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儀礼とパフォーマンス』

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No.1237

 

 『儀礼とパフォーマンス』青木保・内堀基光・梶原景昭・小松和彦・清水昭俊・中林伸浩・福井勝義・船曳健夫・山下晋司編(岩波書店)を読みました。「岩波講座 文化人類学」の第9巻です。儀礼とパフォーマンスを文化人類学の視点で読み解く際の重要な問題についての9編の論文を収録しています。生死のサイクル、演劇、国家などと儀礼の関わりが論じられています。

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

 

序「儀礼という領域」(青木保)

第一部 儀礼とサイクル   

1 テクノロジー社会の病院出産

  ―現代の通過儀礼―(松岡悦子)  

2 病と儀礼

  ―病院の探検―(武井秀夫)  

3 死にゆくものへの儀礼(内堀基光)

 

第二部 儀礼と演劇   

4 憑依と楽屋

  ―情報論による演劇モデル批判―(真島一郎)  

5 「幕」と「場面」についての試論(船曳健夫)

 

第三部 儀礼と国家  

6 伝統の政治学

  ―インド・オリッサでの美術競技会による国民文化の想像の試みとその波紋―(田辺明生)  

7 儀礼と国家

  ―インドネシア独立50周年記念事業から― (山下晋司)

 

第四部 儀礼の位相 

8 承認と解釈

  ―プラクティスとしての儀礼と社会のかかわり― (杉島敬志)  

9 言説と実践のはざまにあらわれる身体をめぐって

   ―ジェンダー、ダンス、身体化にかかわる儀礼の考察から― (宮坂敬造)

 

この読書館でも紹介した名著『儀礼の象徴性』の著者であり、元文化庁長官で、現在は大阪大学名誉教授、国立新美術館館長を務めている青木保氏は序「儀礼という領域」で以下のように述べています。

 

「本巻は『儀礼とパフォーマンス』と題されているが、このことは大変重要である。というのも、儀礼の多くは『繰り返し』を特徴とするが、これまでの文化人類学者の研究は、その形式、内容、表現、組織、構造、機能などの分析は行なっても、その『実行』の『評価』については言及しないことが一般であった。しかし、香港の『返還・回収』儀礼が示すように、その『実行』の成功か失敗かは、もっとも重要な問題である。すなわち、その『パフォーマンス』がどのように行なわれるのかには儀礼全体の意味と価値がかかっているといってよいのである。『パフォーマンス』ということばには、たとえば『一国の昨年度の経済のパフォーマンスは』という形で用いられることがあるように、『実行』とその『評価』をうながす含意がある。評価なしのパフォーマンスはその点ありえない。儀礼は、そのパフォーマンスが大事なのである」

 

 第一部「儀礼とサイクル」の1「テクノロジー社会の病院出産―現代の通過儀礼―」では、旭川医科大学医学部助教授(現在は、奈良女子大学生活環境学部教授)の松岡悦子氏は第二節の「儀礼とは」の中で、「自然と文化」として、以下のように述べています。

 

「エドマンド・リーチは、儀礼は社会的地位の変化を知らせるとともに、その変化をもたらす働きがあると述べているが、儀礼は境界の存在とその通過を明らかにして境界の秩序を維持し、同時にカテゴリー間の移行を促して境界を越えさせる。つまり文化は、本来連続的で境界のない自然の中に境界を設定し、秩序を作り上げる。その上で儀礼を行い、境界間の移行があたかも儀礼によって引き起こされたかのように思わせるのである。このようにして、文化は儀礼を通して自然を文化化している」

 続いて、松岡氏は「シンボルを用いた行為」として以下のように述べます。

 

「儀礼とは、ある秩序や形式に従って、繰り返し、しかも普段とは異なる服装や歌、踊りなどとともに演じられる行為である。繰り返し決まった型の行為が行われるのは習慣やしきたりも同様であるが、それらが儀礼と異なるのは、儀礼はシンボルを用いる点だとマイヤホフは述べる」

 

 さらに「通過儀礼」として、松岡氏は次のように述べます。

 

「儀礼の多くが社会的境界を越えることに関わっているが、ファン・ヘネップは『特にある状態から別の状態へ、ないしはある世界(宇宙的あるいは社会的な)から他の世界への移動に際して行われる儀式上の連続』を『通過儀礼』と呼び、その目的は個人や集団をある社会的地位から別の社会的地位へと通過させることだとした」

 

 そして、松岡氏は以下のようにも述べるのでした。

 

「この過渡期をリミナリティーと呼び、この社会的カテゴリー間のどっちつかずの曖昧な状態に生じる特徴を記述したのが、ヴィクター・ターナーであった。彼は『儀礼の過程』やその他数多くの論文で、リミナリティーには死と再生、匿名性、穢れ、両義性、試練などを表すシンボルが見られることを示した。さらに、コミュニタスという社会心理的局面が生じることがあり、それは社会構造に対する無構造、反構造の状態で、社会的地位や役割にとらわれない人と人との絆、平等なつながり、解放感、連帯感を感じる状態とされる。ターナーは、伝統的社会でも現代社会でも、さまざまの儀礼や社会現象にリミナリティーやコミュニタスの状態が見られることを示した」

 第一部の3「死にゆくものへの儀礼」では、第一節の「死者と生者の織りなす儀礼」で、一橋大学社会学部教授の内堀基光氏が次のように述べます。

 

「さまざまに定義される儀礼的行為のなかで、人の死を契機として行われる儀礼ほど、行為者の意図性があらわなものはない。そして、これらの意図が通文化的に共通の基底をもつことも、儀礼とよばれる範疇のなかで死にかかわる儀礼が示すきわだった特質である。人の死に際して、いっさいの儀礼をしないような社会は―異常な危機的状況における場合をのぞいては―存在しない。死は何らかのかたちでの死体の処理を必要とするし、さらにほとんどの社会では、生き残った人びとが一定の期間ある種の禁忌を守らなければならないというかたちで、いわば否定的な形態をとった儀礼行動を要請する。死の儀礼については、人類社会におけるその存在の普遍性とならんで、実際の現われ方がとてつもなく多様であることが指摘されている」

 また内堀氏は、儀礼について以下のように述べています。

 

「儀礼は、いうまでもなく、生きた人間がするものである。だが、死の儀礼においては、その参加者としていかなるかたちでか表象された死者というものが登場する。死者の表象のされ方はさまざまである。一方の極においては死者は生者と同じような行為の動作主として立ち現われるが、また他方の極では単に生者の行為の客体としてのみ現われることにもなる。死者の表象のあり方から見たとき、死の儀礼の多くは、この両極のあいだの連続体のどこかに位置づけられることになろう。死の儀礼とは、まさしくこうして表象される死者と生者が、縦糸と横糸のようにして、ともに織りなす儀礼であり、この両者のかかわり方、いわば両糸の交叉によって作り出される文様が、個々の儀礼の特徴を形づくるのである」

 

 第二節「集団表象としての死」の2「エルツと『死の集団表象』」では、内堀氏はデュルケーム門下のロベール・エルツが1907年に著した論文『死の集団表象の研究』を紹介し同論文が、発表後1世紀近く経た今日でも、死の儀礼を語る際の出発点となる著作でありつづけていると高く評価します。

 内堀氏は、「死の集団表象の研究」について以下のように述べています。

 

「エルツの議論の根幹自体はかなり単純で図式的である。それは、ファン・ヘネップがほぼ同時期に一般的なかたちで定式化することになった「通過儀礼」の枠組みのなかで、死を契機とする儀礼に特化した理論を提供するものだといってよい。両者に共通するものは、儀礼の構造を時間軸に沿った展開として把握し、この展開のなかに特定の普遍的な特徴をもった順序ないし段階を見出すことである。これらの段階は、どちらの用語でも、分離、過渡、統合の3段階とされているが、エルツの議論は―というよりも死の儀礼の場合はというべきだろうが―、これらの3段階のそれぞれが、(a)死者の肉体、(b)死者の霊的存在、(c)生き残ったものたちという、3つの主体―客体に同時並行的にかかわるとするところにその特徴がある」

 第三節「『前向き』の儀礼と『後ろ向き』の儀礼」では、1「他界の表象」で、内堀氏は以下のように述べています。

 

「儀礼実践が死者の存在様態にどのようにかかわるかによって、死者への儀礼を2つに分類することができる。そのひとつを『前向き』(prospective)の儀礼、もうひとつを『後ろ向き』(retrospective)の儀礼とよんでおこう。『前向き』とは、儀礼の執行が死者をある存在様態から別の存在様態へと変える(あるいは移行させる)意図のもとになされることであり、『後ろ向き』とは死者の存在様態の変化(移行)を追認したり、あるいは死者の生前の功績を賞揚するといった意図が儀礼執行のなかで表明されるようなことをいう。この区別は儀礼の形式面にかかわるというよりも、儀礼行為者の意図のあり方にかかわっている」

 「前向き」の儀礼について、内堀氏は次のように述べます。

「『前向き』の語りのもっともはっきりしたものは他界についての語りである。ここでいう他界とは死者の集合体のありようにほかならない。思うに、死者が隠喩的に―つまり全体的に―表象されるとき、そこにはほとんど必然的に複数の死者の存在が表象されることになるはずなのだ。ここからさらに進めていえば、死者は生きているときに何らかの人間集合体の一員であったという事実のみによっても、表象された複数の死者はやはり何らかの集合体をなすものとして語られることになるのである。実際こうした死者の集合体がどのような様態をもつものとして語られるかは、個別文化がその観念の歴史をとおして与えることになる内容である」

 また、「後ろ向き」の儀礼について、2「生の決算」で内堀氏は述べます。

 

「『後ろ向き』の儀礼は死者の存在様態の変化を追認するものだから、そのもっとも端的なものは死者が死んだという事実を確認することである。しばしばそれは、彼(女)が生きているときに行った事績―あるいは例外的には罪過―を既決の事項として、すなわち決算された生の総体として確定する儀礼として現われる。その典型的な例として、死者のために何らかの記念物を立てることを考えてみよう」

 

 第三部「儀礼と国家」の7「儀礼と国家―インドネシア独立50周年記念事業から―」では、東京大学大学院総合文化研究科教授の山下晋司氏が第一節「はじめに」の冒頭で次のように述べています。

 

「儀礼と国家の結びつきを近年雄弁に論じたのは、アメリカの人類学者クリフォード・ギアツである。『ヌガラ―19世紀バリの劇場国家』のなかで、ギアツは、インドネシア、バリの伝統的国家を検討しながら、このような国家にとっては儀礼を執行することは国家の付随的な活動というより本質的な活動であった、と論じた。彼はこうした国家を『劇場国家』と呼んで次のように述べている。『この国家が常に目指したのは演出であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった』。この本でギアツが試みたのは、19世紀バリの伝統的国家についての歴史民族誌的記述を与えながら、近代西欧の政治理論が隠蔽し、みえにくくしてしまった政治の次元、つまり権力の象徴的次元に対する感覚を取り戻し、『権力の象徴論』を今日の社会科学のなかに復権させることであった」