No.0987 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『不敗の格闘王 前田光世伝』 神山典士著(祥伝社黄金文庫)

2014.09.29

 『不敗の格闘王 前田光世伝』神山典士著(祥伝社黄金文庫)を読みました。
 本書は、1997年に小学館より刊行され、第3回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した『ライオンの夢 コンデ・コマ=前田光世伝』を加筆・修正・改題したものです。前田光世とは「史上最強の柔道家」と呼ばれる、講道館黎明期の柔道家(7段)です。表紙カバーには、柔道着を着た前田光世の写真が使われています。

    本書の帯

 サブタイトルは「グレイシー一族に柔術を教えた男」で、帯には「世界を放浪し、異種格闘技戦2000勝無敗の伝説を残した『コンデ・コマ』と呼ばれた男が見た夢とは・・・・・・」「第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞後、第1弾」と書かれています。
 前田の青春時代は、柔道を世界に普及させることに命を懸けました。そして、その後半生は、日本からの移民入植者の手助けに全力を注ぎました。ブラジル帰化後の本名がコンデ・コマ(Conde Koma)です。

 前田光世は、1878年12月18日に生まれ、1941年11月28日に亡くなりました。Wikipedia「前田光世」には、彼の来歴が紹介されています。

 「青森県中津軽郡船沢村(現・弘前市)出身。1895年、青森県第一中学校(現・青森県立弘前高校)を中退して上京し、翌年早稲田中学(現・早稲田高校)に入学する。入学後は相撲や野球で名を馳せたが、東京専門学校(現・早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに柔道を始め、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。入門してからは講道館四天王の1人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ15人抜きを命ぜられる(見事これを達成)。またこの頃、東京専門学校に入学するも1904年に中退した」

 Wikipedia「前田光世」は、以下のように続きます。

 「4段位にあった1904年11月、柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の1人富田常次郎が、体重約160kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関して前田は、『ルールの違いによって敗れた』『富田は苦戦の末引き分けた』など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。
 日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布しているが、その記録は確認されていない」

 また、Wikipedia「前田光世」には、「行き着いた最後の地」としてブラジル時代の前田を以下のように紹介しています。

 「行き着いた最後の地はブラジルである。治安の悪いブラジルにガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供の1人、カーロス・グレイシーはやんちゃだったため、ガスタオンは前田に『柔術で鍛えてくれ』と依頼した。前田は、柔道改め柔術と護身術を教えた。カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術を習った訳ではないが、前田の柔術を更に改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。これが後の世に言われるグレイシー柔術である。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じ様に自分の流派(グレイシー柔術)を広めるため後に異種格闘技戦を行い、柔道家の木村政彦とも闘う事となった。また、グレイシー家以外にもブラジルにおいて柔道を教えており、その勢力前田派はブラジル柔道創世期、四大派閥の1つであった。
 1930年、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化した。フランス大使の娘と結婚する。1941年11月28日、入植先のアマゾンで死亡。最期に残した言葉は『柔道衣を持って来てくれ』であったという。死後、講道館より七段を贈呈され、また弘前公園には前田の功績をたたえた石碑が建てられている。墓はブラジル・パラー州の州都であるベレンにあり、リョート・マチダの父親町田嘉三(空手家)によって管理されている。
 死後70年近く経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない」

 本書の目次は、以下のような構成になっています。

「まえがき」
一章 玖馬(キューバ)1896「移民一世」
二章 東京 1899「講道館」
三章 華盛頓(ワシントン)1905「日露戦争」
四章 紐育(ニューヨーク)1905「異種格闘技」
五章 墨西哥(メキシコ)1909「排日思想」
六章 伯剌西爾(ブラジル)1926「民族発展の地」
七章 亜馬孫(アマゾン)1941「巨星堕つ」
八章 亜馬孫(アマゾン)1995「心意気」
「文庫版あとがき」

 「まえがき」の冒頭には、1899年(明治32年)にアメリカ・フィラデルフィアで出版された新渡戸稲造の『BUSHIDO』に登場する以下の一説が紹介されています。
 「武士道はその表象たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」

 しかし、新渡戸は同書の最後にこうも書いています。

 「日本人の心に証せられかつ領解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべし、その十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある」

 この時、すでに明治維新から約30年が経過し、日本人の道徳体系としての武士道は明治中期には瀕死の状態だったのです。しかし、著者は「まえがき」に次のように書いています。

 「だが世界では、この書物とともに実は1人の日本人の若者が、まさに『桜花』としての強さ、潔さ、あるいは芳香と呼んでもいい男としての魅力を振りまきながら、各地で力自慢たちとの戦いを繰り広げ、地元の人々をも熱狂させながら全戦全勝の快進撃を続けていた事実をご存知だろうか」

 続いて、著者は以下のように述べています。

 「その若者が背負っていたのは『柔道』というその時代の新興の格闘技ではあったが、異文化の中ではその技よりも、『小さい者が大きな者に果敢に立ち向かう勇気』や『初めて目の当りにする日本人のもっている高潔さ』のほうに注目が集まった。いつしか人々は、この若者のことを『コンデ=伯爵』と呼ぶようになり、ある種の尊敬の眼差しとともに接するようになる」

 著者は、「新渡戸の『BUSHIDO』は、この若者、コンデ・コマ=前田光世の世界行脚がなければ、今ほど世界に浸透していなかったのではあるまいか。出版と同時期に異文化において武士道を体現する若者の存在があったからこそ、『BUSHIDO』は読み継がれ、人々は日本、および日本人に興味を抱いたのではないか」とさえ書いています。

 この本、じつは前田光世の格闘の軌跡よりも、前田光世が生きた時代に焦点を当てたノンフィクションです。わたしが読みたかった前田の異種格闘技戦についてはあまり書かれていません。前田に関する正確な資料が少ないからかもしれませんが、格闘技ファンには物足りないですね。
 ただ講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が前田に与えた影響については詳しく書かれており、興味深かったです。嘉納は講道館、嘉納塾、弘文館という3つの活動を行っていましたが、さらに教育者として、全国の若者に嘉納流の教育を施す夢を抱いていました。そのために、1898年(明治31年)10月、嘉納は教育を目的とした新雑誌「国士」を創刊しました。「国士」とは、すなわち「一国の中で優れた人」であり、「一身を捨てて国のために尽くす人」を指します。これが、嘉納が考える理想の人物像だったのです。

 月刊「国士」には毎号、気鋭の学者や政治家が筆を振るいました。そして嘉納自らの熱い言葉が、つねに巻頭言を飾りました。そこには「まず一身の独立をはかれ」「偉人を景仰して感奮興起せよ」「修業鍛錬」「我の及ばざるを知れ」「遠大にして着実なる目的」「死して惜しまるる人たれ」など、「新国家を若者の力で建設せん」という嘉納のエネルギーが満ち溢れています。

 この「国士」が創刊された頃、ちょうど弘前から上京してきたのが前田光世でした。柔道と出合い、講道館に入門した前田は、「国士」を貪るように読んだはずです。著者は、後の前田の行動には嘉納の理想への挑戦が見られるとして、次のように書いています。

 「『何故前田が選んだのはアマゾンだったのか』という疑問を突き詰めていく時、『そこに日本人が誰もいなかったから』という、彼の『独立独歩』の開拓精神が見えてくる。またアマゾンに到着する以前の中南米では日本人移民の開拓の苦難を目にし、アメリカでは『排日』の気運を肌で感じてもいたから、晩年の歴戦の旅は、『日本人開拓移民の理想地探し』だったとも理解できる。いずれも恩師・嘉納が説く『国士たれ』という言葉に対する、前田光世の答えだったはずだ」

 前田光世は、「世界一の怪力」と呼ばれたブッチャー・ボーイを破るなどアメリカ本土で英雄となりますが、この頃、ニューヨークにはもう1人の日本人がいました。野口英世です。当時のニューヨークにはすでに日本人村があったといいます。著者は次のように書いています。

 「実はこの頃、細菌の研究でアメリカに渡っていた野口英世もまた、ニューヨークに設立されたばかりのロックフェラー医学研究所に所属していた。この頃前田はニューヨークの日本公使館に出かけ、幼名の『栄世』を『光世』に改名している。マンハッタンのどこかで、前田と野口は接触する機会があったのではないか。だとすれば、野口は1876年(明治9年)生まれ、前田は1878年生まれ。2歳違いの東北人で、同じ『HIDEYO』という発音の名を持つ2人は、日本人村(=移民社会)の有名人であったとしても不思議ではない。ファーストネームで呼び合うことが習慣のアメリカ社会にあって、2人の『HIDEYO』は紛らわしかったから改名したということも考えられる」

 もちろん、これは著者の推測ですが、過去の歴史がありありと甦るようで面白いですね。わたしは、著者の推理は大いに信憑性があると思います。ちなみに、ブログ「ウッドローン墓地」に書いたように、わたしは今月20日、ニューヨークで野口英世の墓参をしました。

 「文庫版あとがき」には、「400戦無敗」の格闘家ヒクソン・グレイシーが登場します。ヒクソンに前田の面影を見る著者は、実際にヒクソン自身にインタビューを行った感想を次のように述べています。

 「日本では明治維新以降、本書に記したように柔道の台頭とともに衰退していった『柔術』だが、ブラジルではヒクソンを頂点とするグレイシー一族の手によって『Jiu-Jitsu』と名前を変えて70年間以上も歴史を刻み続けていた。ヒクソンの口からは、しばしば『武士道』や『侍スピリット』という言葉が語られ、その佇まいは、どこか日本人を感じさせるものがある。いや私の中では、ヒクソンの存在感は前田光世の威光そのものに包まれていると言っていい。だからこそ、ヒクソンの日常には現代の日本人がなくした古き日本的なる何かが残されているのではないか。さらには前田に繋がる精神性が感じられるのではないか」

 「文庫版あとがき」には、以下のように書かれています。

 「グレイシー一族がつくった、柔術のヒストリーを描いた宣伝用のビデオには、以下の解説がなされている。 『1801年、スコットランドを出たジョージ・グレイシーがブラジルに辿り着いた。やがて1914年、コンデ・コマとして知られた前田英世(光世の前の名前)は、ジョージの孫、スタホ・グレイシーと親しくなった。彼はやがて、スタホの子ども、カルロス・グレイシーに芸術である柔術を教えるようになった」

 このカルロス・グレイシーはヒクソンの父エリオ・グレイシーの兄に当たります。エリオは小兵ながら、ブラジル遠征に来たあの木村政彦と死闘を演じた末に敗れています。本書には、一度だけ前田光世と木村政彦が対戦する可能性があった事実が紹介されており、それを知ったわたしは最高に興奮しました。もちろん両者の年齢は大きく離れていたので、乱取りのようなスタイルになったでしょうが、それにしても実現したらどんな展開になったのか胸が躍ります。

 日本の総合格闘技界にグレイシー柔術が登場したのは1994年のことでした。多くの日本人トップ格闘家やプロレスラーがグレイシーに敗れ、日本の総合格闘技界は大きく変貌しました。その時、グレイシー一族の口から「前田光世」の名前が出たのです。日本人は、講道館の創始者・嘉納治五郎から柔道を学び、世界を舞台に戦いながら2000戦無敗という偉業を果たした格闘王の存在を改めて知ったのです。
 この奇跡のようなドラマを読み終えたとき、わたしは「宇宙葬のカリスマ」ことトーマス・シベ氏の顔を思い浮かべていました。強い想いは時代を超え、海を越えて、必ずや後世に伝えられるのです。

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