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殉愛 原節子と小津安二郎』

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 No.1023

 

 クリスマス・イヴにふさわしい清らかな愛についての本を読みました。『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎著(新潮社)です。

 

 この読書館で紹介した『殉愛』のレビューを読んでいるときに、同タイトルの本書をアマゾンで知りました。著者は、1951年に佐賀の老舗旅館「松川屋」の長男として生まれ、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業しています。卒業後は「キネマ旬報」のパリ駐在員などを経て、現在は佐賀県を拠点に映画評論家して活動しているそうです。著書に『黒澤明 封印された十年』『ぶれない男 熊井啓』(ともに新潮社)などがあります。

 

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   本書の帯


 

 表紙には「日本映画界の巨匠」小津安二郎と「伝説の女優」原節子のツーショット写真が使われています。帯には「もう一度、小津先生とごいっしょに、精一杯の仕事ができたら」「映画に殉じ、60歳で世を去った名監督。その彼に殉じ、42歳で銀幕を去った『永遠の処女』。映画史上もっとも美しい関係を描く―」「決定版評伝」


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


プロローグ―パリの原節子
第一章 節子の誕生
第二章 紀子の誕生 『晩春』(1949年)
第三章 忍ぶ恋 『麦秋』(1951年)
第四章 永遠の契り 『東京物語』(1953年)
第五章 孝子の季節 『東京暮色』(1957年)
第六章 秋子の季節 『秋日和』(1960年)
第七章 喪服を着けて 『小早川家の秋』(1961年)
エピローグ―円覚寺の小津安二郎
「あとがき」
「原節子・小津安二郎 全作品年表」
「主要参考文献」
「著者略歴」


 「小津安二郎&原節子」の2人は、日本映画界における最強コンビでした。この2人に対抗しうるコンビは、わずかに「黒澤明&三船敏郎」だけでしょう。原節子は、『晩春』『麦秋』『東京物語』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』という6本の小津作品に出演しています。本書の「あとがき」で、著者は次のように書いています。

 

 「原節子と小津安二郎の関係については、以前から書きたかった。理由は単純である。小津映画6作に登場した時の、原節子のあの官能的といっていいほどの異常な美しさは何なのだろう? と、いつも考えていたからだ。それは即ち、小津自身が原節子を愛していたからに他ならないと思った。その検証のために、この本を書いたと言ってもいい」


 本書では、原節子の人生と小津安二郎の人生がダブルで描かれます。当然ながら、後半の2人の人生はクロスオーバーするのですが、原節子という女優について考える上で非常に重要な存在となるのが、彼女の義兄である熊谷久虎という映画監督です。第一章「節子の誕生」には、この熊谷久虎によって、原節子は女優として映画界に飛び込む事情が描かれます。この義理の兄妹には「一線を越えた」という噂もあったようですが、原節子が17歳のとき、熊谷久虎はなんと美しい義理の妹を世界一周の旅に連れ出します。川喜多長政・かしこ夫妻も一緒でした。


 満州、シベリアを経て、ドイツのベルリンに到着。ここでは原節子が出演した日独合作映画『新しき土』の舞台挨拶を行いました。ドイツでは、『制服の処女』の先生役の女優ドロテア・ヴィ―クに会います。またパリでは、「舞踏会の手帖」のジュリアン・デュヴィヴィエ監督や男優のルイ・ジューヴェ、「巴里祭」の女優アナベラたちと会っています。さらにヨーロッパからクイーン・メアリー号に乗ってニューヨークへ向かい、ハリウッドで「モロッコ」のジョーゼフ・フォン・スタンバーグ監督や大女優マレーネ・ディートリッヒにも会いました。海外旅行など夢のまた夢であった戦前の時代に、感受性の強い17歳のときに世界一周を行い、各地で世界の映画界を代表する人物に会う。このように、女優・原節子のスタートは途方もなく華やかなものだったのです。


 第二章「紀子の誕生」では、小津安二郎が初めて原節子を起用した作品である『晩春』について、以下のように書かれています。


 「『晩春』は、劇中に能が登場する映画だが、実際に能の要素を取り入れた、小津作品中、最も官能的な映画だといっていい。1時間48分という比較的短い映画だが、無駄なカットが一切なく、どのシーンも必然性をもち、それぞれに緊密に連携し、特に清々しいまでの構成の美を感じさせる。それは、構成が、能の"序・破・急"を意識しているからだと思われる」


 このくだりを読んで、わたしはハッとし、「なるほど、小津映画は能のリズムに似ている」と納得しました。著者は、さらに次のように書いています。


 「小津の映画は、全部とは言わないが、多くは、この"序・破・急"のリズムを意識している。なかでも『晩春』は、特に能的なリズムにのっとった映画で、そのことが見終わってからの、見事なまでの無駄のなさ、きちんとした構造の強靭さを感じさせるのだ」


 著者は、外国映画にも能的リズムは見られるとして、なんと、ヒッチコックの『鳥』を具体例に挙げます。あの鳥が人間を襲うパニック映画の構成は"序・破・急"のリズムそのものだというのです。また日本映画では黒澤明の『影武者』を挙げ、「『影武者』も『晩春』も、中間部に実際のお能の観劇シーンが設けられ、それが長い時間をかけて写された。そのシーンが前半と後半のブリッジ部分となっている点も共通している。しかしその演目の性格は、両極端なほどに違っていた。即ち、黒澤の場合は、能の演目の中で最も勇壮な修羅場『田村』であったが、小津の場合は、最も官能的な夢幻能『杜若』であったという点が、真逆である」と述べています。黒澤明と小津安二郎という日本映画史を代表する二大巨匠の世界観の違いを示しているようで、非常に興味深いですね。


 さて、わたしは以前に自身のブログ記事「小津安二郎展」にも書いたとおり、小津安二郎の映画が昔から大好きで、ほぼ全作品を観ています。小津の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台だと知っていたのでしょう。


 本書には、『晩春』のラスト近くの結婚式の朝のシーンを紹介しています。


 原節子演じる紀子の支度が整い、みんなが式場に行こうとします。その前に、花嫁姿の紀子は笠智衆演じる父を呼び止め、三つ指をついて、「お父さん、長い間、いろいろお世話になりました」と言うのです。日本人なら誰でも涙腺が緩むであろうこのシーンについて、著者は次のように述べています。

 

 「小津の映画では、小津の考える日本人の"原風景"となるものが随所に描かれる。日本人であればこうあってほしい、こういう風景を見たい、こうするのが最も美しいといった心象風景を映画のなかで見せてくれるのだ。この結婚式の挨拶のシーンも、そんな"原風景"の典型である。年齢を重ね、小津映画を見てほっとするのは、日本人として後に続く者に教えておきたい、こうした日本人の規範を、きちんと描いてくれているからだろう」


 第四章「永遠の契り」では、小津映画最高の名作とされる『東京物語』が取り上げられます。著者は、19歳のとき、銀座の名画座で『東京物語』を初めて見ました。そのとき、「どこがいいのか、さっぱりわからなかった」そうです。ラストが近くなると、右隣の中年女性はオイオイと泣き、左隣のおじさんはグーグーといびきをかいて熟睡していたとか。


 しかし10年たち、20年たち、『東京物語』を再見すると、その凄さがわかってきたそうです。著者は、その理由を次のように述べます。


 「それは家族のなかから葬式を出す経験をしたからだ。つまり"死"というものがより身近になったからである。特に、この項を書いている頃、私は実際に母を亡くした。看病、危篤、死去、葬儀、全無整理の只中で、『東京物語』のことを書いている自分を不思議に思う。その体験を経た今、『東京物語』を見たら、私もあの名画座のおばさんのように涙してしまうだろう。静かに流れていく時間のなかで、今、自分が生きている世界から、ものが少しづつ消えていくことの寂しさ、虚しさ、無常観心から感じたのである。その意味で小津映画は、年をとればとるほど分かってくる映画の典型といえる」


 『東京物語』では、葬儀が終わった後の描写も見事です。著者は、次のように書いています。


 「葬儀が終わり、料亭で会食をする。杉村春子扮する長女の志げは、『ねえ、京子、お母さんの夏帯あったわね。あれ、あたし形見に欲しいの』と言い出す。その志げも、長男の幸一も、三男の敬三(大阪志郎)も、次々に帰っていく。実家に一遍に集まった人たちが、一人減り、また一人減っていく。篠田正浩が言った『何かが無くなっていく映画』とはまさにこのことで、この瞬間、去っていく者、残されていく者が残酷にも区分けされていく」


 そして最後まで老父(笠智衆)の側にいたのは、戦死した二男の嫁である紀子(原節子)でした。老父は、血を分けた子どもたちよりも親切な紀子に感謝の言葉を述べ、亡き妻の形見である女物の懐中時計を贈ります。著者は、次のように述べています。


 「父が懐中時計を渡した意味は、そこに"時間の永遠性"を表現しているのだ。たとえ持ち主が変わっても、人が滅して転じても、時間だけは常に絶え間なく流れていく。今という時間は、過ぎていく時間の最後の瞬間であり、次に来る時間の最初の時間だ。小津は『小早川家の秋』のラストで、笠智衆扮する農夫に、『死んでも死んでも、あとからあとからせんぐりせんぐり生まれてくるヮ』と言わせている。それと同じように、『東京物語』のこのシーンでは、流れては消え、流れては消えする時間の永続性、無常観というものを、時計というオブジェによって表現しているのだ」


 わたしは今、『永遠葬』というタイトルの著書の執筆準備をしているのですが、この文章を読んで、「儀式とは、時間の永遠性に関わるもの」ということを改めて痛感しました。


 執筆といえば、わたしには書かなかった幻の著書もたくさんあります。じつは、小津安二郎に関する本もそうでした。本書は、2012年に出版されましたが、翌年の2013年は、小津安二郎の生誕110周年でした。それにあわせて、わたしは小津映画の本を書く予定だったのです。実際に出版社から正式なオファーも受けていたのですが、残念ながら執筆を断念しました。なぜなら、その本を書くには大量の小津映画をもう一度観直さなければならず、わたしにはその時間がどうしても取れなかったからです。敬愛する人物の家族論を書くことに情熱を燃やしていたわたしにとって、執筆断念は大きな心残りでしたが、仕方ありません。

 また本書を読んで、わたしは「こんな素晴らしい小津安二郎論が書かれたのなら、自分の本など書かなくて良かった」と思いました。本書は「小津映画と冠婚葬祭」についても、しっかり言及してくれています。

 

 さて、懐中時計を紀子に渡した後、父の周吉(笠智衆)は、「妙なもんじゃ・・・・・・自分が育てた子供より、云わば他人のあんたの方が、よっぽどわしらにようしてくれた・・・・・・いやァ、ありがとう」と言います。著者は「この言葉が、『東京物語』の結論である」として、以下のように述べています。


 「血のつながりというものは、一時のはかない絆でしかない。いつかは、どこかでバラバラに崩れていくものなのだ。それ故に、人間同士の真のつながりとは、本当に人を思いやる気持ちと、それに対しての感謝の気持ちだという、ごく当たり前のことを、この周吉の台詞は語っている。だからこそ、笠智衆が言う最後の『ありがとう』に込められた心根は、万感の思いとなって、見る者の胸を揺さぶるのである」


 話を本書のメインテーマである「原節子と小津安二郎」に戻します。日本映画界を代表する大女優であった原節子はなぜ引退したのか? 著者は、その理由について、健康上の問題(白内障)や、近親者を次々に失って厭世的な不安を掻き立てられていたことを挙げています。しかしながら、「決定的だったのは、何と言っても小津安二郎の死である」と書き、著者は次のように述べます。


 「42歳という年齢は、まだ主役を張れる年ではある。しかし、司葉子、白川由美、星由里子という後輩の女優陣が追いかけてくる。彼女たちと共演しても、結局は脇役に終って、彼女をどうしても必要とするような作品に出会えない。そうなると、彼女の個性を理解して、彼女の美しさを最大限に生かしてくれたのは、小津安二郎の作品しかなかったことになる。それは、この頃出演した小津作品と他の作品とのレベルを比べてみれば、顕著に分かる通りだ。作品的にも、精神的にも、彼女にとっての大きな支えであった小津安二郎。望みの糧であった小津安二郎。その小津が、この世からいなくなる。彼女にとって、その喪失感、空虚感、絶望感は、筆舌に尽くせないものがあったはずである。その重要性からいっても、そのタイミングからいっても、小津安二郎の死が、原節子引退の引き金を引いたことは間違いない」

 

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   小津安二郎と原節子


 

 本書の表紙にあるツーショット写真を見ると、意外にも2人の顔がよく似ていることに気づきます。世間ではよく「夫婦は顔が似てくる」などと言うことが思い出されます。それにしても、なぜ2人は結ばれなかったのか?著者は「その答えは、多分こうだろう。ごく簡単にいえば、原節子はファーザー・コンプレックスであり、小津安二郎はマザー・コンプレックスであった。もちろん、人間は多かれ少なかれ、この2つの要素を必ずもっている。しかし、この2人はその度合いが桁外れて大きかった」


 それに加えて、大きな理由はありました。著者は述べます。


 「小津は、『きれいなものはきれいなままで保存しておきたい』と願った。『近くに寄って、嫌なものを見るよりは、近づかないで、美しいイメージのなかで思いこがれていた方がいい』と思った。
 一方、原節子は『自分は消極的で、生まれつき欲が少ない人間だ』と語っている。だから多少強引でも、自分を引っ張っていってくれる男性の方が、むしろ安心して付いていけたのかもしれない。
 こんな男女関係に遠慮がちな2人が一緒になっても、うまくいくはずがない。2人はそのことが重々分かっていたために、一歩踏み込んだ結婚という絆で結ばれるよりは、お互い、付かず離れずの距離感をとって、尊敬し合っていた方がいいという道を選択したのではないだろうか」


 「エピローグ」には、小津映画のセリフが以下のように紹介されます。


 「このままこうして1人でいたら、一体どうなるんだろうなんて、ふっと夜中に考えたりすることがあるんです」「猾(ずる)いんです」(『東京物語』)

 

 「やっぱり1人でいるわ」「もうこれでいいのよ。今さら、またもう一度、麓から山に登るなんて、もうこりごり」(『秋日和』)


 「あたしはこれでいいのよ。このままよ」「このままが一番いいと思うの」(『小早川家の秋』)


 そして、これからのセリフを紹介した後で、著者は述べます。


 「映画の画面が、フラッシュ・バックのように甦る。原節子は、小津が繰り返し書いた、これら紀子や秋子の台詞を、小津が希求した遺言と受け止めたのではないだろうか。その原節子の意志は、引退という形をとった"映画にも出ず、世間にも姿を見せず、まるで隔離された場所でひっそりと生活する尼僧にように・・・・・・。その意味で、原節子の小津への愛は、"純愛"というより"殉愛"だったということができよう」


 じつは本書には、もう1つの"殉愛"も描かれています。原節子を命がけで守り、「永遠の処女」という伝説を貫徹させた東宝のプロデュ―サー藤本真澄の"殉愛"です。彼の生き様を知り、わたしは静かな感動をおぼえました。本書を読めば、日本映画が最も輝いていた時代が蘇ってきます。


 小津安二郎と原節子の映画人生は、ともにわたしが生まれる前年の1962年で終わっています。せめて、彼らが情熱のすべてを燃やした、『晩春』『麦秋』『東京物語』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』の6作品をもう一度観てみたいです。最後に、「これが本物の『殉愛』だ!」と思いました。