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迷宮に死者は住む
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迷宮に死者は住む』

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 No.1076

 

 『迷宮に死者は住む』ハンス・ゲオルク・ヴンダーリヒ著、関楠生訳(新潮社)を読みました。

 「クレタの秘密と西欧の目覚め」というサブタイトルがついています。クレタ遺跡を発掘した考古学者アーサー・エヴァンスは、クノッソス宮殿を明るい開放的な宮殿と見ました。しかし、地質学者のヴンダーリヒは「クノッソス宮殿は、死者を葬った神殿であった」という衝撃的な仮説を提唱したのです。ヴンダーリヒは地質学者らしく、「宮殿に石膏が使われているのに、摩り減った跡がない。排水溝もない。人間が生活していた痕跡が見当たらない。ということは、死者のための神殿だったのではないか」と実証的に考えました。

 

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   本書の帯の表


 

 本書の函の表紙には、クノッソス宮殿に描かれたイルカや魚が海中を泳ぐフレスコ画が使われ、帯には「クレタの迷宮は"死者の宮殿"であった! アーサー・エヴァンズ説に大胆に挑戦した西洋版『隠された十字架』」「伝説のクレタの迷宮と輝かしきミノア文明に関する学界の大勢に挑み到達した驚くべき結論―。付『クノッソスをめぐる論議 1971』」とあります。

 

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   本書の帯の裏


 

 また帯の裏には、以下のように書かれています。


 「女王の浴室―――――――→実は『装飾石棺』
 陶製の食糧品貯蔵函――――→実は『死骸保存函』
 食糧貯蔵室の桶状の窪み――→実は死体ミイラ化に使用
 ・・・・・・等々、伝説の王ミノスの居城として、また迷宮として世界的に有名な、クレタ島ヘラクリオン市郊外のクノッソス宮殿遺跡の、各部分について従来の解釈に異説を唱え、世界的な大反響を呼んだ注目の書!」

 

 これも執筆の『唯葬論』の参考文献として読んだのですが、本書の刊行は1975年であり、残念ながら現在は絶版です。今から40年も前の本をなぜ読んだかと言うと、ブログ『本の「使い方」』で紹介した出口治明氏の著書で本書の存在を知り、非常に興味を抱いたからです。ライフネット生命の創業経営者であり、無類の読書家としても知られる出口氏は、特に世界史に対する造詣が深いことで知られています。その出口氏は社会に出てからすぐ読んだ『迷宮に死者は住む』に非常に感動したそうです。ヴンダーリヒに感化された出口氏は、「歴史は、通説とはまったく異なる見方ができるのだな」と驚くとともに、「歴史は、後世の実証に耐える必要がある」ことに気づきました。出口氏は常々「国語ではなくて算数で考えないと、正しい判断ができない」と口にされていますが、そう思うようになったのも本書との出合いが大きかったとか。


 本書の目次構成は、以下のようになっています。


「序言」
「神話と反神話」


第一章 アラバスタ―
    1 最初の男
    2 飛行機で過去へ飛ぶ
    3 迷宮の中心で
    4 王妃の居間へおりる
    5 双斧のしるしのもとに
    6 ミノア支配権の興亡
    7 「コンクリート・クレタ」と、それに疑問を持つ人たち
    8 浴槽の水を流す女と九本足のテーブル
    9 つまずきの石


第二章 生ける死者
   10 ファイストスからマリアまで
   11 地が震えるとき
   12 ミノア宮殿の秘密
   13 クレタとエジプト
   14 香油と蜂蜜―古代の報告によるミイラ製造
   15 ミュケーナイ時代と前ミュケーナイ時代の埋葬
   16 古典時代の葬礼


第三章 ミノタウロスの影に
   17 死者の家からの報告
   18 生の喜びのシンボル? 喪のしるし
   19 牡牛のしるしのもとに
   20 ゼウス・メイリキオス、死者の蜂蜜ゼウス
   21 冥界訪問
   22 線文字Bの解読――意味? あるいは無意味?
   23 パロスの世界年代記から放射性炭素法へ
   24 恐怖なき終末
   25 ヨーロッパ文化の起源について


付録
「クノッソスをめぐる論議 1971」
「クレタのアステリオス王家系図」
「後記と謝意表明」
「訳者あとがき」

 

 本書の白眉はなんといっても、25「ヨーロッパ文化の起源について」です。
 ここには本書の内容の最重要ポイントが凝縮されていますが、その冒頭で著者は以下のように書いています。


 「ヨーロッパの高い文化がどのように発展してきたかについて、あなたは考えてみたことがおありだろうか? ヨーロッパ文化は、2千年以上も昔から活動を続けて思いもよらない成果をあげた精神生活の潮流であり、もう500年前から、この小さくはあるが驚くほどダイナミックな大陸の最も重要な輸出品となっている。周知のようにわれわれは、キリスト教的中世を媒介として、ローマの、さらにさかのぼって、とりわけギリシアの、遺産相続者である。だが、古代ギリシア人が高い精神的能力を発展し、発揮することができたのは、一体何によるのか? 彼らもまたこの文化を受け継いだのか? それとも、自分のうちから、つまり石器時代の水準にある単純な前段階から、新たに創造したのか?」


 シュペングラーが『西欧の没落』で指摘したように、栄華をきわめたヨーロッパ文化は衰退し、トインビーが『歴史の研究』に書き記したように国家および文化は興亡を繰り返してきました。著者は以下のように述べています。


 「文化が彗星のように興っては亡びるという考えは一般の好むところであり、それはまた、両次の世界大戦のような規模の災害を直接に体験することによって裏付けを得ているように見えるが、その考えの正しさは、この場合、オスヴァルト・シュペングラーにさかのぼるそもそもの立論によっても、またアーノルド・トインビーの穏健な説によっても、確証され得ない。ミノアとミュケーナイの遺産に源をさかのぼるヨーロッパ文化はすでに3500年以上にわたって存在を主張し続け、今では、異論の余地なく世界文化にまで拡大しつつある。こうなっては、ヨーロッパ文化の没落は人類の終局に等しいであろう」


 本書の著者ヴンダーリヒは、古代クレタで発掘された遺跡が本質的に墓建築であると主張しましたが、彼はいくつかのテーゼを並べます。


 まず第1のテーゼは、「古代ギリシアに花咲いた文化は、できあがったものとして、他の文化伝達者の手でギリシア人に無料配達されたのでも、すぐれた能力に基いて突如として出現した、つまり、いわば英雄の頭から飛び出したのでもなくて、ギリシア人はその最高の文化的業績を、世代の長い連続のうちに一段階ずつかち取っていかなければならなかった」というもの。


 次に第2のテーゼは、この形成過程はまず第1に、文書を通じてではなく、話され聞かれた言葉を通じて行われた。全国民が、話されたことを、要領よく話し、述べることによって、精神的な能力を高めることを学んだ」です。

 ここからが重要で、第3のテーゼは次のようなものです。


 「初期におけるギリシアの言語発展の出発点は、英雄祭祀であった。それのもとは死者の祭祀であり、これがたくさんの英雄物語の中に、死んだ民族的偉人の記憶を生き生きととどめていた。死んだ英雄を顕彰するために規則的に継続して行われた祝祭は、単に肉体的な力をためし、高める機会ばかりではなく、英雄の生涯を演じて英雄と同一化し、英雄を手本にする機会をも提供した。合唱隊、いや、全民衆が参加して劇場で作られた英雄叙事詩は、ヨーロッパ文化の根元の1つである。『古典古代のきわめて美しい伝説』を、子どもの読みものとばかり見るのは不当である」


 また、第4のテーゼは、以下のようなものです。


 「ギリシアの劇場は、その画期的な成功にもかかわらず、結局は窮状打開―まさしくギリシア的・天才的な打開のしかたではあるが―に帰着する。エジプトあるいは両河地方では、巨大な死者の宮殿が死んだ偉人の生涯と葬礼を、建築、彫刻、レリーフ、文書によって、いわば石と化した形で保存したのに対して、ギリシアでは、生き生きとした伝説が英雄たちの生と死を、口から口へと伝えた。比較的貧しくて狭小な上に、無数の島や谷に分れている国土では、何百人という英雄や王の1人々々のために、エジプトと同じような死者の記念碑を建設して、その権力と偉大さを証言することなど、とうていできない相談であった。それで、その代りとして、すべての英雄を祀るための、額縁取替方式による一種の祭祀用建物が案出され、その舞台の上で、祀ろうと思う死者は誰でも、俳優を通じて生き返らせることができた。これがギリシアの劇場である!」


 そして、第5のテーゼは「古代ギリシア人だけが、精神的に不毛なるがゆえに非生産的で金のかかる、古い死者の祭祀を、きわめて生き生きとしたもの、精神を刺激するとともに未来を指向するものに機能変えすることを心得ていたことになる」というものです。これこそ、まさに「唯葬論」と呼ぶべき考え方ではないでしょうか。すべては、死者の祭祀のために文化というものが築かれてきたのです。


 著者は、古代人にとって死者の存在がどれほど巨大なものであったかと訴え、以下のように述べました。


「われわれは今日、彼岸への恐れから解放された(今日でもその恐れを完全に克服した人はごく少数にすぎない)と感じ始めているが、紀元前数千年紀の人間は、われわれにはなかなか想像しにくいほどに、死者の幸福を願う気持ちに心を動かされていたのである。そしてこれは、金に糸目をつけず、彼岸における死者の生活のために調度をととのえたエジプトについてだけ言えることではない。エジプトはただ例として分りやすいだけなのだ。つまりここでは、大昔に国の統一が成しとげられて、個々人を祀るための技術的、財政的な手段が思いもかけないほど豊富に用意されていたからだし、また、エジプト考古学が他に比して早くから進んでいた(半世紀の差をつけている)からでもあれば、多くのエジプトの建造物や祭祀用具が文書ともども、そっくりわれわれの手に残されたから、そして、エジプトの国の静的な秩序のおかげで、いわば化石となった石器時代=青銅器時代の思考の型が、紀元前後、ヘレニズム=ローマ精神に取って代られるまで機能を保ったから、である」


 著者によれば、古代クレタ人がギリシャ人の一族として、エジプトに比すべき石器時代=青銅時代の死者の祭祀を行い、それを克服したということを認識してこそ、その後の未来を指向する精神的発展が説明できるとして、以下のように述べます。


 「ミノアの建物は墓建築だとする私の解釈を単なる誹謗と見る人も、落ち着いて考え、あらゆる論拠を公正に検討してみれば、この新しい見解が全体として、失われてもはや取り戻すすべもない楽園という漠然たる観念よりも、ギリシアの発展にとっては生産的なるがゆえにポジティヴであるということを結局は認識するであろう。今から3500年前にミノア文化が災害によって亡びたという虚構に代って、われわれは精神的発展を目ざしてその当時クレタで育ちつつあった考えかたが、本質的にはまだ石器時代を脱しない信仰によって課される硬直した規範を脱して、死者の祭祀の克服へ、純粋な精神的生活の領域へ向う道を切り開いたことを見てきた」


 古代ギリシャに先立って、古代エジプトの文明と文化がありました。古代エジプトでは、ピラミッドに代表される大いなる「死」の文明と文化が花開きました。著者は述べます。


 「古い伝統に従えば、死と埋葬の間の服喪期間内に死者の記念碑を建てるのが、親族、友人、臣下の義務であった。そのため、協力する死者の友人や従属者の数が多ければ多いほど、墳墓の規模は大きくなる。従って、墓はいわば地位の象徴で、それによってある程度まで(たしかに、行き過ぎの場合もしばしばあった)死者の身分を読みとることができる」


 また、エジプトの象徴であるピラミッドについて、著者は述べます。


 「ピラミッドは、個々人の増上慢と権力濫用によって、強制のもとにできたのだと、繰り返し主張されてきた。しかし、これでは十分な説明とは言えない。死者の神、植物界の神であるオシリスの、地上における具現でもある死せるファラオが、全国民の創造力に見合う死者の記念碑を建ててもらうことは、むしろ理の当然だったのである。死せる王がその地位にふさわしくない葬りかたをされれば、その当時の確固たる信念によると、一般民衆に対して想像もできないほどの危険な事態がもちあがることになった。中でもナイルの氾濫が重大で、これが起らないと植物は死滅してしまう。植物界はオシリスと、地上におけるその代理者ファラオの直接の支配下にあったのである。大衆を導く必要はあったけれども、彼らを強制する必要はなかった。信仰による内的な強制だけで効力は十分であった。


 その後、「死」の文化は、エジプトからギリシャへと移行します。著者は、以下のように述べています。


 「エジプトとエーゲ海域との発展の平行性は、中帝国の時代に最もはっきりと表面に出てくる。ピラミッドとともに、迷宮、すなわち祭祀のための死者の宮殿が建てられたのだ。ファイユムの開拓者、アメンエムヘト3世の建てたものもその1つで、これはクレタ人によって、レムノス島で、のちにはエトルリアで、祭祀のための建築形式として受け継がれた」


 エジプト第18王朝の時代、古代クレタの新宮殿が建てられました。それ以後、どのファラオにも、王家の谷の隠された岩墓のほかに、祭祀のための死者の神殿が造られたとして、著者は述べます。


 「これらの建物―中には実に巨大なものもある―の装飾は、王を個人的に称えるためのものである。死せる王の生涯と業績が言葉と絵で描かれ、葬礼もまた当然忘れられてはいない。中世の教会が救世主あるいは聖者たちの生涯と活動を文字と絵で再現したのと同じように、今日なおわれわれは、ファラオたちの物語(ときには『持ちあげ』られすぎているが)を石の中から読み取ることができる。石となった、こういう祭祀のための記念碑によって、たしかに儀式的な義務も果された。そして一般人の崇拝は次のファラオ、同じオシリス神の化身であるファラオに向けられるのである」


 古代ギリシャは、古代エジプトのように、大きな死者の神殿をつくるという道を歩みませんでした。その代わり、古代ギリシャでは別の形で「死」の文化を花開かせました。著者は述べます。


 「エジプト王のために建てられた死者の神殿に比すべき建物を造るのに必要な財力、遺族、従者を有する死者は、古代ギリシアには1人もいなかったであろう。それにもかかわらず、死者は忘れられなかった。一定の時間的間隔をおいて繰り返される記念祭によって、重要な死者の生涯は一般世間の記憶の中に常に生き生きと保たれていた」


 別の形とは何か。それは、たとえば演劇であり、競技でした。古代ギリシャにおいて、演劇とオリンピックが誕生したことはよく知られていますが、著者は次のように書いています。


 「たとえば4年の間隔をおいて(つまり『大半』の半分の期間である)当該集落の共同体は、死んだ英雄を崇拝する他国の人々とともに集まって、死者の祭祀を繰り返したり、英雄の生と死を上演したり、競技を行なったりした。競技は昔から、死んだ人たちに敬意を表するために行われていたが、これは元来きわめて厳粛な行事であって、生死を賭けることもなかったわけではない。死者には彼岸への旅の道連れを要求する権利があり、戦いに負けた者が、その道連れとなることもまれではなかったのである」


 著者は「個人を祀る大きな死者の神殿ならば、故人の事跡と祭祀を絵に描く空間が十分にあるわけだが、そういうもののないギリシアでは、死者の生涯を舞台で、あるいは走路で再現するためにとりわけ劇場と闘技場を必要とした」と述べています。
 クレタのクノッソス宮殿には、有名なフレスコ画が残されており、そこには生きた俳優たちが亡き英雄たちの生涯を演じる舞台の様子が描かれています。これについて、著者は述べます。


 「これらすべてのことを単に明るい遊戯と考えるのは、古代の信仰に対する正当な評価ではない。喜劇ははるかのちの時代の産物であって、これらの遊戯や競技が始まったころには、死を呼ぶ厳粛さが常につきまとっていたのである。今日のスペイン旅行者が、何千年も続いたこの伝統に対して理解を欠き、動物愛護という完全に新しい理想にとらわれて、善意の評判を加えるのは勝手だが、その際、古い歴史を持つ闘牛が(のちにおこる騎馬試合と同様)かつてはヨーロッパ文化発展史の中でかなり重要な役割を果したことをよく考えてみるべきであろう」


 著者によれば、クレタのクノッソス宮殿は、最初の劇場建造と劇場フレスコ画によって、古代地中海域の死者の崇拝を克服するとともに、それに続く精神的発展の手がかりを作ったことを証明しています。そして、著者は以下のように述べます。


 「この特徴がミノアのクレタを、精神的な意味においては、エジプトとメソポタミアよりははるかに上位に置くことになる。建築や文書による伝承や強力な政治権力という点では、エジプトとメソポタミアの方がすぐれているように見えるかもしれないが。こうしてまずクレタが、そしてそれとともにギリシアが、ヨーロッパ文化の発生地となり、オリエントの権力者たちの帝国は崩壊した」
最後に、著者は「文化は民族の教育であり、きわめて広い面における精神的能力、つまり、精神の幅広い活動である。この意味において、ギリシア文化がはじめて文化の名に値する」と書いています。


 ピラミッドをはじめとした死者のための建築に打ち込んだ古代エジプト、死者のために演劇を生み出し、オリンピックを誕生させた古代ギリシャ。
 人類の壮大な営みの背景には、つねに「死者」の存在があったのです。40年以上も前に書かれた本書を読み終えて、わたしは『唯葬論』にとっての大きな論理的支柱を得た思いがしました。本書を教えて下さったライフネット生命の出口氏に感謝いたします。