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老人漂流社会』

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No.0842

 

 12月18日、新刊『慈を求めて』(三五館)が刊行されました。同書には「老人漂流社会」という項があります。NHKスペシャルの番組を論じた内容です。

 その番組を書籍化した『老人漂流社会』NHKスペシャル取材班著(主婦と生活社)を読みました。

 本書は、「NHKスペシャル」を書籍化したもので、サブタイトルは「他人事ではない"老後の現実"」です。

 

 帯には、以下のように書かれています。

 

 「唯一の解決策は、目を背けないことだ」
「菊池寛賞受賞『無縁社会』から3年後のニッポンはいま―。」
「反響を呼んだNHKスペシャル 待望の書籍化」
また帯の裏には「歳をとるのは罪ですか?」と大書され、続いて「高齢者が体調を崩して自宅にいられなくなっても、病院や介護施設は満床で入れない。短期間だけ入れる施設を転々とし、そのうち貯金は底をつき、行きつく先は生活保護。それでも安住の地は簡単には見つからない・・・・・・。住まいを終われ、"死に場所"を求めて漂流する高齢者が、いまあふれだしている」

 

 そしてカバーの前そでには、次のように書かれています。

 

 「この本では、番組では伝えきれなかった『自らの老後を、自らで選ぶ』ということの難しさと大切さについて、詳しく伝えようと試みている。(中略)自らの老後と向き合うとき、どうすれば『自分らしい"終の住処"』を見つけ出せるのか、現実的な目線で老後の選択肢を提示したいと、と思ったたけだ」

 

 さらにカバーの後そでには、以下のように内容が要約されています。

 

 「どこで老後を過ごすのか。
 どこに安心できる"終の住処"があるのか。
 どこで最期を迎えるのか。
 死に場所は、どこにあるのか。
 誰もが他人事でなく、自分の老後の問題として、考えていかなくてはならない。
 家族がいることを前提とした社会保障制度は、もはや機能不全を起こしている」

 

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

 

「はじめに」
序 章  歳をとることは罪なのか
第1章  "終の住処"を選べない時代
       病院、施設をたらい回され、自宅を失う人々
第2章  死に場所さえ持てない!
    社会保障制度の機能不全による"過酷な居場所探し"
第3章  「漂流死」する高齢者たち
       三畳一間の終の住処「無料低額宿泊所」の現実
     【コラム】"頼れる身内"のいない高齢者が頼るもの
第4章  知られざる「認知症漂流」
       ホームレスになった認知症患者たち
     【コラム】精神科病棟が"終の住処"になる
第5章  どうすれば老後の安心は得られるのか
       ますます深刻になっていく高齢者の貧困問題
     【コラム】他人事ではない――視聴者の声
第6章  "老人漂流"を食い止めるために
       「支えて、支えられる」社会づくりを目指して
「あとがきにかえて」

 

 「はじめに」の冒頭で、NHK報道局社会番組部チーフ・プロデューサーの板垣淑子氏は次のように書いています。

 

 「自分の将来や老後に漠然とした不安を抱いている人は少なくない。結婚をしていない人、子どもがいない夫婦、離別した人・・・・・・頼れる家族をもたない人は、歳を重ねるにしたがって不安を募らせる。心配なのは自分の将来だけではない。田舎にひとり暮らしの親がいる中高年世代は、差し迫った問題として『老後』と向き合っている。しかし、あらかじめ元気なうちから老後に備えて、どこを"終の住処"とするのか、決めている人はほとんどいないだろう。また、自分の親がひとりで暮らせなくなったとき、どういう選択をするのか決めている人も、ほとんどいないのではなかろうか」

 

 板垣氏らは取材を受けてくれた人たちの問題を「自分たちの問題」と位置づけたそうで、次のように述べています。

 

 「私たちが取材の現場で出会った多くの人たちは、もはや認知症の症状が進んだり、衰弱して寝たきりになったりしていて『自分で自分の老後を選べない』という状態だった。高齢になって、ひとり暮らしができなくなり、もはや自らの意志が示せなくなってしまってから、この問題と向き合おうとしても、そこには『進むも地獄、退くも地獄』という厳しい局面がある。そうした局面に陥る前に、『老後をどこで、誰と、どう過ごしたいのか』を考え、自分の老後を決めておくことこそ、自らの人生を守る唯一の術ではなかろうか―」

 

 板垣氏によれば、ひとり暮らしの高齢者が認知症を患うと、"終の住処"を持つことができません。そればかりか、施設へと"漂流"さえできない現実があるとして、次のように述べます。

 

 「本人の意志は確認できず、家族がどこにいるのかさえわからず、『救いたくても救い出せない』状況に置かれている。たとえ危険な状態から救い出そうと、瀬戸際で見つけ出されても、もはや自宅で在宅医療や在宅介護を受けながら暮らせる状況にはない。そのため、専門のケアを受けられる病院や施設へと"漂流"していくという結果が待ち受けている。危機的状況を回避できたとしても、それが"漂流"の始まりとなってしまう現実があるのだ」

 

 序章「歳をとることは罪なのか」では、「無縁社会」から「老人漂流社会」へのシフトが強調されます。NHK首都圏放送センターの高野剛氏は、冒頭で「あなたは、どこで老後を過ごしたいですか? 誰と、どこで、最期を迎えたいですか?」と読者に向って問いかけ、「今、安住できる"終の住処"を持てずに、孤立する高齢者たちが病院や施設を転々とせざるを得ない『老人漂流社会』が拡がっている」と述べます。続いて、次のように「老人漂流社会」の真実を明かします。

 

 「"死に場所"さえ持てずに老後の居場所を転々とせざるを得ない高齢者――家族がいても、資産が十分にあったとしても、誰もが例外なく"漂流"する可能性がある。夫婦や兄弟で暮らしていても、最後はどちらかが"ひとりぼっちの老後"となる。結婚しない選択も当たり前のことになり、子どもがいても別居が普通になってきている。
『老人漂流社会』―自分の居場所さえ、自分の意志で選べずに、病院へ入院したり、施設へ短期滞在しながら、生きていくしかない老後―ひとり暮らしが当たり前となった今、誰にとっても他人事とは言えなくなっているのだ」

 

 高野氏は、ひとりぼっちの高齢者たちが共通して「迷惑をかけたくない」という言葉を口にすることに違和感をおぼえたそうで、次のように述べています。

 

 「高齢になって、体が弱ってなお、なぜ、社会に迷惑をかけたくないと思い込んで、必死でひとりで耐え続けるのか。そういう疑問が湧いてきた。その疑問に答えを出したいと、多くの高齢者に取材を重ねていった末におぼろげながらわかってきたのは、『高齢者』となった方々が内面に抱えている、複雑でかつ切実な思いだった。『迷惑をかけたくない』と話す高齢者の多くは、『迷惑をかける存在ではなく、誰かの役に立てる存在でありたい』という思いを、胸の奥に抱えていることがわかってきたからだ」

 

 そう、社会的存在である人間は誰もが「誰かの役に立ちたい」と思うもの。ひとりぼっちの高齢者たちだって、本当は社会を支えたいのです。このことに気づいた高野氏は次のように述べます。

 

 「高齢者を弱者と捉えるのではなく、新たな"支え手"という社会的役割を構築していく仕組み作りを目指し、社会保障を土台から考え直さなければいけないことを思い知らされたのだ。
『救ってあげよう』と手を差し伸べるだけでは、むしろ『迷惑をかけたくない』とかたくなに救済を拒み、殻を閉じてしまうだけだ。そして我慢の挙げ句、独りで亡くなっていく・・・・・・。
私たちの社会が目指していくべき方向は、お年寄りを孤立させずに『支え手として社会に包み込み、そして最後、本当に支えが必要となったとき、支えられる側にチェンジしてもらう』、そういうシフトではないだろうか」

 

 なぜ、高齢者は「迷惑をかけたくない」と思い込むのでしょうか。その原因を作っていたものは、「誰もが高齢者になるにもかかわらず、高齢者を排除してきた私たちの社会だ」という高野氏は、取材の積み重ねの末にNHKスペシャル「終の住処はどこに 老人漂流社会」という番組を放送することになります。そこで番組のキャッチフレーズとなったのは「歳をとることは罪なのか。」という言葉でした。

 

 この「歳をとることは罪なのか。」というキャッチフレーズについて、高野氏は「競争社会にさらされ、余裕を失った私たち現役世代は、いつの間にか、知らずしらずのうちに『高齢者=何も生み出さない人=役に立たない人』という概念におぼれてしまったのではなかろうか。そうした社会の空気こそが、高齢者に居心地の悪い思いをさせてしまってきたのではなかろうか。かつて『歳をとることは、罪ではない』はずだった日本――」と書いています。

 

 しかし今、現実は高齢者たちに罪悪感を抱かせる方向に進む一方です。この現状に対して、高野氏は次のように述べています。

 

 「高齢者は『迷惑をかけたくない』と思うあまりに、自分の老後を自らの意志で選ぶことさえ、あきらめてしまっている現実が拡がり始めている。
『年寄りは贅沢を言ったら、ダメだ。税金で生かしてもらってるんだから』
 そんな、あきらめの言葉を何度聞いただろう。『これが自分の親や兄弟だったら・・・・・・』とか『これが自分の将来だったら・・・・・・』と思うとき、何度、鳥肌が立つ思いをしただろう。しかし、それは今の日本の現実だ。それこそが、私たちの明日の姿なのだ」

 

 人間は誰でも居場所を必要とします。それは、ひとりぼっちの高齢者でも例外ではありません。いや、ひとり暮らし(要介護の高齢者がふたり以上で暮らしているケースも含まれる)高齢者こそ居場所を必要とすると言っていいでしょう。しかし現実には、彼らが施設へ入るための身元保証人がいないことや、入所費用などの支払いをしてくれる家族がいないことが、居場所を確保する大きな障壁となっています。地域包括支援センターのスタッフなどが"高齢者のよろず相談"を引き受けていますが、それにしても保証人や金銭管理者となってくれる親族がいないと、施設へ橋渡しすることもできません。

 

 このような現実をふまえて、高野氏は次のように述べます。

 

 「要するに、身近に親身になって支えてくれる家族や親族がいない人ほど、手助けが必要にもかかわらず、支援する側の行政機関が『おせっかい』に介入していけない制度になっているという矛盾があるのだ。
『ひとり暮らし高齢者の急増』に、制度や仕組みが追いついていないために引き起こされている機能不全、それこそが『老人漂流社会』だということが浮かび上がってきた」

 

 そう、老人大国である日本では、高齢者のための制度や仕組みがまったく追いついていないのです。これには、もちろん国や地方行政の対応の遅れもありますが、日本人の高齢化のスピードが速かったことも大きな原因でしょう。
 わたしは、かって『老福論』(成甲書房)で、「高齢化社会と言われ、世界各国で高齢者が増えてきています。こうした形で『老い』と直面しなくてはならなくなったのは、人類にとって初めての経験です。途方もない巨大な「老い」の前に人類が立ち往生しています。しかも、それは何がなんだかわからないままに、いつの間にか直面させられていたのです」と書きました。

 

 たとえば、運動会の500メートル競走に出場するとしましょう。必死に走ってやっとゴールインというところで、関係者が走り出してきて、「すみません。800メートル競走の間違いでしたので、もう300メートルそのまま走ってください」と言われたらどうでしょう。最初から800メートルと言われていれば、もちろんそのペースで走っています。しかし、500メートルのつもりで走ってきたのに、それでは話が違うとなって、さらなる300メートルを走るのはつらいものになるでしょう。現代の高齢者問題には、このたとえのようなところがあります。人生50年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと30年あると突然言われるのです。もうすぐゴールかと思ってラストスパートで走っていたら、ゴールがぐっと遠のいてしまい、呆然としているのです。そして、政治や行政の対策の遅れもあって、みんなが「老い」を持て余している、それが現状でしょう。 特に、世界でも最も高齢化が進行している日本では、さまざまな問題が表面化してきているのです。その最大の問題こそは、社会保障制度の機能不全です。

 

 財政再建を目指す国の最大の課題とは、社会保障にかかるコストを抑制することだとされています。しかしながら、日本においては「要介護状態になっても、自宅や子ども・親族の家での介護を希望する人が4割を超えている」というデータ(内閣府の高齢者の健康に関する意識調査・平成19年)や、「自宅にいながら、医療介護を受けることを望んでいる人が6割以上もいる」というデータ(「終末期医療に関する調査」)もあります。そこで打ち出された方針というのが、コストのかかる「病院」から、かからない「自宅」へという流れでした。すなわち、在宅医療・介護を拡充し、「施設医療」や「施設介護」から脱却する方針が打ち出され、さまざまな国の施策が強く推し進められることになったのです。

 

 本書の第二章「死に場所さえ持てない!」には、次のように書かれています。

 

 「厚労省の試算によれば、病院のベッドはコストが高く、高齢者ひとりあたり1か月の医療費は40万円程度。しかし老人保健施設など介護施設へ移れば、高齢者ひとりあたりの医療費は25万円程度に抑えられる。しかしそれは、代わりの受け皿があってこそ、の計画だ。在宅医療と施設介護――同時に国は進めてきてはいるが、高齢者人口の増加のスピードがあまりにも早く、かつ単身化、すなわちひとり暮らしというライフスタイルが増えていったことで、変化に対応できず、社会保障制度が機能不全を起こす事態を招いているのだろう」

 

 社会保障制度が機能不全に陥っている状態では、居場所を確保できない高齢者が激増する一方です。高野氏は、この現状を次のように述べます。

 

 「高齢者の居場所探しを病院が担うのか、自治体が担うのか、それとも専門の業者に依頼するしかないのか・・・・・・。
増え続ける『居場所探し』のニーズに、現場がそれぞれの立場で格闘しているが、制度的に対処していくための枠組みがなければ、今後、さらに増えていくニーズには対応しきれないのではないだろうか。将来、『老人漂流社会』がさらに深刻化する怖れがあることを改めて感じさせられた」

 

 本当は、年金収入の低い人でも安心して利用できる「特別養護老人ホーム」(特養)に入れれば問題はないのですが、この特養が圧倒的に不足しています。全国におよそ6000ヵ所、約43万9000人が入所していますが、全国で42万人が入所希望の登録待機をしている「パンク状態」が続いています。本来、国はすべての事項に優先させて特養を増やすべきであると思いますが、それができないのなら民間企業が年金生活者でも入れる施設を大量に作るしか方法はないでしょう。

 

 特養の空きを待つ間に利用されるのが「介護老人保健施設」(老健)です。これは病院から自宅にすぐには戻れない高齢者が、主にリハビリを行うために一時的に入所する施設です。負担金額は、年収や要介護の度合いによって8万円から20万円ほどです。最近、"特養待ち"の高齢者が増えたことで老健も満床が続いています。そのため、多くの高齢者は短期間に病院や老健をぐるぐると"漂流"している状態が続いています。

 

 安心して長く入居できる施設こそは「有料老人ホーム」ですが、一般に数百万円(場合によっては数千万円)の入居金と、月額20万円以上の負担を伴うため、誰もが入れるというわけではありません。特養はもちろん入所できず、老健にも短期間しか入所できず、かといって有料老人ホームに入る経済的余裕はない。そのような多数の高齢者は、どうするか。本書には、最終的に「生活保護受給者」になるしか方法はないと書かれています。

 

 高野氏は、次のように述べています。

 

 「最終的に『生活保護』という選択肢しか残されていないわけだが、逆に考えてみれば、入院やショートステイで一時滞在を繰り返しているうちに財産を使い果たす結果となり、生活保護に"もっていかれる"ようにも思えた。"漂流"を続けるうちに財産が目減りして、ゼロに近くなり生活保護の申請に至る――そのことで、初めて『長く入れる施設を探すことができる』という矛盾。それこそが、生活保護制度をパンクさせかねないのではないか、という未来形の不安を強く感じた」

 

 生活保護となると、自治体の出番です。しかし、第4章「知られざる『認知症漂流』」において、NHK報道局社会番組部ディレクターの熊谷光史氏は次のように述べています。
「自治体は、生活保護を申請しにきた住民に対し、申請理由や家族構成、これまでの仕事についてなど十分な聞き取りを行うことにしている。さらに受給が決まったあとも、一人ひとりにケースワーカーという専門の担当者がついて、『自立に向けた就労活動などをしているか』『健康状態はどうか』など、本人のもとを訪問して確認することになっている。しかし、そうした自治体のケアも行き届かなくなっている実態があった。生活保護受給者は215万人を超え、過去最高を更新し続けているなかで、ケースワーカー1人あたり100人を超える生活保護受給者を受け持っている状況が続いているのだ。年2回以上の訪問を目標としているが、達成するのは難しくなっている」

 

 悲惨な現実ばかり示し続けた後で、第6章「"老人漂流"を食い止めるために」では、少しだけ希望の光のようなものが見えました。茨城県つくば市にある「ぽらりす」という共同住宅を経営する岡田美智子さんという方の存在です。岡田さんは「お年寄りが集まって、最期まで一緒に過ごす場所」として「ぽらりす」を経営し、費用は食費込みで月13万5000円、入居金などは必要なし。現在の入居者は6人で、いつも満室の状態だそうです。

 

 幼い頃に両親が離婚し、大変な苦労をされてきたという岡田さんは隣人によって助けられ、支えられてきました。「支えて、ささえられて」という循環こそが"漂流"を止めるために必要な考えなのです。岡田さんは、NHKの担当者を前に嗚咽しながら次のように訴えました。

 

 「老後どうしたいのか、どう最期を迎えたいのか。子どもたちからも、お父さんやお母さんに聞いてもらいたい。だって、自分を育ててくれたお父さん、お母さんでしょ。できるかぎり、ちゃんと話をしてほしい。
 家族がいない人も、今から考えてほしいの。最期をひとりで迎えるなんて寂しいでしょ。生まれたときには、みんなに囲まれて祝福されて生まれてきたんだから、最期もひとりっきりでなんて迎えちゃダメよ。
 助けられるときは助けてあげる。自分がそんなふうにできなくなったら、甘えて、ちょっと甘えて、助けてもらう。孤独な、行き場のない死を迎えないようにね」

 

 NHK報道局社会番組部ディレクターの小木寛氏(わたしがNHKで島田裕巳氏と討論した番組のディレクターです)は、この「ぽらりす」取材の感想を次のように述べています。

 

 「共同住宅の取材をとおして感じたのは、それぞれが、自分なりの死生観を持つことが求められているのではないかということだ。
たしかに、死を考えることは、目を背けたくなることかもしれない。でも、それがないかぎりは、新たな"漂流"が生み出されることになる。"漂流"したくないと考えるならば、対峙しなければならない大切な問い、それが死生観だと思う」

 

 そう、「"漂流"したくないと考えるならば、対峙しなければならない大切な問い、それが死生観」というのは、まったく同感です。本書を読んで、いくつか思ったことがあります。

 まず、老人漂流社会を乗り越えるのは、真の意味での「住」のインフラ整備をしなければならないこと。いま、生活インフラとしての「衣食住」を根底から支える企業の存在が求められています。「衣のインフラ企業」をめざすファーストリテイリング(ユニクロ)、「食のインフラ企業」をめざすセブンアイホールディングス(セブンイレブン)、そしてサンレー は「住のインフラ企業」をめざします。現在の日本にいて求められている「住」には2つの種類があります。すなわち、「終の棲み処」と「死後の棲み処」です。

 

 「終の棲み処」は、2012年、福岡県飯塚市にオープンした隣人館の月額基本料金は、なんと、78000円です。その内訳は、家賃:33000円、管理費:5000円、食費:40000円です。究極の地域密着型小規模ローコストによる高齢者専用賃貸住宅なのです。飯塚市の次は、北九州市八幡西区折尾に2号店を計画しています。当初は自社遊休地へ建設しますが、将来的には全国展開を図ります。

 

 また、食事の調理が困難な、1人暮らし、あるいは夫婦のみの高齢者世帯などへの「宅配給食事業」へ来年の夏から参入します。本書には足腰の弱ったひとり暮らしの老人が、蕎麦屋から毎日「もりそば」を出前で頼み、たまに「カツ丼」を頼むということが紹介されており、読んでいて胸が痛みました。安価で栄養のある宅食サービスが普及すれば、ひとり暮らしの高齢者も安心です。

 

 一方、「死後の住処」は樹木葬の霊園(福岡県田川市)を計画しています。もともと「老人漂流社会」に先んじて「無縁社会」という言葉が叫ばれました。「無縁社会」という言葉は「無縁仏」に由来します。このままでは、日本は無縁仏だらけになってしまうと言われています。いや、無縁仏でさえ入る墓があるわけですが、それすらない「死後のホームレス」が大量発生する可能性があるのです。万人が平等に安眠できるように、「鎮魂の森」では、なんと5万円からの価格設定を考えています。本書には亡き妻の遺骨とともに"漂流"する老人が登場しますが、「鎮魂の森」が完成すれば、どなたでも安らかに眠っていただけます。

 

 わたしは、全国に「隣人館」と「鎮魂の森」を展開すれば、日本人にとっての「住のインフラ整備」は実現すると考えています。しかし、宅食事業という「食」のインフラ整備、高齢者介護施設や霊園といった「住」のインフラ整備も大切ですが、老人漂流社会を乗り越えるためにはもっと大切なものがあります。それが「死生観」ではないでしょうか。

 

 本書には、愛妻に先立たれた経済的余裕のない老人が数々の施設を「たらい回し」にされたことが紹介されています。その老人は「いざという時は延命治療を望みますか」という質問に対して、「命あるかぎり延命で延ばしてほしい」と答えました。本書では、この言葉を聞いた人が「その凛とした横顔に心が震えた」とか「生きることをどんな状況でもあきらめないことが、その人のプライド、誇りだったのかもしれない」と書いています。

 

 でも、わたしは少し違う考えです。その方が「命あるかぎり延命で延ばしてほしい」と述べた場面はテレビ放送時にも観ましたが、それはその方の死生観から出た言葉とは思えませんでした。ひたすら「生きなければいけない」「死は敗北だ」と思い込んでおられるというか、一種の思考停止状態になっているのではないかと思いました。そして、その方が「死ぬのは怖い」と思っておられるとしたら、こんなに気の毒なことはないとも思いました。もし、この方に「死んだ女房にも早く会いたいんだけどなあ」といった考えが少しでもあれば救われたのではないかと思います。わたしは『死が怖くなくなる読書』(現代書林)で「死生観」を持つことの大切さを訴えました。

 

 また、この老人をはじめ、長年連添った妻を亡くした男性の悲哀が本書の全篇を通じて漂っていました。この方々は、愛妻を亡くした悲しみに打ちひしがれたまま、生を終えられたように思います。その孤独の深さはいかばかりだったことでしょう。わたしは『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)でグリーフケアの重要性を説きましたが、まさにこの方々にはグリーフケアが必要であったと思います。

 

 「命あるかぎり延命で」と述べられた老人は、その後、亡くなります。その方は生活保護を受けていたため、自治体によって火葬、埋葬されました。NHKの担当者が火葬が行われる葬儀所に行ってみると、そこには地域包括支援センターの担当者だけが来ていたそうです。わたしは、世の中には誰ひとりも参列に来ないという孤独葬が存在するということを知っています。ですから、地域包括支援センターとNHKから1人づつ、計2人が火葬に立ち会ったというのはまだ幸せなほうだと思います。しかし、NHKスペシャルで「老人漂流社会」を放送した直後、この老人を励ます手紙やメールなどが大量に届いたとのこと。そのような人々が「隣人」として葬儀に立ち会うことは不可能だったのでしょうか。
正直言って、わたしには、そのことが気になりました。

 

 「死生観」といえば、小木氏が「ぽらりす」について次のように書いています。

 

 「岡田さんはその年に亡くなった人の遺影を、台所に大切に置いている。みんなが、水とご飯を供えて、手を合わせる。私たちが訪れているとき、みんなで亡くなった人の思い出話が始まった。楽しく食事をした話、介護したときの苦労話、ケンカをしたときの話。それは、まるで家族のようだった。
 亡くなったあとにも、自分のことを思い出してくれる人たちがいる。
 なんて幸せなことだろう。私たちは、その姿を見て感じていた」

 

 この小木氏の感想に、わたしは深く共感します。家族であれ隣人であれ、自分がこの世を去った後も憶えておいてくれる人がいる。それこそが人間の幸せであると思います。

 

 本書の「あとがきにかえて」で、NHK報道局社会番組部チーフ・プロデューサーの吉光賢之氏が次のように述べています。

 

 「歳をとることが罪だとお年寄りたちが感じてしまう今の日本。超高齢社会を迎え、これから成熟期に入らなければならないときに、その多くを占める高齢者が主役になれない。たとえ脇役だとしても、前を見ることをどこか恥じ入り、目を伏せて生きていかなければいけないという社会――やはりそれはおかしいだろう」

 

 さらに、吉光氏は「なぜ、自分が今ここにいるか」という視点から述べます。

 

 「道徳を振りかざそうとは思わないが、私たちが今ここにいるのは、または今の日本があるのは先人のおかげである。その人たちへの感謝の心を忘れ、邪魔者扱いし、社会的弱者として見下げる。そうあってはならないことに多くの人たちが気づいてほしい。そしてお年寄りたちが"凛"とした人生を送ってほしい。
そんな一縷の望みを込め、私たちは取材し、制作を進めていた。
 そのために着目したのは―。人生の最期、最も尊厳が守られるべき"死"を迎えるときである。そこには"死に場所"さえ自分の意志で決めることができない、"漂流"せざるを得ない老人たちの姿があったのだ」

 

 最後に、次の一文で本書は終っています。

 

 「歳をとることは決して"罪"ではない。
 『老人漂流社会』が拡がるなかで、安心できる"終の住処"はどこにあるのか―その問いを1人ひとりが胸に刻み、考えてほしいと切に願っている。
 決して他人事ではないのだ」

 

 そう、「老人漂流社会」はけっして他人事ではありません。わたしたちの親の問題であり、さらには、わたしたち自身の問題です。わたしは、自分自身の問題である「老人漂流社会」の超克について、さまざまな具体的で現実的なプランをもって挑んでいきたいと思います。
 そして、それでも、わたしは「人は老いるほど豊かになる」と信じています。