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出光佐三 反骨の言魂』

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No.00880

 

 『出光佐三 反骨の言魂』水木楊著(PHPビジネス新書)を再読しました。

 著者は、日本経済新聞社の論説主幹を務めた人物です。「日本人としての誇りを貫いた男の生涯」のサブタイトルがついています。


 昨年の今頃、本書を初めて読みました。22日の夜にフジテレビ系列が放映した『「黄金のバンタム」を破った男~ファイティング原田物語』を観たことが、本書を再び手に取って読み返すききっかけとなりました。

 

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   『黄金のバンタム」を破った男』の帯の裏

 

 


 ドラマ『「黄金のバンタム」を破った男』の原作の帯の裏には、「『海賊とよばれた男』 、『「黄金のバンタム」を破った男』は、"対"の関係にあります。」というリードに続いて、こう書かれています。


 「国岡鐵造のモデルとなった出光佐三は、経済人として敗戦で打ちひしがれた日本と日本人に希望を与えました。ファイティング原田は、ボクシングという2つの拳に命をかけたスポーツで、敗戦から復興へと向かう日本人の心に勇気と誇りを与えたのです。ぜひ併読していただき、『日本人って、ほんとうに素晴らしい!』と感じてくだされば、著者としてうれしい限りです。―百田尚樹」


 それで、わたしは出光佐三のことがとても気になってしまいました。百田氏の小説『海賊とよばれた男』はちょうど手元になく、代わりに手元にあった本書のページをパラパラっと繰ったのです。


 大正の初め、関門海峡で、「海賊」と呼ばれる男がいました。「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い放ち、燃料油を売りまくったのです。男の名は出光佐三。数年後、出光は満州に乗り込み、メジャー石油会社と闘い、その結果、潤滑油納入を勝ち取ります。そして英国がイランと国交断絶し、ペルシャ湾に英国海軍が待ち受ける中を、敢然と大海へと乗り出すのでした。戦後日本人が意気消沈する中、出光は米英を欺き、国家官僚に逆らい日章丸をイランに派遣しました。本書は「海賊とよばれた男」の半生を活写しながら、その熱き言葉の数々を披瀝しています。

 

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   「日章丸」の勇姿が描かれた本書の帯

 

 


 本書の帯には、出光興産の巨大タンカー「日章丸」の勇姿とともに「英米を欺き、官僚に楯突き、戦後の日本人に希望を与えた男。」「日本中が歓喜した日章丸によるイラン石油の輸入。『敗戦の傷の癒えぬ日本は正義の主張さえ遠慮がちであるが、日本国民として俯仰天地に愧じざることを誓うものである』――出光は乗組員に堂々と胸を張れと励ました。(本文より抜粋)」と書かれています。


 カバーの裏には以下のような内容紹介があります。


 「出光は一途なほど日本という国を愛しながら、国家官僚を徹底して嫌った。戦時中は軍部にも堂々と楯突いた。その行動は奇想天外。つねに人の意表をつき、非常識と罵倒される。だが、時が移ると、世は出光の決断にいつの間にかなびいていた。」


 本書の目次構成は、以下のようになっています。


「プロローグ―非常識を常識に変える魔法の杖」
第一章 土壇場の勝負師―破天荒な実行力
第二章 新参者―愚直な突破力
第三章 飛翔―孤軍奮闘
第四章 俯仰天地に愧じず―矢は石をも徹する
第五章 経営哲学の具現―人間をつくることが事業
「あとがき」


 「プロローグ―非常識を常識に変える魔法の杖」には、「戦後、力道山が外国人プロレスラーを打ちのめし、白井義男がダド・マリノからチャンピオンベルトを奪い、古橋廣之進がロサンジェルスのプールサイドに日章旗を掲げたとき、日本人は快哉を叫んだ。しかし、日章丸のイラン石油輸入ほど、敗戦と占領で打ちひしがれた日本人の心を奮い立たせた出来事はないだろう」という文章に続いて、次のように書かれています。


 「イラン石油事件からさらに10年後の昭和38年11月、出光はまたも世間をアッといわせる行動に出た。監督官庁である通産省(現経済産業省)と真っ向から対立し、業界団体の石油連盟から脱退したのである」


 わたしの会社は冠婚葬祭互助会が本業ですが、監督官庁は経済産業省です。その経産省に真っ向から対立するなど考えられないわけですが、それを現実に行った出光佐三の勇気と行動力は「凄い」の一言です。著者は、さらに次のように述べています。


 「出光ほどたくさんの仇名をもらった男は例がない。
 低能、ヤンキー、海賊、国賊、無法者、一匹狼、アウトサイダー、昭和の紀伊国屋文左衛門、利権屋、盗品故買屋、火事場泥棒、赤い石油屋、横車押し、横紙破り、ユダヤ商人、ゲリラ商人、怪商、快商、土俵際の勝負師、デマゴーグ、アナクロニズム、ニュースを作る男・・・・・・。
 その行動は奇想天外。つねに人の意表をつき、非常識と罵倒される。
 だが、時が移ると、世は出光の決断にいつの間にかなびいていた。非常識を常識に変えてしまう魔法の杖を持っているかのようだった。
 その杖の謎は一体どこにあったのか」


 第一章「土壇場の勝負師―破天荒な実行力」で、著者は述べます。


 「出光の親孝行は尋常ではない。のちに余裕ができて、門司に父母の家を建てた。高台の住宅地である。その高台から谷を挟んでひとつ離れた高台に、自分の家を建てた。そのとき、自分の家が父母のそれより高いところにあってはならぬと、少し低い場所をわざわざ選んでいるほどだ。
 しかし、外交官になり、国策にかかわりたいという思いは、決して消えはしなかった。外交官にならなかった代わりに、利潤を追うべき経営者としては、不必要なほど国策を意識した行動を取ることになる。理屈の勝った、頭でっかちな、しかし、強烈な行動力をともなった経営者である」

 

 第三章「飛翔―孤軍奮闘」には、以下のように書かれています。


 「出光興産の海外店舗網は満州の東北部、大連、北京、上海、広東など中国大陸に37ヵ所、南方のフィリピン、マレー、ジャワ、ボルネオ、ビルマ、セレベスの南方に6ヵ所あった。このほか、朝鮮半島や台湾の駐在、それに船員などを含めて外勤者は671名、そのほか応召中が186名。
 合わせて引き揚げを予想される人員は857名いた。
 ちなみに内地勤務者は149名である。全社員は1006名。
 この千名を超える社員を1人も首にしない、全員引き取ると宣言したのである」

 

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   出光佐三直筆の「人間尊重」の書と

 

 


 わが社のミッションである「人間尊重」は出光佐三の言葉です。本書には、他にも多くの出光佐三の名言が紹介されています特にわたしの心に響いたものは以下の通りです。

 

 

 「800人を超える海外の社員は、最後に残った唯一の資本じゃないか。『人間尊重』を唱えてきた出光が、たかが終戦ごときに慌てて、彼らを首になどしてはならん」


 「愚痴は泣き言である。亡国の声である。婦女子の言であり、男子の採らざるところである。ただ昨日までの敵の長所を研究し 、取り入れ、己の短所を猛省し、全てをしっかりと腹の中に畳み込んで、大国民の態度を失うな。3000年の歴史を見直して、その偉大なる積極性と、広大無辺なる包容力と、おそるべき咀嚼力とを強く信じ、安心して悠揚迫らず、堂々として再建設に進まなければならぬ」


 「人間尊重と年功序列は不可分ですが、才能のある人、手腕のある人、熱心な人、賢い人、人にはいろいろありますし、その反対の人もいる。不平等に扱われるというのが公平ということです。給料も能率的な面を加味して公平に見るということです」


 「定年は、その人の心の中にあります。もう白分は働けないと判断したときがその人の定年なのです」


 「マルクスに現在の世界の混乱の責任を全部押し付けるのは賛成できんな。マルクスがああいうことを言い出したのは、資本家の搾取にある。資本家の搾取がなかったならば、マルクスもあんなことは言わなかっただろう」


 「動機と目標(貧しさからの脱却)という点では、マルクスと僕はおなじことじゃないかね。ただ、マルクスは物の国に生まれたから物の分配をめぐって対立闘争する道を歩かされたということであるし 、僕は人の国に生まれたから、物に関しては贅沢を戒めて、お互いに手を握り合って仲良くするという互譲互助の道を歩かされたと思う」


 「人間をつくることが事業。石油はその手段に過ぎない」


 「出光興産には2つの定款がある。1つは法律上の定款で石油業を行う。もうひとつは信念上の定款だ。人間が真に働けばこういう大きな力を発揮するということを示す。一致団結して大きな力を示せば、それによって国家社会に示唆を与えることができる」

 

 

 第五章「経営哲学の具現―人間をつくることが事業」には、出光佐三の墓について以下のように書かれています。


 「出光の骨はふるさとの赤間に帰った。生家から歩いて10分ほどのところに菩提寺がある。法然寺。城山と向かい合って小さな小山があり、梅の老木が並ぶ坂道を登っていくと、中腹あたりに出光家の墓がある。ひときわ大きいのが『先祖の墓』で、次が父・藤六と母・千代の墓である。自らの墓はそれよりずっと小さい。死後の世界でも、親孝行であろうとした出光の律儀さが表れている。
 墓からは、出光がこよなく愛し、懐かしんだ赤間の町が一望のもとで見渡せる。向かいの城山の麓には福岡教育大学のキャンパスがある。出光の援助によって生まれた大学である。この地でも人材を育成したいと念願していた。
 『死んだら、鈴木大拙先生のそばに埋めてくれ』という遺言を出光は残した。遺族は遺言を生かし、分骨した。ところは鎌倉の東慶寺」


 出光佐三がそこまで鈴木大拙を慕っていたとは知りませんでした。彼は経営者でありながら、つねに心は実業という枠を超えて、もっと広い世界、深い場所を見つめていたのでしょう。わたしには、そう思えます。


 じつは、出光佐三翁が亡くなられた後、奥様がわが社の松柏園ホテル、特にその茶室を愛用して下さいました。十数年間、奥様は松柏園から赤間にある佐三翁のお墓、さらには佐三翁が生涯にわたって大切にされた宗像大社へ参拝に行かれたそうです。「人間尊重」のミッションとともに、佐三翁との御縁を感じます。わたしは、偉大な出光イズムの清華である「人間尊重」をわが社のミッションとしていることを心から誇りに思います。