No.1200 宗教・精神世界 | 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『古代研究2 祝詞の発生』 折口信夫著(中公クラシックス)

2016.03.04

 このところ、折口信夫の著作を読み返しています。
 次回作の『儀式論』(仮題、弘文堂)を書くにあたって、折口の壮大な古代学を学び直す必要があると感じたからです。今回は、『古代研究2 祝詞の発生』(中公クラシックス)を再読しました。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「みこともち論とその時代」岡野弘彦
鬼の話
はちまきの話
ごろつきの話
雛祭りの話
雪の島 熊本利平氏に寄す
神道に現れた民族論理
大嘗祭の本義
霊魂の話
たなばたと盆祭りと
河童の話
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道
古代人の思考の基礎
古代における言語伝承の推移
「解題」岡野弘彦・長谷川政春・高梨一美

 まず、「鬼の話」が非常に面白かったです。
 「おにと神と」で、折口は次のように述べています。

「鬼は怖いもの、神も現今のように抽象的なものではなくて、もっと畏しいものであった。今日のように考えられだしたのは、神自身の向上したためである。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、ごく抽象的で、姿は考えないのが普通であった。これは、平安朝に入ってから、勢力が現れたのである」

 現今の神々は、初めは低い地位にあったといいます。
 それ以前の神といえば、常世神のことでした。折口は述べます。

「常世神とは―これはわたしが仮りに命けた名であるが―海の彼方の常世の国から、年に一度あるいは数度この国に来る神である。常世神が来る時は、その前提として、祓えをする。後に、陰陽道の様式がはいってから、祓えの前提として、神が現れるようにもなった。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、この信仰が変化して、山から来る神、空から来る神というふうに、形も変っていった。ここに、高天原から降りる神の観念が形づくられてきたのである。今も民間では、神は山の上から来ると考えている処が多い。これらの神は、実はその性質が鬼に近づいてきているのである」

 「鬼の話」の最後は、「まれびと」についての以下の一文で終わっています。

「まれびとなる鬼が来た時には、できる限りの款待をして、悦んで帰って行ってもらう。この場合、神あるいは鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。すなわち、村々にとっては、よい神ではあるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、ふたたび戻って来ないようにするのだ。こうした神の観念、鬼の考えが、天狗にも同様に変化していったのは、田楽に見えるところである」

 「神道に現れた民族論理」も、多くの示唆を与えてくれました。
 折口はまず、神道理解についての誤解を以下のように述べます。

「神道の美点ばかりを継ぎ合せて、それが真の神道だ、と心得ている人たちは、仏教や儒教・道教のごときものは、皆神道の敵だとしているが、だんだん調べてみると、神道起原だと思うことが、案外にも仏教だったり、儒教または道教だったりすることが、すくなくない。こんなことになるのは、つまり日本人の民族的思考の法則が、ほんとうにわかっていないからである。日本人の民族文明の基調が、外国人のものに比べて、どれだけ、特異に定められているかを見ずに、末梢的なことばかりに注意を払っているから、いけないのである」

 折口は、「祝詞」の原型となった「呪詞」について次のように述べます。

「日本人の物の考え方が、永久性を持つようになったのは、もちろん、文章が出来てからであるが、今日のところで、もっとも古い文章だ、と思われるのは、祝詞の型をつくった、呪詞であって、それが、日本人の思考の法則を、種々に展開させてきているのである。私はこの意味で、およそ日本民族の古代生活を知ろうと思う者は、文芸家でも、宗教家でも、また倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思う」

 続いて、「みこともち」という重要思想について次のように述べます。

「まず祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右している事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものの意味であるが、そのお言葉とは、畢竟、初めてその宣を発した神のお言葉、すなわち『神言』で、神言の伝達者、すなわちみこともちなのである。祝詞を唱える人自身の言葉そのものが、決してみことではないのである」

 また、折口は言霊信仰について、以下のように述べています。

「我が国には古く、言霊の信仰があるが、従来の解釈のように、断篇的の言葉に言霊が存在する、と見るのは後世的であって、古くは、言霊をもって、呪詞の中に潜在する精霊である、と解したのである。しかし、それとても、太古からあった信仰ではない。それよりも前に、祝詞には、その言葉を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は、ただちにその神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、そのことが忘れられてしもうたために、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。だから、言霊という語の解釈も、比較的に、新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と云わねばならぬ。世間、学者の説くところは、先の先があるもので、こういう信仰行事が、演劇・舞踊・声楽化して出来たのが、日本演芸である。だから日本の芸術には、極端に昔を残している。徳川時代になっても、その改められたところは、ほんの局部に過ぎない。そして注意して見ると、到る所に、祝詞の信仰が澱み残っている」

 「大嘗祭の本義」では、「まつりごと」について次のように述べます。

「まつりごととは、政ということではなく、朝廷の公事全体を斥して言う。たとえば、食国政・御命購政などと言うし、平安朝になっても、検非違使庁の着駄の政などいう例もある。着駄というのは、首枷を著ける義で、いわば、庁の行事始めといった形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、その用語例から見ると、昔から為来りある行事、という意味に用いられている。私は、まつる・またすという言葉は、対句をなしていて、自らすることをまつるといい、人をして為さしむることをば、またすというのであると見ている。日本紀を見ても、遣または令という字をまたすと訓ませている」

 「祭政一致」という言葉があります。
 これについて、折口は以下のように述べます。

「私は、祭政一致ということは、まつりごとが先で、そのまつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考えている。祭りは、第二義的なものである。神または天子様の仰せを伝えることが、第一義である。ところが、天子様は、天つ神の詞を伝えるし、また天子様のお詞を伝え申す人がある。そしてまた、この天子様の代理者の詞を伝える人がある。こうしてだんだん、上から下へ、と伝える人がある。この天子様のお詞を伝える人をまつりごと人という。日本紀には、大夫・宰などの文字が宛ててある。この大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、なぜまつりごと人などいう、尊い名称で呼ばれるか。これは、前に言うたように、だんだん下へ下へと行くからである。こうした人々のことを、御言持という。この意味で、天子様も御言持である。すなわち、神の詞を伝達する、という意味である」

 そもそも、大嘗祭とは何か。折口は以下のように説明します。

「古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせることで、その報告祭がまつりであることは、前にも述べた。この意味において、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来るようにせしむるのが、食国の政である。ところが穀物は、一年に一度稔るのである。その報告をするのは、おのずから1年の終りである。すなわち、祭りを行うことが、1年の終りを意味することになる。この報告祭が、一番大切な行事である。この信仰の行事を、大嘗祭と言うのである」

 神道には「新嘗祭」というものもあります。これは「大嘗祭」とどう違うのでしょうか。また、どちらが先だったのでしょうか。折口は述べます。

「この大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものという意味ではなくて、あるいは大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。こちらがあるいは、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考えられているが、古代ではすべて、大嘗であって、新嘗・大嘗の区別は、無かったのである。なぜかと言うと、毎年宮中で行われることは、すくなくとも御代初めに、行われることの繰り返しに過ぎない、という古代の信仰から考えられるのである。御代初めに一度やられたことを、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであった、と見るべきである。それが新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行えば済むことを、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といえ、その源は同一なものである」

 「新嘗祭」からは「月次祭」が派生しました。
 折口は以下のように推測しています。

「一年に二度行うというのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからのことである。つまり、夏の終りを年の終りと考え、また、年の終りの冬ごとに神が来る。その神に御馳走して帰すのが、神今食である。これは、よく考えてみると、新嘗を2つに分けて、日をちがえて行った、ということになる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ううちに、変態な習慣が行われだしたのである、と考えられる」

 そもそも、新嘗祭は「大嘗祭」と呼ばれていました。神嘗祭とは、諸国から奉ったところの、早稲の走穂を、宮廷で整理しておかれて、九月になってから、伊勢の大神に奉られることです。折口は以下のように述べます。

「諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、ここで話しておく。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓う意味なのである。日本では、稲穂は神である。それには、魂がついている。国々の魂がついている。魂の内容は、富・寿命・健康などである。諸国から米を差し上げるのは、これらの魂を差し上げることになるゆえに、絶対服従ということになる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、この魂たる米を差し上げることを、みつぎという。ただつぎということもある」

 続いて、折口は以下のように述べています。

「こうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、ご自分で召食らぬ先に、上の方でいられるところの伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のままのを2通り、はざ木にかけて、差し上げる。これをかけぢからという。こうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げることになり、すなわち服従を誓われることになるのである」

 また、折口は「冬祭り」について以下のように述べています。

「冬祭りとは何かと言うと、歳、窮った時期に、神がやって来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをするところの、祭りを言うのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやって来られたことが、書いてある。神の来られたことを忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来てもらっている。後世の宴席に、または祭事に当って、正客の習慣は、遠い昔に、その起原のあることが知れる。すなわち、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をすることである。そして冬祭りとは、この秋祭りが済んで、客神が主人のために、生命の寿ぎと、健康の祝福とをすることである。同席で行われても、両者の間には、区別は明らかにある」

 冬祭りとは、人間の魂をコントロールするものでした。
 折口は、「魂」について以下のように述べています。

「日本の古代の考えでは、ある時期に、魂が人間の身体に、附着しにくる時があった。この時期が冬であった。歳、窮った時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、いわば、魂の切り替えを行う時期が、冬であった。吾々の祖先の信仰から言うと、人間の威力の根元は魂で、この強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである」

 この「魂」とは外から来るものです。
 西洋でいう「マナ」ですが、折口は以下のように述べます。

「この魂が来て附着することを、日本ではふるという。そして、魂の附着を司る人々があった。毎年、冬になると、この魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考えると、一生にただ一度つければよいわけだが、不安に感じたのでもあろう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考えである。この復活の信仰は、日本の古代には、強いものであった。
 古代信仰における冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。ところが後には、この信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、この魂は、元が減らずに分割する、と考えてきた。この意味が、第二義のふゆまつりである」

 さて、宮廷の鎮魂式には3通りありました。以下の通りです。

1、猿女の鎮魂 鈿女の鎮魂法のことをいう。高天原伝来のもの。
2、物部の鎮魂 物部氏に伝来されているところの石ノ上鎮魂法。
3、安曇の鎮魂 奈良朝の少し前、宮廷へはいった、と見るべき鎮魂法。

 「冬祭り」に続いて、「春祭り」についても折口は以下のように述べます。

「春というものは、吾々の生活を原始的な状態に戻そうとする時であって、それには、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返されることになっている。つまり、原始時代に一度あったことを毎年、春に繰り返すのである。古代の考えでは、暦も一年限りであった。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。このことからして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。また、真床襲衾を被られ、それをはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられたことなど、それがつまり、代々の天子様が行わせられる、初春の行事の姿となっているのである」

 神事の後には直会が行われます
 折口は、「直会」について以下のように述べます。

「直会は、直り合うことだと云われているが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるという語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違いのあった時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にあるところの、天子様の食事の時につかえる最姫・次姫のことから考えてみねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、この最姫・次姫は『とがありともなほびたまへ・・・・・・』という呪言を唱える。これは、よし、手落ちがあったとしても、天子様の召し上り物には間違いのないように、という意味のとなへ言である。普通には、座をかえてものする時に、なほると言うている。これはあるいは、二度食事をすることから出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易えて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。これが直らいの式である。つまり、ゆったりと寛いだ式である。そして、その席上へ出る神もまた、直日の神と言われている。平安朝に入ってからは、直日の神というのは、宴会の神、または遊芸の神となっているのも、この考えから出たのである」

 「たなばたと盆祭りと」でも魂の問題が語られます。
 折口は、死者の魂祭りについて、以下のように述べます。

「魂を献上する式については、年末年始の際に、くり返す必要が、今から見えているから、その時まで、説明の省略を許して頂くが、今言うてよいことは、なぜその魂を、生者にも、死者にも奉ろうとするのであるか、という点である。死者の魂祭りに関しては、まつりの語の内容が、変化した近代において、前代から承けついだままの語形、たまヽつりを俗間語原説から、亡き魂を奉祀すると考えている。だが、語自身、疑いもなく、魂を献上する行事の意味である。まつりなる言葉は、長上に献ずる義から、神のための捧げものを中心にした祭儀というのが、古意なのである」

 「河童の話」では、以下のように河童の正体が明かされます。

「河童を通して見ると、わが国の水の神の概念は、古くから乱れていた。遠い海から来る善神であるのか、土地の精霊なのか、区劃がはなはだ朧げである。神と、それに反抗する精霊とは、明らかに分れている。にもかかわらず、神の所作を精霊の上に移し、精霊であったものを、いつの間にか、神として扱うている。河童なども、元、神であったのに、精霊として村々の民を苦しめるだけの者になった。精霊ながら神の要素を落しきらず、農民の媚び仕える者には、幸福を与える力を持っているといった、過渡期の姿をも残している地方もある」

 また、折口は「河童の皿」について以下のように述べます。

「河童の皿は、富みの貯蔵所であるという考えの上に、生命力の匿し場の信仰を加えているようである。水を盛るための皿ではなく、皿の信仰のあったところへ、水を司る力の源としての水を盛るようになってきたのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加ったもので、皿の方を古いものと見ている」

 「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」の「神送りと祓除との結合」では、折口は以下のように述べています。

「要するに、三月・五月の人形は、流して神送りする神の形代をしばらく祀ったのが、人形の考えと入り替ってきた、と見るのがよい。五節供は、皆季節の替り目に乗じて人を犯す悪気のあるのを避けるためのもので、元は支那の民間伝承であったと共に、同じ思想は、日本にもあった。この季節に、少女が神を迎える資格を得るためのものいみ生活をする風習のあったことは前に述べたが、重陽を後の雛と言い、七夕にも、これを祀る地方があること、また、今も北九州に行われる、八朔の姫御前などから考えれば、この季節に、やはり神を迎え、神送りをした風習のあったことは、いよいよ確かだと言える。神を迎えるのと、祓除をするのとは、形は違うけれども、悪気を避けるためということでは、一つであった。つまり、迎えた神を送るための、神の形代流しと、祓除の穢禍を背負うた形代流しとが、結びついて出来たのが、雛祭りである。そうして、一家の模型を意味したひヽなの家を作って、それに穢れを移して流したのが、古い形であったのだが、いつかこの雛に、金をかけるようになって、流さぬようになったのだと思う。まず、これだけの順序を考えておく」

 「古代人の思考の基礎」では、『儀式論』を書くわたしにとって、最も重要なことが以下のように述べられていました。

「日本の儀式は、同じ事を幾度も繰り返す。それは、ただ繰り返すのではなく、平易化して複演するのである。宮廷の元旦朝賀の儀式に、寿詞を奏上すると、寿詞なる口頭の散文に対して、もう一段くだけた歌なるものを、複演奏上する。歌は、寿詞から分化したもので、寿詞の詞の部分ではなく、独白の文章、自分の衷情を訴え、理会を求める部分の集って、分離してきたのが歌である。すなわち、寿詞奏上の後、直会の意味において歌会をする。今の神道では、それがだいぶんくだけて、正式の祭りの後に、神社で直会というものをする。それが、今はほとんど、宴会とくっついているが、昔は神まつり(正式儀式)・直会・肆宴と三通りの式が、三段に分れていた。この3通りの式を、しだいにくだいて行い、直会では歌、肆宴では舞いや身ぶりが、主になっている」

 古代における「死」の意識についても以下のように述べられています。

「古代には、死の明確な意識のない時代があった。平安朝になっても、生きているのか、死んでいるのか、はっきりわからなかった。万葉集にある殯ノ宮または、もがりのみやに、天皇・皇族を納められたことが知れる。殯宮奉安の期間を、一年と見たのは、支那の喪の制度と、合致して考えるようになってからのことで、以前は、長い間、生死がわからなかったのである。死なぬものならば生きかえり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考えて、もと天皇霊の著いていた聖躬と、新しく魂が著くための身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになっていられる間、と拝察する」

 「古代人の思考の基礎」では、古代詞章における伝承の変化についても、以下のように述べられています。

「祝詞のごときは、神代ないしは、飛鳥・藤原時代以来、伝っている古いものだ、と考えられているが、これは奈良朝の末から、平安朝の初め百年ごろまでに、出来たものである。延喜式祝詞は、全部新作とは言えないまでも、平安朝にはいるまでに、幾度か改作せられている。古い種をもっていながら、文章は、新しいのである。新古、入り混っているのに、何を標準として、解釈したらよいか。神代の用法も、飛鳥・藤原・近江、下っては、奈良・平安の用法も混っている。それも純粋に、時代時代の語を用いているのならばよいが、まじないのように、伝承しているうちに、意味がわからなくなる。すると、わからせるために、時代の解釈の加った改作をする。語についての考えが、変化してしまうのである」

 そもそも、「神道」という言葉そのものが神道とは無関係でした。
 著者は「神道」のルーツについて次のように述べます。

「神道という語自身、神道から出たものではなく、孝徳天皇紀の『仏法を重んじて、神道を軽んず・・・・・・』とあるところから出ている。もっとも、ここの神道の語は、今日の意味とは違って、在来の土地の神の信仰を斥している。仏教のいわゆる『法』は、絶対の哲理であり、『道』は異端の教えである。日本に仏教がはいって後、仏教をもって本体と考え、日本在来の神の道を異端、または、天部の道あるいは、仏教の一分派のように感じた」

 これは、わたしがいつも言うことですが、仏式葬儀というのは仏教オンリーの儀式ではありません。そこには、仏教とともに、儒教も神道も取り込まれているのです。折口は次のように述べます。

「たとえば、盆の精霊棚は、仏教のものではなく、神道固有のものに、仏教を多少取り入れたものである。また七夕も、奈良朝以前に、支那の陰陽道の乞巧奠の信仰、すなわち、星まつりの形式のはいったものだ、と思われているが、ほんとうは、日本固有のものである。それが、後にまで伝ったのは、陰陽道の星まつりの形式と、合体したためである。表面だけを見て、俗神道だ、仏教的だ、など言うていてはならない」

 最後に、「古代における言語伝承の推移」の中で「ことざわ」について言及された以下のくだりが興味深かったです。

「諺は、私の考えでは、神の言葉の中にあった命令だと思う。すなわち、神の言葉にも、しだいに、会話と地との部分が出来て、その中の端的な命令の言葉が、諺であったと思う。これに対して、神から命令をうける者―すぴりっとのようなもの―の応える言葉があって、その一番大事な部分が、歌であった。それゆえ、歌には、衷情を訴えるものがあるわけである」

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