No.1093 哲学・思想・科学 | 死生観 | 芸術・芸能・映画 『絵画で読む死の哲学』 佐渡谷重信著(講談社学術文庫)

2015.07.12

 11日の土曜日は、次回作『お墓の作法』(仮題、青春出版社)の執筆にかかりっきりでした。おそらく今夜は徹夜になりそうです。まったく、『永遠葬』『唯葬論』の両作品をようやく仕上げた余韻に浸る暇もありません。でも、「死」や「葬」について語ることは自分の使命だと思っています。

 『絵画で読む死の哲学』佐渡谷重信著(講談社学術文庫)を再読しました。『唯葬論』の中に「芸術論」という章を設けたので、その参考文献として読んだのです。著者は1932年東京生まれ。早稲田大学卒業後、西ミシガン大、イェール大に学ぶ。専攻はアメリカ文学、比較文学・文化論。西南学院大学教授を経て、現在は同大学の名誉教授です。著書に『鴎外と西欧芸術』『アメリカ精神と近代日本』『森の生活』『漱石と世紀末芸術』『アメリカ精神と日本文明』『民主主義の展望』『ギリシア神話と英雄伝説』があります。

 表紙カバーには、サンタ・マリア・アッスンタ聖堂内のディシプリー二礼拝堂外壁にある「死の勝利と死の舞踏」が使われています。また、カバー裏には以下のような内容紹介があります。

 「真の絵画芸術には哲学的思想が内包されている。真理を追求する画家たちは、一枚の絵の中に自己のすべてを表現しようとするからだ。本書では、『死の舞踏』『最後の審判』『ゲルニカ』『原爆の図』など古今東西の多くの名画を通して、そこに暗示された『死の思想』の探究を試みる。哲学における最大のテーマというべき『死』の意味とその本質を、画家たちの研ぎ澄まされた魂はどのように描いたのであろうか?」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

序章  絵画芸術と《四終》
第一章 《死》の哲学絵画
第二章 ミケランジェロと『最後の審判』
第三章 《地獄》絵画の世界
第四章 《天国》絵画の世界
終章  芸術における《知》の哲学
「あとがき」
「参考文献」

 序章「絵画芸術と《四終》」の冒頭を、著者は次のように書き出しています。

 「人間は美しく生き、正しく最期を迎えるために、現在という刹那を過ごしている。その刹那の幸福を軽蔑することは、すなわち永遠を否定することである。われわれが親しんでいる絵画―宗教画、歴史画、風景画などには人生の機敏にふれる表現がある。それは真の芸術家が、刹那の幸福を生と死の究竟に求めているからであり、その生と死の究竟を描く彼らの絵画芸術を、私は『哲学絵画』と呼んでいる」

 では、「哲学」と「哲学絵画」はどう違うのか。著者は述べます。

 「哲学の第一歩は事物を考察し、その意味を思惟することから始まる。それは経験の世界である。『哲学絵画』とは画家が事物をヴィジョンとして捉え、その意味を思惟すると同時に造型によって自己の思想を表現する視覚作業である。眼前にあるものをただ描くのではあなく、画家は霊知(グノーシス)によって、哲学的経験をヴィジュアルな世界に再現する。画家が描くのではない。芸術的霊光が画家に描かせているのだ。それ故に、偉大なる哲学絵画は《神》に似ている」

 霊知によって描かれる絵画の最も重大な主題は、人生における四つの終事、すなわち「四終」とされました。「四終」とは、死、最後の審判、天国、地獄をさすが、これについてはキリスト教に限らず、仏教でも、死生、極楽浄土、地獄に関する仏教説話集や、その説話にもとづく絵画・彫刻が多く残されています。著者は次のように述べます。

 「死後、人間は生前の所業によって、天国か地獄に振り分けられる運命にあるかどうかは、意見のわかれるところであるが、それは死後に魂の不死を信じるかどうか、にかかわっている。死と不死の問題は、この世に人類が誕生して以来、永遠の哲学的アポリアとして脳裡から消え去ることはない」

 わたしには『「天国」と「地獄」がよくわかる本』(PHP文庫)という監修書がありますが、著者は「天国と地獄」ほど文学や音楽のモチーフとなったものは他にないとして、以下のように述べます。

 「天国や地獄が生者の幻想であるといわれるのは死後の世界が科学的に証明されないからである。それ故に、宗教書や文学書、あるいは絵画で追跡されてきたのである。そうしたさまざまな書物や絵画をかつて目にしたり、耳にした者が臨死体験者として《光》《お花畑》《トンネル》《死んだ両親との再会》などのイメージに遭遇したことを報告しているが、その大多数は天国へ昇りたいという幻想(幻覚)と思われる」

 しかし、続いて著者は次のようにも書いています。

 「それでも、幻想のみではないと主張する者も少なくない。天国は視床が捉える人間の潜在的願望であり、地獄堕ちはそこを避けたいという潜在意識が働くことで、魂が大空に浮遊するように感じるだけである。魂の浮遊を体外離脱と称しているが、それこそは天国願望の典型であろう。シャガールの恋人たちや夫婦の大空の浮遊は、シャガールの故郷ヴィテブスク(ロシア西方の町)へ帰還したいという魂の叫びであり、ヴィテブスクこそシャガールにとっての天国である。同様に、ボスの『地上の悦楽の園』も中世人の夢、つまりは地獄からの逃避を願う同時代人の憧憬の世界である」

 また、著者はボッティチェルリの名を挙げ、次のように述べます。

 「死を通過した霊魂は再び生への憧れを拭い去ることができず、ここに輪廻転生の思想が発生する。『ヴィーナスの誕生』は天国幻想に執着する人間の夢を描いた作品であり、そこには神話的世界が人間存在の本質を成し、神と人間を結びつける原初の思想が表現されているからこそ、観者を魅きつけるのである」

 ヴィーナスとは宇宙的生命です。それが人間創造の中心的役割をもって原初の楽園を訪れてきたのです。それは、天国幻想に酔い痴れていた人間にとっての究極的願望、つまり遍在する《精霊》(ガイスト)のイデアを代表するものであり、人間精神の純粋な鏡であるとして、著者は述べます。

 「このような純粋に展開される生命の絶対的イデアを押し進めると、生命の基礎的構成物は細胞核の《数》として存在するから、血液の循環、脳細胞の再生と発達、星座の運行と大気、銀河系と太陽系の天文学的諸関係が生命進化に深く影響を与え、宇宙生成にともなう《精霊》へと発展する。この《精霊》に肉体を与えられたものがヴィーナスであり、ここに終末論的《四終》は完結し、天地に《魂》(プシュケー)の新時代が到来するのである」

 芸術と宗教は深く結びついています。偉大な芸術作品は宗教に最高の光を与えてくれるので、世界中の教会の礼拝堂をはじめ、神社、仏閣には絵画や彫刻を収めるのです。そして、宗教のみならず、哲学も芸術と深く結びついています。絵画芸術は神話画、歴史画、宗教画、戦争画、風景画、静物画、人物画のすべてにおいて、哲学的思想を内包させているのです。そもそも、哲学・芸術・宗教とは、いずれも肉体を超えて精神を純化させる営みです。それらは人間が言語を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象的を持つようになったことと引き換えに得たものです。 

 人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していました。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのです。実存主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と言います。しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得ませんでした。この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類することができます。

 「分離の不安」が言語を宿すことによって生じたのであれば、その言語を操る理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営み、それが芸術であると言えるでしょう。また、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言語で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求め、悟りを開こうとしたのが哲学でした。そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して絶対者、神、仏、ブラフマンといったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える存在に帰依し、悟ろうとしたり、心の安らぎを得ようとする営みでした。

 このように、哲学・芸術・宗教は同根であり、人間が言語を操って抽象的イメージを形成し、文明を築いていく代償として「分離の不安」を宿したことへのリアクションだと言えます。インターネットに象徴されるさまざまなテクノロジーや、グローバルな資本主義によって、人類はますます文明化していきます。その結果として、21世紀は「心の社会」を創造する哲学・芸術・宗教のルネッサンスの世紀となる可能性を秘めていると思います。

 以上のようなことを、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「哲学・芸術・宗教の時代」に書きました。興味のある方は、ぜひお読みください。

 なお、本書を参考にした『唯葬論』(三五館)がアマゾンにUPされました。

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