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月と日本建築』

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No.1035

 

 今夜は満月ですね。そこで今回の読書館では、『月と日本建築』宮元健次著(光文社新書)を紹介します。


 世界平和パゴダ奉賛会の副会長で、公益社団法人出光佐三記念美術館友の会会長の八坂和子さんからお借りした本です。一気に読了した後、本を八坂さんにお返しし、自分でもアマゾンで1冊購入しました。著者は1962年生まれ、87年東京芸術大学大学院美術研 科終了。龍谷大学国際文化学部講師(庭園史・庭園デザイン)・助教授などを経て、現在大同工業大学工学部教授を務めています。日本建築史や庭園史に関する著作が多いです。

 

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   本書の帯


 

 「桂離宮から月を観る」というサブタイトルがつけられ、帯には「月の魔力か、滅びの美か 桂離宮、銀閣寺、伏見城に秘められた数奇なドラマ」と書かれています。カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


 「古来、観月と日本建築は深く結びついていた―。
 なかでも、八条宮智仁親王によって創建され、『日本の美のシンボル』と称される桂離宮、斜陽の将軍・足利義政が晩年の情熱のすべてを傾けた銀閣寺、豊臣秀吉が『不死身』を祈って造った伏見城を語る上で、月の存在を無視することはできない。日本文化に重要な痕跡を残した彼らは、どんな月を眺めていたのだろうか。敗者のシンボルか?滅びの美か?月に翻弄された数奇なドラマがここにある」

 

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   本書の帯の裏


 

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「はじめに」
第一章 桂離宮・・・・・・月を仕掛けた建築
第二章 観月と日本建築
第三章 勝者と敗者のシンボル
第四章 伏見城・・・・・・豊臣秀吉の死の不安
第五章 銀閣寺・・・・・・足利義政の孤独、月への逃避
「おわりに」
「参考文献」


 第一章「桂離宮・・・・・・月を仕掛けた建築」の冒頭には「桂離宮の建つ桂川のほとり、京都・桂地方は、古くから観月の名所として知られてきた」と書かれ、この地がいかに月と深く関わってきたかを説明した後で、次のように書いています。


 「このような場所に建てられた建物であるだけに、桂離宮の設計者・八条宮智仁親王、そして後継ぎ智忠親王も造営に際して月を強く意識したらしい。桂離宮には、『月見台』、『浮月の手水鉢』、『月見橋』、『月波楼』、『歩月』などの月に関する名称、また『歌月』の額、月の字の引き手、月の字くずしの欄間、などの月に関する装飾が数多く見られる。そして、単に名称や装飾のみならず、建築上の仕掛けについても、観月への工夫と配慮を随所に見つけることができる」


 著者は、「観月」について以下のように述べています。


 「通常、観月は四季それぞれに趣のある満月を観賞することにその目的がある。しかし、ただ単に満月のみではなく、居待の月、伏待の月といって、たとえ月齢が何であったとしても、いずれもその月の出端を、古来より最も高く評価してきた。月の出にこだわってきたのは、おそらく現代でいう『地平拡大』という地面に近い天体ほど大きく見える性質のためであると思われる」


 そして、これを踏まえた上で、桂離宮について以下のように述べます。


 「桂離宮の書院群は、一瞬でも早く月の姿を望みとらえようとの意味から、高床とし、さらに空高く上がった月を何物にも遮られることなく観賞するために、軒を短く切りつめたのではないだろうか。なによりも桂離宮の中で初めて建てられた古書院には、すでに月見台と呼ばれる観月のための縁台が設けられているのであり、桂離宮は、その創建当初より、明らかに観月への配慮が施されていたものと考えられる」


 さらに、著者は観月への綿密な計算について次のように述べています。


 「元来、観月というものは、四季折々の趣きのある月を愛でるものであるが、特に十五夜の月の出が何物にもかえがたい無上のものとして高く評価されてきた。また、満月だけではなく、たとえどんな月齢であっても、いずれもその出端を最も高く評価したのである。従って、月の出を望み見ることを主目的とした庭園建築は、一瞬でも早く月の出を望みたいという欲求から、古来より様々な工夫が凝らされてきた」


 桂離宮は月の運行と一対の建築だったというのが著者の説です。著者は、具体例をあげて以下のように述べています。


 「このような各季節の月の出の方位をもとにした仕組みを持つため、桂離宮の建築と庭園は月の運行と一体となっているということができる。例えば春に使う施設では、春の月の出をほぼ正面に捉えることができ、秋、冬も同様にその季節的性格を持つ施設で、月の出を何物にも邪魔されることなく正面に捉えることができるのである」

 

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   天河大辨財天社から見上げた今夜の十三夜の月(撮影:鎌田東二)


 

 著者は「そもそも人はなぜ月を見るのだろうか」と読者に問いかけ、「月の運行は三日月に始まり、十五夜で満月を経て新月で死に、再び三日月に生まれ変わる。そこで月は古来、不老不死や永遠性、あるいは輪廻と結びつけられてきた」と答えています。「月」と「死」の結びつきについては、拙著『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)にも詳しく書きましたが、本書『月と日本建築』の著者である宮元氏は述べます。


 「こうした月と死(不死)を文学に結びつけた例も多い。例えば『源氏物語』の『宿木の巻』には、乳母が月を眺めようとする姫を『縁起が悪い』と諌めるシーンがある。これは『月忌み』が転じて『月見』になったことを示すものである。また『桐壺の巻』では、桐壺の死を暗示するものとして月光が用いられている。さらに『竹取物語』でも『月の顔見るは忌むこと』としている。その他、『更級日記』にも稚児の寝顔に月の光が差し込むのを恐れて、袖で光を遮るシーンが見られ、『後撰集』にも『月をあはれといふはいむなり』といった詞書が出てくる」


 月と仏教の関係についても、著者は次のように書いています。


 「仏教の生みの親・ブッダは、満月の下で悟りを開いたといわれる。禅僧・道元も『悟りは水面に映った月のようなものだ。月は濡れることもなく、水面を乱すこともない』と自伝に記した。ブッダが月満ちるときに悟りを開いたように、後の追求者たちも月の影響について数多く書き残している(中略)すなわち菩提心(悟りの心)は月だというのだ。言い換えれば月にはあの世があり、そこに往生することこそが悟りであるというのである」


 ブッダが満月の下で説いたとされるのが「慈経」です。わたしは、ドビュッシーの「月の光」を聴きながら『慈経 自由訳』(三五館)を書きました。


 第二章「観月と日本建築」の冒頭には、次のように書かれています。


 「室町時代の将軍足利義政が日本文化に残した足跡は、銀閣寺の造営だけではない。能においても多大な役割を果した。彼は熱狂的な能楽ファンであった。猿楽能の完成者として知られるのが世阿弥である。猿楽者・観阿弥の子として1363年に生まれる。本名観世三郎元清。その世阿弥をルーツとするのが、現在まで続く観世流である。『後愚昧記』によれば『散楽は乞食の所行なり』といわれ、賤民階級の声聞師のさらに下に置かれていた。その乞食の子・世阿弥が将軍義満に重用され、猿楽能を大成させた。
 しかし、1408(応永15)年義満が没して将軍職を義持が継ぐと、父が弟義嗣を可愛がったことに嫉妬して金閣などわずかな建物を残して北山第を破壊、世阿弥も逆境に立たされ嫡男元雅まで失ってしまう。演能よりもっぱら執筆と作品作りに過ごしていた」


 著者は、世阿弥の創造した夢幻能について次のように述べます。


 「ちょうどこうした世阿弥の逆境時代に生み出された作品の多くが夢幻能と呼ばれるものであり、死者あるいはもののけが無念の気持ちを語り、それを時宗の旅の僧侶が聞いてやるという鎮魂のストーリーとなっている。果して世阿弥はどんな気持ちでこうした作品をつくったのだろうか。
 義満が金閣寺を造営した時期も内乱と大飢饉が絶えなかった。都は地獄絵と化していたが、幕府は死体を放置したままなのだ。義満はわずか38歳で出家、将軍職を子・義持に譲ったものの超俗の立場であくまで実権を握った。剃髪も信仰も権勢のためであった」

 

 栄華をきわめた足利義満と世阿弥について、著者は次のように述べます。


 「世阿弥は、この義満に死者の無念をテーマにした草創の頃の夢幻能を見せ続けた。そして逆境に入ると、もっぱら夢幻能ばかりをつくった。これは後継ぎ義持を意識してのことではないか。底辺社会のために心を尽くした時宗とかかわりの深い阿弥衆として、あるいは都の地獄を顧みない将軍へのメッセージとして夢幻能は生み出されたのではあるまいか」


 世阿弥は「幽玄」というものを表現しました。著者は述べます。


 「能の美を幽玄というが、幽玄の美とは果してどんな美なのだろうか。幽玄美を説明する上で、古来欠くことのできない要素こそが『月』であった」


 『徒然草』にも、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方しらぬも、なほあはれに情ふかし」と書かれています。要するに、気象の変化などによって月が不完全に見えるものを「幽玄」あるいは「あはれ」として尊んでいるのです。


 「俳聖」と呼ばれた芭蕉は「侘び」というものを追い求めました。著者は、芭蕉について以下のように書いています。


 「芭蕉にとって『侘び』という未完成な美はやはり月をもって表現されるのである。それでは、未完成の美である『あわれ』『侘び』そして『幽玄』を表現する上でなぜ月が重視されるのか。月は、毎日満ち欠けを繰り返している。満月はほんのわずかで、そのほとんどが欠けた状態にある。要するに月そのものが未完成の美であると言えないだろうか。
世阿弥は民衆を顧みることなく権力に取りつかれた将軍義満や義持に『幽玄』をつきつけた。千利休は朝鮮侵略に慢心する関白豊臣秀吉に『侘び』をつきつけた。その結果、流刑となりまた切腹を命じられたのである。
 断念すること、不完全で終わること、すなわち、月の未完成の美こそが世阿弥と利休の権力者へのメッセージだったのではないだろうか。そして未完に終わった桂離宮にもやはり、同様の美が備わったといってよいだろう」


 さらには、こうした世阿弥のあみ出した「幽玄」の美意識は、元をたどれば歌人・西行へいきつきます。西行は花の歌人として有名ですが、実は花とともに月も重要なテーマとしていました。月の歌のほうが数では花を上回るほどで、散る花だけでなく、月の満ち欠けにも幽玄を見出したのでした。ちなみに、「歌聖」と呼ばれた西行を心より尊敬していたのが「俳聖」と呼ばれた芭蕉です。西行と同じく、芭蕉もまた大量の月の句を残しています。


 著者は、その晩年を旅に費やし、ついには旅先で倒れた芭蕉に触れつつ、「そもそも人はなぜ旅するのだろうか」と問いかけ、以下のように述べます。


 「江戸時代までの旅は今日の余暇の一環のようなものではなく、いつなんどき追いはぎや野獣に襲われ、あるいは病気となるか分からない危険と隣り合わせの行為であった。それでも人々を旅にかり立てた背景の1つには、江戸時代に大流行した『お伊勢まいり』や『日光詣で』などにみられる信仰があったといってよい。
 旅人が目指したこれらの聖地は、死霊や祖霊の潜む『あの世』であった。あの世へ他界し、罪や穢れをくい改める、すなわち過去を清算することによって、再生すること。これが旅の本質の1つであったといわれる」

 

 では、日本人はなぜ月を愛でるのでしょうか。著者は述べます。


 「日本は湿度が高く、夕焼けや月がより美しく感じられる風土を持っている。とりわけ夜間照明の未発達であった時代には、漆黒の闇に光輝く月は大いなる驚異であった。ゆえに古来月を眺めることは、日本人にとってなくてはならない生活習慣の一部となった。夜間照明としての月、暦としての月、信仰としての月。月は日本文化の中に深く根ざして今日に至っている。とりわけ、月は花鳥風月に取り上げられる通り、自然の中で最も重要な芸術の題材の1つともなった」

 

 さらに著者は、次のように日本文化と月について述べます。


 「西欧では観月の風習はほとんど見られない。日本人にとって観月は、信仰と遊興をかねそなえた風習であるとともに、自然と人生を結びつける行為の1つであったといってよい」


 「日本において古来、『月待ち』という風習を行なうのが常であった。すなわち特定の日に集団で飲食を楽しみながら月の出を待って拝むのである」


 本書を読んでいて、もっとも刺激的だったのは、「楼閣建築の誕生」について述べられたくだりでした。日本独特の風習である月待ちは、日本の庭園建築における観月の文化を育てました。中世の庭造りのバイブルとして知られる『作庭記』には、床が高く軒の出が短い建築を「楼」といい、楼とは月を見るための建築であると定義しています。


 なぜ軒が短いのかというと、中天した月を何物にも遮られることなく室内から眺めることができるからです。また、なぜ床が高いのかといえば、月の出を一瞬でも早く見るための工夫なのです。

 

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   リニューアル完成した小倉紫雲閣

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   「月の神殿」にして「精神文化の殿堂」を目指す!


 

 この楼閣建築は、禅宗において発展します。著者は述べています。


 「禅宗寺院の楼閣化は、さらに本堂である方丈にまで及び、建仁寺では慈視閣、南禅寺雲門庵には甘露宝閣、西芳寺でも無蓬閣と呼ばれる2階建ての方丈が建てられた。そして建長寺では蓬春閣と並んで、ついに得月楼と呼ばれる月を意識した楼閣が生み出された。そして、こうした流れが足利将軍邸の2階建ての観音殿へ発展し、金閣や銀閣、飛雲閣といった観月目的の楼閣建築を生み出したわけである」


 じつは、わたしのブログ記事「小倉紫雲閣リニューアル完成!」でも紹介したように、昨年12月26日に小倉紫雲閣が生まれ変わりましたが、徹底して「月」を意識したデザインとなっています。金閣、銀閣、飛雲閣、そして紫雲閣・・・・・・「月」を見るための、または月光を浴びて美しく輝くための日本建築のDNAが突如として復活したのです。新しい小倉紫雲閣は、「月の神殿」にして「精神文化の殿堂」を目指します。


 「月」といえば、欠かせない要素があります。そうです、「水」です。太陽が「火」のシンボルであるように、月そのものも「水」のシンボルなのですが、日本では古来より水面に映った月が鑑賞されてきました。著者は、以下のように次のように述べています。


 「京都・三条万里小路の泉殿は『掬月』と命名されていたとされ、月を眺めたという。掬月、すなわち月を『掬う』という意味であり、これは、水面に映じた月を手で掬うことからきている。
 銀閣寺にも『洗月泉』と呼ばれる滝があるが、これも月を『洗う泉』と書くことから、水面に映った月を滝の水が洗うことから命名されたと考えられる。
 毎日のごとく月の出を眺め、また空高く昇った月を賞することに飽きた人々は、月をただ単に直視するだけではなく、あえて水面に映り込んだ月すらも観賞の対象としたのである」


 「それでは、なぜこれほどまでに水面に映る月にこだわったのだろうか」と著者は問いかけ、以下のようにその理由を推測しています。


 「おそらく月の虚構性の強調にあったのではないか。すなわち太陽がそれ自体発光する『実体』であるのに対し、月は太陽の反射光で光る『虚構』である。そのはかなさこそ、月の魅力である。虚構である月がさらに水面に映った様に、『もののあはれ』を感じたに他ならない」

 

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   「月の広場」にて

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   実際の月の満ち欠けに対応して変化します


 

 小倉紫雲閣には、水と関わりの深い施設が併設されえています。2007年(平成19年)12月に完成した「月の広場」です。これは、葬儀における出棺時の名残惜しさを解消するために創出されたロータリー広場です。霊柩車が周回してから出棺する演出は、ご遺族・ご参列者の心に残るものとして高い評価をいただいています。また、ロータリー中央に設置されている円形の噴水は、コンピューター制御によって月の満ち欠けを一定周期で表現する仕掛けとなっています。このようにデザインといい、趣向といい、小倉紫雲閣は桂離宮や銀閣寺のめざした「志」を受け継ぐ日本建築なのです。小倉紫雲閣を訪れる機会のある方は、そのあたりをぜひお確かめ下さい。