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ネットが社会を破壊する』

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No.0921

 

 『ネットが社会を破壊する』高田明典著(LEADERS NOTE)を読みました。

 米マイクロソフトのインターネット閲覧ソフト「インターネット・エクスプローラー(IE)」にセキュリティー上の欠陥が見つかった件には驚きましたね。全世界で60%のシェアとのことなので、これは社会を揺るがす大問題です。


 『ネットが社会を破壊する』高田明典著(LEADERS NOTE)を読みました。著者は1961年東京生まれの現代思想評論家で、現在はフェリス女学院大学教授です。NHKのインターネット英語のレギュラー講師を務めたり、大学でコンピューターのプログラミングやゲーム制作を教えたりしてきたそうです。なかなか多才な人のようですね。

 

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   「残されるのは劣化した社会」と書かれた帯

 

 

 本書の帯には、「現代思想評論家・情報工学専門家による書きおろし」「悪意や格差の増幅 知識や良心の汚染 残されるのは劣化した社会」と書かれています。「インターネットの無い生活など考えられない」という人は多いでしょう。たしかに、わたしたちの多くはこの巨大な電子通信網上のさまざまなサービスに依存しています。そこに大きな期待をかけ、それによってこの社会が良い方向へと変化するのだと無邪気に信じ、ネット社会を礼賛する者もいます。スマホ、電子書籍、ツイッター、フェイスブック、動画投稿サイト、検索エンジン、ネット販売、クラウドシステム......一連の画期的な技術が大きな期待を担って続々と登場してきました。ところが、それらの技術は想定外の方向に暴走し、現実にさまざまな弊害が現れています。情報通信工学と現代思想という二つの分野を専門領域とする著者は、「私たちの社会は、本当に恩恵を被っているのだろうか」「電子通信網によって失うものに比べて、その恩恵は十分に価値のあるものなのか」「その行き着く先には良い社会があるのだろうか」などの疑問を抱きます。そして、「孤独の増幅」「悪意の増幅」「良心の汚染」「知性の汚染」「正義の偏向」といったキーワードを駆使してネット社会の現状と未来に警鐘を鳴らしています。

 

ネットが社会を破壊する2.jpg
   帯の裏には内容のポイントが並びます

 

 

 本書の目次構成は、以下の通りです。


「はじめに」
第1章 問題9
第2章 ネットは増幅装置
第3章 ネットは汚染装置
第4章 ネットは偏向装置
第5章 傾向と対策


 第1章「問題9」で、著者は「身体性と現実性はほぼ何の関係もない」として、以下のように述べています。


 「身体性は『相互性』『包括性(全体へのアクセス可能性)』『意味への参与』という要素を兼ね備えることによって、現実性を担保する概念となりうるのであり、身体性そのものが現実性を担保するわけではない。そもそも『身体性』という概念は怪しい―『身体』であって『身体性』ではないはず。『身体性』という概念は、その実、『身体にまつわるものであること』という意味以外のものを何も指し示していない」


 また、著者は「ネットの現実感」にも言及し、次のように述べています。


 「ネットが現実性の感覚を持たないのは、それが『相互性』『包括性』『意味への参与性』を兼ね備えていないことによる。逆にいえばそれらの3つの要素が具備されれば、ネットは現実感を持つようになる。SkypeやLINEが(つまりネット利用の電話が)現実感を持つのは、この3つの要素が備わっているからだ」


 著者によれば、ネットの影響はゆっくりと深く進行するそうです。かつて、マーシャル・マクルーハンのメディア理論が一世を風靡しました。マクルーハンは、巻き込み(インボルブメント)という概念を元にして、メディアを「ホット――クール」の対立項によって説明しました。テレビが提供する情報量は低品質で散漫であり、それゆえ視聴者は積極的に関与していかなくてはならなくなります。逆に新聞は、高品位な情報を提供するため、読者は受け身になります。その意味で、テレビはクールなメディアであり、新聞はホットなメディアとなるわけです。人は、クールなメディアには巻き込まれるように関与しますが、ホットなメディアには薄くしか関与しません。また、新聞よりも書籍のほうがホットであり、書籍よりも論文のほうがホットであるとされます。


 「マクルーハン理論は今でも有効」という著者は、以下のように述べます。


 「映画は『ホット』であり、テレビが『クール』なのは、それらが低品位か高品位かによるものではない。映画は、あるストーリーを持ち、それを提示し、何らかの意味や意義を醸成しようという意図のもとに作られているものであるから『ホット』。逆に、テレビにはそのような意図は小さいので『クール』。つまり解釈の余地の問題である。だから、メッセージ性の高いドキュメンタリー番組などは、テレビであっても『ホット』なものとなる」


 著者は、マクルーハンのいう「インボルブメント」とはクールな性質に基づくものであると確認した上で、サルトルの「アンガージュマン」(参画・参加)と誤解してはならないと述べます。アンガ―ジュマンは「関わること」であり主体的な営みですが、インボルブメントは「巻き込まれること」であり受動的な営みだというわけです。


 この「インボルブメント」と「アンガージュマン」の違いを踏まえて、著者は次のように述べています。


 「マクルーハンは、メディアのクールな性質を『参加を惹起しうるもの』を考えたふしがある。つまり好意的に捉えた。しかしその参加は『巻き込まれ』であり、決して主体的なものではない。単純にたとえれば、『誘われてふらふらと歩き出した』(インボルブメント)と、「自分の意志で歩き出した」(アンガージュマン)ほどの違いがある。同じように『歩き出した』ことをもって能動的・主体的であると考えることはできない。インボルブメントでの解釈とは不完全な情報を補完するためのものであり、決して前向きな(創造的な)解釈ではない。したがって、インボルブメントとアンガージュマンは、表面的には類似したように見える場合もあるものの、その実、真逆のものである」


 ここで著者は「インボルブメントはアンガージュマンの前駆状態となりうるか」という問いを立て、「ならない」と即答しています。そして、なんと石森章太郎のコミックを持ち出すのでした。


 「石森章太郎のヒーローものコミックにおいて特徴的なのが、このインボルブメントである。サイボーグ009も、仮面ライダーも、キカイダーも、本人の意志とは別に巻き込まれてやむなく戦う。機動戦士ガンダムのアムロも同様だ。だから彼らは悩む。何のために、誰のために戦うのかを悩み、結論を得ようとする。翻って、ウルトラマンや、ドラゴンボールの孫悟空や、ワンピースのルフィは、戦うことに悩まない。そもそもインボルブされていないからである。ただし、この後三者の状況はアンガージュマンでもないが。アンガージュマンを具現するヒーローは、日本のアニメやコミックでは珍しい部類に分類される。個人的には仮面ライダーシリーズの『ライダーマン』がその稀有な例であろうと考えているが、弱すぎで『スーパーヒーロー』に分類しにくい。アメコミであっても、スーパーマンもスパイダーマンも超人ハルクも『巻き込まれ』型である。例外は、バットマンとサンダーバードであるが、ここまで見事な『自発的参加型(アンガージュマン型)』のスーパーヒーローも、逆に物悲しい。だいたいからして、ブルース・ウェイン(バットマン)も、ジエフ・トレーシー(パパ)も、大金持ちで、スーパーヒーローは『道楽』だしね」


 この著者の分析はとてもユニークですね。わたしも『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「超人化のテクノロジー」で石森作品のヒーローたちに触れ、「超人というと、私には子どもの頃に夢中になった漫画家の故・石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ〇〇7、仮面ライダー、キカイダー、イナズマン、ロボット刑事Kなどがすぐ思い浮かぶ。それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在であるけれども、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていた」などと述べました。


 さて、ネットは「クール」なのか「ホット」なのか? テレビは「クール」で、新聞は「ホット」。ならば、ネットは? 著者は、ネットのメディアとしての性質について次のように述べます。


 「ネットのメディアとしての性質について考えるならば、それは一頃に比べて格段に向上したとはいえ、映像品質1つをとってみても、テレビに比べてまだ圧倒的に『低品位』である。マルチメディアなどと称揚されつつも、21世紀の現代でさえ、ネットでやりとりされる情報の多くは文字ベースである。また、ネットは、基本的に『プル型(ユーザーが情報を取りに行く)』の情報提供であり、ユーザーがデータを取りに行かなくてはならないという点で、クールさは助長される。テレビやラジオは、チャンネルの選択はあるものの、基本的に『プッシュ型(向こう側から送られてくる情報を受け取る)』である。もちろん、プッシュ型よりも、プル型の情報提供のほうが、ユーザーが積極的に関与するという意味において『クール』である。つまりメディアの性質として、情報を補完する必要が多分に存在するという意味で『クール』である」


 著者は、ネットは「開かれていない」と主張します。そして、テレビと比較しながら、次のように述べています。


 「テレビは原則として『見てもらう』ことに重点が置かれているから、確固たる主張の表現はむしろ少なく、解釈の幅は十分に確保されている場合が多い。つまり、かなり「開かれ」ている。一方、ネットは『主張』もしくは『俺の話を聞け』ということに重点が置かれているのだから、そこが『閉じられている』(もしくは「開かれ」ていない)のは当たり前のことだとも言える。もちろんこの性質は、テレビが基本的にテレビ局という営利企業群で構成されており、視聴率が業績に反映される(公共放送であるNHKであっても基本的に事情は同じである)のに対し、ネットでの情報提供者の大多数は個人であり、見てもらうことは嬉しいだろうが、見てもらうことそのものが中心ではないことによる」


 そして、「ネットの影響はゆっくりと深く進行する」と主張する著者は、以下のように述べます。


 「ネットによる社会の変化がかなり急速に進行していることは、誰もがすぐに確認できることだろう。10年前と比べても、最早私たちの社会はネットなしでやっていくのが困難なほど、その恩恵の只中にある。ここで「ゆっくり」進行すると表現しているのは、表面的に観察可能な社会の変化ではなく、私たちの精神の中心に近い部分にある機能に関してのことである。『友達』『連絡』『約束』や『知識』『思考』『正義』などなどの意味が変質し、もはやそれらの概念は、10年前のものとは決定的に異なるものとなりつつある。そして、そのような変化は、日々わずかに進行し続けているので見えにくいが、ある時点で振り返ってみるとその変化に驚くばかりであるという意味で、『ゆっくり』『着実に』そして『深く』進行している。眉唾な喩えだが『ゆでガエル』のように」


 著者いわく、インターネットという電子通信網の発展という現象は、そのこと自体は単なる技術革新でしかありません。ネット社会の現状について、著者は次のように述べます。


 「多くの人たちの意見が披露され、効率的に集約される仕組みを、まだ人類は持っていない。テレビやラジオや新聞などの大衆媒体(マスコミ)には、そのような機能は備わっていない。現代の多くの先進国では、その機能を限定的な意味で選挙に見ることができるが、周知のとおり十分に機能しているとはいえない。インターネット上の様々なサービスも、そのような機能を具備していない。ネットに書き込んだり、ブログやTwitterを使っているのは、ごく一部の人たちでしかない」


 第2章「ネットは増幅装置」において、著者は「賢い者はより賢く、馬鹿者はより馬鹿に」という言葉を示し、次のように述べています。


 「ここで注意しなくてはならないのは、単に少しの時間をかけてネットにアクセスすれば、知識や技術が得られるわけではないということである。情報が価値を持つのは、それによって生じる意味の生成に参与しているときのみである。単に受動的に、垂れ流されている情報を受け取るだけで知識や技術が得られるわけではない。また、ネットにアクセスしている比較的優秀ではない若者を見ればわかるように、彼らの行く先のサイトは、愚にもつかないタレントのブログやSNS、みじめな愚痴が飛び交う掲示板、そしてアダルトサイトである。もちろんではあるが、そのようなところから得られる有用な情報は、何もない。これも後に検討することだが、ネットは、知性を増幅するが、劣情や愚かさも増幅する。ネットでは、その個人が本来持っていたものが増幅されるだけであって、そこで何か新しい自分になれるわけではない。したがって、"rich get richer"だけでなく、"bright get brighter"(賢い者はより賢く)であり、"dull get duller"(馬鹿者はより馬鹿に)である」


 増幅装置であるネットは「孤独」をも増幅します。著者は「孤独と絆」の問題に触れて、次のように述べています。


 「人が孤独を感じるのは、絆が存在しないとき、もしくは絆が絶たれたときであるはずだ。孤独であることに耐えられず、その解消をネットに求める人間がまず直面するのは、『絆の予感』である場合が多い。不安にかられながらチャットルームに入っていったときや、Twitterでフォロワーが付いたとき、もしくはブログにアクセスがあったときや、mixiなどのSNSで足跡がつけられたとき、2ちゃんねるで自分の書き込みにレスがあったとき、などなどにおいて、その予感は発生する。この『自分の世界が広がった感じ』に酔いしれるのは、とても楽しい経験である。おそらく人間というのは、基本的に絆を求める性質を持っているようにも感じられる。『ひきこもり』に分類される日々を送っている私であっても、そのような瞬間には、何がしか『魂の高ぶり』のようなものを感じてしまう。しかしそれは『絆の予感』ではあっても、決して、絆そのものではない」


 そして、「絆の予感は裏切られる」と言い放つ著者は、次のように述べます。


 「そもそも、現実世界で人との関係をうまく構築できない人間に、ネット上でそれがうまくできるはずもない。ネット上で『うまく絆を構築している人たち』の様子を見ると、彼ら彼女らは現実世界でもそうであることが透けて見える」


 ネットは「増幅装置」です。現実世界で「うまく絆を取り結ぶ」ことができる人たちは、ネットではさらにうまくできるでしょう。しかし、それができない人、つまり現実世界で孤独な人がネットでそれを目指しても、決してうまくはいかないでしょう。「むしろ孤独を増幅することになるのがオチである」と著者は言い、さらに次のように述べます。


 「現実社会で豊かな人間関係を構築している人がネットの世界に入っていくと、それはさらに豊かなものとなる可能性が高いのだが、逆に、そうでない人がネットに入っていけば、より大きな孤独や疎外感を感じることになる。"lonely get more lonely"だ」


 著者は、人間の機能は「現実」から学ぶようにできているといいます。そして、以下のように述べています。


 「私たちの精神の機能はとても巧妙かつ効率的にしつらえられている。『現実』からは多くのことを修得しなければならない。なぜなら、それは本当に起こったことだからだ。しかし、人の手を介して語られる『作られた物語』から軽軽に修得するようなことがあってはならない。それは事実ではなく、経験のリストに入れても将来の行動決定に役に立たない可能性が高いからだ。事実は重い。たとえそれが到底信じがたいことであっても、また、到底信じがたいことであればあるほど、それが現実に発生したことを記銘しておかなくてはならない。おそらく私たち人類は、そのような仕組みを身に付けたことによって、ここまでの繁栄を達成することができた」


 また著者は、人間の機能は「危険」から多く学ぶようにできているとして、次のように述べています。


 「それが『危険』に類するものである場合には、事実であるかどうかの判断基準を甘く設定しておかなくてはならない。たとえ事実でなかったにせよ、回避しておけば問題は生じないのだし、逆にそれが事実であったならば、その損害は甚大なものとなる。
 だから、『あの場所は気持ちいい』ということよりも『あの場所は危険だ』ということのほうが、より信じられやすい。これは、生命体としての人間が生き抜くために培ってきた性質であるとさえ言える。そして同様に、『あの人はいい人だ』ということよりも『あの人は悪人だ』ということのほうが、より信じられやすい。良い噂がそれほど広まらず、悪い噂が嵐のように駆け巡るのは、決して人類の品性の問題ではない」


 第3章「ネットは汚染装置」においては、著者は「私たちの良心はネットによって深く傷つけられる」として、以下のように述べます。


 「2ちゃんねる、闇サイト、裏サイト、悪意に満ちたブログ、くだらないツイート、などなどを『眺める』には、相当の覚悟が必要である。私たちが何かを見たときに、それは単に見ただけのことであって何ら影響がないなどと決して思ってはならない。闇を覗き込むものは、闇に取り込まれる。たとえそれに対して見なかったふりを決め込んだとしても。『見なかったふりをする』というときの自分の精神状態を少し考えてみれば、それはよくわかる。見なかったことにする、もしくは見なかったふりをするのは、それを価値判新の俎上に載せて積極的に吟味し検討することに比べて、圧倒的に精神負担が大きい。この負担は『いやな感じ』として実感されることもあるが、その感覚は、自分の良心の一部が汚損されたことを知らせるために発せられた、私たちの極めて高度で精妙な精神機能による警告である」


 第4章「ネットは偏向装置」においては、著者はテレビについて「仮想現実視訓練装置」であると定義し、次のように述べています。


 「テレビという『仮想現実視訓練装置』によって十分な訓練を受け続けた人間は、現実ではないものを現実であると認識する『能力』が極めて高くなっている。彼らがネットに触れたとき、それが単なる文字だけのものであっても、そこに『現実』を感じることがことができる。素晴らしい『能力』だ。『いいね!』のカウントが1つ上がれば『自分が世界から高く評価された』と錯覚し、どこの誰かも分からない人にフォローされても『自分の言葉が価値あるものと評価されている』と錯覚し、友達に登録されれば『友達が増えた』と錯覚する。素晴らしいことだ。ただしそれらの逆に、知り合いが『いいね!』をクリックしないと恨み、フォロワーの数が増えないと『人格に問題があるのでは?』と悩み、unfriend(友達解除)の通告を受ければ真剣に心を痛める。大丈夫か?単なる通信サービス上でのことだよ?」


 この文章は爽快です。わたしは、これを読んで心の中で「いいね!」と叫びました。


 ネットは偏向装置である。ならば、「偏向していない正義」とは何か。それについて考える著者は、次のように述べています。


 「論理は重要であり、論理を手繰って悩みぬくことが必要だが、おそらく最終的には、自分の魂と向き合い、その良心を信じて決断するほかはないということになるだろう。その過程で、多くの人間の意見や主張に耳を傾けることがとても重要。ただしそのとき、その『多くの人間』とは、ネット上の名前も顔も知らない人たちのことではない。社会を形成する知的生命体である私たち人間の機能はとても精緻に整えられていて、多数者の意見を吟味しつつそれらとの調整を図って自分の意見を形作る。そのとき『人類』という知的生命体が想定するのは直接対話であり、名前も顔も見知った相手との対面によって得られた意見であると認識する。おそらく数万年か数十万年の間そうしてきたので、『言葉だけでのコミュニケーション』というものを想定できない。しかしネット経由での主張や意見とは、そうではない。ただの文字の羅列であり、そこには息遣いも抑揚も無ければ、その主張を底支えする生活もない」


 第5章「傾向と対策」において、著者は「情報の確認」とは「意味の生成」と同義であるとして、次のように述べます。


 「おじさんと呼ばれる年齢にもなると、人は、そのたたずまいから『怪しげな店』を判断できるようになったりする。『ヤツはどうも胡散臭い』などと直観的に判断したりして、挙句に失敗したりもするが。たとえ失敗したとしても、それは、『意味の生成』への参与である。共有しうる意味生成の作業に参加することは、つまり、世界を構築する作業に参加していることを意味する。そして、そのような作業に多く参加している人間こそが、『情報強者』であり、逆に、そうではない人間が『情報弱者』である。その意味では、意味生成に参加せず、ただ単に垂れ流しされている『情報のようなもの』に大量に触れているだけの人間は、むしろ究極の『情報弱者』である」


 さらに著者は「共通の意味への参与こそが、情報利用の要点」であると指摘し、次のように述べます。


 「現実の社会において、たとえば企業において何らかの意味のある仕事を遂行するときのことを考えてみるならば、そのことはよりよく実感されるだろう。大量のゴミのような情報が頭の中に充満している人間は、企業にとっては何の価値もないし、関係の希薄な友人が携帯に千人登録されていたとしても、また、マイミクが2千人いたとしても、Twitterのフォロワーが3千人いたとしても、そんなことには何の価値もない。難しい質問に電話1本で丁寧に答えてくれたり、強力なコネを紹介してくれる優秀な友人を3人持っていることのほうが、圧倒的に価値がある(もちろんそれは、自分がそのような立場ともなりうるのでなければ、実現されない場合が多い)」


 ネットは声の増幅というものをするのでしょうか。この問題について、著者は次のように述べています。


 「ネットで増幅される声は、嫉妬や怒り、恐怖や不安や不満に大きく偏っている。それらの感情が悪いとは思わないし、社会を変革するための原動力としてはとても重要なものであるとさえ思う。しかしながら、そのようないわゆる『悪感情』『負の感情』に基づく声ばかりが重点的に増幅される仕組みが、この社会を幸福にするように機能するとは考えにくい。いずれ人類はネットのそのような側面に気付くだろうし、すでに多くの人は気付いている」


 残念ながらネット社会が歴史を重ねるにつれ、声はどんどん堕落しています。画期的な技術が大きな期待を担って続々と登場しましが、いずれも想定外の方向に暴走しさまざまな弊害をもたらしました。たとえば、Twitterについて著者は次のように述べます。


 「かつてTwitterは素晴らしい実験場だった。そこではネット上の文字列という形ではあるものの、一部『声』の要素を含んだものが多く飛び交っていた。伝達を目的とするのではなく、また何らかの成果を目的とするのではなく、単なるつぶやきや叫びであるとき、それは「声」に近い要素を持つ。実際、Twitterの初期においては、多くの人はそのように使っていたはずだ。そのうちに、そこで何かができると考える輩が多数出現した。そしてTwitterは、やれ人脈形成だの、信頼を勝ち取るだの、情報を共有するだのという、成果志向のしょぼい伝言ツールに堕落した」


 Twitterが「成果志向のしょぼい伝言ツール」というのは言いえて妙ですね。


 「声」というものは私的な空間においてしか成立しません。ですから、単純にその場所を拡大して「声」の伝達範囲を広げようとしても失敗するのです。しかし、著者は「声の復活」や「声の増幅」の可能性がないわけではないとして、次のように述べます。


 「ネットに声があるとすれば、それは結局のところあなたが日々発している肉声の延長でしかない。その声が醜いものであれば、ネットでそれは拡大される。その声が美しいものであれば、汚染される。そのことに気付いた人は、ネットで声をあげなくなる。しかしそれは悲しい。少しづつ、ゆっくり、速度を気にせず、小さく控えめに声をあげよう。いわれのない中傷に直面して傷つくこともあるだろうし、無視されることもあるだろう。そのときは、少し休めば良い。闇にとりこまれてはならないから、敵視したり反論したりすることは避けよう。ネットという、人類にとって生まれたばかりの不出来な道具を良いものにしていくためには、そういう日々の努力が重要」


 本書は、パソコン通信の時代からネットに親しんでいた人が書いただけあって、じつにネットというものに精通している印象を持ちました。最近、この手のネット社会に警鐘を鳴らす内容の本は多いですが、著者はけっしてステレオタイプの批判など展開せず、さまざままな問題を1つづつ丁寧に考察し、それを解決するヒントまで示してくれます。類書を圧倒する知的好奇心に満ちた好著だと思いました。