No.0878 読書論・読書術 『読書について』 小林秀雄(中央公論新社)

2014.02.19

 『読書について』小林秀雄(中央公論新社)を読みました。
 没後30年を記念して、読書に関する小林秀雄の文章を集めたアンソロジーです。「近代日本最高の知性」と呼ばれた人物の教養が溢れた一冊となっています。

   著者の写真が掲載された本書の帯

 本書の帯には、有名な著書の横顔の肖像写真とともに「僕は、高等学校時代、奇妙な読書法を実行していた―本文より」「『批評の神様』に学ぶ実践的読書法」「没後30年」と書かれています。

 最初に「読書について」というエッセイの冒頭には、次のように書かれています。

 「僕は、高等学校時代、妙な読書法を実行していた。
 学校の往き還りに、電車の中で読む本、教室で窃かに読む本、家で読む本、という具合に区別して、いつも数種の本を平行して読み進んでいる様にあんばいしていた。まことに馬鹿気た次第であったが、その当時の常軌を外れた知識欲とか好奇心とかは、到底1つの本を読み了ってから他の本を開くという様な悠長な事を許さなかったのである」

 また、濫読について、次のように書かれています。

 「濫読の害という事が言われるが、こんなに本の出る世の中で、濫読しないのは低脳児であろう。濫読による浅薄な知識の堆積というものは、濫読したいという向う見ずな欲望に燃えている限り、人に害を与える様な力はない。濫読欲も失って了った人が、濫読の害など云々するのもおかしな事だ。それに、僕の経験によると、本が多過ぎて困るとこぼす学生は、大概本を中途で止める癖がある。濫読さえしていない」

 「読む技術」ということについて、小林秀雄は次のように述べます。

 「書くのに技術が要る様に、読むのにも技術が要る。文学を志す多くの人達は、書く工夫にばかり心を奪われている。作家と言われる様になった人達の間でも、読む事の上手な人は意外に少ないものだ」

 小林秀雄は、以下のように読者に全集の通読を勧めます。

 「或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。研究でもしようというのでなければ、そんな事は全く無駄事だと思われ勝ちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも『文は人なり』という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早い而も確実な方法なのである」

 名文に満ちた「読書について」の中でも、以下の一文は特に心に沁みます。「書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない」
 まさに達人の読書観と言えるのではないでしょうか。

 「作家志願者への助言」という文章では、作家をめざす若者に与える「読むことに関する助言」が以下のように箇条書きにされています。

 1 つねに第一流作品のみを読め
 2 一流作品は例外なく難解なものと知れ
 3 一流作品の影響を恐れるな
 4 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
 5 小説を小説だと思って読むな

 「読書の楽しみ」という短いエッセイの冒頭には、次のように書かれています。

 「本は、若い頃から好きで、夢中になって読んだ本もずい分多いが、今日となっては、本ももう私を夢中にさせるわけにはいかなくなった。新しい本を読み漁るという事もなくなり、以前読んだものを、漫然と読み返すという事が多くなった。しかしそういう事になって、却って読書の楽しみというものが、はっきり自覚出来るようになったと思っている」

 「美を求める心」という長文には、以下のような感動的な文章があります。

 「私達の感動というものは、自ら外に現れるものだ。顔の表情となって現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。そういう時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽に見えるかも知れない。そういう時の叫び声にしても、決して美しいものではありますまい。例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です」

 「喋ることと書くこと」では、以下のようなくだりがあります。

 「田中美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬の様に、いつも同じ顔をして黙っている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧りの知識を振り廻して得意にもなるのである。プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学者には、もっと大きな仕事がある。人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉に は現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、彼は、その信ずべき書簡で言っているそうです。従って彼によれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って、互に全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです」

 ここに名前が登場する田中美知太郎は、『生きることの意味』の著者です。日本におけるギリシャ哲学研究の第一人者として知られた人です。ソクラテスやプラトンなどの研究を通じて、ギリシャ哲学をわかりやすく紹介し、哲学研究の分野で偉大な業績を残しました。また、西洋古典文献学の第一人者としても確固たる地位を築きました。この田中美知太郎と著者との対談である「教養について」も本書に収められています。

 この対談の中で、田中美知太郎は次のように語ります。

 「だいたい日本人は法律論が好きですね。憲法第何条に違反しているか、いないかといった議論ばかりして、国策としてどちらが役に立つかを考えない。あれは政治の議論ではない。政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね。
その意味で、孔子なんていう人は政治家だね」

 ここで孔子の名前が登場しました。この田中美知太郎の発言に対して、小林秀雄は次のように述べます。

 「孔子がいっているね、『知る者は好む者に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない』。好むとか喜ぶということが孔子にとっては根底的だったのだな。最も現実的なことだったんだな。知るということはひとまず現実から離れてもいいことなんだ。そうした根底的なものの認識が、いま逆になっている傾向があるんじゃないかな。現実的なものは計量可能な、合理的なもの、そうなった」

 田中美知太郎と小林秀雄という最高の知性にして大教養人同士の対談は、まるで剣豪同士による立会いのような迫力があります。

 本書を通じて痛感したのは、本に対する小林秀雄の愛情です。わたしも『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)に本への想いを述べました。同書では「著者像を具体的にイメージする」ことの効能を説きましたが、そこに「小林秀雄の評論を読むときは仕立ての良いスーツを着た小林秀雄」がわたしの目の前にいることを想像しながら読むなどと書いています。

Archives