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唯心論と唯物論』

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No.1052

 

 『唯心論と唯物論』フォイエルバッハ著、船山信一訳(岩波文庫)を読みました。

 いま『唯葬論』を書いているので、いわゆる「唯〇論」の類をこの機会におさらいしようと思いました。本書は、ヘーゲルの弟子であり、マルクス・エンゲルスにも影響を与えた哲学者フォイエルバッハの最後の著作です。観念論を批判し人間学的唯物論を唱えた彼の集大成というべき本です。

 

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   表紙には内容紹介が・・・・・・

 

 
 岩波文庫の表紙カバーには、以下のような内容紹介があります。


 「存在の根拠を精神に求める唯心論と、それを自然に見出す唯物論との対立の歴史は古い。ヘーゲル左派の思想家として出発し、後に実在の根拠を個物に求める独自の人間主義的唯物論に至ったフォイエルバッハは、本書において意志の自由に関する考察を通して、古代唯心論・キリスト教倫理・近代合理主義・ドイツ観念論を批判している」


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「訳者はしがき」
序言
1. 自然必然性の内部における意志
2. 時間の内部における意志
3. 意志と幸福欲との統一
4. 道徳論の原理
5. 必然性の区別
6. 必然性と責任
7. 個体主義または有機体
8. ドイツ唯物論の宗教的根源
9. 医学科と哲学科との争い
10. 唯心論の本質
11. 心理学と神学との統一
12. デカルトおよびライプニッツの心理学と神学との統一
13. いわゆる同一哲学における唯心論、またはヘーゲル心理学の批判
14. 「肉体を支配する心の威力」
15. 観念論の批判
諸註解と諸引用証句
跋「ルードヴィッヒ・フォイエルバッハの生涯と著作」
(フリードリヒ・ヨードル)
人名索引


 フォイエルバッハには、哲学史の研究が多いことで知られます。その意味で、まさに彼はヘーゲル学徒なのですが、本書『唯心論と唯物論』においても、古代や中世の哲学者たち、神学者たち、近世におけるデカルト、スピノザ、ライプニッツ、マルブランシェ、カント、フィヒテ、ヘーゲルといった哲学者たちを取り上げ、彼らを批判しながら論を進めています。


 わたしは、もともと本書を「唯心論」および「唯物論」の入門書的なイメージでとらえていたのですが、そうではなく、実際は唯物論的思想から唯心論を批判するという内容でした。「訳者はしがき」で、船山信一氏は以下のように述べています。


 「エンゲルス以来観念論(Idealismus)と唯物論(Materialismus)との対立は哲学における二大陣営であるというのが唯物論者たちの定説であり、しかもその際に観念論に対する唯物論の優越性は常に自明なこととされていた。それに対して観念論の陣営においては観念論と唯物論との『抽象的対立』は陳腐なものとされ、しかも唯物論の本質は自明なものとされている。つまり両者共に観念論と唯物論との内容を自明なものとしているのである。ただし近年においては、多くの唯物論者たちは実存主義や論理実証主義やに押され、それらに譲歩して、自分たち自身をあいまいにし観念論化している」


 さらに船山氏は、フォイエルバッハにおける唯心論について述べます。


 「フォイエルバッハがいっている唯心論(Spiritualismus)は観念論(Idealismus)と同じではない。後者が認識論であるとすれば前者は存在論である。したがってフォイエルバッハの唯物論は人間学的唯物論である。真理は唯物論でもなければ観念論でもなく、心理学でもなければ生理学でもなくて人間学であるというのが彼のモットーである」


 10「唯心論の本質」で、フォイエルバッハは以下のように述べています。


 「精神または心―これは動物的な心から区別されてまた理性的な心とも呼ばれた―は、ただ身体から区別された存在者であるだけではなくて、また身体から独立な存在者、すなわち身体なしに存在し且つ活動することができる存在者である。そしてこのことは心の非肉体性および非物質性の必然的な帰結であり、そしてそれ故に唯心論の明確な主張・特徴的な主張であり、唯心論の本質の目じるしになる主張である」


 また、フォイエルバッハは次のようにも述べています。


 「唯心論は他の生活・未来の生活のために規定され考慮された霊魂論(心理学)であって、現在の生活のために規定され考慮された霊魂論(心理学)ではない。心は、死後に肉体なしに実存することができるために、肉体のなかにあってすでに肉体性なしに考えられている。肉体の死から独立な生活に対する願望は肉体から区別された存在者の父である。不死と非身体性とは同一物である」


 唯心論は「スピリチュアリズム(Spiritualismus)」です。スピリチュアリズムは「心霊主義」とも訳されますが、要するに人間の不滅の霊魂が存在すると考える立場です。そして、この思想の先駆者といえば、なんといっても古代ギリシャのプラトンでした。プラトンは、イデア論に代表されるように観念論の先駆者でもありましたが、後にそれはドイツのカントが大成させることになります。プラトンやカントについて、フォイエルバッハは以下のように述べます。


 「プラトンは心の非物質性を論証した最初の人であるが、しかし彼はまた心の不死性を論証した最初の人なのである。一般に不死の証明はプラトンの『ファイドン』から降ってはメンデルスゾーンの『ファイドン』までつづいている。そしてこの証明は常に心の非身体性または非物質性を支柱にしていたのである。ただカントだけが初めてこのキズナを引き裂き、不死をもっぱら道徳的な要求および帰結にした。なぜかといえばカントは自分の観念論またはむしろ懐疑論にしたがって、唯心論にとっては心そのものの現実的客観的本質として妥当するものを、もっぱら心の主観的な思惟する本質として、またはいっそう正しくいえば心のそれ自身が未知な本質にかんする単なる無対象な思想として宣告したからである。カントはしかし同時に唯心論が不充分であるということと共に唯物論もまた不充分であるということを主張した。そしてそれはもとより、物質的なものは外部諸感覚にとって対象であるが、しかし心はもっぱら内部諸感覚にとって対象であるという理由によってである」


 11「心理学と神学との統一」の冒頭で、フォイエルバッハは述べています。


 「心―少なくとも唯心論の心―から説明され導き出されることができるのは、もっぱら死の後の生活であって、死の前の生活、いいかえれば実際の生活・現在の生活・すなわち思惟および感覚ではない。(そしてわれわれがここで問題にしているのはもっぱら唯心論の心であってカントの懐疑的な心ではない。ちょうどそれと同じように、人々は一般に唯心論の心からはただ神学へ推論することができるだけであって、人間学へ推論することができず、ただ神々を引き出し且つ作り出すことができるだけであって、人間たちを引き出し且つ作り出すことができない)


 フォイエルバッハは、心の不死性について述べます。


 「心は不死であり永遠である。しかし心が不死であり永遠であるのは、単に、人々がいったように、その後の時分から、すなわち後から、人々がいったん生まれてから後のことであって、その前の時分から、すなわち前から、以前からのことではない。その前の時分から、すなわち前から、以前から不死であり永遠であるのはただ神だけである。しかし二つの不死、すなわち前からの不死または始まりがない不死と、後からの不死または終わりがない不死とは、合致する」


 それでは、神とは何か。フォイエルバッハは言います。


 「先在する心が神性である。それ故にまたこの特性について次のようにいわれている。『ひとり神のみが不死をもっている。』それ故にもし人々が、人々は同時に、愛する不死な心を放棄することなしに、愛する神を放棄することができると信ずるならば、そのときにはそのことよりいっそうおめでたいことは何もないのである」


 さらに、フォイエルバッハは神学について述べます。


 「神学は真の心理学・客観的心理学・顕わな心理学・完結した心理学である。なえかといえばいわゆる心理学―は単に神学の畸形児にすぎないからである。そしてこの畸形児は神的な心と人間的な身体の背神的な唯物論との間の不自然な―ソドム(古代パレスチナの都市)で行なわれていたような―男色の野合から発生したのである」


 そして、フォイエルバッハは次のように喝破します。


 「肉体をもっている精神は、人間であり且つ人間と呼ばれる。肉体をもたない精神は、神であり且つ神と呼ばれる」


 まさに本書にはフォイエルバッハ哲学が凝縮されており、彼は実在の根拠を個物に求める独自の人間主義的唯物論を高らかに謳いあげています。


 唯心論とは、結局、「宗教」や「心霊主義」に代表される思想です。それらの中には、心の働きで、肉体に影響を与えることができるとする考え方もあります。しかしフォイエルバッハは「本当にそんな力があるのならば、その力で、病気やけがの治療をすればいい」と皮肉を述べています。


 これは現代にも続く霊的治療への批判ということでしょうが、「勇気の人」こと矢作直樹先生なら、フォイエルバッハの言葉にどう反論するか? 本書を読み終えたわたしは、そんなことを考えました。