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相撲、国技となる』

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 No.1029

 

 11日から大相撲の初場所が始まりましたね。『相撲、国技となる』風見明著(大修館書店)を読みました。

 

 著者は早稲田大学理工学部大学院修士課程を修了後、三洋電気に入社し、もっぱら半導体の開発に従事した人です。仕事のかたわら、日本文化の再発見に関心を持ち、『「技」と日本人』『「色」の文化誌』(ともに工業調査会)を著し、法政大学非常勤講師も務めました。

 

 なぜ、わたしが2002年に刊行された本書を読もうと思ったか? それは、昨年11月23日、32度目の優勝を決めた白鵬が優勝インタビューで、「明治初期に断髪事件が起きた時、大久保利通という武士が当時の明治天皇と長く続いたこの伝統文化を守ってくれたそうです。そのことについて、天皇陛下に感謝したいと思います。」と語ったことが大きな理由です。

 

 日本人でも知らない事実をモンゴル人の白鵬が語ったことに日本中が驚きましたが、わたしもその1人でした。そこ「文明開化」の嵐が吹き荒れた明治時代に相撲が国技となり、現在に至るまで存続していることに大きな関心を抱いたのです。アマゾンで本書の存在を知り、早速購入して読みました。

 

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   本書の帯


 

 本書の表紙カバーには二代目歌川国明による「弥生神社天覧角觝之図」の錦絵が使われ、帯には「相撲は無用か―起死回生の手はあるか」「ソレ相撲ナルモノハ文明人民ノ為サザル所ナリ、と禁止論まであった明治初期。人気が回復した明治の半ば以降も、雨が降ればたちまち順延の掛小屋興行。しかし、国技館誕生を機に、相撲道を大改革。―国技への道。」と書かれています。

 

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   帯の裏では「目次」を紹介

 

 

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


「はじめに」
【第一章】 相撲禁止論から天覧相撲へ―明治初めの起死回生
【第二章】 回向院の掛け小屋興行―雨天につき本日休業
【第三章】 常設館設置へ―このままでは外国人に見せられない
【第四章】 ドーム屋根の国技館誕生―会館場所は連日大入り
【第五章】 風紀を正す―品格あるプロスポーツをめざして
【第六章】 力士同盟、新橋倶楽部にこもる―報酬制度の改革
【第七章】 千秋楽の熱気―東西対抗制が闘争心を高揚
【第八章】 時代にあった番付に―十両の増員と行事の完全年功序列化
「おわりに」
「参考文献」
「東京相撲明治史年表」

 

 「はじめに」の冒頭で、著者は次のように書いています。


 「明治42年に開館した、鉄筋構造でドーム屋根が特徴の、当時、東洋一の大きさの建物と言われた国技館(現在は旧両国国技館と呼ぶ)は、従来の相撲場が興行直前に木材を組んで作り、興行が終わればすぐ取り壊す掛け小屋だったことを考えると、革新的なものであった。
 国技館設立の目的は相撲場の改革だけではなかった。もう1つ、これと抱き合わせられた『相撲道』の改革があった。この改革は相撲を品位あるものにすることと、真のプロスポーツにすることとを柱とするものであった。よく知られた、力士の羽織袴での場所入り、行事の烏帽子直垂、幟の廃止、東西対抗制などはこの一環であった」


 これらの改革なくして、相撲が名実ともに「国技」の地位を得るのは難しかったのです。

 

 明治維新後から、日本中が「文明開化」の渦に巻き込まれます。そんな中で、世間では相撲無用論や相撲禁止論が起こりました。横山建堂著『日本相撲史』には、「野蛮の遺風であるとせられ、裸踊りと嘲られ、此の国辱的催物を速やかに禁止せよとまで極論さる」と書かれています。そして、明治4年(1871年)8月、当時の政府によって「断髪令」が布告されました。当然ながら力士は髷を結っています。髷がなければ力士ではありません。空前の危機にあった相撲ですが、なんとか力士の髷は断髪令の例外として認められました。それでも、新しい時代を迎えるに当たって相撲への風当たりは強かったのです。

 

 しかし、そういった風潮を吹き飛ばしたのが明治17年3月に浜離宮延遼館で行われた天覧相撲でした。明治天皇が相撲観戦をされたことによって、東京相撲は往年の人気を取り戻したといいます。天覧相撲について、著者は以下のように書いています。

 

 「この天覧相撲は、勝ち力士に与える花を挿した花道を設けたり、行事が力士を呼び上げるなど、平安時代に盛んに行われ、以後途絶えていた宮廷での相撲節会を彷彿させるものであった。この天覧相撲は、明治天皇の信任が厚く、事実上実力一の政治家だった内務卿の伊藤博文が企画したものとされている」

 

 ここで、白鵬が口にした大久保利通ではなく、初代総理大臣にもなった伊藤博文の名が出てきました。著者は、天覧試合と伊藤博文についてさらに述べます。

 

 「梅ヶ谷が直前に横綱免許を受けたのは、横綱不在で横綱土俵入りができないことを憂慮した伊藤内務卿が、贔屓の梅ヶ谷を横綱にするよう会所に働きかけた結果であり、また、梅ヶ谷が横綱土俵入で使用した化粧回しは、伊藤内務卿が誂えて贈ったものだったという。こうした働きかけや気配りは、伊藤内務卿がいかにこの天覧相撲に賭けていたかを物語るものである。なお、この晴れ舞台で土俵入りを務めた梅ヶ谷は、翌年暮れに引退し、江戸時代の年寄名跡・雷権太夫を継ぎ、やがて取締となり、国技館設立の事実上の責任者として活躍した」

 

 この天覧相撲は、一般庶民に先立って、実際に観覧した国政指導者層(上流階級)に、東京相撲の存在価値やステータスを認識させることに成功しました。浜離宮延遼館での天覧から2年後、両国の回向院の近くに野見宿禰神社が創設されました。野見宿禰は垂仁天皇の前で当麻蹴速と相撲をとって投げ殺し、後年、相撲の神と崇められるようになった人物です。ここに東京相撲は完全に日本国民から認知され、相撲は「国技」の地位を得たようです。やはり、日本におけるブランドは「天皇」と深く関わっているのですね。

 

 それにしても、本書を通読しても、白鵬が感謝の対象として名前をあげた大久保利通はまったく登場しませんでした。代わりに伊藤博文が相撲存続の重要人物として登場します。「週刊新潮」2014年12月4日号には「優勝32回『白鵬』がふと洩らした『大久保利通』」の見出しで、1971年の「断髪令」の際に、「力士はお構いなし」と明治天皇に献言したのが大久保であるという説を紹介しています。しかし、相撲博物館の関係者は「この説が文献に残っているかは不明。力士たちに歴史を教える相撲教習所の教科書にも、該当する記述はありません」とコメントしています。

 

 歴史作家の桐野作人氏は、「大久保の当時の日記や書簡を見ても、相撲に関わる記述は見当たらないと述べ、さらには西郷隆盛との混同があったのではないかと推測し、以下のように語っています。


 「西郷は相撲好きで、明治天皇と相撲をとって投げ飛ばした、という逸話もあります。西南戦争で賊となった西郷の名誉回復は1889年ですが、同年、天皇は西郷の弟の従道邸に行幸しました。この時従道邸前庭で天覧相撲が供されましたが、これは兄を偲ぶよすがは相撲だ、という従道の配慮なのでしょう」

 

 相撲の歴史に関する古典である『日本相撲史』にも、相撲蛮風論が吹きまくった折、廟堂では西郷隆盛をはじめとした諸名士がこれに反対だったと書かれているそうです。わたしは、西郷隆盛が相撲好きだったというのは大いに理解できます。なぜなら、彼の本当の肖像写真は謎とされていますが、その体躯が巨大であったことは多くの人々の証言から間違いがありません。ならば、巨体の人間は当然ながら相撲が強いはずで、それゆえ自身が得意な相撲を愛好していた可能性は大だからです。

 

 どこで西郷と大久保の混同が起こったのかはわかりませんが、「文明開化」の激流の中で「ラスト・サムライ」である西郷が相撲という武士道に通じる日本文化を残そうとしたことは大いに考えられます。また、相撲の丸い土俵は「和」そのものであり、「日の丸」や「円」にも通じます。

 

 アドバイザーの正体が伊藤であれ、西郷であれ、はたまた大久保であれ、いずれにせよ相撲存続の最終決定をしたのは明治天皇です。そこには日本人の「こころ」をそのまま「かたち」にした土俵に対する明治天皇の想いがあったように思います。当時は、急激な西欧化の中で、大和魂というものが希薄になっていました。明治天皇は、「相撲を残すことによって大和魂を残すのだ」と考えたのではないでしょうか。わたしには、そのように思えてなりません。