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天国は、ほんとうにある』

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No.1038

 

 『天国は、ほんとうにある』トッド・バーポ、リン・ヴィンセント共著、阿蘇品友里訳(青志社)を読みました。

 オレンジ色の表紙カバーには、あどけない男の子の写真が使われ、天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語」というサブタイトルがついています。

 

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本書の帯


 

 帯には「あなたは、私の息子を奪う気か?」と大書され、「父親の悲壮な叫びは、なぜ神に届けられたのか。」「愛と奇跡のノンフィクション・ストーリー」「全世界900万部突破!! ニューヨーク・タイムス紙ベストセラーリスト200週ランクイン」「映画化! 2014年12月13日(土)より公開」と書かれています。そうです、本書はわたしのブログ記事「天国は、ほんとうにある」で紹介した映画の原作本なのです。わたしは、映画館の売店で本書を購入しました。

 

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   本書の帯の裏


 

 また、帯の裏には以下のような内容紹介があります。


 「3歳のコルトンは、穿孔(せんこう)性虫垂炎にかかり、生死の境をさまよう。奇跡的に一命をとりとめたあと、彼が始めたのは、聖書の内容とあまりにも一致する天国の描写だった。幼いコルトンの口からつむぎ出される天国の話は、大人たちを驚かせ、癒し、そして学ばせるのだった・・・」


 本書はいわゆる臨死体験について書かれた本です。幼くして臨死体験をしたコルトン君の父親は牧師であり、コルトン君の体験した死後の世界には、キリスト教の「天国」のイメージが色濃く反映されています。もともと臨死体験者の話には、その人物の文化背景や宗教的背景のようなものが必ず反映されるとされていますが、本書のケースも例外ではありません。本書の最大の特徴は、単なる臨死体験レポートではなく、そのままキリスト教の信仰の書となっていることです。


 3歳の愛する息子が虫垂炎で死にかけているとき、牧師である父親のトッド・バーポは「「あなたは、私の息子を奪う気か?」と神に毒づきます。その後、息子は奇跡的に息を吹き返したのでした。本書には、そのときの様子をコルトン君が著者に問いかける場面が以下のように描かれています。


 「『パパ、ぼくがさぁ、病院で、起きて、パパってさけんだの、おぼえてる?』
 どうやったら忘れられるものか。あの声は、私がこれまでの人生で耳にしたどんな音よりも美しい音だったのだ。
 『もちろん、おぼえているよ』と私は言った。
 『あのね、ぼくがさけんだのはね、イエスが、ぼくを、連れてきたからだよ。イエスはね、パパの祈りにこたえてるから、ぼくは、もどらないとだめって言ったの。でね、ぼく、パパってさけんだんだよ』」


 コルトンが蘇生してからしばらく経ったとき、著者は教会で開かれる葬儀を仕切ることになりました。彼は父に向かって「パパ、そうぎって、なに?」と問います。本書には以下のように書かれています。


 「コルトンが生まれてから、葬儀が開かれたことは何回かあった。でも、コルトンは、いま、『なぜ』『どうやって』ものごとが行われるのかということに、より興味を持つ年ごろになっていたのである。
 『あのね、相棒。葬儀っていうのはね、誰かが死んだときに開くものなんだよ。この町に住んでいる男の人が死んだんだ。家族が、この人にさよならを言いに来るんだよ』
 コルトンの様子が一瞬にして変わる。荒々しく、やけに真剣な顔をして私の目をじっと見るのである。
 『その人の心には、イエスがいるの?』
 つまり、息子は、死んだ男性がキリスト教徒だったのかどうか、イエスを救済者として見ていたのかどうかをたずねている。『ぼくは、よく知らないんだよ、コルトン』その激しさに不意をつかれた私は言った。『その人のこと、あまり知らなかったからね』
 コルトンの顔が心配そうにゆがむ、『その人の心に、イエスがいないとだめ! その人は、イエスを知らないとだめ! そうじゃなきゃ、天国に行けないの!』」


 また、こるとんはおもちゃの中からプラスチック製の馬を見つけて、それを著者に見えるように持ち上げて「ねぇパパ、イエスが馬を持っているの、知ってる?」と問いかけます。「馬?」と答えた著者は、以下のように書いています。


 「『うん、虹の馬。ぼく、なでたの。いっぱい色がついているの』
 いっぱい色? コルトンはいったいなんのことを言っているのだろうか?
 『どこにいっぱい色があるの? コルトン?』
 『天国だよ、パパ。虹の色、ぜんぶあるところ』」

 

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   本書には写真も満載です

 

 
 それから、コルトン君は以下のようにイエスその人の様子も語ります。


 「『イエスってさぁ、どんなふうに見えたの?』と私。不意に、コルトンはおもちゃを置き、私を見上げる。『イエスはね、ペンをつけてるよ』
 『なに、それ?』
 『ペンだよ、パパ・・・・・・イエスはペンをつけてるの。でね、茶色い髪でね、顔にも毛がついてるよ』コルトンはそう言うと、ちっちゃな手のひらを自分の顎まで持っていき、そこで円を描いてみせる。ふむ、ひげという単語はまだ知らないらしい。『でね、目がね・・・・・・あぁ、パパ、目が、とってもきれい!』
 そう言うコルトンの目は、まるで、ひときわ魅力的な思い出を楽しむかのように遠くを見つめ、その顔は、みるみるうちに夢見心地になる。
 『どんな服を着てるの?』
 ふたたび部屋へと意識を戻したコルトンは、私を見てにっこりと笑う。『むらさき』そう言いながら、手を自分の左肩の上に置いたかと思うと、そこから手を体の上に横切らせ、右の太ももまで下ろす。そして、もう一度同じ仕草をくり返す。『服は、白。でもね、ここから、ここまでは、紫』そう言いながら。
 コルトンが知らないもうひとつの単語―飾り帯。
 『イエスだけがね、天国で、むらさき着てるの。パパ、知ってた?』
 聖書は、紫は王の色だと言っている。『マルコによる福音書』の中の一節が、私の頭の中に瞬く――『服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった』」


 わたしは、このくだりを読んで、イエスが天国で紫色の衣装を着ていたという話に非常に興味を持ちました。「紫雲閣」の「紫雲」とは人間がこの世を去るときにあの世から迎えに来るという高貴な雲ですが、仏教においては「紫」という色に最高の価値を置いています。また、儒教においても紫色は最も高貴な色とされています。宗教は違っても、それぞれ「紫」を重んじていることには理由があるのだと思いました。紫の高貴性は普遍的なのです。ちなみに、紫はわたしのラッキーカラーでもあり、わたしはパープルのジャケット、シャツ、ネクタイ、ポケットチーフなどをたくさん持っています。

 

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   イエスは、こんな顔だった!?

 

 
 また、コルトン君は「イエスはペンをつけてる」と語りますが、これはイエスの両手両足にペンのようなものが突き刺さっていたという意味です。そう、イエスが十字架にかけられたときに釘を打たれた部分です。こういう残酷な事実は、幼いコルトン君には事前に一切知らされていませんでした。


 そしてイエスの顔についてですが、本書にはコルトン君と同じく臨死体験によって天国を垣間見たアキアナ・カラマリックという少女が描いたイエス・キリストの絵が掲載されています。その絵を一目見たコルトン君は、「ボクが天国で会った人は、この人だ!」と言います。そのイエス・キリスト像は黒髪の凛々しい青年の姿ですが、翻訳本の中でも紹介されています。わたしは、ブログ「イエスの顔」で紹介した2001年にイギリスBBCがドキュメンタリー番組で復元した「イエスの顔」を連想しました。


 コルトン君によれば、天国にはたくさんの子どもたちがいて、みんな背中に羽をつけていたそうです。コルトン君にも小さいながら、羽があったといいます。本書には、次のように書かれています。


 「『ぼくたち、飛んだんだよ。あのね、イエスじゃない人は、みんな、飛ぶの。イエスはね、天国で、一人だけ羽がないんだよ。イエスはね、エレベーターみたいに、上にいったり、下にいったりする』
 聖書の一書、『使徒言行録』が頭の中でまたたく。その中で、イエスは、使徒たちがイエスの目撃者になり、イエスのことを世界中の人たちに伝えるようになるだろう、と話す。話し終えたイエスは、『彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」』
 イエスは上に昇っていく。そして、降りてくる。羽はない。子どもの目には、それは、ちょうどエレベーターのように映るのだろう」


 このように、コルトン君が語る天国の様子は、聖書に描かれているものとまったく同じなのでした。「訳者あとがき」で、阿蘇品友里氏は「本書は、未知の世界をかいま見せる『新しい体験』として、それから、聖書という一つの偉大な書物をひもとく『入門書』として、キリスト教という宗教を知る一つの『入り口』として、そして、一つの『物語』として、きっと、楽しんでいただける一冊であると思う」と書いていますが、本書の性格をよく表現しています。