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唯幻論物語』

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No.1056

 

 『唯幻論物語』岸田秀著(文春新書)を読みました。

 著者は、1933年香川県善通寺市生まれの心理学者、精神分析学者、思想家、エッセイスト、和光大学名誉教授です。香川県立丸亀高等学校を経て早稲田大学文学部心理学科を卒業。同大学大学院修士課程修了後、ストラスブール大学大学院留学。1972年から2004年まで和光大学教授を務め、現在は同大学の名誉教授です。

 

 著者は、雑誌「現代思想」によって思想界にデビューしました。1978年に出版された『ものぐさ精神分析』はマスコミを中心に大きな話題となりました。わたしは今、『唯葬論』執筆のために著者の「唯幻論」に関する一連の著作をまとめ読みしており、『ものぐさ精神分析』および『続ものぐさ精神分析』(ともに中公文庫)もじつに30年ぶりに読み直しました。


 著者は『ものぐさ精神分析』を出版した際、「自分が言いたいことは一つしかない、著作はこの一冊でお終いだ」と宣言したそうです。実際に、『ものぐさ精神分析』における唯幻論の思想はその後も変わらず一貫性を保っています。著者は「唯幻論」を、自分と両親との間の特殊な関係性を説明するために考え出したと述べており、そのあたりの事情が本書『唯幻論物語』に詳しく書かれています。


 本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


 「『本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である』。知的刺激に満ちた、この"唯幻論"は、どのようにして生まれたのか―――。物心ついたときから、奇妙な強迫神経症に悩まされてきた著者は、フロイドの精神分析に出会うことで、その正体を探ろうとする。そして、一見、幸福な親子関係に潜んでいた自己欺瞞、母親の『愛情』こそ、神経症の原因だった・・・・・・。人間という存在の不可思議さに瞠目させられる一冊」


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


第一章 精神分析と唯幻論
第二章 神経症
第三章 母の術策
第四章 反復脅迫
第五章 現実感覚
第六章 母と父
第七章 葛藤
第八章 史的唯幻論
「あとがき」


 本書は岸田氏の半生を振り返りながら独自の理論へと至る思索のドキュメントであり、主に著者とフロイト理論との出合いについて書かれています。著者は精神分析の世界に魅了されていきますが、第七章「葛藤」では、「精神分析とは」として、以下のように書いています。


 「早い話が、精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言のなかで言及されている。『下司の勘ぐり』(投影)、『歴史は繰り返す』(反復強迫)、『己惚れと瘡気のない奴はいない』(ナルチシズム)、『可愛さ余って憎さ百倍』(アンビヴァレンス)、『頭隠して尻隠さず』(抑圧)、『泥棒にも三分の道理』(合理化)、『江戸の仇を長崎で討つ』(すり換え)、『三つ子の魂百まで』(幼児期の重視)、『鰯の頭も信心から』(宗教幻想論)、『朱に交われば赤くなる』(摂取)、『怪物と戦う者は怪物になる』(攻撃者との同一視)、『岡目八目』(無意識は他者に見える)、『羹に懲りて膾を吹く』(反動形成)、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』(同一視)、『類は友を呼ぶ』(集団形成)、『一事が万事』(転移)、など。また、フロイドがエディプス・コンプレックスとかナルチシズムとか、ギリシア神話から用語を借りることができたのも、すでに古代の神話に同じようなことが語られていたからである。つまり、精神分析が説いているようなことは、昔からみんなが知っていたことなのである」


 わたしは、この文章を読んで唸りました。著者の説明能力の高さはただごとではありません。


 また著者は、中学生の頃から日本兵の死体のイメージが浮かんで仕方がなかったと告白しています。最初は硫黄島で無残な死を遂げた日本兵の写真を見たことがきっかけだったようですが、みじめに死んだ日本兵のイメージがつねに心に迫ってきて、岸田少年は「うつ」状態となり、精神的に非常に危険な状態にあったそうです。精神的に追い詰められた岸田氏は、長じて「みじめに死んだ日本兵とはわたし自身のことではないかと考えるようになった。わたしは自分をこのみじめな日本兵と同一視しているようであった」と述べます。


 さらに、著者は以下のように書いています。


 「わたしの心のなかを彷徨っていた死んだ日本兵たちは、わたし個人の物語、そして、わたしが知る世界の歴史の物語のなかに曲りなりにも位置づけられ、一応の居場所を得ることになった。いまでも死んだ日本兵たちを思い浮かべると涙がにじんでくるけれども、居場所を得ると、彼らのイメージは、もはやわたしの自我にとって異物ではなくなった。異物ではなくなったのだから、追っ払おうとしなくなった。つまり、それは自我の統合された一部となり、もはや神経症的症状ではないのである。ついでながら言えば、史的唯幻論の骨格である集団的心理論、社会構造論は、死んだ日本兵たちを何とかどこかに位置づけようとして、彼らを死へと追い詰めていった背景を考えていた過程で形成されたものである」


 第八章「史的唯幻論」では、史的唯物論を批判しつつ、次のように史的唯幻論について述べています。


 「史的唯幻論によると、本能が壊れたとき、猿だったかどうかは知らないが、人類の祖先は人類になった。(中略)本能が壊れたため、人間は現実を見失い、人間存在と世界とのあいだに隙間ができ、その隙間に幻想群が発生した。人間は幻想のなかに迷い込んだ。ここで滅亡しても不思議ではなかったが、人間は、見失った現実の代わりに、幻想を材料として疑似現実(文化)を構築し、この疑似現実のなかに生きることによって辛うじて滅亡を免れた。ここに人類の歴史が始まる。したがって、おのれの歴史を語るのは、おのれの歴史を必要とするのは、本能が壊れた人類だけである」


 また、著者は史的唯幻論について以下のように述べます。


 「蟻や蜂は、本能に基づいて集団(社会)を構築することができるが、本能が壊れた人間は、幻想を頼りに人為的に集団(社会)を構築するしかない。幻想は観念または言語と言い換えてもいいが、生きてゆく以上、何らかの行動をしなければならず、本能に頼れない人間は、幻想(観念、言語)によって自己および世界を規定し、その規定に基づいて行動を選択するようになった。選択の基準として道徳が発明された」


 さらに著者は、人間と物語の関係について以下のように述べます。


 「人間は、生き残るためには、自分とは何であるか、自分が属する集団はどういう集団であるか、その集団の周りの世界はどういう世界であるかを規定しなければならなくなった。そこで、先祖は虎だったとか熊だったとか鷹だったとか神々だったとか神の被造物だったとかの物語、世界はどのように創造されたかの物語が作られた。このような起源神話、創世神話が歴史の始まりである。人間は、本能ではなく、物語に従って生きるようになった」


 そして著者は、人間にとっての幻想について述べるのです。


 「本能に頼れないので、人間は、発明したこれらの自己、集団、世界などの存在を、そして、世界のなかでどう行動するかの道徳を価値づけ、正当化する必要があった。そこで、中心的な起源神話、創世神話に付随してさらにさまざまな神話が作られ、いろいろな制度が発明された。これらすべてのものを支えているのは、幻想(観念)であった」


 著者の「唯幻論」は、明らかに吉本隆明の名著『共同幻想論』に着想を得ていると思います。そして、著者の「唯幻論」は養老孟司氏の『唯脳論』に影響を与えていると思います。まさに「DNAリーディング」の世界ですね。


 著者は、さらに「幻想」について以下のように述べています。


 「そもそも人間が歴史を作ったのは、本能が壊れて幻想のなかに迷い込み、そのため、自分および自分が所属する集団の物語をつくって、その物語に頼って生きるしかなくなったからなのだから、幻想以外では歴史は説明できないのである。史的唯物論が説くように、経済的条件が歴史を決定するのではない。そもそも経済活動をするのは幻想に囚われた人間だけである。動物は貨幣をもたないし、交換をしないし、儲けるために働かない。英雄史観か戦争史観か知らないが、英雄というものをつくりあげるのは人間の幻想であるし、戦争なんて幻想の最たるものである。誰かが言っていたが、1万匹の黒猫と1万匹の白猫がそれぞれ徒党を組み、野原で東西の陣営に別れ、それぞれ理想を掲げて引っ掻いたり嚙みついたりして殺し合うなんてことは起こらない。そのようなことをするのは幻想に囚われた人間だけである」


 それでは、幻想と歴史の関係とは何か、著者は述べます。


 「幻想が歴史を決定するのであって、経済的条件などのような具体的、物質的要因が歴史を決定するのではないから、歴史には何の必然性もない。事件は無数にあり、無数の事件のなかから、ある事件が歴史的事件として選ばれるのは、その事件が招いた事態が、もしその事件が起こらなかったとすればこうなったであろうと想定される事態と比較して、われわれにとって重大であると感じられるからである。そして、われわれにとってどのようなことが重大であると感じられるかは、まさにわれわれの主観、われわれの幻想の問題である」


 史的唯物論は、歴史観の1つでした。著者は人間の経済活動も幻想に発しているとした上で、以下のように述べます。


 「史的唯物論においては、人間が経済活動をするのは個体保存や種族保存の本能的目的、すなわち物質的、現実的目的のためである。現実的目的のための経済活動が、社会の土台であり、そして、よくは知らないが、生産力と生産関係の矛盾とか何とかを介して、歴史を動かす主要な要因である。このような歴史観によれば、歴史は、例外的にときおりのズレやブレがあっても、地方的特色によるいくらかの差異はあっても、あるいは、速いか遅いかの違いはあっても、基本的には合理的路線に沿って一定の方向に発展してゆくはずである。要するに、人間の集団も、現実的適応のための組織であるという点では、基本的に、本能が壊れていない動物の集団と同じであって、ただ、人間は動物より賢いから、いろいろ工夫して、より合理的な方へと進歩していっているということになっているわけである」


 本書は200ページちょっとの小著ながら、全編くどいくらいに「幻想」という言葉が出てきます。そして、この「幻想」という単語だらけの本の最後に、著者は「人間は、個人としても集団としても、自我という幻想を守るために生きているのである。人間の歴史は幻想の歴史である」と書くのでした。


 数ある著者の本の中でも、本書は「唯幻論」のエッセンスがわかる、まさに「唯幻論入門」とでもいうべき内容になっています。