No.0916 小説・詩歌 『女のいない男たち』 村上春樹著(文藝春秋)

2014.04.25

 『女のいない男たち』村上春樹著(文藝春秋)を読みました。
 長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からちょうど1年、短編小説集としては9年ぶりの作品です。

   本書の帯

 表紙カバーには1本の木と黒猫とBARが描かれており、洒脱な印象を与えます。また帯には「村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。その物語はより深く、より鋭く、予測を超える。」と書かれています。「まえがき」に続いて、「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6編が収録されています。

 最近読んだ『歴史小説の罠~司馬遼太郎、半藤一利、村上春樹』福井雄三著(総和社)という本の中で、東京国際大学教授の福井氏は村上春樹氏の一連の長編小説について、「非戦・反戦・兵役拒否といった、いかにも俗耳に入りやすい念仏平和主義と世界市民主義で読者の好奇心をうまくひきつつ、随所に過激な性的描写の場面をちりばめ、最後まで面白おかしく読ませる工夫がこらされている。『村上春樹の作品はポルノ小説の要素がある』とよく評される所以である」と述べ、さらには「村上春樹の読者は若い女性ファンが圧倒的に多いというのもそれなりにうなづける。しかしこのような通俗作品をありがたくおしいただいてもてはやしている、日本人読者の知的劣化現象こそが問題にされねばならぬであろう」と酷評しています。この福井氏のハルキ論には賛否両論あるでしょうが、少なくとも「村上春樹の作品はポルノ小説の要素がある」というのは的を得ており、それはこの『女のいない男たち』でも存分に示されています。もちろん、ポルノ小説の要素だけではありませんが・・・・・・。

 著者には珍しいといえる「まえがき」では、『女のいない男たち』という本書のタイトルについて以下のように述べられています。

 「『女のいない男たち』と聞いて、多くの読者はアーネスト・ヘミングウェイの素晴らしい短編集を思い出されることだろう。僕ももちろん思い出した。でもヘミングウェイの本のこのタイトル”Men Without Women”を、高見浩氏は『男だけの世界』と訳されているし、僕の感覚としてもむしろ『女のいない男たち』よりは『女抜きの男たち』とでも訳した方が原題の感覚に近いような気がする。しかし本書の場合はより即物的に、文字通り『女のいない男たち』なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」

 著者は、最後の物語である「女のいない男たち」の中で「女のいない男たちになるのがどれくらい切ないことなのか、心痛むことなのか、それは女のいない男たちにしか理解できない」として、次のように書いています。

 「素敵な西風を失うこと。14歳を永遠に―10億年はたぶん永遠に近い時間だ―奪われてしまうこと。遠くに水夫たちの物憂くも痛ましい歌を聴くこと。アンモナイトとシーラカンスと共に暗い海の底に潜むこと。夜中の1時過ぎに誰かの家に電話をかけること。夜中の1時過ぎに誰かから電話がかかってくること。知と無知の間の任意の中間地点で見知らぬ相手と待ち合わせること。タイヤの空気圧を測りながら、乾いた路上に涙をこぼすこと」

 そして、著者は「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」とも書いています。つまり、この本は妻や恋人から裏切られたり捨てられたりした男を描く、いわば「失恋」をテーマにした短編集なのです。著者の小説はつねに「喪失」と「再生」の物語であると、わたしは思っています。多くの長編の名作には、愛する人を亡くした主人公が登場しました。また、前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公は親友たちとの「友情」を喪失するという体験をしました。そして、この『女のいない男たち』は妻や恋人の「愛情」を喪失する物語集です。

 わたしはグリーフケアというものに会社をあげて取り組んでいます。「悲嘆からの回復のお世話」という意味ですが、わが社の場合は「死別の悲しみ」を軽くするお手伝いをさせていただいています。しかし、グリーフケアの対象はけっして「死別」だけではありません。本当は、友情や愛情を失うという「喪失」も対象範囲に入ります。ということは、前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も本作『女のいない男たち』も、すべてグリーフケア小説ということになりますね。

 ネタバレにならないように慎重に6編の短編小説を紹介すると、最初の「ドライブ・マイ・カー」は、今は亡き妻が浮気をしていたことに悩まされる50代の俳優の話です。彼は妻が複数の男たちと不倫していることに気づきながら、知らないふりをして円満な夫婦を装っていました。彼ら夫婦には3日間だけ生きた子供がいました。病院の保育室で前触れもなく突然死したしたのです。著者は次のように書いています。

 子供をそんな風に唐突に失ったことで、二人はもちろん深く傷ついた。そこに生じた空白は重く、暗かった。気持ちを立て直すまでに長い期間が必要だった。二人は家の中にこもり、多くの時間をほとんど無言のうちに送った。口を開けば、何かつまらないことを言ってしまいそうだったからだ。彼女はワインをよく飲むようになった。彼はしばらくのあいだ、異様なほど熱心に書道に凝っていた。真っ白な紙の上に黒々と筆を走らせ、様々な漢字を書いていると、自分の心の仕組みが透けて見えてくるような気がした。(「ドライブ・マイ・カー」)

 子を失った夫婦はお互いを支え合うことで、少しずつ傷の痛みから回復し、危うい時期を乗り切ることができました。また以前より深く、それぞれの仕事に集中するようになりました。しかし、妻は「悪いけれどもう子供は作りたくないの」と言い、夫もそれに同意します。夫が後で思い起こしてみれば、妻が他の男と性的関係を持つようになったのは、そのあとからでした。

 妻の死後、その不倫相手に近づいて友人関係になるほど、夫の心は傷ついていました。しかし、彼の運転手として雇われた24歳の無愛想な女の子(彼が亡くした娘が生きていれば同じ年齢でした)が時々発する言葉が、次第に彼の心を癒していくのでした。

 2作目の「イエスタデイ」には、関西弁でビートルズを歌う木樽という男性が登場します。大学受験に失敗して浪人生活を送っている彼は、幼馴染の恋人を親友である「撲」と交際させようとします。そんなことをしてまで、彼は彼女を自分の近くに引き留めておきたかったのです。長風呂の木樽は「イエスタデイ」の替え歌を入浴中に歌います。「昨日は、明日のおとといで、おとといのあしたや♪」とか「きのうまであの子もちゃんと、そこにおったのに♪」といった具合です。一方、「撲」はどうかというと、次のように書かれています。

 僕自身は風呂に入る時間が昔から短い。おとなしくお湯につかっていることにすぐ飽きてしまうからだ。風呂の中では本も読めないし、音楽も聴けない。そういうものがないと、僕はうまく時間が潰せない。
 「長いこと風呂につかっているとな、頭がリラックスして、けっこうええアイデアが浮かぶんや。ひょこっと」と木樽は言った。
 「アイデアって、その『イエスタデイ』の歌詞みたいなもののことか?」
 「まあ、これもそのひとつではある」と木樽は言った。(「イエスタデイ」)

 この「イエスタデイ」の中の何ということのない描写に、著者の筆力の凄さを感じます。読んでいると、心地よくなるような文章です。うまいなあ、と思います。この主人公の「撲」は早稲田大学の学生という設定なので、なんだか自分の若い頃と重なって感情移入しました。また、わたしも長風呂が苦手で、いつも入浴中に読書するぐらいなのです。こんなふうに、まったくの他人と心が同化してしまうのも読書の醍醐味であると言えるでしょう。

 3作目の「独立器官」には、さんざん女遊びをしてきた渡会という独身主義者の整形外科医が登場します。彼はどんな女性とも適度な距離をとって交際してきたのですが、中年になって初めて真剣な恋に落ちます。しかし、彼は手痛い失恋を経験し、それが原因で拒食症になって死んでしまいます。彼が深く愛してしまった彼女は、彼に嘘をつき続けており、彼は何よりもその裏切りがショックだったのです。あるとき、渡会は「撲」にこう語ったことがありました。

 すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった。どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときはほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。だからこそ嘘をつくことによって、彼女たちの美しい良心が傷んだり、彼女たいの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは―特殊な例外を別にすれば―まず起こらない。(「独立器官」)

 4作目の「シェエラザード」は、なんとも奇妙な味を持った作品です。まず、その設定がとても変わっています。主人公の羽原という男性は「ハウス」という呼ばれる部屋にこもっており、外界との連絡を一切絶っています。そこに彼の世話をする女性が時々訪ねてきます。彼女は、彼の食事の世話と性欲処理の世話の両方をする係でした。情事の終わりには、彼女はいつも魅力的なピロートークを繰り広げ、さまざまな物語を彼に語ってくれます。羽原は、次第に、女性が彼来なくなって、物語の続きが聴けなくなることを恐れ始めます。その不安を、著者は次のように書いています。

 羽原はその夜、まだ早い時期にベッドに入り、シェエラザードのことを考えた。彼女はひょっとして、もうこのまま姿を見せなくなるかもしれない。彼はそのことを案じていた。それは決して起こり得ないことではない。シェエラザードと彼のあいだには、どのような個人的取り決めも存在しない。それは誰かからたまたま与えられた関係であり、その誰かの気分ひとつで、いつ取り上げられるかもしれない関係だった。言うなれば、細い糸一本でかろうじて結ばれているだけの繋がりだ。おそらくいつか、いや、間違いなくいつか、それは終わりを告げるだろう。その糸は切られてしまうだろう。遅いか早いか、違いはそれだけだ。そしていったんシェエラザードが去ってしまえば、羽原にはもう彼女の話が聞けなくなる。物語の流れはそこで断ち切られ、語られるはずのいくつもの未知の不思議な物語は、語られないまま消えてしまう。(「シェエラザード」)

 このシェエラザードと呼ばれる女性と羽原との関係はけっして特殊なものではなく、どこにでもある人間関係なのかもしれません。もちろん、羽原が置かれている環境は非常に特殊です。想像するに、オウム真理教のようなカルト宗教団体のテロ要員が秘密アジトでじっと待機しているようにも思えます。そんな彼のもとを訪れて物語を提供するシェエラザードも特殊かというと、そうではないと思います。おそらく、すべての男女関係というものは、ある日突然に糸が絶たれてしまって、新しい物語を聴けなくなってしまうという危うい緊張関係の中にあるのではないでしょうか。わたしは、そう感じました。

 5作目の「木野」には、東京・青山の裏通りでBARを経営する木野という中年男が登場します。彼は、妻の浮気現場を目撃したことが原因で務めていた会社を辞め、離婚した経験を持ちます。彼は、自分が思っている以上に深く傷ついてしまっていたのですが、表面上はそれを顔に出さず、不貞を犯した妻を責めることもなく、ただ淡々と離婚します。そうして脱サラしてBARの経営者となった彼でしたが、次第に神経を狂わせていくのでした。ある出来事がきっかけで東京を脱出し、九州のビジネスホテルを渡り歩いていた彼の部屋のドアを深夜ノックする者が現れます。その音で寝ていた彼は目を覚ますのですが、枕元のディジタル時計は2時15分を示していました。著者は、次のように書いています。

 木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。そう、両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。(「木野」)

 この「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ」という木野の思いは、グリーフケアの分野において重要な問題です。わたしは日々、愛する人を亡くした人に接しています。そのたびに、亡くなった人を想って流す涙は正しいと感じます。

 人を亡くして悲しむのは、その人を愛していたからであり、自分の死に対して泣いてくれる人がいるとは、なんと幸せなことでしょうか。人が亡くなると、すぐに「悲しみ」という言葉が連想され、次に「癒し」という言葉が浮かんできます。いつも、「悲しみ」と「癒し」はセットで使われます。しかし、悲しみは必ず癒されるべきなのでしょうか。そんなに悲しむことは悪いことなのでしょうか。

 わたしは、そうは思いません。愛する人を亡くして涙を流して悲しむことは、人間としてきわめて自然なことであり、これほど正しいことはないと言えるでしょう。そして、死別だけでなく裏切りや失恋や離婚といった喪失体験においても、十分に傷つき、十分に涙を流すことが必要なのだと思います。

 どれほどの時間が経過したのだろう、気がついたときノックの音はやんでいた。あたりは月の歌川のように静まりかえっている。それでも木野は布団をかぶったまま動かなかった。油断してはならない。彼は気配を殺し、耳を澄ませ、沈黙の中に不吉な示唆を聞き取ろうとした。ドアの外にいるものがそれほど簡単にあきらめるはずはない。相手には急ぐ必要はないのだ。月も出ていない。空には枯死した星座が黒々と浮かんでいるだけだ。世界はまだしばらくのあいだ彼らのものだ。彼らはいくつもの違うやり方を持っている。求めは様々なかたちをとることができる。暗い根は地中の至る処にその先端を伸ばすことができる。それは我慢強く時間をかけ、弱い部分を探り、堅固な岩をさえ砕くことができる。(「木野」)

 「シェエラザード」にも幻想小説的な要素がありますが、この「木野」ではさらにその色が濃くなっています。デモーニッシュな存在さえ登場し、もはや怪奇幻想小説といってもいいような内容です。そこには、著者が影響を受けたというフランツ・カフカの影響が明らかに見られます。ちょっと、『ダンス・ダンス・ダンス』の雰囲気に似ているような気もします。著者によれば一番書くのに苦労した作品だそうですが、わたしはこの「木野」を最も気に入りました。

 そして6作目の「女のいない男たち」では、主人公の「撲」が真夜中の電話のベルで起こされる場面から始まります。電話の主は知らない男性で、「妻は先週の水曜日に自殺をしました、なにはともあれお知らせしておかなくてはと思って」と言いました。自殺した女性は「撲」のかつての恋人だったのです。呆然自失とした「撲」の様子を著者は次のように描いています。

 僕がようやく受話器を置いてベッドに戻ったとき、妻も目を覚ましていた。
 「何の電話だったの? 誰が死んだの?」と妻は言った。
 「誰も死なない。間違い電話だよ」と僕は言った。いかにも眠そうな、間延びした声で。
 でももちろん彼女はそんなことは信じなかった。僕の声にもやはり死者の気配は含まれていたからだ。できたての死者がもたらす動揺は、強力な感染性を持っている。それは 細かい震えとなって電話線を伝わり、言葉の響きを変形させ、世界をその振動に同期させていく。でも妻はそれ以上何も言わなかった。僕らは暗やみの中で横になり、そこにある静寂に耳を澄ませながら、それぞれに思いを巡らせていた。(「女のいない男たち」)

 「撲」は遠い昔に愛した「エム」と呼ぶ恋人を回想します。14歳のときに初めて出会って、2年間つきあった仲です。彼は、彼女を次のように回想するのでした。

 僕がエムについて今でもいちばんよく覚えているのは、彼女が「エレベーター音楽」を愛していたことだ。よくエレベーターの中で流れているような音楽―つまりパーシー・フェイスだとか、マントヴァ―二だとか、レイモンド・ルフェーベルだとか、フランク・チャックスフィールドだとか、フランシス・レイだとか、101ストリングスだとか、ポール・モーリアだとか、ビリー・ヴォ―ンだとかその手の音楽だ。彼女はそういう(僕に言わせれば)無害な音楽が宿命的に好きだった。流麗きわまりない弦楽器群、心地よく浮かび上がる木管楽器、ミュートをつけた金管楽器、心を優しく撫でるハープの響き。絶対に崩されることのないチャーミングなメロディー、砂糖菓子のように口当たりの良いハーモニー、ほどよくエコーをきかせた録音。(「女のいない男たち」)

 実際、この小説には、フランシス・レイの『白い恋人たち』、パーシー・フェイスの『夏の日の恋』などが重要な場面で登場します。わたしは、すっかり嬉しくなりました。どちらも、わたしの大好きな曲だからです。「エレベーター音楽」という単語は初めて知りましたが、要するに「イージー・リスニング」ということでしょう。わたしは、この手の音楽が大好物なのです。このジャンルの集大成ともいえるラジオ番組こそ日本航空提供の「ジェットストリーム」でした。ブログ「ジェットストリーム」に書いたように、わたしはこの「ジェットストリーム」のCDセット全10枚をJALショッピングの通販で買いました。読書や執筆のBGMとして流したり、i-PodやiPhoneに入れて就寝時に聴いたりしています。

 彼女を抱きながら何度もパーシー・フェイスの『夏の日の恋』を聴いたという「撲」は、今でも『夏の日の恋』のイントロを聴くたびに性的に昂揚します。なぜ彼女がそんなにもエレベーター音楽を愛したかというと、その秘密は「スペース」というキーワードに隠されていました。著者は、次のように「スペース」について書いています。

 「私がこういう音楽を好きなのはね」とあるときエムは言った。
 「要するにスペースの問題なの」
 「スペースの問題?」
 「つまりね、こういう音楽を聴いていると、自分が何もない広々とした空間にいるような気がするの。そこはほんとに広々としていて、仕切りというものがないの。壁もなく、天井もない。そしてそこでは私は何も考えなくていい、何もしなくていい。ただそこにいればいいの。ただ目を閉じて、美しいストリングズの響きに身を任せていればいい。頭痛もなければ、冷え性もなければ、生理も排卵期もない。そこではすべてはただひたすら美しく、安らかで、淀むことがない。それ以上のことは何ひとつ求められていない」
 「天国にいるみたいに?」
 「そう」とエムは言った。「天国ではきっとBGMにパーシー・フェイスの音楽が流れていると思う。ねえ、もっと背中を撫でてくれる?」
 「いいよ。もちろん」と僕は言った。
 「あなたは背中を撫でるのがとてもじょうず」
 僕とヘンリー・マンシー二は、彼女にわからないように顔を見合わせる。口許に微かな笑みを浮かべて。(「女のいない男たち」)

 この最後の1行などは「さすが!」といった感じですね。プロの作家、それも一流の作家の表現力というものに感銘を受けました。かつての恋人の死を知った「撲」は、彼女と過ごした時間がいかにかけがえのないものだったかを思い知ります。彼は彼女を失っただけでなく、エレベーター音楽をも失ったのでした。今の彼は車を運転するとき、iPodをUSBケーブルでつないで音楽を聴きます。そこには彼の好きなロックやブルースは入っていても、フランシス・レイやパーシー・フェイスの曲は入っていません。著者は、次のように書いています。

 一人の女性を失うというのは、そういうことなのだ。そしてあるときには、一人の女性を失うというのは、すべての女性を失うということでもある。そのようにして僕らは女のいない男たちになる。僕らはまたパーシー・フェイスとフランシス・レイと101ストリングズを失うことになる。アンモナイトとシーラカンスを失うことになる。もちろん彼女のチャーミングな背中だって失われてしまっている。僕はヘンリー・マンシーにの指揮する『ムーン・リヴァ―』を聴きながら、そのソフトな三拍子にあわせて、エムの背中を手のひらでひたすら撫でたものだ。(「女のいない男たち」)

 そして、天国にいるであろう彼女を想像する彼の思いが泣かせます。「祈る以外にできることは何もない」と悟っている彼は、ひたすら彼女のために祈ります。そんな彼の心中を著者は次のように書いています。

 エムが今、天国―あるいはそれに類する場所―にして、『夏の日の恋』を聴いているといいと思う。その仕切りのない、広々とした音楽に優しく包まれているといいのだけれど。ジェファーソン・エアプレインなんかが流れていないといい(神様はたぶんそこまで残酷ではなかろう。僕はそう期待する)そして『夏の日の恋』のヴァイオリン・ピッチカートを聴きながら、彼女がときどき撲のことを思い出してくれればなと思う。しかしそこまで多くは求めない。たとえ僕抜きであっても、エムがそこで永劫不朽のエレベーター音楽と共に、幸福に心安らかに暮らしていることを祈る。(「女のいない男たち」)

 わたしは、天国でエレベーター音楽が流れているという美しいイメージを気に入りました。そして、たしかに『夏の日の恋』や『白い恋人たち』や『ムーン・リヴァ―』は天国的な音楽だなと納得しました。おそらくエレベーター音楽とは、天国へと昇る「昇天音楽」のことなのでしょう。逆に地獄へと降下する音楽がへヴィメタルなどのハードロックのような気がします。

 エレベーター音楽のイメージにすっかりロマンティックになったわたしですが、愛する女性を失って「女のいない男たち」の1人になった「撲」を描いた小説を読んだ後に心に浮かんできた曲はパーシー・フェイスでもフランシス・レイでもなく、ブログ「熱き心で突っ走れ!」で紹介した歌謡コンサート以来ハマっている小林旭の「惚れた女が死んだ夜は」でした。

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