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栗本慎一郎最終講義』

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No.1176

 

 『栗本慎一郎最終講義』栗本慎一郎著(武久出版ぶQ出版センター)を読みました。この読書館でも紹介した『ゆがめられた地球文明の歴史』『栗本慎一郎の全世界史』に続く著者最後の著作です。本書の内容は、前作2作の内容を踏襲しています。わずか128ページの薄い本ですが、内容は非常に重く、濃密です。大分から延岡に向かうJR九州「にちりん17号」の揺れる車内で読んだのですが、頭がクラクラしてきました。


 本書のサブタイトルは「歴史学は生命観である」です。 著者が1988年に上梓した『意味と生命』(青土社)の続編だそうです。 『意味と生命』は、20世紀を代表する知性である物理化学者マイケル・ポランニーが唱えた「暗黙知」から始まるスリリングな生命論です。当時20代だったわたしは一読して、「これはクリシンの代表作だ!」と思いました。この後、著者は『パンツを捨てるサル』で脳の議論やウィルス進化論を、『パンツを脱いだサル』で人類起源論を展開しました。「X」という人類の上位に位置する「包括的全体」というかシステムを意識せざるを得ないという、まるでコリン・ウィルソンやライアル・ワトソンを連想される精神世界的な論旨で結ばれています。本書でも、学者としてのリミッターを外した「精神世界のクリシン」が炸裂しています。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「まえがき」

第1章 生命の歴史人類学へ―社会は生命体である

第2章 明治大学法学部栗本慎一郎ゼミナール最終回 (2012年11月)レジメ―お利口にならない(なれない)学問

第3章 最後の余談と最後のお詫び

第4章 過去の「歴史」学はすべて退場せよ ―哲学と生命論なきものは去れ―

第5章 全歴史の教科書あとがき―醒めない夢に

第6章 講義しなかった歴史のキーの1つ ―謎のキメクと満州そしてユダヤ人の起源最終論

付保『シリウスの都 飛鳥』

 2012年11月24日、著者は明治大学を21年ぶりに訪れました。 旧栗本ゼミ生たちの求めで、退職時に行っていなかった「最終講義」を行ったのです。 そこでは「社会は比喩でなく生命そのものである」という著者独自のメッセージが語られました。第1章「生命の歴史人類学へ―社会は生命体である」から、著者の言葉を以下に抜粋します。

「私は詩人ではない。実体を考え、実体を考察する学者である。生命にはそれを(体を、と普通は言っても良い)構成する物的部分があり、時にそれを動かそうとする意識的無意識的な『意思』があるということになる。その意思はさまざまな要因の相互関係的な組み合わせから生まれていて、狭く言えば実体より関係と言うべきであるが、(ここを誤解してはいけない)最終的には関係という実態である。学者になった後、私があちこちで、特に拙著『意味と生命』で断言したように、関係から断絶した実体などはない。ここがスピノザ以降のヨーロッパ哲学との大きな決定的な違いだ。一種のレトリックとして、実体というのは関係であると言ったこともある」

「社会対個人という古臭い問題の枠組みから見ると、いったん社会や集団が生命力をあらわにして動き出した時、そこの中で意思を持って動いたつもりの個人はほとんど例外なく『壊れて』しまっている。戦争や革命でない平時での自分の位置が保てなくなっていくのである。あたかも、初期の宇宙飛行士が宇宙船の窓から青い地球を見た以降、例外なく精神のバランスを壊したという事実と似たものかもしれない」

『意味と生命』を書く土台にしたマイケル・ポランニーの生命論(それはすなわち意味論)から導かれて、層の理論というものを私は提唱した。あるいは、解説した。それによれば(よらなくても)実は、生命はいくつもの層からなっている。たとえばわれわれの身体と精神の関係は大きく見れば、まず下層に純粋に物理的化学的素材からなっている身体性の層がある。そこでは原子の結合がこうで、分子の素材はこうであるということが研究されてきている。その限りでは、かなり深く分かってきていると言える。 しかし分析や注目がそのレベルにとどまる限り、いかに細かく研究しても精神を持つ生命の(仕組みの)表面にも到達しない。それどころか、実は生体の内部反応におけるもっとも重要なものである化学反応に対応する酵素の役割さえも、私に言わせれば、今のところ基本がほとんど解明されていない」

「境界とは内部と外部を隔てるものであるが、理の当然として境界は連続して存在すると(たとえば一回りすると)『形』を作らざるを得ない。つまり『形となる』。そこで重要なのは、内部と外部の峻別があることであり、その内部には統御の原理があってそれは下層の原理の1つ上の『生命』と呼ぶべきシステムなのである。外部と峻別された内部は、当然のことながら、形を持つ。だから、形は生命の基礎条件である。(中略)ある層を土台にして新しい上位の層が生まれるのは『創発』(emergence)と呼ばれるものだが、これはある点において生命が生まれる状況そのもののことなのであった」

「生命システムを持つ個体が集合してそこにシステムも生まれ、形造られた個体の集合に対する外部も生まれるなら、そこにこれまでのわれわれには想像もできない生命的システムがあると考えられるのである。と言うよりそれは当然想定され、必然的なことではないのか。生命的システムが生まれることがあっても不思議はなく、むしろ当然のことですらないのか。創発によって形作られた新たな生命システムであるからである。その意味で、社会がそれ自体身体性を持つとか、一種の生命であるかのごとく動くとか言うだけでは、本来、全く理解が足りていないものなのである」

「社会や共同体もまた生命としての身体性を持ち、要するに生命なのである。とすれば社会の『歴史』というものは、生命体の少しずつの『変態』ということでもあるのではないか。そうした各システムや階層の連なりの中にわれわれは生きている。生きている存在とは、『存在している』ことであって、決して『存在』ではない。マイケル・ポランニーが主として使った英語で言えば、beingであって、existenceではない。上下に積み重なる複層の階層は上位が直近下位のシステムを利用して、その下位に制御を与えて新たな内部外部の分別と新たなシステムを作り出す動きを形成している。動きはbeingであり、existenceではない。ちなみに、知識も『知ること』であった。knowledgeではなくknowingなのだ」

 ここまでの文章をお読みになってもわかるように、著者の文章は悪文です。 著者が敬愛していたマイケル・ポランニーも悪文家として知られていましたが、言いたいことがどんどん枝葉末節に入っていって、読者は戸惑ってしまいます。しかし、ここで著者が言っていることは非常に重要なことであることは間違いありません。

 本書で異様に面白いのは、第3章「最後の余談と最後のお詫び」です。 ここで著者は、数々の仰天すべきエピソードを披露してくれます。 たとえば、講義の余談として、「イエスが日本に来て十来太郎という日本名を持ち、十和田湖近くの戸来に住んだこと」や「ネス湖のネッシーの正体は大ウナギである」などをよく話していたこと。 たとえば、カルビーが提供していたテレビ番組「仮面ライダー」の内容を勝手に改変して、テレビ史に残る大ヒットにしたこと。また、カルビーの「仮面ライダースナック」に関する全版権を2000万円で買う話があり、著者がそのときに買っていれば数百億円の儲けになったこと。 たとえば、都立大学の近くの人気ラーメン店「ラーメン二郎」が立ち退きに遭ったとき、お節介で著者が物件を探し、三田の慶應義塾大学の近くに移転させ、それによって70年代以降の慶大生に限りない恵みを与えたこと。 たとえば、人気絶頂だった頃の小泉今日子から「私、大学に行っていないんです」と言われたとき、本当は「良いんだよ、俺が全部教えてあげるからな」と言いたかったのに、気が動転して「良いんですよ、だって高校だって出てないんでしょ」と失言してしまい、超反省したこと・・・・・・etc.そんな仰天話が次から次に飛び出してくるのです。その他、バリ島の女魔術師から言い寄られた話をはじめ、異性関係でも素敵すぎるエピソードが満載です。著書のチャーミングな一面を知ることができます。

 第4章「過去の『歴史』学はすべて退場せよ―哲学と生命論なきものは去れ―」では、再びシリアスな内容に戻ります。 以下、第4章で注目すべき内容を抜粋します。 「社会はそれ自体が生命性や身体性を持つのでなければ決して理解できない事例をこれまで意識して各著作に込めてきた。たとえば『幻想としての経済』に入れておいた「病にかかった江戸時代」や『パンツをはいたサル』でも述べたヨーロッパ人口の不思議な動き、ドゴン族の不思議なシリウス観、 『パンツを脱いだサル』で述べたユダヤ人やビートルズ屋の不思議な動きなどなどである。 『シリウスの都 飛鳥』で記した大和三山の位置関係や、後ろの正面がシリウスの冬至の南中時に当たる聖方位もそうである」

「歴史を学ぶということは何何等が自国のものであることを知ろうとかいうことが目的であるわけではない。われわれ人間がどこにいるのか、なぜいるのかということを考えるためなのである。で、それがまた何になるのかと問われれば、生きていることが何になるのだという問いに答えられたらお答えしてもよい。 だからこの本で、東西をつなぐパルティアの意味とか、同じく一般には知られざるキメク汗国の存在とかを、私は発見して皆に伝えようなどとしていない。けれどもこうしたことどもは各社会及び、地球上の全人類が一つの生命体を作ってわれわれの個的生命とも対応していることに気づけば、容易に発見すべく捜索されるべきものなのだ。実際にあったものなのだから」

「探せば本来は11次元であるはずの宇宙の5番目、6番目の次元を探して特定するよりは簡単に見つかる。それを過去の死んでいる歴史学のレベルの中で『実証してくれ』とかいうバカなことはやめて欲しい。お前は血液の中に血小板があると聞いた理科の授業でその存在を証明しろと教師に言ったというのか」

「神はわれわれに生命を与えた。ならばそれがいかに短くとも、幸せなものにしてくれてどこに不都合があるのか。個体の生命も社会の生命もつましくとも幸せに生きるようにプログラムすることなど自由だったはずではないか。大きな宗教団体を作らせて、結果、暴力や戦争の種も作ることは間違っている。暴力や戦争の種を振りまいて、それを拾うかどうか人を試しているなどと言うこともある。それはおかしいではないか。人はそれを拾ってさらに振りまくようにDNAでセットされているから当然、拾って振りまく。 神は自然に1人ひとりの胸のうちに宿られることでいいはずだ。この世に良い宗教は必要であるが、それは『悪い宗教』が多すぎるために必要なのであって、最初から要らなければそれが最善なのである」
  
 著者は、本書を「俺ね、神を発見しちゃった」と著者に打ち明けたという作家の半村良、1969年3月30日に当時起きていたベトナム戦争とビアフラ戦争に抗議してパリで焼身自殺を遂げたフランシーヌ・ルコント、およびこの社会に生きることに絶望して自らの命を絶った幾多の友に捧げたいそうです。 フランシーヌ・ルコントは世界の反戦運動の女神的な存在となり、新谷のり子が歌った「フランシーヌの場合」もヒットしました。その歌詞の中には「本当のことを言ったらお利口になれない」とあります。しかし、著者は「それでいいではないか。お利口さんにならず(なれず)、お馬鹿さんで生きることはこの世で最高に高潔なことだと私は思っている」と述べるのでした。