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古代研究1 祭りの発生』

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No.1199


 このところ、折口信夫の著作を読み返しています。
 『儀式論』(仮題、弘文堂)を書くにあたって、折口の壮大な古代学を学び直す必要があると感じたからです。ということで、まずは『古代研究1 祭りの発生』(中公クラシックス)を再読しました。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「粉河寺の朝の少年折口」岡野弘彦
妣が国へ・常世へ 異郷意識の起状
古代生活の研究 常世の国
琉球の宗教
水の女
若水の話
最古日本の女性生活の根底
髯龍の話
幣束から旗さし物へ
まといの話
だいがくの研究
信太妻の話
愛護若
餓鬼阿弥蘇生譚
小栗外伝(餓鬼阿弥蘇生譚の二)
翁の発生
ほうとする話 祭りの発生 その一
「解題」岡野弘彦・長谷川政春・保坂達雄
「年譜」

 「粉河寺の朝の少年折口」では、歌人の岡野弘彦氏が「まれびと」を認めない柳田国男と折口信夫の厳しいやりとりに言及した後で、次のように述べています。


「やはりその頃のことであった。桜のさかりの日におとずれた折口と近郊の桜を見てまわったのち、日本民俗学研究所にもどった柳田は、大きな書斎で話を交しているうちに、急に重い口調で折口に問いかけた。
 『ねえ折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るようにいさぎよく死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどにいさぎよく死ぬことを美しいとする民族がほかにあるだろうか。もしあったとしても、そういう民族は早く滅びてしまって、もうこの世には残っていないのではあるまいか。海にかこまれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか』問いかけた柳田も、答えを求められた折口も、深沈とした様子で思い沈んでいた」

 また、岡野氏は柳田と折口の民俗学について次のように述べています。


「柳田が日本民俗学を興した真意も実は、日本人の神、日本人の魂の問題を究めようとするところにあった。そして折口が柳田の学問を知って、これこそわが行くべき道と思い定めたのも、その点にあった。その後、日本民俗学は多様多岐な分野を持って細分化したけれども、少くともこの両人に限っては、その細分化は究極の大きな目標に至りつくための必要な方途であるという見通しについて、微動だにもすることはなかった。そして柳田もその学問の情熱の根底に、自分の身にからんだ情念を持っていた。たとえば、日本一小さな家に幾組もの家族が同居していることによって生じる不幸だとか、若くして見た絵馬の図柄の、わが子を間引く母親の姿から受けた衝撃といったものである。その柳田よりもさらに強く、己が身の内に根ざし、うずき出る情念をその学問の底に引きずっているのが折口である。日本民俗学の二人の巨人といわれる両人が共通したこういう心の特質を持っているのは、決して偶然のことではない。日本民俗学はそういう確かな心の源泉に根ざし、また源泉の本質を問う学問である」

 さらに岡野氏は、折口にとっての戦争について以下のように述べます。


「柳田も戦争中から、後の『先祖の話』にまとまってゆく魂とそれがよって来るべき所や鎮まるべき所のあり方を考え、折口もそれに近い問題に心を集めはじめている。だが、この主題に関しては、戦争が終局を迎えるころから、折口に身近く肌に迫った動機、要因が生じる。学生の時代から18年間も家族として同居し、身の周りのことから学問上の整理まで一切をとりしきっていた藤井春洋の、硫黄島における戦死である。昭和19年7月、春洋が当人にすら知らされないで派遣されていった先が南海の孤島で、人間の生活し得る土地というよりは、海上の要塞のような非情の島であると知ると、折口は春洋を養嗣とした。間もなくその島が米軍の圧倒的に優勢な科学兵器による集中攻撃を受けて、今次大戦の中でもっとも苛烈で酷い玉砕戦に到るのである。少し個的な問題に入るけれども、折口は春洋の死後、自分の命の絶えるまでその写真の前に、毎朝茶碗になみなみと注いだ茶をそなえ、陰膳をそなえ、門にかかげた表札をおろすことはなかった。米軍の上陸した3月初めの日曜を忌日と定め、門下の者と一緒に神式のみ魂祭を行った。硫黄島からは20通に余る丹念な春洋の手紙がとどいていたから、抑制したその文面から、水が乏しく悪疫に苦しみながら、敵の攻撃を待ち受ける生活の厳しさは伝わっていた。敗戦の後から没するまでの折口の生活は、春洋が今も眼前に居るものの如くであった。そして昭和24年には、自分のためには墓など作らぬと思い定めていたのを改めて、春洋の郷里に父子墓を築き、墓碑銘に「もつとも苦しきたたかひに 最もくるしみ死にたる むかしの陸軍中尉折口春洋 ならびにその父 信夫の墓」という言葉を刻んだ」

 「古代生活の研究 常世の国」の冒頭では、折口信夫は次のように述べています。


「明治中葉の『開化』の生活が後ずさりをして、今のありさまに落ちついたのには、訣がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて精新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、いわばむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来り」によって、純粋にせられることが多い。その多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える」

 続いて折口は、クリスマスについて以下のように述べます。


「くりすますの木も、さんた・くろうすも、実はやはり、昔の耶蘇教徒が異教の人々の「生活の古典」のみやびやかさを見棄てる気になれないで、とり込んだものであったのである。家庭生活・郷党生活に『しきたり』を重んずる心は、近代では著しく美的に傾いている」

 ここで「しきたり」という語が出てきましたが、折口は次のように述べます。


「古代研究家の思いを凝さねばならぬのは、私どもの祖先からくり返してきた由来不明のしきたりが、時にはそうした倫理内容まで持ってきた訣についてである。言うまでもない。神に奉仕するものの頼りと、あやまちを罪とす観ずる心持ちである。これが信仰から出ているものと見ないで、何と言おう」

 また折口は、以下のように「国学」というものに言及します。


「素朴な意義は、神の意思の存在を古代生活の個々の様式に認めて言うのであった。しかし、畢竟は、それら古代生活を規定する統一原理ということに落ちつくようである。それを対象とする学問が、私どもの伝統を襲いできている『国学』である。だから、神道の帰するところは、日本本来の宗教および古代生活の軌範であり、国学は神道のための神学、言い換えれば、古代生活研究の一分科を受け持つものなのである」

 そして、折口は古代研究について以下のように述べるのでした。


「私どもはまず、古代文献から出発するであろう。そうしてその註釈としては、なるべく後代までながらえていた、あるいは今もわずかに遺っている『生活の古典』を利用してゆきたい。時としては、私どもと血族関係があり、あるいは長い隣人生活を続けてきたと見える民族のしきたり、または現実生活と比べて、意義を知ろうと思う。稀には『等しい境遇が、等しい生活および伝承を生む』という信ずべき仮説の下に、かけ離れた国々の人の生活・しきたりを孕んだ心持ちから、暗示を受けようと考えている。
 三月の雛祭り・端午の節供・七夕・盂蘭盆・八朔・・・・・・などを中心に、私どものやすらいを感じるしきたりが毎年くり返えされる。江戸の学者が、一も二もなく外来風習ときめたものの中にも、多くは、固有の種がまじっている。私は、いま門松のことを多く言うた縁から、元旦大晦日にわたるしきたりの最初の俤を考えて、古代研究の発足地をつくる」

 「琉球の宗教」では、折口は琉球の神道について次のように述べます。


「琉球の神道の根本の観念は、遥拝というところにある。至上人のいる楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移って、今も行われている。
御嶽拝所はその出発点において、やはり遥拝の思想から出ていることが考えられる。海岸あるいは、島の村々では、その村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。もっとも有名なのは、島尻における久高島、国頭における今帰仁のおとほしであるが、この類は、数えきれないほどある。私はこの形が、おとほしのもっとも古いものであろうと考える。
 琉球の御嶽は、その意味で、天に対する遥拝所であった。天に楽土を考えることが第二次であることは『楽土』の条りで述べよう。人をおとほしするのには、いま一つの別の原因が含まれているようである。古代における遊離神霊の附着を信じた習慣が一転して、ある人格を透して神霊を拝するという考えを生んだようである。近代において、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考えたからでもなく、巫女に附着した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を観じているもののようである」

 また、折口は琉球の「霊魂」について以下のように述べます。


「霊魂をひっくるめてまぶいと言う。まぶりの義である。すなわち、人間守護の霊魂が外在して、多くの肉体に附着しているものと見るのである。こうした考えから出た霊魂は多く、肉体と不離不即の関係にあって、自由に遊離脱却するものと考えられている。だから人の死んだ時にも、肉霊を放つまぶいわかしという巫術が行われる。また、驚いた時には、魂を遺失するものと考えて、それをまた、身体にとりこむ作法として、まぶいこめすら行われている」

 琉球人はとにかく先祖を盛んに崇拝することで知られていますが、それについて以下のように述べられています。


「祖先崇拝の盛んなこと、それをもって、国粋第一と誇っている内地の人々も、及ばぬほどである。旧八月から九月にかけて、一戸から一人ずつ、一門中一かたまりになって遠い先祖の墓や、一族に由緒ある土地・根所、そのほかの名所・故跡を巡拝して廻る神拝みということをする。首里・那覇辺から、国頭の端まで出かける家すらある。単にこれだけで、醇化せられた祖先崇拝と言うことはできない。常にその背後には、墓に対する恐怖と、死霊に対する諂び仕えの心持ちが見えている」

 琉球の宗教を語る上で、シャーマンである「のろ」の存在を無視することはできません。折口は以下のように述べています。


「祖先崇拝が琉球神道の古い大筋だとの観察点に立つ人々は、のろが政策上に生まれたものと見がちである。けれども、祖先崇拝の形の整う原因は、暗面から見れば、死霊恐怖であり、明るい側から見れば、巫女教に伴う自然の形で、巫女を孕ました神ならびに、巫女に神性を考えるところに始るのである。地方下級女官としてのろの保護は、政策から出たかも知れぬが、のろを根神より新しく、琉球の宗教思想に大勢力のある祖先崇拝も、琉球神道の根源とは見られないのである。
 内地の神道にも、産土神・氏神の区別は、単に語原上の合理的な説明しかできていないが、第二期以後の神道には、いわゆる産土神を祀る神人と、氏神に事える神人とが対立していたことが思われる。厳格に言えば、出雲国造のごときも、氏神を祀っていたのではない。のろはいわば、産土神の神主と言うてよいかも知れぬ」

 「若水の話」では、「おめでとう」という言葉について以下のように述べられます。


「『おめでとう』はお正月の専用語になったが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者すなわち子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に『おめでとう』を言いに行ったなごりである。『おめでたくおわしませ』の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。『おめでとう』をかけられた目上の人の魂は、それにかぶれてめでたくなるのだ。これが奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、『おめでとう』は生徒にかけられると、先生からでも言うようになってしもうた。これは間違いで、昔なら大変である。一気にその目下の者の下につく誓いをしたことになる。盆に『おめでとう』を言うている地方は、あるかなきかになった。でも生盆・生御霊という語は御存じであろう。聖霊迎えの盆前に、生御霊を鎮めに行くのであった。室町ごろからは『おめでたごと』と言うたようであるから、盆でも『おめでとう』を唱えたのである。正月の『おめでとう』は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行われてきたのだ」

 「若水の話」の中で、折口は大正天皇の賀正事や神賀詞・天神寿詞の話に言及し、以下のように述べています。


「ああした長い自分の家が、天子のために忠勤を抽ずるに到った昔の歴史を述べた寿詞を唱え、その文章通り、先祖のした通り自分も、皇祖のお受けになったままを、今上に奉仕することを誓うのである。そうしてその続きに、そのかみ、皇祖のために奏上した健康の祝辞を連ね唱えて、陛下の御身の中の生き御霊に聞かせるのであった。
この風がいつまでも残っていて、民間でも『おめでとう』は目下に言うたものではなかったのである。『おお』と言って、顎をしゃくっておれば済んだのだ」

 「最古日本の女性生活の根底」では、以下のように述べています。


「首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高島では、島の女のすべてが、一生涯の半は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止ということになって、若い男たちがほっとした結婚法がある。
 婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁げ出て、森や神山(御嶽と言う)や岩窟などに匿れて、夜は姿も見せない。昼は公然と村に来て、嫁入り先の家の水壺を満たすために、井の水を頭に載せて搬んだりする。男は友だちを談うて、花嫁のありかをつきとめるために、顔色も青くなるまで尋ね廻る。もし、三日や四日で見つかると、前々から申し合せてあったものと見て、二人の間がらは、島人全体から疑われることになる。もちろん爪弾きをするのだ。長く隠れおおせたほど、結構な結婚と見なされる。『内間まか』と言い、職名外間祝女と言われている人などは、今年77人であるが、嫁入りの当時に、70幾日隠れとおしたというが、これが頂上だそうである。夜、聟が嫁を捉えたとなると、髪束をひっつかんだり、随分手荒なことをして連れ戻る。女もできるだけの大声をあげて号泣する。それで村中の人が、どこそこの嫁とりも、とうとう落着したと知ることになるのである」

 ここで語られている久高島の奇習には驚くばかりです。

 さらに折口は、久高島の「いざいほふ」について述べます。


「またこの島では、13年に一度新神人の就任式のようなものがある。神人なる資格の有無を試験することが、同時に就任式の形になるのである『いざいほふ』という名称である。同時に、二人の夫を持っているようなことがないかを試験するので、七つ橋という低い橋の上を渡らせる。この貞操試験を経て、神人となるとともに、村の女としての完全な資格を持つわけである。何でもない草原の上の仮橋から落ちて、気絶したり、死んだりする不貞操な女もあるという。これは、巫女が処女のみでなく、人妻をも採用するようになった時代の形で、沖縄本島でも古くから巫女の二夫に見ゆるを認められなかった事実のあるのと、根柢は一つである。ところが、内地の昔にもまた、これがあった。東近江の筑摩神社の祭りには、氏人の女は持った夫の数だけの鍋をかずいて出たという。伊勢物語にも歌があるほどで、名高いことだが、実は一種の『いざいほふ』に過ぎなかったものと思われる。鍋一つかぶる女にして、神人たる資格があったものと思われる」

 「小栗外伝」では、「たましひ」について以下のように述べます。


「たましひの語原はわからないとする方が正直なのだが、魂魄の総名が、たまであるのだから、どこまでも一つものとは言われない。厳重な用語例はすくないが、比較に立てて言うと、たまは内在のもの、たましひはあくがれ出るもの、その外界を見聞することから智慧・才能の根元となるもの、と考えていたろうということだけは、仮説が持ち出せる。そうしてその、不随意あるいは長い逸出などの、本人のための凶事を意味する游離の場合に限って、光りを放つものと見たようだ」

 続けて折口は、古代人の「たましひ」について考察します。


「古代人は光りをかげと言い、光りの伴う姿としての陰影の上にも、その語を移してかげと言うた。すなわち、物の実体の形貌をかげと言うたのである。人の形貌をかげと言うのは、魂のかげなる仮貌の義である。だから、人間の死ぬる場合には、人間の実体なる魂が、かげなる肉身から根こそぎに脱出するから、そのまたかげなる光を発して去るもの、と見るより、魂の光り物を伴う場合のあったりなかったりする説明はできない。だから、たましひのひを火光を意味すると説くことは、第二義に墜ちていることが知れる」

 有名な「翁の発生」では、「祭りに臨む老体」として、まず折口は「常世神」について次のように述べています。


「私は日本の国には、国家以前から常世神という神の信仰のあったことを、他の場合にたびたび述べました。これは『常世人』といった方がよいかと思われる物なのです。斉明天皇紀に見えているのが、常世神の文字の初めでありますが、これは、原形忘却後の聯想を交えてきたようで、その前は思兼神も、少彦名命も、常世の神でした。しかし純化しない前の常世人は、神と人間との間の精霊の一種としたらしいのが、一等古いようであります」

 続いて、折口は「常世人」について次のように述べます。


「元来ひとという語の原義は、後世の神人に近いので、神聖の資格をもって現れるものの義である、と思います。顕宗紀の室寿詞は『我が常世たち』の文句で結んでいます。これは、正客なる年高人を讃頌した語なのです。常世の国人ということから、常世の国から来る寿命の長い人、ただのこの世の長生の人という義になってきたのです。
 日本人は、常世人は、海のあなたの他界から来る、と考えていました。初めは、初春に来るものと信じられていたのが、後はたびたび来るものと考えるようになりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行われたものでした。その中間に、いま一つあったのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります」

 また、折口は「田遊び」について以下のように述べています。


「田植え祭りに臨むさつきの神々なども迎えられ、季節季節の交叉期祭りには、邪気退散の呪法を授けるか、受けるか分らぬ鬼神も来るようになりました。そうしたまれにしかも、頻々とおとずれるまれびと神も、元は年の交叉点に限って姿を現したものでした。これらの常世人の、村の若者に成年戒を授ける役をうけ持っていた痕が、ありありと見えています。春祭りの一部分なる春田打ちの感染所作は、尉と姥が主役でした。これの5月に再び行われるようになったのが『田遊び』です。これにも後に、田主などという翁ができますが、主要部分は変っています。簑笠着た巨人およびその伴神なる群行神の所作や、その苛役を受けて鍛え調えられる早処女の労働、敵人・害虫獣などの誓約の神事劇舞などがそれです。これが田楽の基礎になった『田遊び』の本態で、その呪師伎芸複合以前の形です」

 「ほうとする話」では、折口は「祭り」について述べています。


「月次祭の、おしひろげて季候にわりあてられたものと見るべき、四季の祭りは、根本から言えば、臨時祭りであった。だが、かえって、こうした祭りが始まって後、神社特殊の定祭が起ったのであった。四季の祭りの中でも、町方でもっとも盛んな夏祭りは、実は一等遅れて起ったものであった。次に、新しいというのも、その久しい時間に対しては叶わないほど、古く岐れた祭りがある。秋祭りである。これも農村では、本祭りといった考えで執行せられる」

 さらに折口は、「祭り」について以下のように述べます。


「この秋祭りの分れ出た元は、冬の祭りであった。だが、冬祭りに二通りあって、秋祭りと関係深い冬祭りは、むしろ、やっぱり秋祭りと言ってよいものであった。真のふゆの語原である冬祭りは、年の窮った時に行われたものである。そうして、もっとも古い形になると、春祭りと背なか合せに接していた行事らしいのである。だから冬祭りは、春祭りの前提として行われた儀式が、独立したものと言うてよい。でも時には、秋祭りの意義の冬祭りと、春祭りの条件なる冬祭りとが、一続きの儀礼らしくも見える。そうすると、秋祭りの直後に冬祭りがあり、冬祭りにひき続いて春祭りがあって、それが、だんだん間隔を持つようになった。そのため、祭儀が交錯し、複雑になっていったもの、と言える」

 「神楽」についても、折口は以下のように述べています。


「神楽は、鎮魂祭のつき物で、古い形を考えると、大祓式の一部でもあった。それが、冬を本義とするところから、夏演奏する神楽という意を見せて、新しい発生なることを示したのである。祓えや禊ぎは、鎮魂の前提と見るべきであった。夏祓えは冬祓えから岐れて、遅れて発生したため、冬祓えの条件を具えなかった。ところが、冬祓えを形式視して、夏祓えを主とすることが時代を逐うて甚しくなった。冬の祓えに行われた神楽が、別の季の神事に分裂してゆく。それとともに、神楽の一方の起原になっている石清水八幡の仲秋の行事の楽舞を、夏祓えにとり越して、学んだ形があるのだ」

 また鎮花祭などの行事を紹介した後で、「夏祭り」について以下のように述べています。


「こうした邪霊悪神に媚び仕える行事も、やや古くからまつりと言われている。それは神霊に服従する義で、まつろふの用語例に近いものであった。夏の祭りは、要するに、禊ぎの作法から出たもので、祭礼と認められだしたのは、平安朝以前には遡らない、新しいものなのである。御輿のお渡りが行われたのは、夏祭りの中心であって、水辺の、禊ぎに適した地に臨まれるのである」

 続いて、折口は「秋祭り」についても以下のように述べます。


「秋の祭りは、誰もがすぐ考える通り、刈り上げの犒い祭りである。だが、実際の刈り上げ祭りは、正しくは、仲冬にはいってから行われるので、近代までもそうせられている。秋祭りをいま一つ挟めて言えば、先人たちも言うた通り、新嘗祭りであるが、これには、前提すべき条件が忘れられている。伊勢両宮の、神自身、神としてきこしめす新嘗に限った行事の延長なのである」

 そして、折口は秘儀ともいえる「大嘗祭」について以下のように述べます。


「大嘗祭りは、御世始めの新嘗祭りである。同時に、大嘗祭りの詔旨・即位式の詔旨が一つものであったことを示している。即位から次の初春までは、天子物忌みの期間であって、いわゆるまどこ・おふすまを被って、籠られるのである。春の前夜になって、新しい日の御子誕生して、禊ぎをして後、宮廷に入る。そうして、まれびととしてのあるじを、神なる自分が、神主なる自身から享けられる。これが、大祓えでもあり、鎮魂でもあり、大嘗・新嘗でもある。そうして、高天原の神のみこともちたる時と、神自身となられる時との二様があるので、伝承の呪詞と御座とが、それを分けるのである」

 そして、「大嘗祭」について説明した後で、折口は次のように述べるのでした。


「これが御代の始めであった。この呪詞は、毎年、初春ごとにくり返されたことは、令の規定を見ても知れるのである。この詔旨を宣り降されることは、年を始めに返し、人の齢も、殿の建て物もすべてを、去年のままに戻し、一転して最初の物にしてしまう。これまでのゆきがかりは、すべて無かった昔になる。即位式が、先帝崩御とともに行われるようになり、大・新嘗祭りは、仲冬の刈り上げ直後の行事と変り、日の御子甦生の産湯なる禊ぎは道教化して、意義を転じ、元旦の拝賀は詔旨よりも、賀を受ける方を主とせられるようになっていった。でも、暦は幾度改っても、大晦日までを冬と考え、元旦を初春とする言い方・思い方は続いていて『年のうちに、春は来にけり』などいう、たわいもないような興味が古今集の巻頭に据えられる文学動機となったのも、これによるのだ。また、世直しのため、正月が盆からふたたびはじまり、徳政が宣せられたりもした。後世の因明論理や儒者の常識を超越した社会現象は、皆、この即位または元旦の詔旨(のりとの本体)の宣り直す、という威力の信仰に基いているのだ」

 「大嘗祭」に続いて、折口は「新嘗祭」についても述べます。


「新嘗の意味の秋祭りのほかに、秋に多い信仰行事は、相撲であり、水神祭りであり、魂祭りである。秋の初めから、九月の末に祭りを行うような処までも、社々で、童相撲・若衆相撲などを催す。それは、宮廷の相撲節会が七月だから、それを民間で模倣したと言うこともできぬ。これを農村どうしの年占あるいは、作物競争と見る人もあろう。だがそれよりも、不思議に、水神に関係していることである」

 ここで、折口は「河童」に言及し、次のように述べています。


「河童が相撲を好んで、人を見れば挑みかけるとしている伝承も、基くところは古いのであって、九州方の角力行事なども、妖怪化した水の侏儒河童を対象にした川祭りが、大きな助勢をしたようである。そして、春祭りに行うたはずのが、五月の田遊びにも、七月の水神祭りにも、処々の勝手で、行い改められたのであろう。しかるに、おおよそ、海から来る神の、川を溯って、村々に臨む時期が、だんだん、きまってきた。『夏と秋とゆきあいの早稲のほのぼのと』目につくころである」

 折口は、「市」についても以下のように述べています。


「市はもと、冬に立ったもので、この日が山の神祭りであった。山の神女が市神であった。これが、いつからか、えびす神に替って来、そうして、山の神に仕える神女、すなわち山の神と見なされたり、山姥という妖怪風の者と考えられたりしたのである、だから、年の暮れ、山の神が刈り上げ祭りに臨む日が、古式の市日であった。この意味で、天満宮節分の鷽替え神事などは、大晦日の市と同じ形を存しているのだ。その山の神祭りも、市神祭りの夷講も、十月にとり越されている。しかも、冬祓えの変形らしい誓文払いは、夷講に附随している。正月の十日夷も14日あるいは除夜の転化した祭日で、富みを与えるほかに、祓えてくれるものであったので、これも、春待つ夜の行事であった。それが、市神・山の神の祭りとともに、繰り上げられて、十月の内に行われるようになった。山の神の祠の火焼は、やはり、十一月のお火焼き神事と一つものであった」

 そして「冬祭り」についても以下のように述べています。


「冬の祭りは、まず鎮魂であり、また、禊ぎから出たものである。春祭りのとりこしもあるが、冬の月次祭出のものもあり、新室ほかひに属するものもある。第一にきめてかからねばならぬのは『ふゆ』という語の古い意義である。『秋』が古くは、刈り上げ前後の、短い楽しい時間を言うたらしかったと同様に、ふゆもきわめて僅かな時間を言うていたらしいのである。先輩もふゆは『殖ゆ』だと言い、鎮魂すなわちみたまふりのふると同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆと言うのだとしている。すなわち、威霊の増殖と解しているのである。触るか、殖ゆか、栄ゆか。古い文献にも、すでに、知れなかったに違いない」

 折口は「鎮魂式」についても言及し、外来の威霊が新しい力で身につき直すと考え、それが展開して、いくつに分裂しても本の威力は減少しないという信仰ができたことを紹介した後で、以下のように述べています。


「鎮魂式に先だつ祓えの後に、旧霊魂の穢れをうつした衣を、祓えの人々に与えられた。この風から出て、この衣についたものを穢れと見ないで、分裂した魂と考えるようになった。だから、平安朝には、歳暮に衣配りの風が行われた。春衣を与えるというのは、後の理会で、魂を頒ち与えるつもりだったのである。すなわちみたまのふゆの信仰である。この場合のふゆは殖ゆなどの動詞ではなく、語根体言であって、『分裂物』などの意であるが、こうした言語の成立は、類例が少い。語頭に来る語根体言はあっても、語尾に来るものは珍らしい」

 また、折口は「家の祝言」について次のように述べています。


「家の祝言が、同時に、家あるじの生命・健康の祝福であり、同時にまた、家財増殖を願うことにも当る。時としては、新婚の夫婦の仲の遂げるよう、子の生み殖えるように、との希望を予祝する目的にも叶うのであった。このみたまのふゆの現れる鎮魂の期間が、ふゆまつりと考えられたのであろう。そして、ふゆだけが分離して、刈り上げの後から春までの間を言うようになり、刈り上げと鎮魂・大晦日との関係が、しだいに薄くなっていって、間隔ができたため、冬の観念の基礎が替っていった。そして暦の示す3か月の冬季を、あまり長過ぎるとも感じなくなったと見える」

 そして最後に、折口は「祭りの発生」について以下のように総括するのでした。


「第一義のまつりは、呪詞・詔旨を唱誦する儀式であったことになる。第二義は、神意を具象するために、呪詞の意を体して奉仕することである。さらに転じては、神意の現実化したことを覆奏する義にもなった。この意義のものが、古いまつりには多かった。前の方ことに第二は、まつりごとという側になってくる。それが偏っていって、神の食国のまつりごとの完全になったことを言う覆奏が盛んになった。これは神嘗祭りである」