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人類学再考』

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No.1227


 『人類学再考』エドマンド・リーチ著、青木保・井上兼行訳(思索社)を読みました。国立歴史民俗博物館の民俗系准教授である山田慎也氏から薦められた本です。著者は1910年生まれのイギリスの人類学者です。クルド人について調査した後、イギリス軍の軍人となりました。第二次世界大戦では抗日運動に参加し、日本軍に対してゲリラ戦を展開しました。彼は人類のタブーというものに着目し、近親相姦のタブー(インセスト・タブー)を食のタブーと関連させて捉えようと試みたことで知られます。本書は1961年にイギリスで出版され、日本版は1974年に刊行されています。レヴィ=ストロースの構造主義を先取りして、1930年来の英国人類学の主流、マリノフスキーやスドクリフ=ブラウンの機能主義の欠陥を再検討した、現代人類学の画期的転換点をなす気鋭の論文集です。


 本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「本書の一貫した主題は、機能主義者による『社会構造の比較分析』を、部分的な組織の作用原理に注目することによって演繹的に社会の型を区別しているだけの不毛な『チョウの分類学』であると糾弾し、社会人類学の真の目的とは、個別な事例としてある社会の中に一般的法則つまり一般的数学的な構造パターンを発見することだ。と機能主義から構造主義への転換の必要を説いているところにある。本訳書には、機能主義の重鎮フォーテスによるリーチ批判も巻末に付し、〈親族研究〉への一助となるよう計ってある」

 本書の「目次」は以下のようになっています。

「親族の哲学へ向って」青木保
「序文」
1 人類学再考
2 ジンポー族の親族名称―民族誌的代数学の試み
3 母方交叉イトコ婚の構造的意味
4 一夫多妻、相続、婚姻の定義―特にシンハリの慣習法を参照して
5 カチン族とラケール族における婚資と婚姻の安定性
6 時間の象徴的表象に関する二つのエッセイ
(1) クロヌスとクロノス
(2) 時間とつけ鼻
「原註」
「参考文献」
日本語版付録 

A 出自、親子関係、親族関係―リーチ博士への応答 M・フォーティス(梶原景昭訳)
B 「母方交叉イトコ婚の構造的意味」のためのコメント 井上兼行
「用語解説」
「リーチ主要著作目録」
「訳者あとがき」


 冒頭の「親族の哲学へ向って」では、文化人類学者の青木保氏が以下のように述べています。

「リーチがこの『人類学再考』において提起した批判的問題は、なによりも従来社会人類学における伝統的な思考形式・方法論と目されてきた自然科学としての人類学というスローガンに含まれる類似科学性と偏向の指摘にある。『チョウチョウ蒐めとその分類』的態度に対して、また『比較』という問題の安易なとり上げ方についての厳しい批判は、『民族誌的事実は、もしわれわれがこれまで既定のものとして受けいれてきた考え方から脱け出してとり上げてみるならば、はるかに容易に理解できるであろう』という大胆な指摘に集約される。また伝統的思考に含まれる偏向については、『英語的思考型は人間社会全体に対して決して不可欠のモデルとはならない』と指摘して、英語による思考(概念の設定その他)を絶対的なものとする科学的態度に疑問を呈することからはじめられている」

 1「人類学的再考」では、著者は自身が「いささか尊大な題目を説明すること」と断りながら、以下のように述べています。

「1930年以来、英国の社会人類学はマリノフスキーとラドクリフ=ブラウンの教えをそのままうけついだ、よく練り上げられた一連の考え方と目標とを具体的な形で示してきた――その一致した目標は、英国の社会人類学は機能主義者であり、社会構造の比較分析に携わるものであるというふうに要約されている。しかし、この1、2年の間に、あたかもこの特殊な学的目標はもはや使いものとならなくなったかのような観を呈しはじめた。私の同僚のほとんどは、比較分析による一般理論の構築を試みることを諦めている。そして、そのかわりに、ある特定の民族集団に関する細部にわたって完璧な歴史的民族誌を書き上げようとしはじめている」

 マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンは、同年齢ということもあり、ともに社会人類学の巨人として高く評価されました。しかし、著者のリーチは以下のように述べます。

「マリノフスキーが時計の動きの属性一般について関心をもっていたのに対し、ラドクリフ=ブラウンは祖父の大時計と腕時計とのちがいを区別することに関心を向けたのである。だが、この2人の巨匠はともに、文化ないし社会が容易に調和できる限られた部品から構成された経験されうる全体であり、もし2つの社会を比較しようとすれば、同じ種類の部品が双方の社会においてあるかどうかを調べることに留意すべきであるという考え方から出発していた」

 続いて、リーチは以下のように述べています。

「このアプローチの仕方は、動物学者や植物学者もしくは機械工にとっては妥当であろうが、数学者やエンジニアの方法ではない。私の考えでは、人類学者はエンジニアと多くの共通点をもつものだ。ただし、これは私の個人的な偏見である―そもそも私は初めエンジニアの教育をうけたのだから。われわれが社会とよぶ統合体は、決して自然発生的に存在している種ではないし、人工的に作られた装置でもない。しかし、機械装置の類推は有機体の類推と全く同様に大いに役に立つものである」

 マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンに関して時計の比喩が使われましたが、本書の6「時間の象徴的表象に関する二つのエッセイ」の(1)「クロヌスとクロノス」において、著者は以下のように述べています。

「時計は別として、時間について現代イギリス人が懐く一般概念には、少なくとも、それぞれ論理的に異なり、矛盾しあいさえする2つの異なった種類の経験が含まれているようである。
第1に、繰り返しの概念である。
 時間を計ろうと考える場合はいつでも、われわれは自分自身をある種のメトロノームに関係させている。つまり、その場合のメトロノームとは、時計の刻む音とか脈搏とか日とか月とか季節の移り変わりとかの循環であろうが、そこには常に繰り返す何かが存在している。
 第2に、繰り返しはないという概念がある。
 すべての生けるものは、生まれ、育ち老い、死ぬ、そしてこれは不可逆的、もとに戻せぬ過程であるという意識が働いている。時間がもつその他すべての面、たとえば持続とか歴史的連続とかは、次の2つの基本的経験に由来するものにすぎないと私は考えている。それは、
(1) 自然現象は(自ら)繰り返すものだ
(2) 人生の変化はもとに戻らない
ということである」

 それぞれの宗教によって、死という「実在」を拒否しようとする思想の表わし方は非常に異なります。もっともよく見られる説明は、単に死と誕生が同じものだと主張です。つまり、死が誕生に続くように、誕生は死に続くというのです。これについて、著者は以下のように述べています。

「これは、時間の第2の面を、第1の面と同一化することによって、否定することと等しい。さらに宗教以外の場合であれば、時間のこの2つの面を1つの分類のもとに統合しようと試みる必要はないであろう。繰り返す出来事か、またはけっして繰り返さない出来事は、要するに論理的には同じことではありえない。われわれは、その2つの出来事を、時間という『1つのこと』の両面として取りあつかうが、それは、そうするのが合理的だからそうするというのではなく、宗教的偏見によってそうするのである。時間の観念は、神の観念と同じく、必要だと考えられているいくつかの認識上の分類の1つである。というのは、それがわれわれの客観的な世界体験における経験できる何かであるからということよりも、われわれが社会的動物であるからである」

 また、著者はこうも述べています。

「われわれの習慣的考え方からすれば、時間間隔はすべて、繰り返しによってはっきりと明確化される。時間間隔は、始まりと終りをもつが、双方とも『同じもの』である―たとえば、時計の刻む音、日の出、新月、元日、というように。しかし、各時間間隔は、同じく始まりと終りの繰り返しをもつ、より大きな時間間隔の1区分にしかすぎない。それだから、こうして考えてゆくと、『時間それ自身』(それが何であれ)が繰り返しているにちがいないと最後に想定しなければならない。経験的にはこれが本当のところであろう。人々は、窮極的にそれ自体が繰り返すものである何かとして時間を考える傾向を強くもっている。こうした傾向は、オーストラリア原住民や古代ギリシア民族や近代の数学的天文学者にも等しくみられる。私の考えでは、われわれがこのように考えるのは、それ以外の考え方ができないからなのではなくて、死の観念や宇宙の終末観念について熟考することを嫌忌するような心理学的(宗教的)傾向を、われわれがもっているからなのである。この議論は、未開人の儀礼や神話における時間に関する表象について考えるうえに光を投げかけるのに役立つものと私は考える」

 いわゆる未開社会における時間について、著者は以下のように述べています。

「未開の素朴な社会にあっては、繰り返しの比喩には、はるかに身近なものを使ったであろう。たとえば、それは嘔吐や機織人の梭の振動、一連の農耕活動、また婚姻関係をめぐる一通の儀礼的交換などであるが、われわれがこのような一つながりになったものを「サイクル」として記述するとき、われわれは知らず知らず、当該の人々の思考にはまったく存在しないと思われる幾何学的な表現法をそこに導入しているのである」

 続けて、著者は未開社会における時間について述べます。

「実際、いくつかの未開社会においては、時間の経過は、けっして『はっきりと区切られた期間の継続』として経験されてはいないと思われる。何故なら、そこには同じ方向へたえず進行してゆくという感覚も、また同じ輪のまわりをまわり続けるという感覚も存在しないからである。反対に、時間は、持続しない何か、繰り返す逆転の反復、対極間を振動することの連続として経験される。すなわち、夜と昼、冬と夏、乾燥と洪水、老齢と若さ、生と死という具合にである。このような図式にあっては、過去は何ら『深さ』をもつものではない。すべての過去は等しく過去である。それは単に現在の対立物にしかすぎない」

 さらに著者は、以下のように述べています。

「このようにさまざまな対立物を、時といった単一のカテゴリーに含めてしまうよう人に働きかけ信じこませるのは、常識ではなく宗教である。夜と昼、生と死といった対立は、それらが互いに対照をなす一対であるという点においてだけ論理的に類似する一組なのである。それらを同一視させ、生の反対の夜の時間として死を考えるようにわれわれをごまかし、反復をしない出来事が実際には反復をするのだと信じこませるのは、宗教である」

 6「時間の象徴的表象に関する二つのエッセイ」の(2)「時間のつけ鼻」の冒頭では、著者は以下のように述べています。

「世界中どこでも、人間は暦を祭りによって表示している。われわれ自身、毎週を日曜日から始め、毎年を華やかな正装のパーティで始める。他の暦と比較できるような分け方は、それと比較できるような行動によって示される。そこに含まれる行動の多様さは、かなり限定されているのに奇妙にも矛盾しあうものである。人々は定められた制服に正装するか、さもなくばおどけた恰好をする。また、特別のご馳走を食べるものもいるが、断食するものもいる。荘厳な厳しい態度で行動する人々もいれば、放逸にふける人々もいる。個人の社会的発達を特徴づける通過儀礼―誕生、成人、結婚、死などに際しての儀礼―には、しばしば類似のものがある。この通過儀礼の場合にも、特別の服装(恰好のよい制服か道化たなりふり)、特別の食事(ご馳走か断食)、特別の行動(節制か勝手気まま)などがみられる」

 さらに「時間」という奇妙なものについて、著者は以下のように述べます。

「時間に関してもっとも奇妙なことは、われわれがそのような概念をとにかく持っているということである。われわれは、時間を経験するが、それは感覚によってではない。われわれは時間をみることもなければ、触れることもなく、かぐこともない。それならばどのようにしてなのか、と問うならば、それは3つの方法で時間は経験されるのである」

「第1に、われわれは繰り返しを認知する。屋根から落ちる水滴、それらはみな同じ滴ではなく、ちがうものである。だが、それらをちがうものだと認識するには、われわれはまず時間の間隔を識別し、そして限定しなければならない。時間の間隔、持続は常に『同じもの』、つまり脈搏、時計の打つ音、元旦といったもので始まり、また終るのである」

「第2に、われわれは老いてゆくこと、つまりエントロピーを認める。すべての生きものは、生まれ、成長し、老いて死ぬ。老いてゆくことは、逆転のきかぬわれわれすべてのものの運命である。しかし、年をとることと持続する時間間隔とは、ほんとに2つのまったく異なる種類の経験なのだろうか。私の考えでは、われわれはこの2つの経験を一括し、1つの名称、つまり時間によって記述する。何故ならば、ある種の神秘的な仕方でもって誕生と死とが実は同じものであることを、われわれは信じ込みたいからである」

「時間に関するわれわれの第3の経験は、時間が経過する度合いに関係するものである。これは、油断のならないことである。生物学的な意味での個人は、星の運行時間の経過に関連づけてみるならば、次第に速度が遅くなるようなペースで年をとるものだというよい証拠がある」

 「死」と「誕生」は同じものだと見られがちですが、著者は述べます。

「私は、厳密な科学的意味では、死と誕生が同じものなどと装うことの愚を認めるが、だが疑いもなく、多くの宗教の教義ではそれをはっきりと主張しているのである。さらに、誕生は死に伴って起こるという虚構は、来世についての信仰だけとは限らず、宗教儀礼の型そのもののなかにもあらわれている。通過儀礼(そこでは象徴性はしばしば明白にあらわれている)のみならず、秘跡的性格をもついけにえの儀礼のなかにも、かなりの頻度でそれはあらわれる。ユベールとモース、そしてファン・ヘネップによってはじめて提出されたこの問題の一般化は、非常に広汎にわたって適用可能な妥当性をもつものである。すなわち、儀礼は、全体として、いくつかの部分に分かれること、象徴的な死、儀礼的隠退の期間、象徴的再生というように」

 また、著者は「通過儀礼」について以下のように述べます。

「通過儀礼であるが、人生の諸段階の区切りに関係するこの儀礼は、明らかにある種の時間についての表象あるいは概念化と必然的に結びつけられている。しかし、この死―誕生の同一化を論理的にもっともらしくすることのできる時間についての唯一の心象は、振子形の概念である。あらゆる比喩が心に描かれ時間を表象するために生み出されてきた。それらはヘラクレイトスの河からピタゴラスの調和的天球にまで及んでいる。時間は先へ先へと進むとも考えられるし、円を描いてまわり続けるとも考えられる。だが、私がいまここで問題にしていることは、実際的に言って、非常に多くの人々が時間を前後に動くものだと考えているということである」

 航海暦型の暦を持たない民族にとって、年の進展は祭儀の継起によって示されます。デュルケームの見方によれば、それぞれの祭儀とは、存在の正常な世俗的秩序から異常な聖なる秩序への時間的な転換であり、またその逆戻りを表象するものです。著者は以下のように述べています。

「このような時間の流れは人間が作ったものである。これは、祭礼に参加する社会(デュルケーム学派の用語を使えば『道徳的人間』である)によって秩序づけられたものである。儀礼そのもの、とくにいけにえの儀礼は、この道徳的人間の地位を、俗から聖へ、聖から俗へと変えさせる技術である。こうしてデュルケーム流に考えれば、全体の流れは4つの区別された局面、あるいは4つの『道徳的人間の状態』を含んでいる」

 4つの区別された局面、あるいは4つの「道徳的人間の状態」とは、以下の通りです。

局面A 聖化の儀礼もしくは分離の儀礼。道徳的人間は、世俗世界から聖なる世界へと移される。彼は「死ぬ」。
局面B 境界にある状態。道徳的人間は、聖なる状態にいる。一種の仮死状態。社会の日常的時間はとまる。
局面C 脱聖化の儀礼、あるいは集団の儀礼。道徳的人間は、聖界から俗界へ戻される。彼は「再生」する。世俗的時間があらためて始まる。
局面D これは正常な世俗生活の局面。次々と行われる祭りの間隔期。

 さらに著者は、祭りを行うことの3つの機能を指摘します。

「第1に、祭りの催しが果す多様な機能のなかでも、1つの非常に重要な機能は、時間の秩序づけである。同じ形に属する2つのつながった祭儀の間にみられる休止は、1つの「期間」であり、通常は、たとえば「週」とか「年」とか名付けられている期間である。祭儀をしないと、こうした期間も存在しなくなり、社会生活からすべての秩序がなくなってしまう。われわれは、時間を計ることについて語るが、そうすることはあたかも時間が計られるのを待っている何か具体的なものかのように考えることである。しかし、実際には、われわれは社会生活における間隔期を創り出すことによって時間を創り出すのである。こうするまでは、計るべき時間は存在しなかったのである」

「第2に、祭儀において世俗の期間が始まりそして終るのと同じように、祭儀もまたそれ自体が終りと始まりとをもつものだということを忘れてはならない。いかにうまく祝祭が時間を秩序づけるのに役立つかを評価するならば、けっして個々の祭儀ではなく、われわれはそれを含む体系を1つの全体として、考えなければならない」 そして、第3には、つけ鼻の件、もっと学問的に言うならば、役割の転倒の件があります。

 そして、著者は以下のように述べるのでした。

「これら3つの形の儀礼行動を、(1)形式性、(2)乱痴気騒ぎ、(3)役割転倒とよぶことにしよう。行動の形式としては、それらは各々概念的に異なるものだが、実際上は密接に関連しあうものである。形式性(例、結婚)から始まった儀礼は、たいがい乱痴気騒ぎで終る。乱痴気騒ぎ(例、大晦日、カーニバル)で始まる儀礼は、公式的な厳粛さをもって終る。いまのような清教徒的時代では、顕在化された役割転倒は、われわれの社会では普通みられないが、民族誌的文献やヨーロッパ中世の記述においては一般的なことである。こうした行動が、葬式とか通過儀礼(象徴的な死)あるいは年の終り(たとえば、ヨーロッパでは、サトゥルヌスと愚者の祝い)などと結びついていることがわかるであろう」