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サバイバル宗教論』

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No.0946

 

 『サバイバル宗教論』佐藤優著(文春新書)を読みました。

 クリスチャンにして神学者である著者が、「危機の時代における宗教」をテーマに行なった連続講義をまとめた本です。聴講しているのは、禅宗寺院の最高峰である臨済宗相国寺で僧徒たちです。ブログ「仏教連合会パネルディスカッション」で紹介したシンポに参加したとき、わたしは臨済宗僧侶の発言に首をひねり、「日本仏教はこんなものなのか」と暗澹たる気分になりました。同じ臨済宗の僧侶を相手に、佐藤氏は何を語ったのでしょうか。

 

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   著者の顔写真が入った本書の帯

 

 

 本書の帯には、鋭い眼光をした著者の顔写真とともに「仏教、キリスト教、イスラーム教 その凄まじき力の秘密は何か?」「禅僧100人を前に完全語り下し講義」と書かれています。またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。


 「目に見える政治や経済の動きを追うだけでは、世界は分からない。民族や国家の原動力となり、実際に世界を動かしているのは、しばしば目に見えない宗教だ。宗教を知ることは単なる教養のためではない。今後の世界を生き抜くために必須の智慧だ」


 本書の目次は、以下のようになっています。


「はじめに」
第一講 キリスト教、イスラーム教、そして仏教
第二講 「救われる」とは何か
第三講 宗教から民族が見える
第四講 すべては死から始まる


 「はじめに」の冒頭で、著者は以下のように書いています。


 「今年、2014年は、第一次世界大戦勃発100年にあたる。英国の歴史家エリック・ホブズボームは、1789年のフランス革命から1914年までを『長い19世紀』と名づけた。別の言い方をすると第一次世界大戦が勃発した1914年から現代が始まるのだ。
 フランス革命以後の世界は、基本的に人間の理性を信頼していた。そして、合理的な思考で科学技術と経済を発展させた。啓蒙主義が支配的な思想になった。もっともヨーロッパやロシアでは、合理主義に反発し、人間の直観と感情、そして情念を重視するロマン主義もそれなりの影響力を持ったが、主流は啓蒙主義だった。この頃、宗教は時代遅れの役に立たないものと見なされていた。しかし、第一次世界大戦による大量殺戮と大量破壊が人間の合理性に対して根源的な疑念を抱かせるようになった」


 また、著者は「宗教の本質」について以下のように述べます。


 「科学技術の発展は、人類に便益をもたらす機械や交通機関を発達させたが、同時に毒ガス、機関銃、戦車、軍用機、原子爆弾などの殺人用の道具を飛躍的に発展させた。理性を過大評価した人間中心主義を信頼することは、もはやできないというのが1914年以後のわれわれの現実なのである。このような危機から人間を救い出さなくてはならない。宗教の本質は、人間を救済することだ」


 じつは、ブログ「仏教連合会パネルディスカッション」で紹介したイベントに出演した際、その予習の一環として本書を読みました。多くの僧侶の前で語った内容をまとめた本書が参考になると思ったからです。しかし、相国寺と同じ臨済宗の僧侶から発せられた無責任な発言で、パネルディスカッションは台無しになりました。そのとき、わたしは「人を救うのが宗教ではないんですか!」と言ったことを憶えています。本書を読んで、佐藤優氏の話法の素晴らしさが大変勉強になりました。


 「はじめに」の冒頭には「前科一犯の佐藤優です。よろしくお願いします」という言葉がありますが、つまり、この言葉で講演そのものをスタートさせたわけです。これは凄い! 続いて、著者は以下のように語っています。


 「考えてみると、キリスト教というのは犯罪者の多い宗教ですよね。教祖であるイエス・キリストは国事犯(ローマ帝国への反逆罪)で、十字架にかけられて死刑になったわけですから。
 それから、私は同志社の出身ですが、同志社大学の創立者である新島襄も国事犯です。当時、外国に渡ることを禁止されている状況の中でアメリカに密航したわけで、見つかっていたら死刑になったわけですから。
 しかし、キリスト教以外の仏教にしても、イスラーム教にしても、あるいは儒教にしても、その教祖は尊敬されている状況の中で天寿を全うしているということになり、やはりキリスト教というのはその意味において、ひねくれた宗教だと思うんです」

 

  著者は、哲学者の梅原猛氏の発言などに触れつつ、「一神教は不寛容で多神教は寛容」という言説が広く流布していることについて述べます。


 「これは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』というようなインチキな言説が流通していることとも関係していると思います。一神教でも過激なものもあるし、そうでなく他の宗教との関係において寛容なものもある。本来、一神教というのは寛容なんです。それは、無関心に基づく寛容です。神様と自分との関係において自分だけが救われればいいと考えているわけですから。他人が何を信じているかということには関心が向かないんです」


 その具体的な証拠として、著者はエルサレムの街を例にします。


 「エルサレムに行ってみます。エルサレムの街には、ユダヤ教、イスラーム教、キリスト教があります。そしてそのキリスト教には、まずカルケドン派の主流派のキリスト教があり、その中に、さらに正教とカトリックとプロテスタントのそれぞれの教会があり、またそれとは別に非カルケドン派のコプト教会もあれば、シリアのヤコブ派の教会もあり、あるいはアルメニアの教会もある。
 それぞれのクオーター(地区)に住んでいますが、ここで宗教的な紛争が起きたのは、1948年のイスラエル独立以降です。それまではみんな併存していたんです。この一神教の人たちは、自分と神様との関係にしか関心がないからです。
 一方、仏教が多神教で寛容な宗教だというのなら、スリランカの内戦はどう見たらいいのか。双方とも多神教のヒンドゥー教徒と仏教徒ではないですか。あるいはタイの暴動は、これも仏教徒が行っていることです。特定の宗教が寛容であるとか、特定の宗教が強権的であるというレッテルを貼ることは、実証的に見ればすぐに否定される意味のないことです。しかし、そういうことが流通してしまうんですね。重要なのは、相互理解の前提として、相手の側の内在的な論理をつかむことだと思います」


 わたしたち人類は今、大変な危機に直面しているとされます。そもそも「危機」という概念は西欧的なもの、ヨーロッパ的なもの、ユダヤ・キリスト教的なものであるとして、「西欧」を形づくっているものについて著者は述べます。


 「ラテン語で『コルプス・クリスチアヌム』という概念があります。『キリストの体』、あるいは『キリスト教共同体』などと訳すんですが、西ヨーロッパをつくっている根本原理です。ユダヤ・キリスト教の一神教の原理、ギリシャ古典哲学の原理、ローマ法の原理、この3つのものが合わさって1つの文化をつくっていて、この体系は中世に確立しました。これは近代になって世俗化していますけれども、いまだ続いている。つまり、EUやNATOというのは、基本的には、この3つの価値観によって結びつけられている有機体なんです」


 さらに著者は、キリスト教の重要な概念である「復活」について述べます。


 「キリスト教の教祖であるイエス・キリストは、紀元30年ごろに復活した。復活というのは、実はそんなに異常な現象ではありません。なぜならば、近代より前の人たちの世界像というのは、日本でもヨーロッパでも中東でも同じで、哲学でいうところの素朴実在論の立場にたっているからです。すなわち、夢で見たこと、坐禅をしているときに体験したことと、現実に起こっていることとの間に差異がない。権利的に同格なんです。
 もちろん、仏教の場合は、存在論が縁起観によって構成されていますから、関係性によって実体が見えてくる。しかし、その実体というものは、そもそも虚妄であるという考え方ですから、そこにはなんら違和感がないと思うんです。
 キリスト教の場合は、夢で見たことと復活ということの間に差異はありません。基本的に同じです。あるいは白昼の幻を見る。当時サウロといってキリスト教徒を弾圧していた後の使徒パウロがダマスカスに行く途中で、光にうたれて幻を見る。これは実際に出会ったのと同じことなんです」


 著者は、「宗教とアメリカとのかかわり」についての質問に答えて、ユニテリアン(父と子と聖霊の三位一体論を否定し、神の唯一性を強調)がアメリカ的なキリスト教であると定義し、以下のように述べます。


 「このユニテリアンがアメリカ・キリスト教の主流です。ユニテリアンは、長老派とか会衆派とかバプテスト派とかメソジスト派といった個々の教派とは関係なく、教派横断的に存在します。要するに、キリストの奇跡物語というのは、古い時代の表象の中で書かれたもので、キリストは偉大な教師だったという考え方です。ある意味では孔子と同じような感じでキリストを見ています」


 アメリカ人が、孔子と同じような偉大な教師としてキリストを見ているというのはよくわかりますね。また、アメリカについての著者の以下の発言は非常に興味深いです。

 「アメリカというのは思想史的に19世紀がない国です。これに対し、ヨーロッパの特徴をつくっているのは19世紀のロマン主義です。18世紀に啓蒙主義がでてきましたが、その啓蒙主義だけでは人間の問題は解決しない。ここはやはり戦争と関係してきます。ヨーロッパは多くの戦争を経験することで、人間には非合理な要素があることを感じるようになります。それで、森の生活とか、中世とか、あのころのほうがよかったんじゃないかという後ろ向きのロマン主義的な発想が出てきます。しかし、正確に言えば、それは本当の過去ではなく、現時点から解釈された過去であるわけですが」


 著者は、日本人の宗教観についても以下のように明快に語ります。


 「日本人の宗教観は基本的に魔術的です。これは、神道の影響だと思います。ただし、実は魔術というのは近代科学と一緒です。たとえば丑の刻参り。丑の刻にわら人形と五寸釘を持っていく。最近は、通信販売で売っています。のろいのわら人形セットとか。それを持って、手続きに従って毎日同じ時間に行ってお百度を踏んでやれば、必ずのろいが実現する。これは近代科学と同じ考え方です。科学の実験というのは、だれがやっても同じ結果になるわけですから。ところが、そうではない出来事があります。それが超越性です。要するに手続きを踏んでも実現できないもの。そういうものに直面したときに、政治家というのはやはり宗教に頼る」


 本書は「宗教」についての本ですが、そもそも宗教にとって重要なものとは何か。それは「葬式」であると喝破する著者は、以下のように最も大事なことを述べるのでした。


 「宗教にとって一番重要なのは葬式に携わることです。『葬式仏教』としばしば揶揄されますが、大きな間違いです。葬式をする宗教というのは最も強いからです。結婚式は多い人でも3回ぐらいです。2回目からは大体式はやらない。それに対して、死にかかわる儀式は、日本人の霊性からすれば、50年、地域によっては100年にも及びます。日本のキリスト教会も、日本人の霊性を反映したあり方をしています。不思議なことに、死んで7日目に記念会というのがあって、49日目にも記念会をよくやります。『初七日』とか『四十九日』という発想は、キリスト教からはどうひねっても出てこないはずなのですが。さらには、3年目にも記念会があり、7年目にも記念会があって、50年たつとその後はやらない。これはやはり日本の精神的な伝統の中に入ってキリスト教が機能していて、仏教に合わせた形での行事になっているからだと思うんです」


 第二講『『救われる』とは何か』では、「宗教と物語」の問題が取り上げられます。『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)や『涙は世界で一番小さな海』(三五館)などにも書いていますが、わたしは人間の心を救うのは「物語」であると考えています。著者も同じ考えのようで、次のように述べています。


 「宗教というのは必ず物語の形で語られます。ただし、ここ20~30年、日本ではポストモダン的な物の考え方が非常に強くなりました。共産主義という大きな物語は意味がなくなった。大きな物語ではなく小さな差異が重要なんだという流れになりました。人間は物語をつくる動物です。ですから、逆に稚拙な物語にも吸収されてしまう。実は、物語を脱構築する力ということにおいては、仏教には長い伝統があります。日本のポストモダン的な発想も、こうした日本の仏教的な土壌を抜きにして考えることはできません。重要なのは、今、再び物語の時代を迎えているということです。この物語をどのように回復していくか。この問題と宗教は深く関係しています」


 また、最近よく囁かれる言説に「原発は一神教から生まれた」というものがありますが、こういった言説に対して著者は次のように述べています。


 「多神教は寛容だという説があります。しかし、たとえばスリランカのテロには多くの仏教徒が関与しています。また、タイの紛争も、仏教徒間の紛争で、流血騒ぎも起きています。ですから、特定の宗教が寛容であるとか不寛容であるという議論自体が間違っているわけです。ところが、『一神教は不寛容だ』という説は、かなり安易に通用しています。政治エリートでもそんなことを信じている人がたくさんいます。


 加えて『キリスト教とイスラーム教の文明間戦争』というような実態とかけ離れた議論もさかんになされています。さらには最近の日本では、『原発は一神教から生まれた』という議論まで流行しています。こんなたぐいの話ならいくらでもつくれます。宗教学や哲学の訓練を多少受けた人なら、どんなものでも組み立てられます。ちなみに宗教学というのは、もともと無神論ですから」


 「原発は一神教から生まれた」は、宗教学者の中沢新一氏などがその代表的論者であるといえますが、著者は以下のように述べています。


 「中沢新一さんは、叔父さんである網野善彦さんの影響を非常に強く受けています。網野善彦さんは典型的な講座派の歴史家です。日本の特殊な型の中に物事を入れていくという思考様式です。ですから、中沢さんは原発に、外来のものとしての一神教というシンボルを張りつけているのですが、私はキリスト教とも一神教ともあまり関係ないと見ています。むしろ、中沢さんの思考様式の問題です」


 ちなみに講座派というのは共産党系です。岩波書店から出た『日本資本主義発達史講座』に寄稿していたグループを指します。彼らは、日本はいまだに封建時代であり、明治維新は資本主義が成立する以前の封建時代の絶対王政が成立した出来事であって市民革命ではないと考えています。


 ところで、著者は生粋のクリスチャンです。クリスチャンが仏教の僧侶たちを前にして語っているわけですが、著者は述べます。


 「我々は仏教に勝つことができない、近未来においても勝てないでしょう。日本の仏教は、葬式仏教という形でよく揶揄されますが、これは大きな間違いです。宗教において、葬式を司るということは、死というものをその宗教との関係において受け入れるということだからです。それは宗教として最も強い影響力を持つということです」


 第三講「宗教から民族が見える」では、ロシアの宗教が語られます。ここでフョードロフという思想家が紹介されていますが、そのくだりが非常に面白かったです。著者は、以下のように述べています。


 「19世紀の終わり、ロシアにニコライ・フョードロフという謎の思想家がいました。本職は図書館のカード係でした。現在の国立図書館は、ソ連時代レーニン図書館と呼ばれていました。その前の帝政時代には、ルミャンツェフ博物館に附属図書館がありました。彼はその図書館のカード係でした。なぜ図書館のカード係になったかというと、図書館にいるといろんな本が読めるからです。それで古今東西の古典に通じたのです」


 このフョードロフは、以下のような不思議なことを考えました。


 「科学技術が発展すれば、人類は人間を生物学的に完全に復活させることができるようになる、と考えたのです。そこで、聖書に書いてあるように、直近に死んだ人間から順番に復活させていって、最後にアダムとエバまで全員、肉体をとって復活させる。そうなると地球にある土地や空気だけでは足りなくなるので、今度は天文学の知識を利用して、どこかに地球と同じように、酸素があって生物が生存可能な惑星があるはずだから、そこに向かって人間を移動させようと考えて、ロケットを発案するのです。この発想が、ツィオルコフスキーという『ロケット工学の父』と言われる人につながって、それがドイツに流れ、フォン・ブラウン博士によってドイツのV1号ロケット、V2号ロケット等のミサイル兵器が作られることになります。それがソ連による世界初の人工衛星、スプートニクや、アメリカのアポロ計画につながっていきます。スペースシャトルであるとか一連の宇宙ステーションというのは、このニコライ・フョードロフの発想から出ているわけです。人類の宇宙に対する関心の根っこには、こういう宗教的な動機があったのです」


 また、「沖縄の宗教」についての質問に対する回答も興味深く読みました。「沖縄と仏教の関係において禅宗は大きい影響を与えています」という著者は、以下のように述べます。


 「沖縄で一番面倒なのは祖先崇拝です。戒名がないので俗名のままなのですが、位牌をトートーメーと言います。それが家督相続の形になっていて、長子相続で、男にしか相続させません。そして門中というのをつくって、厳しい錠があります。清明祭というものがあり、中国と同じで、墓の前に行って祖先の霊を迎え、一緒にみんなで飲み食いをします。仏壇に供えるのも刺身や豚の三枚肉のあばら肉を煮たものとか、生臭いものばかりをたくさん供えるのです。こういう習慣があるので、なかなか日本の仏教的な習俗となじみにくいところがあります。しかし、逆に、沖縄のそういう習俗とうまく折り合いをつければ、仏教は非常に伸びると思います。折り合いをつけるのに成功したのは創価学会でしょう。沖縄創価学会は、大変力を持っています。東京の創価学会が自公路線でいっても、沖縄の創価学会は、平和運動の方向では、特に婦人部なんかが強いですから、大田昌秀元知事を支持したり、統制に服さないようなところもあります」


 最後に第四講「すべては死から始まる」の「宗教をもつのは人間だけ」という主張には心から共感でいました。著者は次のように述べます。


 「チンパンジーというのは、仲間が死ぬと悲しむという感情を持っていて、アフリカのチンパンジーは、葬儀に似た儀式をするのだそうです。『死を考えることができるのは人間だけだ』というのは、ちょっと違うのではないかという説が出てきています。さらに、言葉の問題があります。人間の特徴は言葉を話すということにあります。けれども、実は言葉からさまざまなトラブルが生じます。チンパンジーの一部も、言葉をしゃべるという実証研究も出ています。そういう意味では、死を考え、言葉をしゃべるというのは、人間だけの特権ではないのかもしれません。しかし、宗教という意識の段階にまで結び合わせていく力というのは、今のところ他の動物には見られません。これはおそらく人間だけの特徴と考えてよいと思います。そうすると、人間の社会というのは、確かに発展していると考えられるわけです」


 「宗教」について語った著者の本としては、これまでにも『はじめての宗教論 右巻』 、『はじめての宗教論 左巻』などもありますが、本書『サバイバル宗教論』の白眉は、何と言っても「宗教にとって一番重要なのは葬式に携わること」「葬式をする宗教というのは最も強い」ということを喝破した点にあります。本書を読んで、わたしは快哉を叫びました。いつか著者にお会いして、葬式について語り合ってみたいです。それにしても、この人の眼光の鋭さはただごとではないですね。