No.0918 マーケティング・イノベーション | メディア・IT 『私がケータイを持たない理由』 斎藤貴男著(祥伝社新書)

2014.04.29

 今日は「昭和の日」ですね。昭和の風景に、ケータイは存在しません。携帯電話と称したものは昭和63年(1987年)、つまり昭和の最後の年にNTTから発売されましたが、重量は750gでした。

 『私がケータイを持たない理由』斎藤貴男著(祥伝社新書)を読みました。著者は、社会の中に潜む構造的な問題を浮き彫りにすることに定評があります。書評『強いられる死』で紹介した本の著者でもあります。

   本書の帯はレモンイエロー

 本書の帯には「あえて”文明”にさからう私の生き方!」と大書され、続いて「硬骨のジャーナリストが挑む、気宇壮大、かつ無謀な試みの顛末とは?」と書かれています。

 またカバー前そでには、「ケータイの代わりに現代人が失ったものとは?」として、以下のような内容紹介があります。

 「日本のケータイ契約数は1億2800万台を突破、今や現代は、それなしでは生活できない社会となった。だが、便利さと引き換えに、失った物も多々ある。それは、個人の尊厳や自由、私的空間、電磁波に冒されない健康、監視されない社会だ。著者は、世の体勢に背を向け、『持たず、使わず、持ち込ませず』の非ケータイ三原則を貫くジャーナリスト。 ケータイさえなければ起きなかった事件・事故を追跡、ケータイと共に変貌した日本の姿を憂えて、『休ケータイ日のすすめ』を提唱する」

 本書の目次構成は、以下の通りです。

「はじめに」
第一章 ケータイを持たぬ者は人に非ず?
第二章 「ケータイと交通事故」から考えるおぞましい現実
第三章 「いじめ」と「マーケティング」について
第四章 利便性の裏側にあるもの
第五章 ネオ・ラッダイトと呼ばれても
最終章 休ケータイ日のすすめ

 「はじめに」の冒頭で、著者は次のように宣言します。

 「私は携帯電話を持っていません。だけどスマホは持っているぜとか、持っているのは女房で、おいらはそいつを借りているんだなどというややこしい冗談ではなく、ケータイと名が付くものは一切『持たず、使わず、持ち込ませず』という、非ケータイ三原則を遵守しているのであります」

 第二章「『ケータイと交通事故』から考えるおぞましい現実」には、「104」とか「テレホンカード」といった、なつかしい固有名詞が登場しますが、読んでいくと、なかなか考えさせられる内容です。1990年に104番号案内が有料化されていますが、これについて著者は次のように述べています。

 「有料化に反対する視覚障害者の団体などは、しばしば104=レストランのメニュー論を強調していました。メニューを見せるのに金を取るレストランなんてありえないでしょというわけで、近年のJRが大々的に展開している”駅ナカビジネス”とも共通する問題です。国家権力でもって蓄積した資本や資産を、ハイ、民営化しましたのでと言って、身勝手な金儲けに使われてしまうのはおかしくないかという議論が、マスコミではなぜか、まるで交わされることがありません」

 また、今や絶命した観さえあるテレホンカードについて、著者は述べます。

 「テレホンカードは電電公社時代の1982年12月に売り出されたのですが、以来、爆発的に売れ続けている、プリペイド方式の特性をフルに利用し、デザインに趣向を凝らしてコレクターの人気を煽った販売戦略が大成功したのだ、というのです。
 テレホンカードはそれで電話をかけられる料金分を上回る値段では売りにくい。では製造や印刷、流通にかかるコストをどうするか。電電公社が負担したのでは、売れば売るほど赤字になってしまうということで、社内の仕掛け人が考え出したのが、記念切手を真似た商法でした」

 第三章「『いじめ』と『マーケティング』について」の内容は深刻です。

 ケータイが原因で起こるいじめの報道に触れるたびに、著者は「ケータイさえなかったら」と思うそうです。そして、ケータイには人間の本性を暴き出す力があるとして、「もしかしたら私は、ケータイを云々しながら、実はケータイを嫌っているのではないのかもしれません。憎んでいるのはむしろ、たかがケータイごときのためにあっけなくさらけ出されてしまった、人間の側の本性であるような気もします」と述べています。

 「ケータイを使って他人をいじめるのって、どういう感覚なんだろう」と考える著者は、匿名性が独り歩きして変貌してしまった社会を論じながら、次のように述べます。

 「ネットの匿名性に隠れて他人に悪罵の限りを尽くす行為が卑劣であることは論を俟ちません。自分自身は安全圏にいて、相手だけを傷つけようとする性根はそれだけでも腐っていると断じざるをえませんが、厄介なのは、責任を負わなければならなくなる覚悟を初めから持ち合わせていない人々の発言というのは、ものすごく安易だということです。思いつきだけで物を言う。人が人を批判するのに必要な、最低限度の礼儀どころか根拠さえも示さない」

 著者は、「ネット社会の到来で、誰もが満天下に向かって発言できるようになったのは本来、すばらしいことであるはずです。従来はメディアにアクセスできる立場や能力を備えた人だけの特権だったものが、みんなに開かれたのですから」と述べます。しかし、「なのに、この惨状は何なのでしょう」として、次のような事実を述べるのでした。

 「ネットいじめや掲示板での誹謗中傷だけでなく、たとえば2008年6月の、東京・秋葉原の通り魔事件を思い出してみてください。当時25歳だった犯人のトラックに撥ねられ、あるいはナイフで切りつけられた死者や負傷者たちが倒れている路上は、ケータイカメラのシャッター音であふれました。被害者の連れや警察官に叱りつけられでも、どこ吹く風。動画の実況サイトを使って実況中継を始めた者さえ現われたのです」

 誰もが、ケータイを使うに値する人格を持っているのか。秋葉原の惨状を写メした人々には「被害者たちへの冒涜」「他者という存在に対する想像力の決定的な欠落」がありました。彼らは人間を舐めきっていたと喝破する著者は、次のように述べています。

 「プロの報道カメラマンたち自身は言いにくいでしょうから、これまた私が火中の栗を拾います。素人はこういうことをしてはいかんのです。殺人現場の写真などというものは、慟哭し、悩みながら、それでも撮りたい業に身を焼き、撮らねばならない使命を帯びたプロフェッショナルだけに許された領域だというのが、人間社会のお約束です。カメラ機能付きのケータイを持っているというだけの人間が、面白半分に手を出してよい世界であるはずがないのは、わかりきっているでしょう。誰もが発信できる道具なり環境なりが得られたからといって、イコール誰が何をやってもよいということにはならないと、私は考えます。プロなのにプロとしての自覚に欠けている者が少なくない現実を否定もしませんが、それはまた別の問題です」

 これには全面的に賛成です。だいたい、素人は写真も撮らなくてよいし、匿名でネットに文章など書かなくてよろしい!

 本書では、著者自身も断っているように、ケータイの問題とインターネットの問題が混在しています。著者は「インターネットがどうしてこんなにも人々を魅了するのか」について考察しますが、精神分析学の第一人者だった元慶應義塾大学教授の小此木啓吾(故人)の『「ケータイ・ネット人間」の精神分析―少年も大人も引きこもりの時代』(飛鳥新社)に書かれている以下の分析を紹介しています。

 ●インターネットがどうしてこんなにも人々を魅了するのか

 (1)匿名で別人格になれる
 (2)「全知全能な自分」を感じられる
 (3)自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる
 (4)特定の人と、親密な一体感が持てる
 (5)イヤになったら、いつでもやめられる

 第四章「利便性の裏側にあるもの」では、ケータイを使ったさまざまな企業のマーケティングや販促活動を紹介した上で、著者はますますケータイを持ちたくなくなったといいます。その理由は以下の通りです。

 「なぜなら、これでも私は、自由な魂を湛えた1人の人間なんですよ?購買履歴だの行動パターンだのを勝手にデータ化され、『お客様』でも、『消費者』でもない、お前は『商圏』だと露骨に呼び捨てられて、ついには誘導されてカネを使わされてしまうだなんて、それじゃあ私の人生って、いったい何なんですか。マーケッターの金ヅルになるために生かさせていただいているだけの、ただ単に息をするサイフでしかないってことじゃないですか」

 第五章「ネオ・ラッダイトと呼ばれても」では、もはやケータイは「自分の一部」よりも大きな存在となったことを指摘します。

 「ケータイはもはや道具ではなく、自分の一部なのだと、”ケータイビジネスのカリスマ”は語っていました。その通りだと思います。
 でも私は、現代人にとってケータイという存在は、自分の一部であるだけでなく、神であり、父であり、主人になってしまっているのではないかとさえ思うのです。本物の父親が子どもの成長段階を踏まえつつ、人生や社会の何たるかを少しずつ伝授していこうとしているところに、いつの間にかケータイビジネスが入り込み、彼らのロジックばかりがインプリンティング(刷り込み)されていくのです。
 『グーグル様』などという言い方があります。あれはシャレになっていません。現代社会ではネットに依存し、その依存をケータイでさらに増幅させている人々が増加えすぎてはいないでしょうか」

 最終章「休ケータイ日のすすめ」では、ケータイの功罪をめぐり、著者はIT界のカリスマとされる津田大介氏と対談します。そこで、津田氏は以下のように述べています。

 「われわれは間違いなく利便性と引き換えにさまざまな情報を企業に売り渡している。かといって、一度獲得した便利な生活から戻ることもできない。だから僕は、いちばん大事なのは、知識を得た上で個人が自分自身で選択できる環境だと思うんです。特にスマホと個人情報の関係ですが、リスクがあることをユーザーにしっかり知ってもらい、『それはわかったけど、でも俺は便利だから使うよ』というのであればいい。知らずに使って悪用されるというのが最悪なのに、日本は規制が緩いから、企業のやりたい放題になっている」

 著者は、ネット空間の匿名性についても大がかりな議論が必要であると訴え、次のように述べます。

 「警察権力の介入を排除し、政府が導入を急いでいる『マイ・ナンバー』=国民総背番号制度との連動を完全に遮断した上で、誹謗中傷を受けた者がそれなりの手続きを踏めば、書き込んだ者を特定できる制度の新設が、どうして検討されないでしょうか。匿名の主張というものの意義を全否定する気はありませんが、このままでは無責任こそが言論の原理原則にされてしまいそうで、危険にすぎると考えます」

 わたしは、悪質な匿名の書き手を特定できる制度の新設にも大賛成ですね。

 最後に、著者はホラー作家の最高峰スティーヴン・キングの言葉に、はたと膝を叩いたことが紹介されています。ある時、スティーヴン・キングは「毎日、目が覚めている時間のほぼ半分をスクリーンの前で過ごしている」と気づいて、習慣を改めることを決意したのだそうです。そして、「死の床で『もっとたくさんのインスタント・メッセージを送ればよかった』と思う人などいないはずだ」と述べたのだとか。これについて、著者は「素敵な考えだと思いませんか?」と書いています。

 わたしにとって、ケータイを持たない人といえば、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二氏が真っ先に思い浮かびます。鎌田先生はご自身の美学や考え方があってケータイを持たないそうです。本書の著者に同じような感じかなと思って本書を手に取ってみたのですが、読んでみると、もっと社会派というか、少し事情が違いました。

 わたしはケータイもスマホも使っていますが、本書を読んで、「問題点はわかった上で、便利だからあえて使っている」という立場が大事なのだと思いました。仕事上や生活上でケータイが不可欠な人がほとんどだと思いますが、ケータイの持つ問題点を知っておくことは無駄ではないはずです。

Archives