No.1036 日本思想 | 歴史・文明・文化 | 芸術・芸能・映画 『にほんとニッポン』 松岡正剛著(工作舎)

2015.02.06

 『にほんとニッポン』松岡正剛著(工作舎)を読みました。
 著者はかつて工作舎から刊行された伝説の雑誌「遊」の編集長でした。同社から多くの著書も上梓していますが、久々に古巣からの出版ということで、興味深く読みました。著者がこれまでに書いてきた日本文化論を再編集した本で、「読みとばし日本文化譜」のサブタイトルがついています。

   著者の顔写真入りの本書の帯

 著者の横顔の写真が入った帯には、以下のように書かれています。
 「むすぶ縄文から うつろう平成まで
 漢字伝来から日中・日韓問題まで
 列島誕生から東日本大震災まで
 松岡日本学20余冊をリミックス
 忘れてはいけない日本を一冊に凝縮」

 また、カバー前そでには以下のような内容紹介があります。
 「とばし読み、ひろい読み、斜め読み、通し読み・・・・・・
 どこから読んでも、そこだけ読んでも、
 おもいがけない『ニッポン』が暴れ出し、
 忘れていた『にほん』が見えてくる。
 縄文から平成まで、ワビ・サビからJ-POPまで、
 松岡流日本遊学譜、読み切り470テーマのリミックス・ヒストリー」

   本書の帯の裏

 本書の【目次】は、以下のような構成になっています。

【い】 イレズミの国、コトダマの国。 ―列島誕生から万葉まで
●ユーラシアの東の隅で
●フミとクニと仏
●万葉の国家構想

【ろ】 華厳、マンダラ、南無阿弥陀仏。 ―平城建都から院政まで
●平城メトロポリス
●末法へ向かう平安
●あはれからあっぱれへ

【は】 歩く西行、坐る道元。 ―鎌倉幕府から戦国まで
●道理と今様
●芸と聖のネットワーク
●茶の湯と下剋上

【に】 天下の器量、浮世の気っ風。 ―織豊政権から幕末まで
●秀吉の朝鮮、家康の中国
●江戸の概念工事
●爛熟するメディア都市

【ほ】 黒船、敗戦、原子力。 ―富国強兵から平成まで
●開国の右往左往
●昭和の忘れもの
●軍事の、経済の、生活の大国

「あとがき」
「事項索引」
「人名索引」
「コラム目次」

 わたしは、本書の冒頭に掲げられている松岡氏の日本文化論一部のシリーズものを除いてほとんど読んでいますが、それらの肝となる文章が本書には時代別に集められており、大変良い「おさらい」をさせていただきました。本書に掲載されている言葉でわたしが改めて感銘を受け、赤ペンで傍線を引いた部分を以下に出典を明記して紹介したいと思います。

 結ぶ感覚●縄文土器の感覚は、その後の日本民族史上の「美」を語るにあたって、重要なテーマになる。それを「結ぶ感覚」といってもよいとおもう。いわゆる産土や産霊の感覚ですが、それは1万年におよぶ縄文期の周期的なリズムから出たのでしょう。日本人は、縄文の森に覆われた中で、ほとんど天と大地と海がもたらす狩猟採集の収穫サイクルだけから、何かを考えつづけ、リズムを覚えていった。その後に入ってくる農耕といった、人間が労働をして自然周期にぴったり合わせた労働パターンを繰り返さなくてはならなくなった時期以前に、まずシンプルな大自然のリズム感覚のようなものが育ったのではないかとおもいます。その「リズムをつかむ」ことを「ムスブ」といった。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 マツリ●日本人は四季に恵まれた風土の中に、争うようにして多種多様の習俗を入れこみ、これに各地の”好み”に応じたカスタムデザインをほどこし、育てあげることにした。その多くは稲作儀礼や出産儀礼の影響の濃い「豊穣」をイメージの根幹としているが、そこには日本古来のハレとケのリズムも、つねに息づいていた。これらが離合集散をかさねて世界でもっとも行事の多い国といわれるほどに、マツリの形態を大量発生させた。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 キモノとムスビ●日本のキモノ文化は紐結びによる「ムスビ(産霊)の文化」でもある。それは、各地の葬礼や擬死再生儀礼ともあいまって、「魂のふるい立たせたり鎮めたりする衣」という考え方をわれわれに植えつけた。古代貴族社会は、こうした観念技術を背景にもつ衣冠束帯の体制文化にほかならない。(『日本の美と文化 art japanesque』)

 大和政権を刷新する古代の新しい大王、継体天皇(26代)の出現である。これが507年のことだった。そのちょうど100年後の607年、蘇我馬子に擁立された聖徳太子が小野妹子を隋に送っている。この100年間こそ真に「日本」が準備された時期である。各地に屯倉が設けられた。氏姓制度がととのい、各種の生産体制が検討された。ミヤコの体裁が考慮され、道がのびた。言葉がその道を行きかった。多くの渡来人がやってきて、生産技術とともに観念技術をもたらした。そして、仏教がどっと流れこんできた。かくして大伴氏の時代が終り、蘇我氏の時代になっていく。最小国家としての「日本」は、ここにはじまったのである。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

  日本語の国へ●ミコトに文字があてはめられると、それは法律になった。カタリに文字があてはめられると、それは歴史になった。日本が急速に国家としての体面を整えた原動力のひとつには、こうした文字言語世界の確立に対する古代日本人の強い憧憬が認められる。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 7世紀は「天皇」が確立する時期でもあるが、それにともなって各方面にわたる儀礼の統合と改変が展開した。そのうち文化史上に特筆すべきは芸能と文芸である。そこには各地の土風が中央の朝廷に取りこまれるという特徴、かつては神の遊びであったものが人の遊びに移りはじめるという特徴、また集団のパフォーマンスがしだいに個人のパフォーマンスとしても成立するという特徴がある。呪能が芸能に、呪詞が文芸に向かいはじめたのであった。こうした展開の中から誕生した古代最大の文芸の精華が『万葉集』に収められたウタだった。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

  人神感覚●空海の「即身成仏」の思想は、神仏習合史の上からみれば、いわば「即神成仏」でもあった。死後、充分の時を経なければ神にも仏にもなれないと考えてきた日本人の他界観念に、大変化がおとずれる。生きながらも聖化作用を得ることが可能になったのである。このような考え方が、一方で「人神」の感覚を育んだ。平安期に流行する御霊信仰は、まさにこの人神感覚の上に成立する。菅原道真が天神になったのはその一例だった。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

  一条の世(10~11世紀)―道長政治の確立
  一条の世とは、紫式部や清少納言らの日本の女流文芸が頂点に達した時期であるが、そこには複雑な血筋の蛇行があった。劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。いわゆる「天暦の治」だ。この村上天皇に2人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が10世紀末に次々に天皇になった。このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わるがわる立つことになり、冷泉・円融ののちは、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、さらに冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇が続いていった。ここで冷泉系は後退した。藤原兼家と道長は、円融系のほうの一条天皇の外戚なのである。
(『松岡正剛 千夜千冊』)

 鎌倉仏教と神々―本地垂迹思想の発展
 鎌倉時代は神仏習合の劇的展開が連打される時代だ。これを本地垂迹思想という。仏尊を本地とし、神祇を垂迹とするこの考え方は、もともとインド仏教がヒンドゥの神々に対して採用した”見立て”であった。日本では、この仏本神迹の観点がさらに変化をとげて、春日権現、白山権現などの権現信仰に発展する。11世紀ころからのことだった。かつて、仏によって零落の憂き目をみた神は、こうして今度は仏を足場としてその姿をより強固に明瞭にしはじめた。神仏はついに手を結びはじめたのである。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 会席と持成●連歌には会席が重要でした。それゆえ張行するにあたってはどこで会席をするかという選定に趣向を凝らします。会席が決まれば、床の間に菅公天神の画像あるいは南無天満大自在天神の名号掛軸をかけ、花を立てる。立花です。その立花の前に文台と円座をもうけて宗匠と執筆が坐る。宗匠の会釈とともにいよいよ連歌のスタートになるのですが、ここから懐紙の折りかた、墨の摺りかた、筆の使いかたの「持成(もてなし)」があって、発句の初五文字が復唱されるのをまって、およそ10時間になんなんとする一座建立がはじまり、四折百韻をめざしてすすむのです。一句ずつに趣向がうつろい、それでいてその会のおもかげをみんなで求めあうのです。
(『日本という方法』)

 能とファッション●田楽や散楽を吸収した中世申楽が日本文化史上で最も特異な芸能の王座についたのは、その衣裳の華麗によるものだという説がある。下層の人々の芸能意識が文化を奪取するには、流行(ファッション)をつくりあげるしかない。文化の中心になりそうな感覚を、相手よりはやくつくりあげてしまうしかない。芸能が衣裳を豪華にすることの意味は、こうした文化史の激闘部分と深くかかわっているにちがいない。能は、その衣裳によっても足利将軍と拮抗したのであろう。
(『遊行の博物誌―主と客の構造』)

 「神遊び」から「人遊び」へ●芸能の歴史をさかのぼると神々の歴史になり、神々の歴史はいつのまにか芸能の歴史にくみこまれる。はじめは遠方から来臨する「客」(まれびと)こそが遊ばされるための芸能であったのに、いずれ「主」(シテ)こそが遊ばします空間が芸能となった。中世とは、こうして「神遊び」が「人遊び」になるにしたがって芸能が自立する時代である。かつては神が人のモドキであったのが、ついには人が神のモドキになる時代である。ミソギやハライの感覚は次第に芸能(すなわち遊芸)にとりいれられた。そして、茶と花と能がここから誕生する。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 「天下」とは、信長が永禄10年(1567)に用いた「天下布武」の印判を機に世に広まった言葉である。「天下」という表現自体は古代より使われていた。頼朝も「天下の草創」をうたっていた。けれども信長が僧沢彦のアドバイスによって使用した「天下」は、中国宋学によって復興したいささか儒学的な「天下」概念の日本への適用だった。
(『日本の美と文化 art japanesque』)

 ワビと黄金●信長と秀吉の時代は、しばしば「ワビと黄金」が同居したといわれます。信長の安土城や秀吉の黄金の茶室がそれを典型的に暗示します。しかし、ワビと黄金が同居しただけではないのです。天下人と町衆、城と店、槍と鉄砲、法華衆とキリシタン、花鳥画と風俗画、弥勒と福神など、多くのモノやコトが対比的に同居していきます。このような時代の中、オゴリとワビは踵を接します。それまでは拮抗せざるをえなかったオゴリとワビが初めて合意を見出すのです。利休も「わび過ぎてはさはやかになきもの也」(『南方録』)と言った。ここにワビからサビへの転出がおこります。
(『花鳥風月の科学―日本のソフトウェア』)

 浄瑠璃と近松門左衛門(1653-1725)―日本芸能の頂点
 浄瑠璃は日本文芸ならびに日本芸能の最高峰のひとつである。加わるに語りを聞かせ、太棹が鳴り、人形遣いを見せるとなると、もはやこの峰を超えるものは他にない。おそらく頂点にある。いや、能の謡いもあるではないか、声明もあるではないかというかもしれないが、これらの特色はすでに浄瑠璃の中にみんな入っている。いや、清元や新内や小唄があるではないかというのなら、これはとんでもないこと、先に浄瑠璃があり豊後節があって、それがしだいに清元・新内になり小唄になった。何といっても浄瑠璃がすべての母なのだ。その浄瑠璃を確立した当初の近松にして、すでに絶品を究めてしまったということだ。これは連句の発句を自発させて俳句とした芭蕉において、最初が絶品となって後続が蕉風になったことと似て、新たに前人未到に入った者にのみ添う輝きというものだ。
(『松岡正剛 千夜千冊』)

 山本定朝『葉隠』(1716)―「忍ぶ恋」の武士道
 『葉隠』が何を書いているのかというと、一言でいえば、じつは「忍ぶ恋」ということです。とかく「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉ばかりクローズアップされていますが、そこが大事なのではない。徹底して「奉りおきたるこの身」ということを書いている。この「奉りおく」というところが武士道が伝えつづけた日本の精神です。そして、それをことさらに人に口外をしないで、ひたすら忍んでいく。それが「忍ぶ恋」です。それが武士道です。
(『神仏たちの秘密――日本の面影の源流を解く』)

 上田秋成『雨月物語』(1776)―スタイルの競争
 『雨月物語』は中国と日本をつなぐ怪奇幻想のかぎりを尽くしている。・・・・・・『雨月物語』が日本文学史上でも最も高度な共鳴文体であることにも目を入れこみたい。問題は文体なのである。なぜ文体かということは、秋成の生涯にわたって儒学・俳諧・浮世草子・読本・国学という著しい変遷を経験してきたことと関係がある。とくに宣長との論争、煎茶への傾倒、および目を悪くしてからの晩年に「狂蕩」に耽ったことを眺める必要がある。それらは国学にしても茶にしても、むろん儒学や俳諧にしても、文体すなわちスタイルの競争だったのだ。(『松岡正剛 千夜千冊』)

 『国家』のない日本●日本にはさすがにプラトンの『国家』はなかったが、そのかわりに『古事記』から『花伝書』までが、『神皇正統記』から『日本外史』までが、『平家物語』から『雨月物語』までが、『五重塔』から『倫敦塔』までが、プラトンの国家の断片だったのである。それらが暗示してきたものがプラトニック・ステーツだったのだ。なんならこれに『奥の細道』や『茶の本』を加えたっていい。そして、これらに共通して等しく暗示されていたことは、日本にはどこかでマイナスに穿たれた尊いものがあったはずだということだった。これは折口信夫がそう呼んだ「妣が国」であり、山本健吉や丸山真男が指摘した「稜威」であり、鈴木大拙が名付けた「日本的霊性」であり、また、なんとなく呼ばれてきた常世や補陀落やニライカナイ、あるいは悪所やアリンス国や事事無礙法界というものだった。
(『松岡正剛 千夜千冊』)

 宣長と戦意高揚思想●よく知られているように、宣長は「もののあはれ」を説いた。「風雅」を重視した。その「もののあはれ」や「風雅」は古と今とを二重多重に結びつけることをいう。本来と将来をつないで生きることをいう。この古と今は密接につながっている。それを安易に切断してしまえば、どうなるか。宣長は「思ひやり」がこの世から欠如すると見た。宣長にとって、今とは適当でちゃらんぽらんな「浮き世」などではなく、日本の歴史の根本につらなる「憂き世」なのである。その今をなんとか「あはれ」と「思ひやり」によって古につなげるには、多重的な「擬」が必要だと、そう宣長は見通していた。
(ウエッブサイト「千夜千冊」)

 価値観ががらがら変わる国●日本という国は価値観ががらがら変わる国である。明治維新から太平洋戦争まで、婦人運動からマルクス主義まで、関東大震災から阪神大震災まで、天皇信仰から天皇人間宣言まで、モガ・モボからガングロ・コギャルまで、プロ野球から大晦日の格闘技まで、保守合同から連立政権まで、ともかくよく変わる。
むろん日本でなくとも時代は変わるものだが、日本ではその変化が国の隅々まで一斉なのだ。数百万部を競いあう大新聞と何でも呑みこむ巨大テレビ放送網のせいもあるし、そもそも「うつろひ」に敏感な国民性のせいもある。
(『松岡正剛 千夜千冊』)

 9・11(2001)と協同性―有事と平時
 欧米では協同性は有事においてこそ称えられる。9・11でニューヨークの消防団が称えられたのはそのせいだ。それは根底に軍隊における勇気や友情が近似的な前提になっていることが多い。「ダイハード」「リーサル・ウェポン」「マトリックス」、みんなそうだ。ところが日本では平時の協同性に、なんともいえない厚みがある。小津安二郎なのである。NHKの朝ドラなのである。それは「ぬくもり」「礼儀ただしさ」「以心伝心」などでできていて、そこにはたえず「みんなのおかげ」という意識がはたらいている。
(ウエッブサイト「千夜千冊」)

 沖縄の力●沖縄は日本・中国・ポリネシア・東南アジアを同時にスクリーニングする力をもっている。それは八重山上布や宮古上布にあらわれている。そのうえで沖縄には内地人をヤマトンチューと呼べる度胸がある。いまだ日米基地問題では悩んではいるけれど、沖縄人にはきっと自己主張力があるので、そのうち突破するだろう。
(ウエッブサイト「千夜千冊」)

 日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある。
(ウエッブサイト「千夜千冊」)

 また、本書の「あとがき」の冒頭で、著者は次のように書いています。

 「日本には古来このかたグローバリズムとパトリオティズムが、ユニヴァーサリズムとローカリズムが、たいていは二重に、ときに多重に、かつ表裏の関係ではたらいてきた。漢風と国風、真名と仮名、朝廷と幕府、公家と武家、和魂と洋才、和語と英語が並び立ち、いまなお旅館とホテル、和食と洋食、洋画と日本画があいわらずの二頭立てなのだ。だいたい国名の呼び方にして『にほん』か『ニッポン』かが決まらない。
 こうした特色を大きな目で見てみると、吉田茂時代を中心に戦後日本の社会特色を研究してきたジョン・ダワーが言うように、日本はひょっとするとJAPANとしてまとめようとするよりも、JAPANSというふうに複数形でみなしたほうがいいのかもしれない。日本はそれほど『一途で多様』なのだ」

 わたしは最新刊『決定版 おもてなし入門』(実業之日本社)を執筆しているとき、「おもてなし」と「ホスピタリティ」について考え続けたので、松岡氏の言いたいことがよくわかりました。

 日本文化はある意味で謎に満ちていますが、著者は次のように述べます。

 「つまり日本は早くから遊民と常民がまじっていて、加えてそこには渡来民が次々に入ってきたので、やがて生活習慣や風俗文化はさまざまに習合されたのだった。日本はもとよりハイブリッドなのである。ぼくはそこに日本の編集文化の特質を見てきた」
 さらに著者は、「日本」の語り方について以下のように述べます。

 「こういう日本を一様に語るのは、もうよしたほうがいい。むしろ古代から現代を、新たな多様多彩な視野と説明力によって語ったほうがいい。そのうえでたとえば『冷えさび』『枯山水』『もどきの歌舞伎』『アニメな文化』を、『蝦夷』『志野』『ヤクザ映画』『Jポップ』を浮上させたほうがいい。宗教感覚ももっと磨くべきである。それは信仰であるとともに、生活であり文化なのである。たしかに日本人はいまでも各地で『イノリ』と『ミノリ』を重視しているが、そうだからといって『瑞穂の国』とはまとめがたく、『神々の国』だとも言いがたいのだ。仏教をもたらしたのは渡来民なのである。われわれは仏式で葬儀をすることに慣れたのだ」

 わたしは、神式で結婚式をあげ、仏式で葬儀をすることに日本人の真髄があると思っています。それにしても、日本人は日本を語らなくなりました。いや、語れなくなりました。
そのことについて、著者は以下のように述べています。

 「日本人が日本を語れなくなったのは、教養がすたれて修養を選んだからだと言ったのは唐木順三だった。明治30年あたりにその変異がおきていると指摘した。水村美苗は『日本語が滅びるとき』で、明治の文章(たとえば露伴)が読めなくなった今日の日本人には、日本が欠けていると言った。いずれも儒学・国学・仏教の知が脱落していったことを問題にしている」

 まったく同感です。本書に掲げられた470の言葉の最後を飾る「日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある」が読者の心を突き刺します。わたしたちは、もっと日本を語るために、儒学・国学・仏教を学ぶ必要があるのではないでしょうか。そして、日本人の「こころ」を支えている神道・仏教・儒教をトータルで考えることが必要だと思います。
 本書は分厚く、そこに収められた情報は膨大ですが、一気に通読すると、さまざまな問題を解く糸口が見えたような気がして、心が軽くなりました。

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