想を語る哲人に対して青年が突っ込みを入れるのですが、生ぬるく、読者としては歯がゆいものがありました。しかし、今回の『幸せになる勇気』では、青年は完全にわたしの代弁者となって、哲人に対して次々に問いの矢を放っていきました。岸見氏はアドラーはソクラテスに似ているといいますが、ソクラテスの問答法が現代によみがえった本書は、最高の哲学入門であると思いました。