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管理される心』

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No.1285

 

 『管理される心』A・R・ホックシールド著、石川准・室伏亜希訳(世界思想社)を再読しました。ずいぶん前に読んだ本です。この読書館でも紹介した『卒業式の歴史学』に引用されていたので、なつかしくなり、読み返してみたくなったのです。著者のホックシールドはアメリカの社会学者で、1983年出版の本書において、「感情労働」という概念を提唱しました。

 

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    本書の帯


 本書のサブタイトルは「感情が商品になるとき」で、帯には「感情を、売り買いする時代」として、「乗客に微笑むスチュワーデス。債務者の恐怖を煽る集金人。彼らは肉体労働者である前に、感情労働者である。丹念なインタビューをもとに、感情を売り買いする時代の、商品化された『心』を探究する」と書かれています。

 

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    本書の帯の裏


 本書の「目次」は、以下のようになっています。

 

「まえがき」

「謝辞」

第1部 私的生活  

第1章 管理される心の探究  

第2章 手がかりとしての感情  

第3章 感情を管理する  

第4章 感情規則  

第5章 感情による敬意表明―贈り物の交換

第2部 公的生活  

第6章 感情管理―私的な利用から商業的利用へ  

第7章 両極の間で―職業と感情労働  

第8章 ジェンダー、地位、感情  

第9章 本来性の探究

付録  

A 感情モデル―ダーウィンからゴフマンまで  

B 感情の命名法  

C 仕事と感情労働  

D 地位と個人に関するコントロールシステム

「注」

「訳者あとがき」

「参考文献」

「索引」

 現代は、モノを生産したり加工したりする仕事よりも、人間を相手にする仕事をする人、すなわち「感情労働者」が多くなってきました。感情労働とは、肉体労働、知識労働に続く「第三の労働形態」とも呼ばれます。「感情社会学」という新しい分野を切り開いたアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、乗客に微笑む旅客機のキャビンアテンダントや債務者の恐怖を煽る集金人などに丹念なインタビューを行い、彼らを感情労働者としてとらえました。ホックシールドは言います。マルクスが『資本論』の中に書いたような19世紀の工場労働者は「肉体」を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は「心」を酷使されている、と。

現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特に対人サービスの労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえません。 それは人の自我を蝕み、傷つけるというのです。 冠婚葬祭業にしろホテル業にしろ、確かに気を遣い、感情を駆使する仕事です。お客様は、わたしたちを完全な善意のサービスマンとして見ておられます。もちろん、わたしたちもそのように在るべきですが、なかなか善意の人であり続けるのは疲れることです。みなさんは、感情労働のプロとして、ホスピタリティを提供しているのです。

 第1章「管理される心の探究」では、「感情の私的利用と商業的利用」として、以下のように述べられています。

 

「私的な社会生活では常に感情の管理が必要とされていると言ってもよい。パーティに集まった客はホストに対して楽しい気持ちになる義理があるし、会葬者は葬式の場に適した悲しみを呼び起こす。1人1人が、集団のためによかれと、つかの間の捧げ物として自分の感情を差し出しているのだ。集団への捧げ物としての感情(より集団中心的なホビ族の文化では〈alofa〉と呼ばれている)を表す英語の名詞がないので、私は交換の概念を持ち出すことになる。怒りの抑圧、感謝の気持ちの表明、羨みの抑圧等は、親から子へ、妻から夫へ、友達から友達へ、恋人から恋人へ、というように、あちらこちらで贈り物として提供されている」

 また、著者は以下のようにも述べています。

 

「人が、感じたいと思い、感じるだろうと期待し、あるいは感じるべきだと考えていることを感じようと努めるということは、おそらく感情自体と同じように古くからあるものである。感情規則に同調したり、それから脱線したりするということもまた、決して新しいことではない。組織化された社会においては、おそらく観察可能な行動だけに規則が適用されてきたというようなことは決してなかっただろう。規則が昔から心の行為を抑制してきたことからもわかるように、『心の犯罪』は昔から認識されてきている。聖書は、隣人の妻を欲してはならない、感情のままに行動してはならない、と説いている。今の時代の新しさとは、私的な目的のために感情の領域で意識的かつ積極的に演じる私たちの生得的能力を利用しようとする〈道具主義的スタンス〉がますます広がっていることと、このスタンスが巨大な組織によって開発され管理されているというそのやり方である」

 さらに、著者は、以下のように述べています。

 

「一般的に言って、下層階級や労働者階級の人々は物を仕事の対象とし、中流階級や上層階級の人々は人を仕事の対象とする傾向がある。また男性労働者よりも女性労働者の方が人と関わる仕事をしている。したがって人間の感情の社会生活的、経済的利用には、性別によるパターンと階級によるパターンがある。それは社会的な問題である。 しかし、個人的な問題もある。感情作業にかかるコストである。それは私たちが感情に注意を払う度合いや、ときには私たちの感じる能力そのものに影響を及ぼす。感情を管理することは文明化された生活のなかでは基本的な技術であり、それにかかる広い意味のコストは通常、得られる基本的な報酬に匹敵すると私は考えている。フロイトは『文化のなかの不満』のなかで性的本能について同様の議論をしている」

 第4章「感情規則」では、社会学者における結婚の見方が以下のように紹介されます。

 

「まず第一に、結婚式を花嫁や花婿だけでなく、集まった立会人たちにとっても重要な儀礼的出来事と考えるだろう。様々な親戚や友人たちがどこに座ったか、そして、それぞれどの人がどの程度真剣に関与しているのかに注意が向けられる。それだけでなく、感情と儀礼という外的な出来事との間に存在する領域―感情規則と感情管理の領域―で何が起こったかということにも関心を持つだろう。結婚式の準備と儀式に参加することを通して、花嫁はある種の視野の歪みと歓喜を経験する権利と義務を獲得する。権利と義務は、喜びと明るさを外部に表現することにも適応される。花嫁というものはどのように考え、感じ、見るべきかに関する一般的な規則を自分が了解していることを示しながら、花嫁は自分自身を作り上げる。彼女は花嫁らしく振る舞うのである。すべてがうまくいくと、彼女は出来事(結婚式)と、その出来事についての妥当な考え方(それを真剣に捉えること)および、適切な感じ方(幸せ、有頂天、ハイな気分)との間の統一性を経験する。これが起こるとき儀式はうまくいく」

 一方、「不適切な感情」として、葬式についても述べられています。

 

「葬式は、結婚式と同じように人間関係のなかのある一部分を象徴化し、個人にそのとき限りのある役割を提供する。喪主の役割は花嫁の役割と同様に儀式の前に存在し、儀式の後も存続する。しかし儀式の間の感じ方に関する規則は、儀式自体の、そして儀式によって思い起こされる絆をどう了解しているかということに関連づけられている。 原則的に葬式は、自発的な悲しみや嘆きを誘発するのに適している。なぜなら葬儀は遺族に死の最終性を思い出させると同時に、それを了解しようとする彼らに心強さと慰めの感覚を与えるからである。それに応えて遺族はたいてい、ここは悲しみを感じるのにふさわしい場であり、それ以外の何物でもないと感じる。それでも、悲嘆にくれる[べき]人が、嘆き損ねる要旨は驚くほど多様である」

 第5章「感情による敬意表明」では、感情について述べられます。

 

「感情とは、現実と自己の関係について教えてくれる感覚のことである。私たちはそれによって自分が何を欲し、あるいは期待していたはずなのかということや、自分はどのようにして世界を認識してきたはずなのかということを推定する。感情は、物事に対する埋もれていた見方を発見する1つの方法である。特に、自分自身を位置づけるためのその他の方法の手入れが行き届いていないときは、感情がそのための主要な方法となる。私たちは感情を私的に利用する。私たちは深層演技を通じて交換を行うなかで、それを分かち合ったり提供しあったりする。私たちは、放っておくとばらばらになってしまうおそれのあるもの―特定の状況や、それを理解し感じ取るのにふさわしい方法、そして自分自身が実際に考えたことや感じたこと―をひとまとめにするよう絶えず努力している。感情の型、強さ、持続時間、タイミング、そして位置づけに関するルールは社会のガイドラインであり、見えざる演出家からのプロンプトである。ステージや小道具や俳優仲間は、自由に交換するような贈り物を集めるのを内側から手助けしてくれる」

 第7章「両極の間で―職業と感情労働」では、以下のように2つの感情労働の仕事について述べられます。

 

「集金人と客室乗務員の仕事は、ある意味で類似している。両者は、感情労働における正反対の極に位置する。どちらとも、景気に応じて拡大したり縮小したりするが、ただし、両者は反比例の関係にある。景気が悪いと客室乗務員が関わる客の数は減少するが、集金人が関わる未払い者の数は増加する。また、どちらとも、その仕事に従事する者は、顧客の経済的地位に適応しなければならない。客室乗務員には、最高額を支払う客―ファーストクラス利用の契約を航空会社と交わしている企業のビジネスマンたち―に対して特別の敬意を払うことが要求される。集金人は職業柄、最低額しかもたらさない者たちと関わることになる。『未払い者たちが定収入地区に住んでいることは、その住所を見ればわかります。彼らは貧しくて若いのです』(デルタ航空、請求部チーフの話)」

 第9章「本来性の探究」では、以下のように述べられています。

 

「ルソーの『高潔な野人』は、どんな感情規則にも導かれていない。彼はただ単純に、自発的に、感じたことをそのまま感じ取ったのである。自発的な感情を賞賛する現代の価値に通ずる1つの手がかりは、心理療法の普及、特に自発的な感情に『触れる』ことを強調する心理療法の普及である。ゲシュタルト療法、バイオエネルギー療法、バイオフィードバック、エンカウンター、自己主張訓練、交流分析、超越瞑想法、理性的感情表現療法、LSD療法、感情療法、内破音療法、エアハルト式自己啓発セミナー、原初療法、古典的な心理療法、精神分析等の治療法を考えてみよう。言語学者のロビン・レイコフ(Robin Lakoff)が述べているように、20世紀にとっての療法書は、ちょうど19世紀にとっての礼儀作法書のようである。なぜならば、礼儀作法それ自体が感情生活の中に深く入り込んだからである」

 接客業で一番辛いのは、お客様の理不尽な態度に接する時ではないでしょうか。中にはクレーマーと呼ばれる人もいますが、サービスを提供する人間に罵声を浴びせ、人間性を否定するような暴言を吐く者もいます。それでも相手はお客様ですから、怒ってはならない。我慢しなければならない。 怒りをこらえるというのは、本当に辛いですね。わたしも相当に気の短い人間なので、気持ちは良く理解できます。でも、わたしは怒りっぽい自分の性格を恥じてもいます。では、「怒り」をどう扱うべきか。

 

 スリランカ初期仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏によれば、仏教では、怒りを完全に否定しているそうです。ブッダは、「たとえば、恐ろしい泥棒たちが来て、何も悪いことをしていない自分を捕まえて、面白がってノコギリで切ろうとするとしよう。そのときでさえ、わずかでも怒ってはいけない。わずかでも怒ったら、あなた方はわが教えを実践する人間ではない。だから、仏弟子になりたければ、絶対に怒らないという覚悟を持って生きてほしい」と言ったそうです。なぜなら、怒りは人間にとって猛毒だからです。その猛毒をコントロールすることが心の平安の道であることをブッダは告げたかったのでしょう。ブッダは、「怒るのはいけない。怒りは毒である。殺される瞬間でさえ、もし怒ったら、心は穢れ、今まで得た徳はぜんぶ無効になってしまって、地獄に行くことになる」とさえ言っています。つまり、怒ったら、自分が損をするのです。

 

 でも、必要な怒りもあるかもしれません。 哲学者のアリストテレスはアレクサンダーの家庭教師を務めたとき、効果的な指導に役立ついくつかの原則を教えました。アリストテレスによれば、リーダーは「正しい相手に対して、正しい方法で、正しい時に、正しい理由で怒る人」でなければならないそうです。 多くの政治家を指導した安岡正篤も、リーダーには怒りが必要と言っています。もちろん怒るといっても、下らない私憤から出る怒りではありません。人間の良心から出る怒りです。いつの時代でも、私心や私欲から不正を行おうとする人々に対して、良心から慨然として怒りを発することが必要なのです。リーダーでなくとも、どんな人でも同じです。「義を見てせざるは勇なきなり」で、悪が行われている場面では怒るべきです。

 さて、怒っている相手に対しては、どうするか。スマナサーラ氏によれば、「自分も相手も同じ被害者だ」と考えることが大事だといいます。 相手の言動に対して同じ土俵で怒るのではなく、「この人は自信がなく不安だから、人をいじめよう、けなそう、無視しようと思っているのだ。この人は、かわいそうな被害者だ」と逆に同情するのです。そして、究極の必殺技は笑顔です。相手がカンカンに怒っていても、気にしないでニコッと笑うと、怒りにくくなります。スマナサーラ氏は「そのうち不思議と相手も怒るのをやめて、やがてニコッと笑うのです。仲良くなってしまうのです。それからはずっと味方になり、もう二度と自分をののしったり怒ったりできなくなるはずです」と述べています。まあ、こんなにうまくいくかどうかは知りませんが、やってみる価値はありそうですね。いずれにせよ、笑顔が最大の武器であることは確かなのですから。