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人間』

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No.1067

 

 『人間』カッシーラー著、宮城音弥訳(岩波文庫)を読みました。

 「シンボルを操るもの」というサブタイトルがついています。ユダヤ系のドイツの哲学者である著者は、新カント派の泰斗として、シンボル=象徴体系としての文化に関する壮大な哲学を展開しました。著者の遺作である本書はカント以来の「哲学的人間学」の伝統的ドイツ哲学の知的集大成であり、ミシェル・フーコーの『知の考古学』に多大な影響を与えたことで知られます。

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   表紙には内容紹介が・・・・・・


 本書の表紙には、以下のような内容紹介があります。


 「大著『シンボル形式の哲学』から25年、アメリカに在って新しい知的刺激を得ながら、その成果をとり入れて本書は書かれた。学説の長々しい議論を避け、心理学、存在論、認識論の問題を明瞭簡潔に論じ、神話と宗教、言語と芸術、科学と歴史を俎上にのせて、自己解放の過程としての人間文化を総合的に分析する」

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   わが書斎に置かれた『シンボル形式の哲学』


 そう、著者カッシーラーには『シンボル形式の哲学』という大著があります。内容が難解な上に岩波文庫で4分冊というボリュームです。これには、『あらゆる本が面白く読める方法』というタイトルの著書を持つわたしでさえ、読了後はぐったり疲れたことを憶えています。
 本書の「序」で、カッシーラーは以下のように書いています。


 「『大著は大悪である』とレッシングはいった。私は『シンボル形式の哲学』を書いた際、問題それ自身にはなはだ熱中していたので、この文体上のマキシムを忘れていたか、怠っていたのだ。今では私はレッシングの言葉に、はるかに、賛意を表する気持になっていると思う。本書においては事実の詳細な説明をなし、学説の長々しい議論を述べず、哲学的に特別な重要性があると思われる数点を集中的に論じ、私の思想をできるだけ簡明に表現しようと試みた」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「訳者序」
「凡例」
「序」
第一部 人間とは何か
第一章  人間の、自己自身の認識における危機
第二章  人間性への鍵―シンボル(象徴)
第三章  動物的反応から人間の反応へ
第四章  空間および時間の人間的世界
第五章  事実と理想
第二部 人間と文化
第六章  人間文化による人間の定義
第七章  神話と宗教
第八章  言語
第九章  芸術
第十章  歴史
第十一章 科学
第十二章 要約と結論
「解説」(野家啓一)

 全12章からなる本書は大きく二部に分かれます。第一部「人間とは何か」では、カッシーラーの人間学的哲学(anthropological philosophy)の基本線が提示されます。第二部「人間と文化」では、神話、宗教、言語、芸術、歴史、科学といった多様な文化現象をめぐって、彼の言う「人間文化の現象学」が展開されています。本書の「解説」で、哲学者で東北大学名誉教授の野家啓一氏は次のように述べています。
「確かに、個別諸科学の驚異的発展は、生物体としての人間のあり方を細部にわたって明らかにした。またニーチェの『超人』、フロイトの『性的人間』、マルクスの『経済的人間』といった学説は、人間存在の深淵を類例のない仕方で解明してみせた。しかし、それらはいずれも人間の全体像に迫るには余りにも偏頗なプロクルステスのベッドにすぎなかった」

 第一部「人間とは何か」の第一章「人間の、自己自身の認識における危機」の冒頭には、以下のように書かれています。


 「自己を知ることが哲学的探究の最高の目的であることは、一般に認められているようである。異なった哲学の学派間のあらゆる論争を通じて、この目的はつねに変らないものであり、ゆるがないものであった」

 そして第二章「人間性への鍵―シンボル(象徴)」では、著者はユクスキュルの生物学を援用しながら、動物の世界が感受系と反応系からなる各々の種に特有の「機能的円環」を形作っていることを確認します。カッシーラーの立脚点は、人間の行動を生物学的説明に還元する自然主義の立場とははなから無縁であり、逆に感受系と反応系の間に人間に特有の第三の連結、すなわち「シンボリック・システム」を見出します。

 この「シンボリック・システム」という新たな機能を獲得することによって、人間は他の動物とは異なる「新次元の実在」の中に生きることになるのです。カッシーラーは「人間はただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、この宇宙の部分をなすものである」と喝破しますが、この言葉は本書全体を貫く基本テーゼです。

 本書の白眉は第七章「神話と宗教」です。「神話」と「宗教」は、そのままシンボルの体系にほかなりません。カッシーラーは、以下のように述べています。

 「神話は、理論的要素と芸術的創造の要素を結合している。最初に我々に強い印象を与えるのは、詩との密接な類縁である。『古代神話は、近代の詩の「塊」であり、近代の詩は、進化論者が分化および特殊化とよぶ過程によって古代神話から、徐々に成長してきたものである。神話をつくる人の精神は原型であり、詩人の精神は・・・・・・なお、本質的には神話創作的である』といった人がある。しかし、このような発生上のつながりにもかかわらず、我々は神話と芸術との間の特殊な差異を見逃すことはできない。これを明らかにする鍵は、芸術的構想は『その対象の存在または非存在には全く無関心である』というカントの言葉の中に見出されるはずである。だが、まさにこのような存在についての無関心こそ、神話的想像に全く存在しないものである。神話的想像には、つねに信念の行為が含まれている。その対象が実在するという信念がなければ、神話はその基礎を失うであろう」

 またカッシーラーは「死の起源」神話に言及し、以下のように述べます。


 「死の起源に関係した神話的物語は多い。人間が、その本性および本質上、死すべきものだという考えは、神話的および原始的宗教思想とは全く反対の考えのようである。この点において、不死についての神話的信仰と、後の時代に見られる純粋哲学的な不死の信念の諸形態の間には著しい差異がある。プラトンの『パイドン』を読むならば、人間霊魂の不死について、明確で論駁の余地のない証明をしようとする哲学的思考の非常な努力が感ぜられるのである。神話的思考においては事情が全く異なっている。証明しなければならないものは、つねに反対側にある。もし、なんらか証明の必要があるとするならば、それは不死の事実ではなくて、死の事実である。しかも神話と原始宗教は、決してこれらの証明を認めない。それらは、力強く死の可能性そのものを否定する。ある意味では、神話的思想全体が、死の現象を、つねにそして頑強に拒絶するものと解することができる。生命の不断の統一と連続についての、この確信のために、神話は死の現象を一掃しなければならない。原始宗教はおそらく、我々が人間文化中に見出す、最も強力であり、また最も強烈な生の確認であろう」

 カッシーラーによれば、未開人は、その個人的感情も、社会的感情も、不死の確信に充たされているといいます。この考えをもとに、カッシーラーは以下のように祖先崇拝について述べています。


 「人間の生命は、空間または時間において、何ら一定の限界をもっていない。それは自然の全領域に拡張し、人間の歴史全体に延長している。ハーバート・スペンサーの主張した説によると、祖先崇拝は、宗教の最初の源泉で起源だとみなされるべきものである。とにかく、それは最も一般的な宗教的動機のひとつである。世界中になんらかの形で、死者に対する崇拝を行わない人種は少ないであろう。親の死後、食物をそなえ、また親が、その踏み入った新しい状態を継続するに入用な他の必要物をもそなえることは、遺族のものの最高の宗教的義務のひとつである。多くの場合、祖先崇拝の現象は、宗教生活および社会生活全体を特徴づけ支配する広く普及した性質である。シナにおいてこの祖先崇拝は、国家宗教によって認められ統制されて、人民のもち得る唯一の宗教とみなされてる」

 カッシーラーはまた、世界各地の精霊崇拝について言及しています。


 「フュステル・ド・クーランジュは、その有名な著書『古代都市』においてローマ宗教の記述を行ったが、彼はローマ人の社会的および政治的生活全体が祖先の精霊崇拝の痕跡をもっていることを示そうとする。祖先崇拝はつねにローマ宗教の基本的で有力な特徴のひとつとなっていた。他方、アメリカ・インディアンの宗教の最も著明な特性のひとつ―アラスカからパタゴニアに至る多数の種族のほとんど全部のものがもっている――は死後の生命の信仰であるが、これは人類と死者の精霊間の交通という、ひとしく一般的な信仰にもとづいている」

 そして彼は「世界各地に見られる葬儀も、同一の傾向を示す」として、以下のように述べます。


 「死の恐怖は、疑いもなく、最も一般的であり最も深く根ざした人間の本能の一つである。死体に対する人間の最初の反応は、それを運命のままに放置することであり、恐怖して、それから逃避することであったに違いない。しかし、このような反応は、わずかの例外的場合にだけ見出されるはずである。それは極めて速かに、反対の態度すなわち死者の霊魂を引きとめたい、呼び返したいという願望によって置き換えられる。我々の民族学上の資料は、これら二つの衝動間の闘争を示している」

 葬儀とはシンボルを操り、魂をコントロールする技術です。つねに葬儀の本質について考えているわたしにとって、本書はさまざまなインスピレーションを与えてくれました。カッシーラーを「最後の百科全書派」と呼ぶ野家氏は、「解説」の冒頭で以下のように述べています。


 「『人間』は独創的な哲学者でありすぐれた思想史家でもあったエルンスト・カッシーラーが亡命中のアメリカで執筆し、急逝する前年に刊行した著作である。そのせいか本書には、最晩年の彼が自らの思索の歩みを振り返りながら、そのエッセンスを凝縮した「白鳥の歌」といった趣が感じれられる」

 そして、野家氏は次のようにも述べています。


 「人間はシンボルという魔法の鍵を手にすることによって宗教、芸術、哲学、科学へ至る道を歩み始め、プラトンの言う『イデア界』へと通じる扉を押し開いた。人間が『シンボルの動物』と定義されるゆえんである」

 わたしは人間のことを「ホモ・フューネラル」と呼んでいます。
 人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢い人間)や「ホモ・ファーベル」(作る人間)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人間)、ルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的人間)を提唱しました。わたしは、人間の本質とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと確信しています。

 すでに7万年以上も前に旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、時にはそこに花を捧げていたといいます。死者を特定の場所に葬る行為は、その死を何らかの意味で記念することにほかなりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。
 すなわち、死はこの時点で、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値を生み出したのです。そこから無数のシンボルが派生したことは言うまでもありません。
 まさに、カッシーラーが言うように人間とは「シンボルの動物」であり、それは「ホモ・フューネラル」の別名なのです。