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火花』

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No.1088

 

 『火花』又吉直樹著(文藝春秋)を読みました。

 著者は、1980年大阪府生まれ。吉本興業所属のお笑い芸人で、お笑いコンビ「ピース」として活動中。「キングオブコント2010」準優勝。TV番組「ピカルの定理」出演中。舞台の脚本も手がけ、雑誌での連載も多いとか。


 小説処女作の本書は文芸誌である「文學界」2015年2月号に掲載されましたが、同誌を史上初の大増刷に導いた話題作となりました。三島由紀夫賞や芥川龍之介賞の候補になっており、いま最もホットな文学作品です。

 

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   本書の帯


 

 表紙にはクリーム色の地に赤い炎のようなものが描かれています。西川美穂「イマスカ」(2011)という絵だそうです。帯には「40万人の魂を揺さぶった!」と赤字で大書され、続いて「天才肌の先輩芸人と出会ったとき、すべては始まった。」「これは太宰を継承しながらもより現代的な『お笑い』という主題を内部から照射した本格的な文学である―筒井康隆」「芸人が書く小説の終止符、次に書けるのは又吉だけ―千原ジュニア」

 

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   本書の帯の裏


 

 また、帯の裏には以下のような内容紹介があります。


 「お笑い芸人二人。奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷、彼を師と慕う後輩徳永。笑いの真髄について議論しながら、それぞれの道を歩んでいる。神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。彼らの人生はどう変転していくのか。人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!」


 「漫才は・・・・・・本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」


  単行本で148ページの作品ですが、文体にリズムがあって一気に1時間ちょっとで読めました。筒井康隆氏が言うように、たしかに太宰治の世界に通じるかもしれません。もっとも、わたしは太宰があまり好きではありません。あと、お笑いもあまり関心がありません。現在の漫才などを見ても、別に面白いとは感じません。でも、この小説は面白かったです。


 著者は「ピース」というコンビの片割れだそうですが、わたしは基本的にテレビを観ない人間なので、よく知りません。もう1人の片割れの綾部という人が熟女好きで、相撲の若貴の母親と浮名を流したとか流さないといった話はコンビニ・マンガか何かで知りました。


 じつは某テレビ局の番組で、いろんな仕事を紹介する就職のための番組があって、わが社の紫雲閣に少し前に取材依頼がありました。そのときにサンレーを訪れるタレントが、「ピース」の2人組と「Rev.from DVL」の橋本環奈ちゃんでした。


 わたしは正直「ピースはどうでもいいけど、天使過ぎるアイドルの環奈ちゃんには会いたいなあ」と思いましたが、結局オファーをお断りしました。セレモニーホールというデリケートな職場にお笑い芸人を招いて、笑いを取られるのが嫌だったからです。でも、又吉氏ならいたずらに「死」を茶化さずに真摯に扱ってくれ、印象深いコメントを残してくれたかもしれないと、今では思います。ちょっと残念でした。


 本書の主人公は、漫才コンビ「スパークス」の徳永です。彼は熱海の花火大会で「あほんだら」というコンビの神谷と出会い、居酒屋で飲みます。そのとき、徳永は20歳、神谷は24歳でした。人生で初めて人に酒を注ぎながら、徳永は神永から「お前のコンビ名、英語で格好ええな。お前は父親になんて呼ばれてたん?」と訊かれます。徳永は「おとうさん」と答えます。ボケたのです。その後、2人の会話は次のようにエスカレートしていきます。

 

 

 「もう一度聞くけど、お父さんになんて呼ばれてたん?」
 「オール・ユー・ニード・イズ・ラブです」
 「お前は親父さんをなんて呼んでんの?」
 「限界集落」
 「お母さん、お前のことなんて呼ぶねん?」
 「誰に似たんや」
 「お前はお母さんを、なんて呼ぶねん?」
 「誰に似たんやろな」
 「会話になってもうとるやんけ」
 ようやく、神谷さんが微笑んで、椅子の背もたれに背中をつけた。
 「二人がかりで結構時間かかったな。笑いって、こんなに難しかったっけ?」
 「僕も吐きそうになりました」

 「お互いまだまだやな。取りあえず呑もう」
 僕は酒を注ぐタイミングもわからずに、いつの間にか神谷さんは手酌で呑んでいた。

 (『火花』p.10~11)


 

 この初対面で、徳永は神谷の弟子になります。その後、二人は顔を合わすたびに、また電話でも、いつもこのときの会話のように「常在戦場」で漫才を始めるのでした。でも、神永が口にした「笑いって、こんなに難しかったっけ?」という言葉をわたしも感じました。劇場でも、お笑い芸人たちは観客とシビアな戦いを繰り広げます。客が笑ったら、芸人の勝ち。笑わなかったら、芸人の負け・・・・・・。まるで格闘技のような殺伐とした笑いには、どうも違和感を感じます。

 

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   小ノ上マン太朗さんと


 

 笑いとは、本来もっと自由で大らかなものではないでしょうか。わたしは「笑い塾塾長」こと小ノ上マン太朗さんを思い浮かべました。日本初の「笑い」のNPO法人である"博多笑い塾"の塾長であるマン太朗さんは、Y興行のように劇場で笑いを売る芸人ではなく、老人ホームなどを慰問する芸人を育てたいと言われていました。たしかに、「M-1」に代表されるような劇場での「お笑い」は芸人と観客との戦いです。そこに「癒し」はありません。もともと、「笑い」とは「幸せ」に通じているはずです。


 当然ながら「戦い」としてのお笑いの世界は厳しいです。なかなか劇場の観客は笑ってくれませんし、なかなかテレビにも出れません。お笑い芸人たちの生活も苦しく、次々にコンビを解散していきます。徳永の「スパークス」も解散することになります。そのとき、師である神永は以下のように言います。


 

 「俺な、芸人には引退なんてないと思うねん。徳永は、面白いことを十年間考え続けたわけやん。ほんで、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ」
  神永さんの表情は柔らかかったが語調は真剣だった。
 「たまに、誰も笑わん日もありましたけどね」
 「たまにな。でも、ずっと笑わせてきたわけや。それは、とてつもない特殊能力を身につけたということやで。ボクサーのパンチと一緒やな。無名でもあいつら簡単に人を殺せるやろ。芸人も一緒や。ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん。だから、事務所やめて、他の仕事で飯食うようになっても、笑いで、ど突きまくったれ。お前みたいなパンチ持ってる奴どっこにもいてへんねんから」( 『火花』P.133)

 


 この神永の言葉は読者の胸を打ちますが、やはり「お笑い」の本質が格闘技であると考えていることを明らかにしていますね。わたしは、「お笑い」はもっとハッピーなものであると思います。でも、神永の言葉はなかなか含蓄のあるものが多く、わたしも何度か唸りました。特に、ネットで悪口を書き込まれると気にして落ち込んでしまう徳永に対して、ネットによる匿名の誹謗中傷行為の本質を暴く神永の言葉は至言です。ここにはあえて引用しません。P.96~97にその持論は堂々と展開されていますので、ぜひ実際に本書を手にして読んでみて下さい。わたしは大いに感心しました。


 最後に、著者が「お笑い」という自分のホームグランドではない新しいジャンルを書いた小説を読んでみたいと思いました。