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カッパ・ブックスの時代』

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 No.0980

 

 『カッパ・ブックスの時代』新海均著(河出書房新社)を読みました。

 1954年の「カッパ・ブックス」の創刊から、2005年の終刊までの軌跡を振り返った本です。当然ながら、版元であった光文社の歴史もひも解いており、戦後の日本出版史を知る上でも興味深かったです。著者は1952年、長野県生まれです。75年に光文社入社以降、「カッパ・ブックス」編集部や「宝石」編集部に所属し、再び05年の終刊まで「カッパ・ブックス」の編集に携わりました。

 

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   本書の帯

 

 

 本書の表紙カバーには多くの「カッパ・ブックス」の表紙、そしてカバー裏には同じく「カッパ・ブックス」の背表紙が並んでいます。その中には、なつかしい本がたくさんありました。帯には、「戦後の『新しい知性』を発明したベストセラー・シリーズの全貌!」と書かれ、「伝説的出版プロデューサー神吉晴夫とその右腕たちの奮闘とは―元・編集部員が描く新たなる出版文化史」と続きます。

 

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   カバー裏も、カッパ・ブックスがずらり!

 

 

 また、カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


 「前代未聞のベストセラー10ヶ条とはなにか!?
 終戦後間もなく設立された光文社の中で、
 岩波新書をライバルに『アンチ教養』で
 ベストセラーを連発したカッパ・ブックス。
 そのベストセラー編集部をゼロから築き上げた
 戦後最大の出版プロデューサー神吉晴夫と
 その右腕たちの奮闘から観る、新しい出版文化史。
 大衆の欲望に根ざした『新しい知性』を発明し、
 日本の出版の源流の1つとなった
 編集部の全貌が、いま明らかに!」


 本書の目次は、以下のようになっています。


序 章 最後の「カッパ・ブックス」編集部部員
第1章 神吉晴夫と『少年期』
第2章 「カッパ・ブックス」の草創期
第3章 初のミリオンセラーの誕生
第4章 1960年代後半の絶頂期へ
第5章 大争議かく闘かえり
第6章 争議による新出版社の設立
第7章 怒涛の70年代
第8章 1980~90年代の快進撃
第9章 21世紀、カッパの終焉と再生
「主要参考文献」
「カッパ・ブックスの時代」略年譜


 序章「最後の『カッパ・ブックス』編集部部員」の冒頭には、日本で初めて出版された新書のことが紹介されています。それは日中戦争下の1938年、岩波書店から吉野源三郎によって創刊された「岩波新書」です。モデルになったのは、1937年にイギリスで創刊された、「ペンギン・ブックス」の姉妹シリーズである「ペリカン・ブックス」でした。そして、本書には以下のように書かれています。


 「その『岩波新書』の創刊から、太平洋戦争をはさんで16年後の1954年、光文社の神吉晴夫を中心に、まったく新しいコンセプトをもった新書として『カッパ・ブックス』が誕生した。『カッパ・ブックス』は徹底したアンチ教養主義を掲げ、『岩波新書』にとっつきにくさを感じていた、いわゆるインテリとは違う、新たな読者層を掘り起こし、圧倒的支持を得て第一次新書ブームを巻き起こす。『岩波方式ではなく、無名の著者で、どのような本が作れるのか』というのが編集者たちが常に強く意識していたテーマであった」


 創刊にあたって本の末尾には「『カッパ・ブックス』誕生のことば」が記されましたが、ここには日本最大の出版社である講談社から派生した光文社の意気込みが端的に凝縮されています。以下のような文面です。


 「カッパは、日本の庶民が生んだフィクションであり、みずからの象徴である。カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧力にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託ない闊達さ。裸一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実を求めてやまない。たえず人びとの心に出没して、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒る。しかも、つねに生活の夢をえがいて、飽くことを知らない。カッパこそは、私たちの心の友である」


 この一文について、著者は以下のように述べています。


 「さまざまなシリーズの創刊の辞を読んできたが、「『カッパ・ブックス』誕生のことば」ほど、出版人の心意気を感じさせるものはないように思う。カッパと言えば、ベストセラーの代名詞だったのだ。『カッパ・ブックス』『カッパ・ノベルス』『カッパ・ビジネス』『カッパ・ホームス』を合わせると、17冊のミリオンセラーの記録がある。カッパという1つのブランドだけで、この記録を打ち立てた新書は日本出版界史上類を見ないと思われる」


 その17冊のミリオンセラーと、刊行年度、部数は以下の通りです。


『英語に強くなる本』(1961年)   147万3000部
『頭の体操 第1集』(1967年)   265万9000部
『頭の体操 第2集』(1967年)   176万7000部
『姓名判断』(1967年)        125万3000部
『頭の体操 第3集』(1967年)   123万部
『頭の体操 第4集』(1967年)   105万6000部
『点と線』(1958年)          104万4000部
『ゼロの焦点』(1959年)       107万4000部
『砂の器』(1961年)           144万部
『民法入門』(1967年)          119万6000部
『冠婚葬祭入門』(1970年)      308万3000部
『続冠婚葬祭入門』(1970年)    153万6000部
『日本沈没(上)』(1973年)     204万4000部
『日本沈没(下)』(1973年)        180万7000部
『にんにく健康法』(1973年)     111万1000部
『悪魔の飽食』(1981年)       188万部
『「NO」と言える日本』(1989年)     123万8000部


 カッパ・ブックスの誕生以前、新書といえば岩波新書でした。戦前から、今も続いている岩波新書には、赤版、青版、黄版、新赤版の4種類があり、合計点数は2400点を超えます。その中でのミリオンセラーは、永六輔の『大往生』(1994年刊)の238万部、大野晋の『日本語練習帳』(1999年刊)の192万部と2冊しかありません。著者は「カッパの圧倒的なベストセラーぶりは群を抜いていたのである」と述べています。

 

 その後の60年代前半、「中公新書」「講談社現代新書」が創刊され、「岩波新書」とともに「教養新書御三家」と呼ばれました。このとき、「第二次新書ブーム」が来たとされました。


 しかし、実際にベストセラーを生んでいたのは、「カッパ・ブックス」から分かれた、「ゴマブックス」や「ノン・ブック」でした。90年代半ばから2000年代初めにかけて、「ちくま新書」「文春新書」「集英社新書」「光文社新書」「新潮新書」などが続々と創刊され、「第三次新書ブーム」が起きました。さらにその後も「PHP新書」や「双葉新書」など次々と新書が創刊され、現在は約30レーベルくらい書店に並んでいます。しかし、どの新書ブームの創刊ラッシュより「カッパ・ブックス」が引き起こした第一次ブーム当時の反響のほうがはるかに凄まじかったようです。


 光文社は、日本の出版界を代表する講談社から派生しました。「カッパ・ブックス」の生みの親として知られる神吉晴夫も、もともとは講談社の社員でした。そして、講談社を創立した野間清治から可愛がられていました。


 第1章「神吉晴夫と『少年期』」には、「光文社」という名前の由来が以下のように説明されています。「光文社という社名は講談社の初代社長・野間清治が、大日本雄弁会と講談社をひとつにしようとして、考えた名前で、野間はいたく気に入っていたという。ついでながら、『光文』というのは昭和になるとき、新しい年号が『光文』だと、東京日日新聞(現・毎日新聞社)の宮廷番記者がスッパ抜いたため、宮内庁があわてて昭和に変えたという、いわくつき(?)の社名でもある」


 第2章「『カッパ・ブックス』の草創期」には、天才出版人・神吉晴夫による「ベストセラー作法10ヵ条」が紹介されています。最初は「日経広告手帳」に発表されたものですが、その後、「週刊朝日」のトップページにも転用されました。また、神吉の著書である『現場に不満の火を燃やせ』、『カッパの本』の中でも紹介されています。
その「ベストセラー作法10ヵ条」とは、以下の通りです。

 

(1)読者の核を20歳前後に置く。
(2)読者の心理や感情のどういう面を刺激するか。つまりテーマ(題材)の問題である。
(3)テーマが、時宜を得ていること。
(4)作品のテーマが、はっきりしていること。なんとなく良い作品、つまり、問題性の少ない作品は、演出しにくい。
(5)作品が新鮮であること。テーマはもちろん、文体、造本にいたるまで「この世ではじめてお目にかかった」という新鮮な驚きや感動を読者に与えるものでなくてはならない。
(6)文章が「読者の言葉」であること。
(7)芸術よりモラルが大切であること。 ― 二度とないこの人生を、もっと幸福に生きるためには、どうしたらよいか、それを具体的に追求して行く。
(8)読者は正義を好むということ。
(9)著者は、読者より一段高い人間ではないということ。(中略)著者あるいは作家は、すでに読者のなかにもやもやと存在しているあるもの(中略)、を意識して、作品のなかに「形づくる」のである。造形するのである。
(10)ベストセラーの出版に当たっては、編集者は、あくまでもプロデューサー(企画、制作者)の立場に立たなければいけない。"先生"の原稿を押し頂いてくるだけではダメである。編集者がわからない原稿は、わかるまで、何度でも書き直してもらうこと。


 わたしは、この「ベストセラー作法10ヵ条」を読んで唸りました。見事です。今の時代でも完璧に通用することばかりです。「出版寅さん」こと内海準二さんは、わたしの本をたくさんプロデュ―スおよび編集して下さった方です。あるとき、内海さんにこの「ベストセラー作法10ヵ条」を見せたら、内海さんも「うーん」と唸っていました。わたしたちも、なんとか作法に則ってベストセラーを出したいものです! それにしても、大胆にして恐るべき種明かしだと言う他はありませんね。


 「ベストセラー作法10ヵ条」について、著者は次のように述べます。


 「塩浜方美は雑誌「創」の記事の中で、この10ヵ条にふれ『この中で中心的命題は"この世ではじめてお目にかかった"という新鮮な驚きや感動を読者に与えるもの』だと(5)を強調する。それは『新しいもの、珍しいもの、奇妙なもの』=『新・珍・奇』ということであり、この編集理念は古くから大日本雄弁会講談社の編集者の間での、基礎知識だった。これはそもそも、講談社の創業者・野間清治の主張するものだったという。しかし、神吉ほど明快に条文化したものは初めてで、未だにどこにも見当たらない」


 第3章「初のミリオンセラーの誕生」では、「タイトル、サブタイトルへの執拗なこだわり」という項目が非常に興味深かったです。1960年のベストセラーの4位は、カッパ・ブックスの本でした。林髞の著書『頭のよくなる本―大脳生理学的管理法』です。この『頭のよくなる本』について、神吉は著書『俺は現役だ』で次のように述べています。


 「『頭のよくなる本』と『頭がよくなる本』。この『の』と『が』のちがいがわかるかい、君。読者に意志力を強要しては、ベストセラーにならんよ。
 『頭のよくなる本』というだけでは、そそっかしいやつに、赤本とまちがえられる。それに『大脳生理学的管理法』というサブ・タイトルをつけて、光文社式赤本を誕生させたのだ。つまり、これまでの赤本に科学という権威と、愛情という親切をそそぎこんで、この本ができあがった」


 この神吉の発言を受けて、著者は以下のように述べています。


 「『頭のよくなる本』に関して『頭をよくする本』ではどうかということで、何回もタイトル会議でもめたようだ。結果的に、『頭をよくする本』では読者に努力を強制する響きがあるのではないか。『よくなる』と言えば自然によくなるような気がする、ということで、よくなる、に落ち着いた旨を、後年『カッパ軍団をひきいて』で述懐している。『の』と『が』のちがい、『なる』と『する』のたった1字の違い、このこだわりにこそヒットの秘訣があるのだ」

 

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   カッパ・ブックスの発想で『あらゆる本が面白く読める方法』は生まれた!

 

 

 これを読んで、わたしは「出版界の丹下段平」こと三五館の星山佳須也社長のことを思い出しました。以前、三五館さんから『あらゆる本が面白く読める方法』という本を上梓したことがあるのですが、そのときもタイトルについてずいぶん迷いました。担当編集者であった「出版界の青年将校」こと中野長武さんと一緒に話し合って『あらゆる本を面白く読む方法』というタイトルに決めたのですが、それを見た星山社長はすぐさま『あらゆる本が面白く読める方法』にタイトルを変更したのです。おそらく星山社長の頭の中には、カッパ・ブックスの『頭のよくなる本』のイメージがあったのでしょう。その意味で、現代の出版界におけるヒット・メーカーの1人である星山社長は神吉晴夫の後継者であると言えるかもしれません。


 さて、60年代に入って、カッパ・ブックスの勢いは増す一方でした。1961年には、日本の刊行物の売り上げベスト10の中で、なんと5冊もカッパの本が占めました。ベスト1位に『英語に強くなる本』(岩田一男)、ベスト4位に『頭のよくなる本』(林髞)、ベスト5位に『記憶術』(南博)、ベスト6位に『砂の器』(松本清張)、ベスト7位に『日本の会社』(坂本藤良)が入ったのです。ひとつの新書シリーズの驚くべき記録は、今もって破られてはいません。


 第4章「1960年代後半の絶頂期へ」の冒頭は、以下の通りです。


 「1963年の日本では、翌年のアジアで初めての東京オリンピックに間に合わせようと、首都高速道路や名神高速道路の整備、東海道新幹線の建設が急ピッチで進められていた。また、観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、各地で建設ラッシュの鎚音が絶えなかった。巷では『高校三年生』や『こんにちは赤ちゃん』、『東京五輪音頭』が流れ、日本はひずみを抱えつつも高度経済成長へと走っていた。
 資源の乏しい日本人が、商社マンをはじめ、インターナショナルな舞台で活躍していくのを先取りするかのように、ビジネスマンを読者対象として『カッパ・ビジネス』は創刊された」


 ここで触れられている1963年は、わたしが生まれた年です。まさに日本中が熱気に溢れていた時代に、「カッパ・ビジネス」は誕生したのでした。


 すでに1959年には「カッパ・ノベルス」が誕生し、63年には「カッパ・ビジネス」が生まれたわけです。その後、66年には「カッパ・ビブリア」が生まれ、さらに69年には「カッパ・ホームス」が誕生しました。かくして、ここに無敵のカッパ帝国が完成したのでした。


 「カッパ・ホームス」最大のベストセラー、いや戦後の出版史における最大のベストセラーとなったのが70年に刊行された塩月弥栄子著『冠婚葬祭入門』でした。本書には、以下のように書かれています。


 「かつてあった冠婚葬祭というしきたり・セレモニーを、塩月弥栄子を使って現代に置き換える。トランスファーする。『冠婚葬祭入門』は前からあった企画。しきたりを消費社会へと変えた。いいのか悪いのかは別として、本はとっておくものから、捨てる(消費する)ものへ変えた。大量生産と大量消費時代にピタリはまったベストセラー」


 この『冠婚葬祭入門』が、いかに超ベストセラーであったか・・・・・・。それについて、著者は以下のように述べています。


 「新書の部数競争では、『バカの壁』の出版までの約35年間、1970年に出た塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門―いざというときに恥をかかないために』の312万部というベストセラーの記録は破られることはなかった。『冠婚葬祭入門』は全4巻のシリーズとなり、700万部を売り上げた。カッパを率いていた長瀬は『日本人の生活習慣の中にベストセラーのシーズが潜んでいる』と考えていた。『冠婚葬祭』に類似の企画はたくさんあり、それを『カッパ・ホームス』の発足記念シリーズ数冊の中に入れたという経緯を上野征洋は記憶している。

 

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   史上最大のベストセラー・シリーズ(表紙のイラストがシュール!)

 

 

 いま、『冠婚葬祭入門』シリーズ全4冊を改めて並べて見てみると、表紙イラストのシュールさに驚きます。これは昭和期の日本を代表する挿絵画家・グラフィックデザイナーである宇野亜喜良によるものです。宇野亜喜良といえば、同世代である横尾忠則らとともに寺山修司の舞台、宣伝美術を手がけて時代の寵児となった人です。今見ると、マグリットも真っ青のシュールレアリスムそのもののイラストで、冠婚葬祭の入門書というよりも怪奇幻想小説の表紙みたいです。そもそも、なんで『冠婚葬祭入門』表紙にカラスが堂々と描かれているのか? さらには、人間の顔がバラになったり、あろうことか祝儀袋の水引になっています! これが1970年に刊行された本というから驚くしかありませんが、当時のカッパ・ブックスがいかにアヴァンギャルドであり、時代の最先端を走っていたかがわかりますね。


 また、『冠婚葬祭入門』の著者紹介は高峰三枝子が、袖の推薦文は司葉子と、考古学者の樋口清之が書いています。高峰三枝子と司葉子といえば、当時の日本を代表する大女優です。樋口清之先生は、わたしの父の國學院大學の恩師であり、カッパ・ブックスから分かれたノン・ブック(祥伝社)から74年に『梅干と日本刀 日本人の知恵と独創の歴史』を刊行し、大ベストセラーとなりました。それ以来、樋口先生は「うめぼし博士」の愛称で広く国民から親しまれました。わたしも父に連れられて樋口先生の御自宅にお邪魔したことがあります。

 

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   『冠婚葬祭入門』から『決定版 冠婚葬祭入門』へ

 

 

 『冠婚葬祭入門』が発売された1970年は、大阪で日本万国博覧会が開催された年です。あの頃、日本の冠婚葬祭は大きな変化を迎えて、誰もが新しい冠婚葬祭のマナーブックを必要としていました。今また結婚式も葬儀も大きく変貌しつつあり、「無縁社会」などと呼ばれる社会風潮の中で、冠婚葬祭の意味と内容が変わってきています。今こそ、新しい『冠婚葬祭入門』が求められているのです。そこで、わたしは今年の4月に『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)を上梓したのです。わたしなりの「カッパ・ブックス」に対するオマージュと言えるかもしれません。


 さて第4章「1960年代後半の絶頂期へ」の「絶頂期の企画会議と、ゲラへの執着」の項も強く印象に残りました。次のように書かれています。


 「企画会議での長瀬編集長らの『そんなもの誰が買うねん』『何で10年も20年も前にしか通じないこんなものを出すんだ』『政治家の本なんか作るな』『どんな右翼でもどんな左翼でもいいから面白い者に書かせろ』といった厳しい批判に部員が全員きりきり舞いしていた。長瀬には直感的なところがあって、タイトル、著者、内容とまとまって整理された企画よりも、たった一言の企画を『よし。おもしろい』とほめることもあった。今と違って、売れた著者を追い掛けて書かせるなどということはいっさいなかった。『初めに企画ありき』で、著者探しは、その後の活動だった」

 わたしは、これを読んで膝を叩きました。まさに、今の編集者たちに読ませたい!


 『冠婚葬祭入門』という超ベストセラーが誕生した1970年は、カッパ・ブックスの絶頂期でもありました。そして、そこから光文社は大きな転回を迎えます。第5章「大争議かく闘かえり」には、以下のように書かれています。


 「1970年、光文社は飛ぶ鳥を落とす勢いの絶頂期を迎えていた。200人の社員で200億円稼ぐ。1人当たりの稼ぎが日本一ともささやかれていた。親会社・講談社を抜く勢いの神吉体制は、講談社にとっても目の上のたんこぶとなっていた。講談社より多くの給料を社員に払う、という意地・・・、音羽から離れ、池袋に20億円かけた堂々たるビルを銀行からの借入金ゼロで建て始める・・・、これらは親会社・講談社資本に対し、真っ向から反旗を翻すに等しかった」


 第7章「怒涛の70年代」では、72年にカッパに累計部数が1億冊を突破したことが紹介されています。その年の年間ベスト4位がカッパの『女の子の躾け方―やさしい子どもに育てる本』でした。著者は、戦後20年間東宮侍従の職にあり、今上天皇、皇太子、秋篠宮の教育係を務めた浜尾実でした。

 

 このような一見厳しい教育の本が出された一方で、年間ベスト5位もカッパの『放任主義―1人で生きる人間とは』でした。著者は、映画監督の羽仁進。歴史家・羽仁五郎と婦人運動家・羽仁説子の間に生まれ、進歩的思想の中で育った人です。このように、カッパは立場が正反対の教育の本を2冊誕生させ、しかも2冊ともベストセラーにしたわけです。


 この「躾」も「放任」も同時に売った事実には驚くばかりです。対極にある2つの考え方が両方ともベストテンに入るという珍現象が起きたわけですが、これは「和事、荒事の二本を売り物にする」というカッパの基本戦略に基づいていたとか。そして、カッパOBの川端博によれば、この戦略は当時の編集長であった牧野幸夫が仕組んだことだそうです。

 

 石原慎太郎の『スパルタ教育』が売れているとき、石原は川端に次のようにこぼしたそうです。「俺、嫌なんだよ、『スパルタ教育』宣伝の隣にいつも『ウンコによる健康診断―色と形で病気がわかる』(日野貞雄)が載っているのが・・・」


 この石原発言を受けて、著者は以下のように述べています。これは同様に書店の店頭でも2冊がうずたかく並べられることになるのだ。同様に石原の『魂を植える教育―高く豊かな心を育む本』『相性判断―この人があなたに幸運を招く』(高木彬光)が同時発売され、数ヵ月のちには『万葉恋歌―日本人にとって「愛する」とは』(永井路子)と『毛沢東の生涯 ― 八億の民を動かす魅力の源泉』(竹内実)が並んで広告に打たれて同時発売されるといった形である」

 いやはや、「すごい!」としか言いようがないですね。


 70年代の激しい労働争議を経て、光文社は大いに揺れました。そして、次第に部数を落としていったカッパ・ブックスは新たに創刊された光文社新書と入れ替わる形で51年の歴史に幕を下ろしました。現在では1つの出版社の本が、年間売り上げベスト10のうちの何冊もを占めることなど不可能になっています。そんな神がかり的な記録をカッパ・ブックスは10年以上も続けたました。本が売れない現在、出版社をめぐる状況は厳しくなる一方ですが、そんな時代だからこそ、伝説のカッパ・ブックスの歩みを振り返ることは出版界にとっても大きな意味を持つでしょう。


 第9章「21世紀、カッパの終焉と再生」の最後に、著者は書いています。


 「・・・カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧迫にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託のない闊達さ。裸一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実を求めてやまない。たえず人びとの心に出没して、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒る。しかも、つねに生活の夢をえがいて、飽くことを知らない」


 たしかに、そこには考え抜かれた「ベストセラー作法10ヵ条」がありました。「タイトル、サブタイトルへの執拗なこだわり」や「和事、荒事の二本を売り物にする」といった戦略も功を奏しました。しかし、カッパ・ブックスを日本の出版史に残るベストセラー工場にしたのは、なによりも「『カッパ・ブックス』誕生のことば」に高らかに謳い上げられた志ではななかったでしょうか。空前の経済的成功を経験し、激烈な労働争議を経て、この志が次第に失われていったとき、カッパ・ブックスはその使命を終えたのではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。
本書の最後は、以下の一文で締め括られています。


 「いつの時代にも水辺を愛するカッパは、この麗しき"水の惑星"の片隅で、時として汚泥にまみれつつも、朗らかにラッパを吹き、私たちを言の葉茂る明日の岸辺へと誘い続ける」

 1人でも多くの出版関係者に本書を読んでほしいと思います。