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幻想の未来/文化への不満』

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No.1244

 

  『幻想の未来/文化への不満』フロイト著、中山元訳(光文社古典新訳文庫)を読みました。フロイトの文明論を集めた本で、『幻想の未来』(1927年)、『文化への不満』(1930年)の全文、『モーセと一神教』(1939年)の第一部と第二部の要約が収められています。哲学者の中山元氏による新訳で、2007年に刊行されました。

 著者のジークムント・フロイトは、オーストリアの精神分析学者にして精神科医です。1856年、東欧のモラビアにユダヤ商人の長男として生まれました。幼くしてウィーンに移住し、開業医として神経症の治療から始めました。人間の心にある無意識や幼児の性欲などを発見し、精神分析の理論を構築しました。1938年、ナチスの迫害を逃れてロンドンに亡命しました。39年に癌のため死去しています。

 本書のカバー裏には、以下のように書かれています。

 

「抑圧に抵抗しようとする人間の、自己破壊的な傾向に注目しながら、宗教のはたす役割を考察し、理性の力で宗教という神経症を治療すべきだと説く表題2論文と、一神教誕生の経緯を考察する『モーセと一神教(抄)』。後期を代表するアクチュアルな3つの論文を収録」

 まずは、『幻想の未来』について。 フロイトは「文化の二つの側面」として、以下のように述べています。

 

「文化とは、人間の生を動物的な条件から抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもののことである。だからわたしは文化を文明とは区別しないつもりである。ところで文化を観察する者からみると、文化には2つの重要な側面がある。まず人間が自然の力を制御し、人間の欲求を充足するべく自然のさまざまな財を獲得するために手にしてきたすべての知識と能力がある。また人間どうしの関係と、獲得できた財の分配を規制するために必要な制度というものが存在する」

 フロイトは、人間と文化について以下のように述べます。

 

「人間はただ1人で生存することはほとんど不可能である。それなのに共同生活を可能とするために文化から要求される犠牲を、大きな制約と感じるのは何とも奇妙なことである。そこで文化を個人から防衛することが必要となる。文化の機構、組織、規制などは、このために存在するのである。これらのものは、財を分配するためだけではなく、文化を維持するためにも必要なのである。文化に敵対する個人の営みを制御し、自然の支配と財の生産に有益なすべてのものを保護する必要があるのだ。人間が作りだしたものはすぐに破壊されてしまうし、人間が創造してきた科学と技術は、それ自体を破壊するために利用することもできるからだ」

 またフロイトは、「文化の理想と愛国心」について述べます。

 

「文化の理想とは、その文化が何をもって最高の価値のあるもの、できるかぎりの努力を尽くして獲得する価値のあるものと考えているかを示すものであり、これが文化の精神的な財産であると考えがちである。一見するところこうした理想によって、その文化において価値のあるものが築きあげられるようにみえる。しかし実際には、まず価値のあるものが構築されてから理想が作りだされるのであり、これがある文化の内的な素質と外的な状況の相互的な関係を可能にする。そして理想が、価値のあるものの構築をさらに強固に持続させるのである」

 フロイトは「文化の役割」について、以下のように述べます。

 

「自然は人間に欲動の制限などは求めないし、人間を放任しておくのは事実だ。しかし特別に効果的な方法をもって、人間に制約を加える。つまり自然は人間を冷酷に、残酷に、容赦なく殺すのだ。ときには、わたしたちがみずからの欲望を満たすその瞬間に殺すのではないかと思うこともあるほどだ。自然が人間を脅かすこの危険性に対抗するために、わたしたちは力をあわせて文化を創造し、とくに人間がともに生活することができるようにしたのである。自然から人間を防衛するというのが、文化のおもな役割であり、文化はそもそもそのために存在するのだ」

 なぜ、人間を自然から防衛する必要があるのでしょうか。 フロイトは、「自然の猛威」として以下のように述べます。

 

「自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさまざまな要素が存在する。大地は揺れて口を開き、すべての人間と、人間のすべての営みを埋葬してしまう。河の水は氾濫してあふれ、すべてを呑みこんでしまう。嵐はすべてのものを吹き飛ばしてしまう。さらに疫病というものが、[ウィルスなどの]他の生物からの攻撃であることは、ごく最近になってから認識された事実である。そして死という悲痛な謎にたいしては、これまではいかなる薬も発明されていないし、おそらく今後も発明されることはないだろう」

 そして、人間と文化との関係について、以下のように述べるのでした。

 

「要するに、人間はたえず不安におびえながら、将来を予期して暮らすのであり、そのために人間にとってはごく自然なものであるナルシシズムは深刻に傷つけられるのである。文化から加えられる害と、他人から加えられる害にたいして、個人がどのように反応するかは、すでに述べてきた。人間は文化の機構に抵抗し、文化に敵意を抱くのだ。しかし人間はすべての人を脅かす自然の優位にたいして、そして運命にたいしては、どのように防衛するのだろうか」

 さらに「自然の擬人化」として、フロイトは述べます。

 

「人間が無防備な存在であることに変わりはないかもしれないが、もはや無援なままで力を失っているのではなく、少なくとも反応することはできるのである。おそらく人間はもはや無防備な状態ではなくなり、外部からおしよせるこの超人間的な暴力にたいして、いつも社会で利用しているのと同じ手段を講じて対処することができるのである。つまり自然の力に哀願したり、なだめすかしたり、抱きこんだりすることができるのである。こうした方法で自然に働きかけることで、その力の一部を奪えるのだ。これはいわば自然科学を心理学の力で補う方法だ。すぐに悩みが軽くなるだけではなく、状況を改善するための一歩を進めることでもある」

 フロイトは「神々の役割」についても言及し、以下のように述べます。

 

「時代が経つとともに、自然現象の規則性と合法則性が観察され始めると、自然の力は人間らしい性格を失うことになる。しかし人間の〈寄る辺なさ〉は残っているし、人間の父親への憧憬と神々としての自然の性格もまだ残っている。ここで神々は3つの役割を担うことになる。自然の恐怖をしずめること、運命の残酷さ、とくに死の宿命の残酷さと和解させること、そして文化のうちで人間が共同して生活することによって生まれる苦痛と欠如の償いをすることである」

 「宗教的な幻想の役割」については以下のように述べられます。

 

「人間には、世界がどのようにして誕生したのか、身体と精神の関係はどのようなものかなど、さまざまなことを知りたがる好奇心がそなわっていて、こうした問いは謎となって残る。そしてこの宗教というシステムは、こうした謎も解くことができるのである。幼児期の父親コンプレックスによって、人間のうちでは心的な葛藤が発生し、この葛藤は完全には克服されていない。だからこれが[宗教によって]とり除かれ、すべての人にとってうけいれられる解決策がみいだされるとなれば、誰にとっても心理的には安堵できるというものである」

 そして、「文化との和解の道」として、フロイトは次のように述べるのでした。

 

「宗教のもつ歴史的な痕跡を認識することによって、わたしたちは宗教的な教義をいわば、神経症的な遺物として理解することができるようになるのである。神経症の患者を精神分析によって治療するのと同じように、抑圧のもたらした結果を、理性的な精神の働きによって克服すべき時期が到来しているのだと言えるのである。 この作業のプロセスにおいては、文化的な規範を儀礼によって神聖なものとすることをやめねばならない。それだけではなく文化的な規範が全般的に手直しされるとともに、多くの規範を廃止しなければならなくなるだろう。これは十分に予測されることであるが、悲しむべきことではないのである」

 ここで「文化的な規範を儀礼によって神聖なものとすることをやめねばならない」と述べていますが、じつはこの『幻想の未来』で使われている「文化」という言葉はすべて「儀礼」という言葉に置き換えることができます。そのことをフロイトが気づいていないのは、きっと彼にとっての「儀礼」の範疇が狭いからでしょう。しかし、わたしは「儀礼」と「文化」はほぼ同義語であると思っています。この読書館で紹介した『言語としての儀礼』の書評でもふれたように、言語も儀礼であり、恋愛や消費や戦争も儀礼です。「儀礼」とは人間の精神的営為の総称に近いものではないでしょうか。そして、「儀式」とは何か。それは「儀礼の核」すなわち「文化の核」であると言えるでしょう。

 次に、『文化への不満』についてです。 冒頭に、フロイトが友人である「ある卓越した人物」に対して著書を贈呈したエピソードが紹介されています。その本には、フロイトの持論である「宗教とは幻想にほかならない」という内容が書かれていました。その人物から返礼の手紙が届きましたが、そこにはフロイトが宗教そのものの源泉を十分に評価していないのが残念であると書かれていました。

 宗教そのものの源泉とは、いったい何でしょうか。 フロイトは、以下のように書いています。

 

「この宗教の源泉とは、ある特別な感情であり、その人はこの感情を片時も失ったことがないというのである。この感情はほかの多くの人々の心のうちでも働いているのを確かめているし、数百万人の人々の心のうちにもこうした感情があると想定できるというのである」

 続けて、フロイトは以下のように書いています。

 

「この人の説明によると、この感情は『永遠性』の感情とも呼べるものであり、際限のなさ、制限のなさ、いわば『大洋性』の感情とも言うべきものだという。これは純粋に主観的な事実であり、宗教的な信条のようなものではない。この感情は個人の死後の生の約束などとは結びついていないが、宗教的なエネルギーの源泉であり、さまざまな宗派と宗教的体系によって把握され、特定の水路に導かれて、消費されているのだという。この『大洋性』の感情があれば、いかなる信仰もいかなる幻想も拒む人でも、宗教的な人間と自称することができるのだというのである」

 このフロイトの友人とは、フランスの作家ロマン・ロランのことです。 ノーベル文学賞受賞作家であり、理想主義、ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムの作家です。戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。彼は『リリュリ』(1923年)で、幻想のもつ魔力を、詩的な表現で高く評価しました。また、『ラーマクリシュナの生涯』および『ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音』(1930年)という2冊の著書で、フロイトへの手紙に書いた「大洋的な」感情について書いています。

 さて、フロイトは「文化と自然」について以下のように述べています。

 

「自然の圧倒的な威力、人間の身体の脆さ、家族、国家、社会における他者との関係を規制するさまざまな制度の不十分さというこれらの3つの源泉のうち、最初の2つについては、わたしたちの判断が大きくゆらぐことはないだろう。これらの苦悩の源泉が存在することを認め、避けられないものは避けられないものとして、うけいれるしかないのである。わたしたちが自然を完全に征服することはないだろうし、自然の一部であるわたしたちの身体の器官が移ろいやすく、その適応能力と働きにおいて制約されたものであることから解放されることは決してないだろう。 そのことを認めたとしても、わたしたちが意気消沈するようなことはない。むしろどの方向に活動を進めるべきかが分かるのだ。すべての苦悩を消滅させることはできないとしても、多くの苦悩をなくし、さらに多くの苦悩を緩和することができるだろう。数千年の経験がそのことを教えてくれるのである」

 また、フロイトは「科学技術への期待と失望」を以下のように述べます。

 

「乳児の死亡率は低下したかもしれないが、そのために夫婦は生殖活動を著しく抑制せざるをえなくなり、結局は子供の数は、衛生学が支配する以前の時代とまったく変わらなくなっている。しかも夫婦の性生活は重大な問題に直面するようになり、おそらく自然淘汰という望ましい選択が機能しなくなったのだとすれば、それはそもそも何の役に立ったというのだろうか。人間の寿命が延びたといっても、その人生が困難なものであり、喜びは少なく、これほど苦痛に満ちたもので、死を救いとして歓迎せざるをえないとすれば、いったいどんな意味があるのだろうか」

 道具の使用についても、フロイトは以下のように述べています。

 

「道具とは、人間のさまざまな器官、運動器官や感覚器官などの機能を補足するか、その機能の制約を解消するものである。人間はモーターが提供する巨大な力を、あたかも自分の筋肉と同じように、好きなように利用することができる。船と飛行機によって、水にも大気にも妨げられずに、望む場所に赴くことができる。眼鏡は眼のレンズの欠陥を補正してくれるし、望遠鏡では遠い彼方を眺めることができる。顕微鏡によって、人間の網膜の構造で定められた視力の限界を超えることができる」

 続けて、フロイトは以下のように述べます。

 

「カメラの発明によって、うつろいゆく一瞬の視覚的な印象を固定できるようになり、レコードによって、同じく一瞬の音響的な印象を固定できるようになった。このどちらの道具も基本的に、人間にそなわっている記憶と想起の能力を物質化したものにほかならない。電話を使えば、童話の世界でも考えられないほど、遠い場所から声を聞くことができる。文字はもともとは、そこにいない人間の語った言葉を記録したものだったし、住居は人間がもっとも安全で快適に感じることのできた母胎の代用品であり、わたしたちはいまなおこの最初の住居に戻ることを願っているのである」

 ここで「国の文化度の高さ」という問題が取り上げられ、「秩序」についての論考が以下のようになされます。

 

「秩序は清潔さと同じように、人間が作りだしたものなのだ。自然のうちに清潔さを期待することはできないが、秩序はむしろ自然から学びとったものなのだ。壮大な天体の運動の規則正しさを観察したことで、人間は秩序の手本を学んだだけではない。これを生活を秩序立てるためのよりどころにしたのである。秩序はある種の反復強迫である。何をいつ、どこで、どのようにして実行するかをひとたび制度として決定しておけば、後に同じような出来事が発生したときにも、躊躇したり、動揺したりしなくてもすむのである」

 続けて、秩序の恩恵について述べられます。

 

「このように秩序の恩恵は否定できないものである。秩序によって人間は、心的な能力を節約しながら、空間と時間を最適な形で活用することができるようになる。だから人間の行動が最初から、強制されずに秩序立ったものとなっていることを期待してもよいはずなのであるが、そうなっていないことに、むしろ驚かされるのである。人間はうまれつき仕事において怠惰であり、規則正しさに欠け、不確実である傾向が強いのであり、天体を手本として秩序正しく行動するように、躾けられなければならないのである」

 「秩序」は、そのまま「儀式」につながります。 儀式とは、混沌とした世界に秩序を与えることなのです。 そして、人間は儀式を行うことによって、空間と時間を最適な形で活用することができるのではないでしょうか。いま、わたしは『儀式論』という本を執筆中ですが、その中では「時間と儀式」および「空間と儀式」という章を設け、儀式の本質を解き明かしてみたいと考えています。

 

 『文化への不満』はキリスト教についての本でもあります。 キリスト教で最も重要な教えの1つに「隣人愛」があります。 わたしも『隣人の時代』(三五館)に隣人および隣人愛についての考えを書きましたが、フロイトは以下のように述べています。

 

「隣人が、重要なところでわたしに似ているとすれば、その隣人において自分を愛することができるのであり、隣人は愛すべき存在になる。また隣人がわたしよりもはるかに完璧であれば、わたしは隣人のうちで自分の人格の理想を愛することができるのであり、隣人は愛すべき存在になる。隣人がわたしの友人の息子であれば、わたしは隣人を愛さずにはいられない。隣人に苦難が襲った場合には、父親であるわたしの友人は苦痛を覚えるはずであり、それはわたしの苦痛であり、わたしもその苦痛を分かちあわねばならないからである」

 続けて、隣人について以下のように述べられます。

 

「しかし隣人が縁もゆかりもない人であり、その人に固有の価値によって、そしてわたしの感情生活において意味あるものとして認められている価値によって、わたしを惹きつけないとしたら、わたしが隣人を愛するのは困難なことである。わたしの家族は、わたしが優先的に愛を向けることを期待しているのであり、わたしが赤の他人を家族と同じように愛するとすれば、家族を不当に扱ったことになるのである」

 また、フロイトは「攻撃衝動」について論考し、攻撃欲と所有の関係などについて言及した後、以下のように述べます。

 

「人間にとっては、この攻撃衝動の満足を断念することが困難なのは明らかだ。そして攻撃衝動を放棄すると、人は幸福とは感じないものである。小さな文化圏においては、その文化圏に属さない人々を〈敵〉とみなすことで、攻撃的な欲動をいわば〈迂回路〉を通って満たすことができるのであり、この利点を過小評価してはならない。多数の人々を、たがいに愛しながら結びつけることができるのは、攻撃欲の〈はけ口〉となるような人々が外部に存在する場合にかぎられるのである」

 フロイトは、「原始社会と大衆の運命」についても述べています。

 

「原初の人間は、自分の欲動を制約することを知らなかったので、実際にわたしたちよりも幸福に感じていたのである。その代わりに、原初の人間がこうした幸福を長く享受しつづけることができるという保証は少なかった。文明化された人間は、幸福になる可能性の一部を捨てて、共同生活における安全性を手にしたのである。 ただし原始家族において欲動の自由を満足させることができたのは、家長だけだったことも忘れるべきではない。家族のその他の成員は、奴隷のように抑圧された生活をしていたのである。文化の誕生期においては、文化の利益を享受する少数の人々と、この利益を奪われている多数の人々の違いは、きわめて顕著なものだったのである」

 さらに自身の「欲動論」を振り返って、フロイトは述べます。

 

「食欲は、個人が自己を維持しようとする欲動の代表として考えることができ、愛は対象に向かう欲動の代表として考えることができた。自然がさまざまな形でいわば優遇しているこの愛の主要な機能は、人類を維持することだった。こうしてまず、自我欲動と対象欲動を対立させることができたのだった。そして対象欲動のエネルギーをリビドーと呼んだが、この頃はリビドーという語はこの意味だけで使われるべきものだった。こうして自我欲動と、対象に向けられた『リビドー的な』欲動、もっとも広い意味での愛が対立させられたわけである。こうした対象欲動のうちでとくに注目に値したのは、サディズムの欲動である」

 しかし、フロイトには、すべての欲動が同じ種類のものであるはずがないという根拠のない確信のようなものが残されていたといいます。次の理論的な進展を示しているのが『快感原則の彼岸』(1920年)です。この書物で初めて、フロイトは反復強迫と欲動の生の保守的な性格を思いついたのです。フロイトは以下のように書いています。

 

「生命の起源について考察し、生物学的な並行現象に注目しながら、生物を保存し、さらに大きな統一にもたらそうとする欲動のほかに、それとは正反対の欲動、こうした統一を解消し、原初の無機的な状態に戻ろうとする欲動があるに違いないという結論を下したのである。つまりエロスのほかに、死の欲動が存在することを認め、すべての生命現象を、これらの2つの欲動の協力関係と対立関係から説明しようとしたのである」

 ここに「エロス」と並ぶ「タナトス」(死の欲動)の理論が生れました。そして、この2つの理論によって文化の発展の意味が明確になってきました。フロイトは、文化の本質について、以下のように述べています。

 

「文化とは、人類という種において演じられたエロスと死の闘い、生の欲動と破壊欲動の闘いなのである。この闘いこそが人生そのものの本質的な内容なのであり、だからこそ文化の発展とは、人間という種の生存を賭けた闘いと呼べるのである。しかるに巨人たちのこの闘いを、わたしたちの乳母は『天の子守歌』でなだめようとするのだ」

 フロイトは、文化の発展が人間の罪悪感を強化したと指摘して述べます。

 

「文化は、人間にとって内的なものであるエロスの促しの力によって、人間を緊密に結びついた集団に統合しようとするのであり、この目的のためには罪悪感をさらに強めるほかに方法はないのである。父親から始まったものが、集団において完結する。家族から人類に発展するためには文化が必要であるとすれば、人間に生まれつきにそなわる両義性の葛藤のために、そして愛と死の欲動のあいだの永遠の闘いの結果として、罪悪感の強化は文化と切っても切れない関係を結んでいるのである。この罪悪感が、個人にとってはもはや耐えることのできないところまで強まることもあるだろう。偉大な詩人が、『天上の力』について、魂を揺さぶるような嘆きの声をあげているとおりである」

 最後に、『人間モーセと一神教(抄)』についてです。 B「潜伏期と伝承」の冒頭で、フロイトはモーセについての仮説を述べます。

 

「わたしたちの仮説をまとめてみよう。モーセが実際に教えたことは、唯一なる神という理念、魔術的な働きをする儀礼の廃止、そして神の名による道徳的な要求の強調だった。当初はこれを信じるユダヤ人はいなかったが、長い年月の後に、これを信じる人々が現れ、最後には確固とした地位を獲得するようになったのである。このように、のちの時代になってからモーセの教えが信じられるようになったのはなぜだろうか、これと類似した現象はみられないだろうか」

 D「応用」では、キリスト教の聖体拝領の儀式が、信者が神の血と肉を象徴的な形で身体にとりこむ儀礼であることが指摘されます。 これが古いトーテム饗宴の意味と内容を忠実に反復したものであることは多くの研究者が気づいていることであるというのです。 また、忘れ去られた原始時代の多数の残滓がさまざまな民族の伝説や童話の中に残されていることを指摘し、フロイトは以下のように述べます。

 

「こうした原始時代の歴史の記述が、十分に信頼するに足るものだとすると、宗教の教義と儀礼のうちには、次の2つの要素が存在していることが分かる。古い家族の歴史とその残滓にたいする固着がみられるとともに、過去が再構成され、長い中断期間をおいて、抑圧されたものが回帰するという特徴があるのである。この抑圧されたものの回帰はこれまで見逃されてきた特徴であり、理解されていないために、ここで印象深い実例を使って証明しておきたい」

 キリスト教の本質について、フロイトは以下のように述べています。

 

「キリスト教はもはや厳密な意味での一神教ではなく、近隣の民族から多くの象徴的な儀礼をとりいれ、ふたたび偉大な母性神[マリア]を作りだした。そして多神教の多くの神々を招きいれ、みえすいた偽装をさせて、従属的な地位につかせた。何よりもキリスト教はアトン宗教やそれをうけついだモーセの宗教とは違って、迷信的で、魔術的で、神秘的な要素の浸透を拒まなかった。こうした要因は、その後の2000年の精神的な発展に、深刻な障害となるものだった」

 

 わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)で、3つの一神教が対立している深層について書きました。 フロイトも『文化への不満』で一神教について言及し、「ユダヤ人の特異性」について以下のように述べています。

 

「一神教という理念は、なぜユダヤの民にこれほどまでに強い印象を与えたのか、そしてユダヤの民はこの理念をなぜこれほど頑なに固守したのかを理解するのは、有意義なことだろう。この問いには答えることができると思う。ユダヤの民は、太古の偉業であると同時に犯罪である父親殺しに近いところに追い込まれる運命にあったからである。ユダヤ人はこの父親殺しという行為を、卓越した父親の像を体現していたモーセという人物にたいして反復する運命にあったのだ。これは思いだす代わりに『行動に移す』ことの実例であり、神経症の患者の分析の際に頻繁に起こることである」

 「反ユダヤ主義の根拠」についても以下のように述べられます。

 

「ユダヤ人憎悪の根深い動機は、はるかに過去の時代に根ざしたものであり、民族の無意識のところに働きかける。だからこれについて説明しても、信じがたいと思われることは覚悟しているのである。しかしあえて述べれば、父なる神の最初の子供であり、寵愛された子供であると自称するユダヤの民族に、ユダヤ人でない民族は嫉妬を感じるのであり、これを克服することにいまなお成功していないのである。まるで他の民族は、ユダヤ人のこうした主張の正しさを信じこんでいるかのようである」

 続けて、「反ユダヤ主義の根拠」が述べられます。

 

「さらにユダヤ人を他の民族と区別するさまざまな風習があるが、その中でも割礼は忌まわしく不気味な印象を与えるのである。これは幼児の頃に恐れていた去勢の警告を思いださせるからなのだろうし、遠い太古の時代の忘れたい記憶に触れるからなのだろう」

 そして、フロイトは最後の「反ユダヤ主義の根拠」を述べるのでした。

 

「もっとも遅れて発生した動機として考えられるのは、現在ユダヤ人を嫌っているすべての民族は、歴史的にみて遅い時期になってキリスト教に改宗した民族であり、血なまぐさい強制によって、やっとキリスト教を採用したことも忘れてはならない。これらの民族はいわば『ごまかしの洗礼』をうけたのであり、キリスト教といううわべの下では、かつての祖先と同じように、野蛮な多神教に帰依しているのである」 わたしはフロイトが指摘した3つの「反ユダヤ主義の根拠」のうち、最後のものが一番説得力があると思います。

 「解説―フロイトの宗教批判」では、訳者の中山元氏が、フロイトの行った宗教批判について次のように述べています。

 

「フロイトが宗教、とくにキリスト教を痛烈に批判するために辿った道筋は次の3つだったと考えられる。最初の道は、強迫神経症の患者の儀礼とキリスト教のミサなどの宗教的な儀礼が共通していることに注目するものであり、『幻想の未来』はこの道筋を中心とする。第2の道は、キリスト教の性道徳が現代の西洋の社会ではたしている抑圧的な役割を考察しながら、こうした抑圧に抵抗しようとする人間の自己破壊的な傾向に注目するものである」

 フロイトの宗教批判の核心は、強迫神経症との共通性にありました。 フロイトは1907年の段階から、宗教的な儀礼と強迫神経症の患者の儀礼との共通性に注目していました。強迫神経症の患者には、神経症的な儀礼を行わないと、激しい不安に駆られる人々がいるのです。 中山氏は、これについて以下のように述べています。

 

「この儀礼は、日常生活において『つねに同じか、あるいは規則的に変更される方法で実行されている細かなしぐさ、付随的な行為、制限、規定から成り立っている』。たとえば寝る前に、ベッドの前で特定の位置に立ち、椅子に衣服を畳んでおき、掛け布団、シーツ、枕の正確な位置を決定し、ある特定の姿勢で横たわらないかぎり、就寝できない女性がいる。フロイトはこの女性を分析して、それが結婚初夜の破瓜の血の記憶と結びついていることを明らかにしたのだった。 問題なのは、他人から無意味としか思われない強迫的な儀礼が、患者にとっては(少なくとも分析をうけるまでは)、やめることができないものであることだ。『この儀式に違反すればかならず耐えがたい不安』が患者を襲い、やめた分を補うための『埋め合わせ』をしなければならなくなるのである」

 「この儀式に違反すればかならず耐えがたい不安」に襲われるというのは非常に重要な指摘であり、人類が綿々と結婚式や葬儀の伝統を継承してきた大きな理由もここにあると思われます。つまり、人間は結婚式や葬儀をきちんと行わなければ大きな不安に襲われ、不幸になるという思想が人類史を根底から支えてきたと言えるでしょう。逆に言えば、儀式には人間の不安やストレスをなくす、あるいは減少させる力があるのです。

 フロイトは、強迫神経症の患者のさまざまな儀礼と、キリスト教のミサにおける細かな決まりには共通性があることに注目しました。どちらにも「中止したときの道徳的不安、他のすべての行為からの完全な隔離(妨害の禁止)、そして細かなことを行う小心さ」が見られるというのです。そして意味がないと見えることも、「そのすべての細部にいたるまで意味にみちており、人格の重要な関心に奉仕」していると考えるのです。

 このフロイトの考えについて、中山氏は以下のように述べます。

 

「この強迫神経症の患者たちがこうした儀礼を反復する背景にあるのは罪悪感である。そして患者はその罪悪化を意識することができないのである。しかしある欲望が知覚されると、患者はその欲望に疚しさを感じ、そのために懲罰を期待し、「いつでも待ち構えている期待不安」に襲われ、その不安を打ち消すために儀礼が反復されるのである。『欲動の絶え間ない圧迫に拮抗するために、つねに新たな心的な努力が要求される。儀式と強迫行為は、一部は欲望の防衛に、一部は予期される不幸にたいする防衛に向かうものとして成立する』のである。フロイトは、患者が無意識のうちに感じている欲望を性的な欲望と解釈しているが、宗教ではもっと異なる欲望から、同じような儀礼の強迫的な反復が形成される。信者は悪しき欲望のために罪を感じるのであるが、これは必ずしも性的なものとは限らない。戒律があるために、その戒律に反することを望む心の動きが感じられると、自分は『罪人である』と思うのである」

 そして、中山氏は『幻想の未来』の解説の最後に述べるのでした。

 

「人間の『良心』はこうした神罰にたいする『期待不安』から生まれるのだとすると、宗教的な人間の信心深さは、強迫神経症の患者の儀礼のおける細心さと共通した性格をもつことになる。『神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症』であると結論できるとフロイトは考えるのである」

 『モーセと一神教(抄)』については、中山氏は以下のように述べます。

 

「もちろんここには途方もない論理の飛躍がある。フロイトはイエスが原父を殺した兄弟同盟の指導者であり、主犯だったとしか考えられないとまで主張するのである。ただしフロイトがこのような論理的な飛躍をあえてすることで可能になったことがある。キリスト教の儀礼の特殊性と、ユダヤ教とキリスト教の関係についての興味深い洞察を手にしたのである。1つはキリスト教の聖体拝領の儀礼におけるカニバリズム的な特徴を説明できるということである。キリストの血としてのワインと身体としてのパンをいただく聖体拝領の儀礼は、『信者たちが救世主の血と肉を体内にとりいれる行為であり、昔のトーテム饗宴の内容を反復したものである』とフロイトは指摘するが、この儀礼のカニバリズム的な特徴は、以前から指摘されてきたことだった。フロイトのトーテミズムの理論は、この特徴を巧みに説明することができる」

 わたしは、現在執筆中の『儀式論』の参考文献として本書を読みました。 というのも、「儀式の心理的機能」について知りたいと思ったからです。 その目的は大いに達せられました。儀式と神経症との共通性には考えさせられました。フロイトによれば、人間のもつ本能すなわち動物的欲望を規範によって抑圧するところに生まれるのが神経症です。それは、きわめて人間的な現象なのです。フロイトは、文化、芸術、宗教のすべての現象の中に、この神経症的症状を読み解いてゆきますが、そこから儀式の正と負の側面が浮かび上がってきました。

 それにしても、わたしは改めてフロイトを見直しました。 じつは、これまでわたしはフロイトにあまり良い印象を持っていなかったのです。「今さら、フロイトでもないだろう」という思いもありましたし、彼の心理学はセックス理論に固執した狭い心理学であり、全人格的アプローチのあるユングの心理学のほうが広く、かつ優れていると思っていました。しかし、フロイトは「狭い」どころか途方もなく「広い」そして「深い」思想家であることを思い知りました。