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古代研究4 女房文学から隠者文学へ』

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No.1202


 このところ、折口信夫の著作を読み返しています。
 『儀式論』(仮題、弘文堂)を書くにあたって、折口の壮大な古代学を学び直す必要があると感じたからです。今回は、『古代研究4 女房文学から隠者文学へ』(中公クラシックス)を再読しました。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「万葉びと折口信夫」岡野弘彦
女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史
万葉びとの生活
万葉集の解題
万葉集のなりたち
万葉集研究
叙景詩の発生
古代生活に見えた恋愛
古代民謡の研究 その外輪に沿うて
日本書と日本紀と
相聞の発達
日本文章の発想法の起り
お伽草子の一考察
「解題」岡野弘彦・井口樹生・長谷川政春

 「女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史」では、折口は「歌聖」と呼ばれた西行について次のように述べています。


「西行は、ともかくも個性に徹した文学を生んだ。それは、根本的に多少の拗曲を含んでいたが、何にしても、江戸に到るまで、隠者階級の生活態度に、一つの規範を加えた。芭蕉は、彼の作物からわらいとわびしさとを、とりこんだ。そうして芭蕉自身の絶え間ない文学的死と、復活とによって、完全に主義とし、態度とした。そうしてその影響を、国民の生活情調に滲み入らせた。孤独にして悲劇精神を持ちこたえていった西行の為事は、芭蕉の主義宣布以前に、近世日本の正しい芸術傾向と見做されている心境をつくりあげていた。西行すでに主義態度を思い到らないでも、実感と個性とに徹することによって、実現していた」

 「万葉びとの生活」では、古い書物について次のように述べられています。


「古事記・日本紀は、新しい神学の基礎に立って、そうした断篇を組織したまでのものである。三つの古風土記(九州の、二つには、私は著しい近世的の臭いを、感ぜないではいられぬから、省いた)のうち、記・紀と一番足並みを揃えているのは、出雲風土記である。常陸のになると、この体系を度外視する、理智の眼が光っている。それで、この書の裏に、一貫した神学があろうとは見えぬほど、恐しく断篇化した記述法を取っているにもかかわらず、神を失おうとしている者の偶像破壊に過ぎないということは見えている。時代はそれと、いくらも古くはあるまいに、播磨風土記に現れた断篇風な記述は、たしかに神学以前の不統一な面影を残している。ほんとうに、無知な群集の感情そのままである」

 「万葉集の解題」では、折口は古い歌の本質を「性欲詩」ととらえ、以下のように述べています。


「最初の日本の恋愛詩は、純然たるものではなかった。古い歌は、事実、性欲詩である。歌垣の場で、相手を凌駕しようとする、誇張した性欲に根ざしたものであった。これが性欲詩より、恋愛詩へ歩む途中に出来た、祭りの場合の即興詩である。ところが、この歌垣の詩を作っているうちに、だんだん、優れた人が出来てくる。即興的詩才のある人が、詩人としての自覚を発し、世に認められて、その人の歌が世に遺る。結果より見ると、古人の作った歌が、一種の芸術的に作ったものと思われるのもあるが、やはり、応用的のものである。そのうちに醇化されて、ほんとうに、恋愛詩が生れてくる」

 「古代生活に見えた恋愛」では、以下のように神に仕える女について言及されています。


「いったい、神に仕える女というのは、みな『神の嫁』になります。『神の嫁』という形で、神に会うて、神のお告げを聴き出すのであります。だから神の妻になる資格がなければならない。すなわち、処女でなければならない。人妻であってはならない。そこで第3類の処女というものが出来てくる。人妻であっても、ある時期だけ処女の生活をする。そういう処女の生活が、われわれの祖先の頭には、深くはいっていたのであります」

 折口によれば、ある国、あるいはある村の家の歴史や叙事詩などに残されている記録では、その国や村の頭の家の処女の場合は、みな現代でいう処女のようなものではなく、たいていみな神に仕えている女、すなわち巫女であったといいます。そして、その処女が神に仕える力を利用して、その処女の兄なり、親なりが、国や村を治めていたというのです。
 神に仕える巫女は、当然ながら人間の男には体を許しませんでした。折口は以下のように述べています。


「現在でも、沖縄へ行ってみますと、そういうことがあります。結婚の盃を済ますと同時に、花嫁はその家を逃げ出してしまう所がある。このほかまた沖縄一帯の風習では、結婚の最初の晩は、新しい夫と新しい妻とは、決して室を一つにしませぬ。女房はそこに泊っているが、男は自分の友達を連れて花街へ行ってしまう。これは男が男女の結婚方法を知らないといけないから、第一夜は花街へ行って習ってくるのだという解釈をしておりますが、非常に間違った解釈であります」

 また、続けて「神の島」と呼ばれる久高島の風習が以下のように紹介されています。


「沖縄の首里の町から二里ほど離れた久高という島で、大正四年ごろまで行われておりましたが、―非常に不便だから、その島中申し合せて、やめることにしたのですが、―そうでなければまだ続けておったでしょう、―その島では、嫁さんが最初亭主の家へ行く時、非常に親娘の名残が惜しいという様子をして、さて亭主の家へ行って盃ごとをする。その盃が済むと同時に、女房は家を抜け出して、岩の穴とか、森の中のような所とか、あるいは他人の家へ隠れてしまう。昼は構わないが、夜捕えられるといけないからです。だから、昼は亭主の家へ行っているが、日暮れから明け方までの間は、亭主の目に触れないような所へ行ってしまう。亭主や友達が手分けして探しに行く」

 この久高島について、折口は以下のように説明しています。


「この島は漁業が盛んで、男はみな台湾とか、あるいはもっと遠くまで漁業に出かけます。そのために一年のうち三、四か月しか島にはいない。その間に結婚をしなければならぬ。その時期に女房が逃げ廻る。結婚して最初の、一週間なり二週間なり、女房が逃げていると、非常に儚いことになる。それで、大正四年まで続いておったが、いかにも可愛そうだというので、村中申し合せて、廃めようということになって、今日はそういうことがなくなりましたが、以前には花嫁が逃げてから早く捕えられるとその村ではことに貞操観がやかましくて、結婚以前に会っておったということになって、非常に悪く言われ、爪弾きをせられる。だから、夜行きたくっても、できるだけ逃げ廻るのです。昼は平気で水を汲みに来たりしておっても、日暮れ方から隠れてしまう。そうして朝、ほの暗いうちに、水を汲みに出て来たりして、捕ったというような話もあります。今日一番長く隠れたという記録になっております女が、まだ生きておりまして、その女は七十五日隠れておった。つまり一番長く隠れておった女が島の最高の巫女なのであります」
こんな奇習が大正4年まで続いていたとは、まったく驚きです!

 沖縄のみならず、内地でも奈良時代あるいはそれ以前には同じようなことがあったようです。巫女である処女がいよいよ亭主をもつ場合は、婚姻の試みを受けました。
 その事情について、折口は以下のように述べています。


「初夜に処女に会うのは、神のする神聖な行事でありました。実際は神が来るのではなくて、神事に与っている者が試みる。つまり初夜権というので、日本でも奈良朝以前には、国々村々の神主とう者は、その権利を持っておった痕跡がある。それが今でも残っている。瀬戸内海のある島には、最近までその風があったようです。これは、結婚の資格があるかどうかを試すのだといいますが、決してそういうわけではない。またそうした権利が、長老およびある種の宗教家にあると考えるだけでは、足りませぬ。村々の女は一度正式に神の嫁になって来なければ、村人の妻になれない。一度神の嫁―神の巫女になって来なければならぬという信仰が根本にあるのです。それの済んだ者は、自由に正式の結婚ができた。それが済まなければ、正式の夫をもつことができなかった」


 日本の古代は謎に満ちているというか、ロマンに溢れていますね。